園長ブログ

お猿のその後

2013/01/18

昨秋、突然現れた猿。20日間ほど当園のまわりをうろうろして、園児と遊びたくては近づいて来ていたのですが、園児には怖がり保護者の皆様も困っていらっしゃいました。そこで、猿がよく出没する朝夕には、私が猿を追いはらう役をしていました。それも、いつまでも続けるわけにもゆかず、困ったとな思っていたのですが12月の上旬に無事に保護されました。しかし、最終的な行き先がなかなか見つからず、紆余曲折しましたがようやく引取先が見つかりホッとしました。

多くの方々がこの猿のためにいろいろと心をつかって、力を尽くしてくださいました。みんなの気持ちと力が合わされば、困難があっても乗り越えられるのだと思いました。

いろいろ大変なこともありましたが、今回猿が現れたことで多くの人々の優しさに接することができ、とても温かい気持ちになりました。当園の職員もそれぞれに心配してくれていましたし、アイデアを出してくれる人もいました。とてもたくさんの人が心配し、忙しいのに力を尽くしてくださったのです。みんなに気にしてもらって、ほんとうに幸せな猿です。

引き取られていった先の施設では、鞍馬から来たから「くらのすけ」という名前までつけてもらって、他の猿と共に暮らしているそうです。聞いた話によると、先輩の猿にも仲良くしてもらっているようで、友だちもできたそうです。猿にとって最も良いところに落ち着けたと思います。

いつか、機会があったら会いに行きたいと思います。もしかしたら、向こうから会いに来てくれるかもしれません。

かがみもち

2013/01/17

 一生懸命切っていらっしゃいます

1月15日は小正月でこの日までを松の内とかしめのうちといい、門松やしめ縄を飾っておくとされています。関東地方では1月7日までだされているそうです。

お正月のお飾りには門松、しめ縄、鏡餅などいろいろあります。園でも大きな鏡餅をお供えしましたし、お寺でもお正月には鏡餅をお供えします。とてもたくさんのお餅なので、お供えしたあとのお餅はあられになります。

ご奉仕の皆さんが、何日かかけてお餅を切ってくださいます。大きな鏡餅を巨大な押し切りであら切りし、

   こうして切って仕上げます

次に1センチくらいの厚みの板状に切ります。そして更にそれを棒状に切ってから最終的に1センチ角の大きさにまで切るのです。

なにしろ量が多いので、時間もかかり1日中作業をしているとかなり疲れます。そのうえ、固くなった鏡餅でも切れるほどの鋭利な刃物を扱うので、気が抜けません。それでも多くの方が交代で、切ってくださるのです。

そうやって切り上がったお餅は少し乾かしたあと、業者さんにお願いして、あられに焼き上げていただきます。

  こんなにたくさんあります

焼き上がったあられは袋に詰めてご縁のある方々に配られるのです。お陰様で毎年、園にもいただいています。

このあられはとてもおいしいので、毎年楽しみです。お供えの鏡餅を、多くの方々が心を込めて切ってくださり、天然の調味料だけを使って焼き上げたあられなので、おいしくないわけがありません。

あられだけいただいてもおいしいのですが、節分の年の豆と一緒にいただくとまたちがったおいしさを味わうことができます。

今年もおいしくできあがると思います。今からとっても楽しみです。

正月

2013/01/16

お正月というと何日までをイメージしますか。1月1日から3日の三が日でしょうか。松の内やしめのうちといわれる1月7日もしくは15日まででしょうか。それとも、お仕事がお休みの間でしょうか。もちろん1月は1日から31日までですが、「正月」ということばから思い起こすイメージはいろいろありそうです。

正月は年神様を迎えて五穀豊穣や無病息災を祈った行事で、門松やしめ縄、鏡餅は年神様を迎えるためのものだともいわれます。そして、迎えた年神様と一緒に過ごします。お正月のおせち料理をいただくのに、柳箸という丸くて両端が細くなったお箸を使います。これは、一方を人間がもう一方を神様が使うという意味があるのです。柳箸というのは柳の木を用いて作られているからですが、柳の木は木肌が白く事物を清浄にして邪気を払うとされています。また、春一番に芽を出すことから生命力が強い縁起の良いともされています。

