園長ブログ

七草がゆ

2013/01/08

「せり、なづな、ごぎょう、はくべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七種」1月7日、春の七草をお粥に入れていただく七草がゆの習慣があります。

七草がゆの習慣は正月7日の人日(じんじつ)人を占う日に、7種の野菜を入れたあつものを食べた中国の習慣が伝わったものだそうです。日本に伝統的にあった若菜摘みの風習とも結びついたようです。江戸時代には幕府が人日の節句を他の節句と共に公式行事としたこともあって、一般にも広まりました。

雪を割って芽を出す早春の植物の生命力をいただき、新しい年の無病息災を祈ったのでしょう。昔の人は自然と近く、自然と共に生きていたのですね。

ちなみに、秋の七草は、おみなえし、おばな、ききょう、なでしこ、ふじばかま、くず、はぎの7つで、秋の草花が咲く花野を散策し、歌を詠むなどして楽しんだのです。

1月7日、調理担当者が、子どもたちに季節感を感じたり、昔からの風習に接してくれればとの思いから、七草がゆを作ってくれました。お昼のご飯をおかゆにするとおなかがすいてしまうかもしれないという配慮から、おやつにしたようでした。そんな心遣いが嬉しく感じられました。

七草がゆを食べつつ「なんではっぱがはいってんの?」と聞く子どもたちに、「これは七草がゆといってね・・・」と保育士が説明している様子がとてもステキに感じられ、

「あっ!ちっちゃい大根が入ってる!」と目を輝かせている子どもの笑顔が印象的でした。

冬休みの小学生

2013/01/07

今朝は少し温かく、気温は0度でした。氷点下になるのと0度でとどまるのではずいぶん体感温度が異なります。園児たちもたくさん登園してきました。3・4・5歳児は午前中にお寺の本殿まで新春のお参りに行ったので、0・1・2歳の子どもたちと園でお参りをしました。小さいながらみんなそれぞれにお参りをしていましたが、やはり大きな鏡餅が気になったようで、お参りのあとみんなで触ってみました。持って見ると思っていたより重くて、びっくりしていた子もあったようです。

     今日の予定は・・・

小学生はまだ冬休み中なので、学童保育には15名ほどの小学生が遊びに来てくれました。たくさん集まってくれて嬉しく思います。朝に行ってみると、ちょうどお参りをしているところでした。お経を唱えるまではしませんが、全員で座って今日一日よろしくお願いしますとお祈りをします。みんな心を落ち着けて静かにお祈りをしていました。
その後、全員で車座に座り、出欠の確認と自分で決めた今日の予定をそれぞれ発表します。朝から勉強をする子、午後にする子と様々ですが、自分の決めたペースで、自分の気の合う友だちと、楽しんでいたようです。

     すごろく作り


担当の保育士が、小学生もずいぶんいろいろなことをしてきて、少し飽きてきたところもあるので、いろいろなことができるように環境を豊かにする必要がありそうだと言っていました。子どもたちに合わせて環境を変えてゆかないと、子どもたちは遊ばなくなります。いつも同じものばかりでは飽きてしまいます。限られたスペースと資材で、いかに多様な環境を作り出すか、選択肢の用意の仕方や提示の仕方も含めて、保育者の腕の見せ所かもしれません。担当の保育士は、かなり具体的なプランを立ててくれていたので、できることから形にしてゆけば良いのです。ここで行動を起こさないと形になりません。

     すごろくのコマ

ここで止まってしまうことが多いので、そうならないようにみんなで一緒に形にしてゆけると良いと思います。

小学生はといえば、自分たちのオリジナル双六を作っていいる子、じゃんけんで負けたら足を少しずつ開いていって、先におしりをついた方が負けるというゲームを考えて楽しんでいる子、ブロックで何か作っている子、ジグソーパズルに取り組んでいる子。それでもみんなそれぞれに楽しんでいたようです。
      
      

じゃんけんぽん! まだまだ大丈夫!

新年のあいさつ

2013/01/06

5日から保育がはじまり、子どもたちが登園してきました。小学校がまだ冬休みということと土曜日が重なって、お休みの子どもも多かったのですが、みんな元気そうに、楽しそうに登園してきてくれました。1週間ほど会わないだけなのにみんなとても大きくなったように感じます。新しい年を迎え一つ大きくなったのでしょう。

今ではあまり用いることは少なくなりましたが、数え年では生まれたときが1歳でお正月が来るたびに1つ年をとるという加齢方法がとられていました。12月31日に生まれた人は生まれた日に1歳で翌1月1日には2歳になるという計算です。小さい頃、「お正月がきたから一つ大きくなったね。」といわれ、何のことかよくわからなかったのを思い出します。

