園長ブログ

はなびらもち

2013/01/28

今朝も厳しい寒さになりました。雪の量はそれほどではありませんが、道路は凍結していました。それでも、太陽が顔を出すとすぐに溶けだします。がんばって雪をどけたり、融雪剤をまいたりしていたのが、嘘のように溶けてしまいます。太陽の力の偉大さを改めて感じました。あたりまえのように朝になったら日が昇ると思いがちですが、お日さまを拝めることのありがたさを感じました。

太陽の暖かさや明るさは、分け隔てなくみんなに届きます。太陽みたいに、どんな人に対しても明るく暖かく接することができると良いと思います。

茶道の初釜について少し書いていますが、茶道は相手のことを思うことが基本にあります。亭主が客のことを思い心を運び、様々に趣向を凝らして迎える。客も亭主の心運びを感じて心を尽くす。そんな関係があります。一期一会と言われますが、相手にどれだけ心を尽くすことができるか、そこが肝心なところなのです。しかし、やることが多すぎたりして余裕がなくなると、心が尽くせなくなります。余裕を持ってひとつひとつ丁寧に取り組むためにはどうすれば良いのか、よく考える必要がありそうです。

茶道初釜のお菓子は、花びら餅でした。先生が毎年苦労して予約してくださるとてもおいしい花びら餅があったのですが、今年からそのお菓子屋さんが花びら餅を作るのを止められたそうです。お正月の楽しみの一つだった花びら餅がないのは寂しいのですが、仕方ありません。

以前もきんとんがとてもおいしいお菓子屋さんが、後継者がいないということでお店を閉められたことがありました。伝統や技術が受け継がれないのは寂しいを超えて、危機感さえ感じてしまいます。そんなことを思っていたら、つくね芋の入ったあんのきんとんの中に黄身あんが入った雪餅が食べたくなりました。この季節にとてもおいしかったのを思い出します。

そんなわけで、いつもの花びら餅が手に入らないので、先生がいろいろなお店のものを比べて選んでくださいました。みんなに少しでも美味しいものをというお心遣いがとてもありがたく、ついつい中途半端になってしまいがちな自分を反省してしまいました。

花びら餅は、蜜漬や甘煮のごぼうと味噌餡を求肥で包んだお菓子で、宮中のお雑煮だといわれています。菱葩ともいい、平安時代に行われていた「歯固」という行事に由来するそうです。歯固はお正月に硬いものを食べることで歯の根を固めて強くし、長寿を願うという風習です。大根、鴨肉、猪肉、押し鮎などをが食べられており、それが簡略化されて餅でつつむようになったそうです。

大切に思う心

2013/01/27

厳しい冷え込みとなりました。今朝の気温は氷点下5度、この冬一番寒かったかもしれません。雪は場所によってはうっすらと積もっている程度でした。積雪量は少なくても気温が低いので、車に踏みしめられた雪は固まって道路はよく滑りました。

園から少し山を上がったところに、牛若丸に兵法虎の巻を授けたといわれる陰陽師、鬼一法眼を祀るお堂があり、その近くに小さな滝があります。滝の周りには氷の花が咲いていました。飛び散った滝のしぶきが周りの草や、苔について凍ってしまったのです。

氷の花も美しいですが、本物の花も美しいです。1輪の花、1本の枝の美しさを最大限に活かして、活けるのが華道だと思います。そのためには、その花の良いところを見つけなくてはなりませんし、他の花材との調和の中で、それぞれの良さが活きるよう考えなくてはなりません。1輪の花の長さ、向き、角度、様々な条件が少し違うだけで、見え方が全く異なります。自分で活けたものを先生が少し手直ししてくださると、見え方が全く異なります。1輪の花を大切に思い心を込めて丁寧に扱うことが必要なのです。                        

そう考えると人も同じかもしれません。ひとり一人を大切に思い、それぞれが輝くようにすれば、お互いが照らし合って、さらに輝きを増すことができるのだと思います。

そんな華道の初活けのことを書きました。初活けに続いては、茶道の初釜も行いました。初活けを行った部屋の隣が茶室なので、みんなそのまま蹲踞を使って躙り口からお席に入ります。お床を拝見すると、青竹を使って作った花器に若松、蝋梅、あけぼの椿を先生が用意してくださいました。蝋梅の香りに心が落ち着きます。青竹の花器は先生のお弟子さんが、山から取ってこられたのを5年も使っていらっしゃるそうです。青竹を青いまま保つのには、コツがあるようです。

先生のために山に分け入って取ってこられたお弟子さんの思い、それを受けて大切に使っていらっしゃる先生のお心に感銘を受けました。心を込め、大切に、丁寧に一つの物や事を扱う。改めてその大切さを思いました。