こうして年の初めを一緒に過ごした神様を送るために、左義長やとんど焼きなどが行われしめ縄や門松などを火にあげられます。様々な風習に様々な意味が込められ、昔から伝わっています。

昔は様々なことが神様と共に行われていたのですね。今も受け継がれている風習があるのですから、そのこころを思い直してみると良いのかもしれません。神様というと迷信とか非科学的とか言われそうですが、目に見えないものはないわけではありません。最近は目に見えないものやことの方こそが重要な気がしています。

丁寧に

2013/01/15

1月12日と13日は、京都ではこの時期にはめずらしい暖かい日が続きましたが14日は強い雨が1日中降っていました。夜に首都圏が大雪というニュースが流れていて驚きました。交通機関も混乱し成人式とも重なって大変だったようです。奈良県や和歌山県など近畿南部でもかなりの積雪になったようでした。みなさん大丈夫だったでしょうか。

鞍馬では夜になって雷が鳴ったのを境に気温が下がり、雨が雪に変わり、朝には雪がうっすらと積もっていました。実はこれは山上の話で、保育園のある山麓ではほとんど積雪がありませんでした。山の上と下でも状況が全く違います。

話は変わりますが、当園はお寺の境内にあります。ですから、園舎の外観もできるだけ景観にマッチするようなデザインになっています。園庭のすべりだいや登のぼり棒も茶色と緑という地味な色にしています。

玄関の横に塀があるのですが、それも板塀です。大和打ち板塀とか大和塀という種類です。柱を立てて柱と柱の間をつなぐ材(横胴縁)をとりつけ、その両側に交互に板を張り付けてゆく構造になっています。表の板と裏の板の間に胴縁の厚み分だけすき間ができるので、向こう側は見えないけれども、風は通るという特徴があります。

先日、玄関から園舎に入ろうとして塀を見ると、どこかいつもと違う感じがしたので、よく見てみると、塀の板の片面が外されていて向こう側が見えるのです。何が起こったのかと思い近づいてみたら、塗装をした跡があります。そういえば以前用務員さんに塗装をして欲しいと頼んでおいたのを思い出しました。塀の下の部分が雨や雪で濡れて乾きにくく、そのまま放置すると傷みが早くなりそうだったので、汚れを落としてから塗装をし直して欲しいという話をしていたのでした。

しかしまさか塀の板を外してまで行うとは思っていなかったのでちょっと驚くとともに嬉しく思いました。板を取り付けたままだと、塗りムラができてしまうので、それを避けたかったそうです。丁寧に美しく仕上げたいという彼のこだわりと、根気には脱帽です。

伝える 受けとめる

2013/01/14

外交でも「相手の考えを聞き理解しようとする姿勢を長年続ければ、人脈も広がります。」と東郷氏。

理解のためには、発信する必要があります。受けとめるといっても黙っているだけでは、相互理解にはなりません。時には議論することも必要です。あたりさわりのないところだけで話していては、うわべだけになるので、素直な本心を使って相手に伝えることが大切です。

「今の小学生はいじめられることを極端に恐れ、ボスや周りの空気に合わせ、目立たないように振る舞うという。恐ろしいことです。子どもたちが自分で意見を言わず、周りに合わせる生き方を続ければ社会は縮小する。」と東郷氏は言います。

そうであるなら、幼児期に自分の思うことを伝える経験をたくさんして欲しいと思います。そのためには、まず子どもの言葉をしっかりと聴く必要があります。聴いてもらえるからこそ、子どもは話そうとするし、聴こうとするようになるのです。

「違った人間がいることをたがいにみとめ、火花を散らすことによって人間は成長する。若いうちから本を読んでものを考えろと、言葉を勉強して外国に出て自分の目で見てみろと。自分は自分であっていいんだと伝えていきたいですね。」と記事は締めくくられています。

当園の目指す子ども像には、「相手を受けとめられる子」「自分の想いを伝えられる子」という項目があります。相手を丸ごと受けとめ、真心で伝えられるそうなるためには、心を開いて伝えたことを丸ごと受けとめられることをたくさん経験してほしいと思っています。

51対49

2013/01/13

元外交官 東郷和彦氏へのインタビュー記事「対話のカタチ」2(京都新聞1月4日)を読んで、感じたことを書かせていただいています。理解すること、理解しようと努力し続けることの大切さを改めて心に思いました。そこから信頼関係が生まれてくるのですね。