数え年が用いられた理由はいろいろとあるようですが、お母さんのおなかの中にいるあいだも、年齢に数えるからだという説があり、妙に納得しました。赤ちゃんは受精した瞬間からひとりの人として主体的に生きているという考え方からもうなずくことのできる話しです。

5日は土曜日でしたが、新年のあいさつも兼ねて、3・4・5歳児の子どもたちと朝のお参りをしました。「あけましておめでとうございます。」としっかりあいさつもしていましたし、いつになく真剣にお参りをしていました。お参りが終わると、お供えしてある鏡餅が気になっていたようだったので、一度みんなで見てみました。持ち上げて重さや固くなったお餅の感触を感じたり、乾燥して割れてしまっていることを見つけて、なぜ割れているの?なぜ丸いの?と疑問を持ったりしていました。

子どもの、不思議を見つける力と、探求心にはいつも感心させられます。子どもと同じようにとは行きませんが、いつも探求心を持っていたいものです。

丸ごと受けとめる

2013/01/05

全ての人が仏様になる性質「仏性」をもっているといわれます。仏様になれる性質、仏様と同じ部分があるということです。それと同時に人間でもあります。それどころか十界といって、ひとりの人間の中に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の性質をもっているといわれています。

あらゆる恐怖や苦痛につねに翻弄されている地獄、目の前の欲望だけに激しく支配される餓鬼、本能のままに動いている畜生、つねに武力によって戦い争っている修羅、平常心でいるときの人、様々な喜びを感じることができる天、仏法をはじめ様々なことを学ぶ声聞、仏法を聞いて悟りを得る縁覚、一切の衆生を救おうという慈悲の境地の菩薩、悟りを開いた仏です。
この地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界のひとつずつがそれぞれ十界の性質をもっている。このことを十界互具といいます。つまり、人は仏の性質を持つと同時に菩薩や地獄、餓鬼、畜生の性質も持っているということなのです。餓鬼のようになってむさぼったり、修羅のように争ったり、菩薩のように慈悲に満ちあふれたり・・・

自分自身をふり返ってみても、そんないろいろな心の状態になっていると思います。もちろんいつも菩薩様や仏様の心でいられれば良いのですが、なかなかそうはいきません。しかし、反対に地獄や餓鬼などの性質がないとそれがどんなものかはわかりません。同じ気持ちになって寄り添い、相手を理解することができないのだと思います。

仏様や菩薩様の心を持っている自分もいれば、地獄、餓鬼、畜生の心を持っている自分もいる。どうしても嫌な自分をなかったことにしたり、蓋をして見ないようにしたり、自分の影の部分から目を背けようとしてしまいます。そのことを見つめ、まるごと受け入れ、認めることが必要なのだと思います。自分自身を丸ごと認めることなしには、誰かをまるごと認めることはできないのでしょう。まずは自分に向き合う必要がありそうです。難しい、しかし避けては通れない課題ですね。

本心

2013/01/04

1月4日の朝は本格的な積雪になりました。といっても10センチから15センチくらいの積雪量です。今朝の気温は氷点下3度でした。日中も雪が降り続き気温は1日中氷点下でした。朝から1時間ほど雪かきをしたあとで最初に雪かきをしたところに戻ってみると、既にうっすらと雪が積もっています。雪かきはたいていこんな感じです。

でも、朝から身体を動かしたのでとてもさわやかでした。枝からさらさらと落ちる雪が朝日を受けてきらきらと輝く美しさに出会うこともできました。自然の姿は美しいですね。

真っ白な雪のように純粋な本心、誰もがそんな心を持っているのだと思います。全ての人がそれぞれに持っているステキな部分です。そんなステキな部分をしっかりと見つめられると良いと思います。

「気になる子ども」ということばがよく使われます。もちろん、特別なケアが必要な子もいますが、大人の価値観に合わないと気になってしまうこともあるように思います。一人ひとり違う子どもの一人ひとりの純粋な本心を見つめることができれば、どんなにステキでしょう。

法華経というお経の中に常不軽菩薩品という部分があります。常不軽菩薩という菩薩が、全ての人を「あなたは仏様になる方です」と尊び拝んだということが書かれています。常不軽という名が表すように、常に全ての人を尊び軽んずることがない。たとえ罵られても傷つけられても、常に全ての人を礼拝するという行を行った菩薩です。
法華経などの大乗仏教の経典では、全ての人が仏様になる性質「仏性」を持っているということが説かれます。

それぞれが持っている、純粋な本心はこの「仏性」に通じるように思います。常不軽菩薩のようにはできませんが、全ての人を尊ぶ心を持てると良いと思います。そうすれば、誰あろうその人自身がもっとも幸せになれるのではないではないでしょうか。