初活け

2013/01/26

今朝の気温は氷点下4度。寒中らしい冷え込みになりました。天気予報ではしきりに大雪の情報が流れています。1月26日の朝はかなりの積雪だろうと覚悟して、いつもより早めに起きてみたら、雪は全く積もっていませんでした。そのかわり、朝から冷たい風が強く吹いています。雪はもう少し後なのかもしれないと思って、雪かきをせずにすんだ時間に少し仕事ができました。ありがたいことです。

日中も気温が低いうえに、ピューピューと音を立てて強い風が吹いています。夕方、職員会議を終えて外に出てみると向かいの山を白くかすませて雪が飛んでいます。みるみるうちにうっすら積もりました。明日の朝こそ雪かきかと覚悟しましたが、夜には雪の降り方は弱くなりました。

それにしても、今年は例年に比べて今のところかなり雪が少なめです。もうすぐ立春ですが、2月は寒い月でもあります。まだまだ大雪の可能性は残っています。

1月もあっという間に終わってしまいそうです。お正月にはじまり、いろいろな行事が目白押しでした。チャレンジ体験も無事に終わり、ホッとしている暇もなく節分や作品展がやってきます。

1月の恒例の行事として、華道の初活けに参加しました。初活けは先生が皆の前で華を活けてくださいました。華材はケイオウザクラ、スカシユリ、アケボノツバキで、華が入ると部屋中が一気に春らしく明るくなりました。活け終わったお花を眺めながら、今年もお稽古に精進しましょうとみんな揃ってお屠蘇でお祝いをしました。お稽古をサボりがちな私は、ちょっと小さくなってしまいましたが・・・

短い時間でしたが、楽しいひとときでした。せっかくお稽古をしているのだから、何とか園の環境作りに活かしたいと思います。

懐かしい「におい」

2013/01/25

当園には洛北中学から6名の中学生が職場体験に来てくれました。どういう訳か6名のうち5名が当園の卒園生です。久しぶりに見る顔は、卒園のときとそう変わっていない子もいれば、名前を聞かないと誰だかわからないほどの子もいます。

みんな久しぶりの保育園を懐かしがっていました。担当の職員が言っていたのですが、園舎や、お寺の修養道場に入ったときに「あー!このにおい!懐かしい!」と言っている子がいたそうです。

そういえば、「におい」がきっかけで、記憶が甦ってくることってよくあります。もちろん、懐かしい曲を聴いて、その頃のことを思い出すということはありますが、「におい」の場合は、よりリアルに思い出すという気がします。

詳しくはわかりませんが、においの情報が脳の中で処理されるときには、記憶に関する海馬や、情動や記憶に関わる扁桃体といった脳の部分と関係があるそうです。

久しぶりに園に来た卒園生が思い出したのは、どんな記憶や感情だったのでしょうか。

においに限らず、幼いころの記憶というのは大切だと思います。保育園で過ごす子どもたちが何を体験し、どんな記憶を刻むのか、一瞬一瞬、ひとり一人ちがう子どもが、その時に何を感じどう思うだろう?そして子どもたちが何を学ぶのだろう、ということを常に意識している必要がありそうです。

チャレンジ体験の様子

2013/01/24

チャレンジ体験に来ている洛北中学の2年生は、とても意欲的です。私が接しているのはお寺に体験に来ている10名ですが、何をするにも、さっと行動しますし、話しをすれば、しっかりと顔を見て聞いてくれます。みんなで声を出して般若心経を唱えましょうと促しました。たいていは後半にならないと声が出ないことが多いのですが、今年の子たちは初日から声を出していました。毎日午前中に行っている瞑想の時間も、30分間ほとんど動くことなく座っていますし、写経もとても丁寧にしています。

昼食は、音を立てないで食べる。食べ終わった後の食器をできるだけきれいにする。の2点に気をつけてほしいと伝えたら、器を置く音がしないよう工夫していましたし、食べ終わった後どうすれば器がきれいになるかいろいろ試していました。食器を片付けるのも、最初はそれぞれが自分の使った食器を持って返却場所に返しに行っていたのですが、2回目からは、先に食器を種類別に集めてそれを持って行く子、その間にテーブルを拭く子と役割を分担して片付けるようにしていました。