東郷氏は祖父から三代続く外交官だそうです。東郷氏の祖父が大切にしていたことが取り上げられていました。それは「51対49」の哲学です。外交官は交渉の最前線にいて、相手の主張の本質や相手が譲れない線を一番よく知る立場にいます。相手に51を譲り、こちらは49で満足する気持ちで国内を説得することが、長い目で自国にとって一番良い結果になるという信念なのだそうです。

自分が51ではなく相手が51なのですね。どうしても、自分の考えを押し付けようとしたり、相手を自分の思うように動かそうとしてしまいます。それは「我」の自分が、我欲を通したいためにそうしてしまうからです。51どころか、80、90までも自分の思うようにしたくなります。でも、「我」の自分に流されているかぎりは、何も変わらないのでしょう。先ずは相手を受けとめ、理解しようとする努力が必要なのでしょう。そこから始まるのです。

子どもも、大人の思うようにしようなどと思ったら、無理が生じます。かといって放任してしまうと育つことができません。その子を丸ごと信じて受けとめ、その子が最も輝けるところを、磨き出せるようにサポートしたいものです。

本心で受けとめ理解する

2013/01/12

「相手を理解すること、それが外交において一番重要なこと」元外交官の東郷和彦氏は言います。

外交交渉と聞くと、自国の利益のために相手に条件をのませるといたイメージが強かったのですが、そうではなく相手を理解することが最も大切だというのです。当然といえば当然なのかもしれませんが、相手を本当に理解するというのはとても難しいことだと思います。相手を理解することは相手を受けとめることから始まるのでしょう。

自らが心を固く閉ざして相手を理解しようとせず、自分の考えだけを押し付ければ、相手も心を閉ざして主張するだけになってしまうかもしれません。そうなればただのぶつかり合いです。そこから良いものが生まれてくることは少ないでしょう。外交などといわず、日常生活でもよくあることです。

どうしても思い込みにとらわれている自分がいて、相手にもそれをさせようとしてしまうのです。それは、オレが(我)、わたしが(我)という「我欲」にとらわれ、動かされている自分がそうしているのではないでしょうか。

かといって、自分を殺して相手に合わせるのではなく、「我」にとらわれない自分の本心に素直でいる。素直な心で、相手を受けとめる、受けとめよう、理解しようとする姿勢をもつことができると良いと思います。

本心の自分と「我」にとらわれている自分、今の自分はどちらの自分なのか、いつも自分に問い続けていると、本心の自分がわかってくるのかもしれません。本心の自分で「受けとめよう、理解しよう」を実践してゆきたいものです。

理解

2013/01/11

「対話のカタチ」2人目は、元外交官 東郷和彦さんです。東郷氏は外務省条約局長・欧亜局長・駐オランダ大使などを歴任し、現在は京都産業大学世界問題研究所長として活躍されています。

東郷氏は、外交の本質は「相手を理解する」ことであり、それは全ての人間関係の基本だと言っています。外交で一番重要なのは相手の立場も理解し、長期的に国益を考えてゆくこと。なのだそうです。同じ国の人間なら、関係性が悪化しても同じ価値観やルールのもと立て直しやすいが、外国人の場合は一度失敗すると立て直しが大変難しくなると言います。

同じ文化的基盤を持った日本人同士でも難しいことがあるのに、外国の方が相手となるとその難しさは想像もできません。ただ、ひとりの人間と人間との信頼関係が基本にあり、その上で交渉があるのだろうと感じます。その根本に「相手を理解する」ということが必要不可欠なのでしょう。しかし、「相手を理解することは思うほど易しくない」ともいいます。
確かに易しくはないし、そうとう努力する必要があると感じています。

「日本は主張すべきを主張していない」というのが最近の風潮ですが、こちらの考えを相手にガンガン言えばいい、それが外交だという考えは完全な間違いです。

とても反省させられることばです。外交のような大がかりなことではなくても、日常のコミュニケーションでさえ、ついつい自分の主張ばかりを一方的に押し付けようとしてしまいがちです。相手を理解するためには、自分の心を否定のバリアで囲わずに、相手を丸ごと受けとめることからはじめなければなりません。そこからがスタートのはずなのに・・・