自分に素直に

2013/01/03

こうありたい自分、ああなりたい自分、目標をもって努力することは、大切なことだと思います。

しかし、「〜でなければならない!」と頑になってしまったり、肩に力が入りすぎると、無理が生じてきます。あまり自分が無理をしすぎると、あれもしなければならない、これもしなければならないと負担感ばかり大きくなって、楽しくなくなってしまいます。そうなると、ついつい周りの人たちにも無理をさせようとしてしまい、周りの人も楽しくなくなってしまいます。

そうならないためにも、自分の本心のままに、自分の本心に素直に考え、話し、行動すると良いのかもしれません。「自分に素直に」ということです。

どうしても、「園長はこうあるべきだ」という立場で話をしたり、「人からよく見られたい」という我欲から、様々な都合やしがらみに縛られ、変な計算をしてしまったり、事情に流されてしまいます。そういう余計なことに気持ちを使ってしまうことで、自分の本心が見えなくなってしまうのだと思います。

自分に素直にというと、気まま、わがまま、好き勝手と誤解されそうですが、そうではなく、自分自身の心の奥底にいる本来の自分の声を聞く、言い換えれば、魂の声を聞くということなのかもしれません。

人は一人ひとり異なる存在です。ということは、一人ひとり自分の役割を持って生まれてきているのです。だから、ひとり一人がそれぞれに尊いのです。その本来の役割というのか使命というのか、それを果たす事が幸せや楽しさにつながるのではないでしょうか。その人にしかない役割、使命に忠実に生きる。そのことが自分に素直にということだと思います。言い換えれば、しっかりと自分の魂に向き合うことなのかもしれません。

しかし、自分自身というのはとてもわかりにくいものです。自分の本心とは何か、自分の魂は何を求めているのか。自分の使命は何か。それを知るためには、周りにくっついた余計なものをはがしてゆく、取り除いてゆく必要があります。というより、余計なものは見ないで本心だけを見つめることができれば良いのだと思います。いつもいつも自分に問いかけることがその方法なのかもしれません。

やわらかく・あかるく・あたたかく

2013/01/02

元旦の初日の出を拝むことができました。太陽からの強くまぶしい光と温かさが心まで届き、今まですっきりしなかった部分を照らし出し、氷のように固まっていたものを少し溶かしてくれたように感じました。太陽のように明るく温かい心でいなさいということだと感じました。

2日の朝は前日のような冷え込みは和らぎました。空はよく晴れていましたが、山々には少し雲か霧がかかっていたのでしょう、近くの山は濃い色に、遠くの峰は薄くかすみ、濃淡のグラデーションがまるで水墨画のお手本のようです。

比叡山の上に、オレンジ色のまあるい太陽が昇ってきました。昨日のように眩しく強い光ではなく、穏やかな美しさです。

強く輝くときもあれば、やわらかい光で包んでくれることもある太陽。内に明るく強い光と熱さや温かさを、外にはやわらかい光と温かさ。心に太陽ではありませんが、そういられると良いと望んでしまいます。

初日の出

2013/01/01

お寺で除夜の鐘をつきました。気温は氷点下3度、雲ひとつない星空には冴えざえとした月がかかり、シャープな光を投げかけています。冷たい空気が凛としていて、自ずと気持ちが引き締まります。ついさっきまで平成24年をふり返っていた私には、反省したことをしっかり心に刻んだか。と月に問われているように感じられてなりませんでした。ふり返ってはみたもののどこかスッキリしないところがあったのかもしれません。百八回の鐘をついて百八の煩悩を除くといわれる除夜の鐘、一年間の罪過ちを悔い改めることができたでしょうか。

どこかスッキリしない気分を持ち越したまま、迎えた元旦の朝。
強い寒気が入り込んでいて、雪の可能性もあったのですが雪は全く降らず冷え込みました。近年珍しく快晴で迎えた元旦の朝、初日の出を拝もうとたくさんの方が、お寺の本殿前にいらっしゃいました。
東に望む比叡山の向こうの空が明るくなり始め、徐々にオレンジ色に変わってゆきます。そのオレンジ色がさらに明るくなってきて、ついに太陽が顔を出しました。その瞬間、金色の光の束が、ドーンとこちらに向かってきました。そしてどんどん光量が増してきます。金色の光に包まれていると、どこか別の世界にでもいるようで、太陽に向かって自然に手を合わせていました。そうしていると、とてもやわらかくあたたかい何かで心が満たされてゆくような感覚がやってきて、うれしさがこみ上げてきます。そこにいらっしゃる大勢の方々も同じように感じていらっしゃるのだろう。なぜかそんな確信にも似た思いをもちました。

そして、それまで心に引っかかっていた何かが、氷が溶けるようになくなってゆく気がしました。太陽から明るさとあたたかさをいただけたのだと思います。

「太陽のようにあたたかい」そんな自分でいられる1年にしてゆきたいものです。

反省

2012/12/31

今年も最後の日となりました。この1年をふり返ると、反省することばかりです。
まずは、余裕がなかったのかと思います。「あれもしなくては!」「これもしなくては!」と「やらなくてはならない!」でいっぱいになってしまっていました。肩に力が入って、もしかすると目もつり上がっていたかもしれません。そうなると、当然楽しくなくなります。楽しいを目指しているはずなのに、自分自身が楽しくなくては、みんなが楽しくなるはずありませんね。反省です。

楽しいにもつながるのですが、自分に素直でいることができたかなと考えてしまいます。ついつい事情に流されてしまい、いろいろな理由をつけては、無理をしていたかもしれないのです。無理をしていては楽しくありませんし、みんなも楽しくなるはずがありません。反省です。

そして、やっぱり焦ってしまったかもしれません。「早く良くなって欲しい!」「早く自分の思うようにしたい!」という我欲に負けてしまって、そうならないことにネガティブな感情を持ってしまっていたかもしれません。「園長先生はどっしりと構えていてください。」と言ってくれる職員もいたのに、どこか一人で空回りしていたかもしれないと思います。反省です。

反省すべきところは数えればきりがないくらいありますが、よかったこともあります。

子どもたちといると、楽しくてしょうがないですね。たくさんありますが、例えば子どもたちと昼食をいただくことが多いのですが、ゆっくり食べる子どもたちと一緒に食べることがよくあります。それがなぜかとても楽しいのです。

また、何人かの職員とじっくりと話す機会があり、みんないろいろなことを広く深く見つめ、しっかりと考えてくれていることがわかり、とても嬉しく思いましたし、心を開いてじっくりと話し合うことの大切さを再認識しました。

また、職員一人一人に得意なことがあります。それが発揮されたときにはみんなが嬉しくなりますし、何よりも本人がハッピーです。そんな場面が何度もありました。

いろいろなことがありましたが、そこからどれだけ学ぶことができたか。それが今年の反省ですね。

つね吉とお山のほいくえん

2012/12/30

ある日、お山のふもとにある保育園に新しく男の子が入園してきました。その男の子のなまえはつね吉といいます。

先日紹介した絵本『つね吉とお山のほいくえん』の最初の部分です。読み返していたら、あらすじを紹介したくなりました。

実はつね吉はきつねの子どもで、一人ぼっちのつね吉をかわいそうに思ったお母さんきつねが、山のふもとの保育園で遊ぶ子どもの様子を見て、仲間に入れてもらおうと、つね吉に人間の姿になる練習をさせて保育園にやってきたのでした。

保育園でいろいろなことをして楽しむ子どもたちの様子がとてもやわらかいタッチの絵で、いきいきと描かれています。

つね吉は保育園でくだものが出たときには食べずに持って帰ります。病気のお母さんに食べさせるためです。
ところがある日、おかあさんの具合が悪くなっていよいよ寝込んでしまいました。心配で心配でしょうがないつね吉は、保育園のお昼ご飯も食べられません。先生にどうしたのと声をかけられたつね吉は、「おかあさんが寝込んでしまった。元気になってほしい」といって先生に抱きつきました。

そんな、つね吉を園長先生はお山の上にあるお寺の本殿に連れて行きます。つね吉はおかあさんの病気が治りますようにと祈ります。

しばらくして目をあけたら涙のせいなのか本殿の中のろうそくの光がまぁるい玉のようになってぷかぷかと浮いているように見えます。
つね吉の心の中にお友だちや、となりでつね吉のためにいっしょにお祈りしてくださっている先生たちのお顔がうかんできて、さっきまでのくるしい気持ちがじんわりとやわらいできました。

なんてステキな表現でしょう。作者ご自身もこんな体験をされたのでしょうか。

お父さんがつね吉を迎えに来ましたが、つね吉はすっかりきつねの姿に戻っていたのでした。もう保育園には行けないと思っていたつね吉親子に、園長先生は「つね吉くんはこれからも今までと変わらず、大切なお友だちですよ。お山に住む動物も、鳥も、木も、花も、小さな虫たちもみんなお互いに支え合って暮らしている大切な仲間です。つね吉くん、明日からも元気に保育園に来るんだよ」といいます。

保育園の子どもたちはといえば、山門の近くの大きな建物の中で、「つね吉くんのお母さんが元気になるように」と観音様にお経をあげて、お祈りをしていたのでした。

その話を聞いたつね吉は「ぼくもお友だちを大切にして、そしていつかお友だちやお山のために少しでも役に立てるようになりたい」と思うのでした。

絵にも物語にも暖かさが溢れていて、心がとても温かくなりました。

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