日々のふり返りを大切にしながら、進んでゆくしかありません。

目に見えない世界

2013/01/10

京都新聞の新春特集「対話のカタチ」に掲載された河合俊雄氏の「グローバル化の中で」という記事が興味深かったので、取り上げてみました。

グローバル化に反比例して人々の視野は狭まり、自分に近いグループのことしか気にしなくなる。その背景には、同心円的な広がりをもつ共同体の崩壊があるといいます。河合氏はこうも言っています。健康な共同体がなくなってゆくと、それを保つため「暴力」という反動が生まれる。だからいじめ問題が絶えない。

共同体の崩壊は人と人との実質的なつながりが希薄になり、個々人がバラバラになってしまう状態なのでしょう。西洋では個人主義が強くても、個人がよって立つ基盤に「神につながる」という普遍性が残されました。遠くに、もしくは目に見えない世界にある普遍性がなくなると、人々は身の回りの自分に近い存在に依存するのでしょう。

河合氏は、「目に見えない世界」の普遍性に注目し、「自然科学で全てがわかるだけでは、人は生きる気力が湧きません。むしろ自然科学を超越した「全然違う次元」を知り、触れることで豊かになる。目には見えない夢や理想が生きる力になるのです。」と言っています。

河合氏はかつては宗教が果たしていた、目に見えない世界(異次元)とつなぐ役割を文学や芸術といった新しいクリエーションに求め、例えば村上春樹氏の小説を心理学的に読み解くといった研究を進めていらっしゃるそうです。

日々に追われていると、ついつい目の前で起こることだけに目を奪われがちですが、本来見つめるべきは、見えないものであったり、遠くにあるものなのだと思います。足下のでこぼこ道にばかり気を取られていて、遠くの目に見えないもの、普遍性を見据えることを忘れてしまわないようにしたいものです。

共同体

2013/01/09

京都新聞文化面で「対話のカタチ」という新春特集が組まれていました。様々な対立があらわになって来ている今こそ、対立を乗り越え、ともに前へ進むための対話が必要という観点から、歩み寄ることの難しさと可能性の大きさを知る5人に聞くというシリーズです。1月3日には、京都大学こころの未来研究センター教授の河合俊雄氏でした。

河合氏はまず、情報技術がグローバル化するのに反比例して、人間の視野は狭くなっているといいます。かつてあった共同体意識や原理、普遍性がなくなったことが背景にあるそうです。近代の前には共同体の暮らしの中で、共同体に属する人々のことを肌で感じることができました。日本では集落という共同体を中心として、集落を囲む山の向こうに「あの世」があり、その向こうに「目には見えない世界」が同心円的につながる共同体意識を持っていました。近代になって「個人」という概念が出てきてそれが大きく変わったと言います。

西洋では個人主義が強いのですが、個人がよって立つ基盤に神や自由、博愛という原理があり、人々はそれを共有しているといいます。近代化によって共同体意識はつぶれましたが、キリスト教に基づいた「神につながる」という普遍性は残されているのです。日本はそういったものまでなくしてしまったのでしょうか。

前近代的な共同体意識が意味を失った後に登場したのがグローバル主義ですが、共同体がなくなると皆がバラバラになり、ネットなどを介して偶然につながるだけの世界になってしまいます。そうして人間にとって必要な原理、普遍性が失われたから、人々は身の回りや自分に近い特定の存在に依存するようになるのだそうです。「かつてあった同心円的な広がりを持ったつながりではなく、日本の学生たちが自分のグループばかりを気にするように非常に小さな島になっているのです。」と河合氏は言っています。
(文責園長)

以前は共同体というお互いが物理的にも心理的にも近くつながりあい守り合う場があり、その外側に広い世界が、そして最も遠いところに宇宙とか目に見えない世界という普遍性があったのでしょう。ところが、共同体が意味を失ってグローバル化が進み、いきなり大海に放り出された個人は身近なものだけにしがみつこうとしているというのが、現代の状況なのだと理解しました。

だからこそ、グローバル化の荒海に放り出される前の子どもの時代に、身近な養育者との愛着関係をベースとして、子ども同士を中心に様々な人との関係を築く、様々な人と生活する共同体の体験が必要な気がします。その共同体で生活してゆくなかで、夢や理想を持って生きてゆく経験が大切になってくるのだろうと感じます。

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