指導してくださったお寺の職員さんに聞いたら、掃除も丁寧にしていたようです。

自然の事象に触れて欲しいという願いから、毎年自然観察に関するメニューを入れていますが、今年はコウモリの観察をしました。担当してくださったのは、お寺で自然関係の調査研究をしていらっしゃる方です。お寺の建物にヒナコウモリというコウモリが集まって寒さをしのいでいる場所があります。今冬はとてもたくさんのコウモリが集まっていたので中学生にも見て欲しいという意図でした。ヒナコウモリが集団で越冬している場所というのはあまり見つかっていないようで、簡単に観察できるというのは全国でもめずらしいのだそうです。

でも、ただ見るだけではつまらないので、まず、コウモリの生態をすこし学んだ後、みんなでアクティビティーを楽しみました。コウモリが暗闇のなか超音波を使って獲物を捕まえたり障害物を避けて飛んでいるということをゲームにしたもので、目隠しをしたコウモリ役の人が、蛾の役の人を捕まえるというゲームです。とてもおもしろくて、みんな盛り上がりながら、コウモリの捕食行動を疑似体験していました。実際のコウモリを見たときもみんな興味津々で見入ったり、個体数を数えていました。

前向きに、積極的に行動する中学生達の姿が印象的だったチャレンジ体験でした。3日間があっという間に過ぎ去り、忙しいながらも、充実した楽しい時間を過ごすことができました。中学生の皆さんありがとうございました。

  扉のすき間のコウモリを観察

チャレンジ 1

2013/01/23

今年も「生き方探求・チャレンジ体験」の時期がやってきました。京都市立洛北中学校の2年生が職業体験にやってきます。1月22日から当園には6名の中学2年生が来ています。そして、今年はなぜか6名の体験者のうち5名が当園の卒園生です。みんな、久しぶりの保育園を懐かしがりながら体験しているそうです。「そうです」というのは、私自身はお寺に来ている10名の中学生と一緒に過ごしているので、園に来ている中学生とはまだ会っていないのです。

洛北中学のチャレンジ体験は、昨年までは体験期間が5日間に設定されていましたが、今年は3日間となりました。チャレンジ体験に費やす時間が短いので、受け入れる方としては、楽といえば楽なのですが、どこか寂しいような物足りないような気がします。

体験がはじまる前日の1月21日午後にオリエンテーションということで、体験参加者が訪ねてきてくれました。中学生を前に説明をしたり、プロフィールを聞いたりして中学生と話していたら「とても楽しい」と思っている自分に気がつきました。

当園の卒園生や鞍馬小学校で親しくしていた子どもたちが、参加者の半数を占めるということもあるかもしれませんが、楽しさはそれだけが原因ではないと思います。それにしても、みんな立派になったものです。

この子たちがチャレンジ体験に来ると聞いたときは、どこか「やりにくいな。」という感じがしていて、なぜやりにくいと思っているのかよく考えてみました。私の自宅にも遊びに来る子たちだったので、どうもチャレンジ体験という場で改まって接するのに違和感を感じていたのです。でも、なぜ改まって接する必要があるのでしょうか。普段通り接すれば良いのに、「チャレンジ体験の指導者らしくしなくては」といった勝手な思いこみが私の中にあったのだと思います。それなら肩の力を抜いて普段通りにしていればいいじゃないかという気持ちが生まれ、やりにくいという思いは少し解消しました。

「〜らしく」とか「こうあるべき」はどうも型にはめようということになってしまい、かえって本質からずれるような気がします。飾らず、気取らず、素の自分で、素直な自分で、楽しくやれば良いのだと思います。心からそうできるようになりたいものです。

想像力

2013/01/22

単純なことなんだけど、僕たちは地球の上に生きていて、生かされている。地球がないと生きられない。だから、生き続けるにはどうしたらいいか、そこが立脚点です。国境は地球が引いたのではなく、人間が作ったもの。風は国境を越えて感じられます。(京都新聞1月7日朝刊)と長倉洋海さんは言います。

あたりまえといえば、あたりまえのことです。でも、みんなが心からそう考えてそう行動しているでしょうか。地球がなくなってしまったら、なくならなくても環境が激変したら、みんな生きてゆくこと自体ができなくなってしまうのです。

震災では大量の放射能が太平洋にまき散らされました。日本はロシアやアメリカへ詫びにいったけれど、カヌーでマグロを捕って生活している海洋国家ミクロネシアなど小さな国にはだれ一人行っていない。それでも、テレビの普及率が千人に1台のニューギニアの村で、震災のニュースを見て23万円分の寄付が集まりました。日本は世界の大国しか相手にしていないから想像力も細っていく。同質な国だけでなく、多様な国と出会って対話する中で日本人というものが見えてきます。
大人はいろんな関係があって簡単には変われません。僕が期待しているのは子どもたちです。しがらみがないですから。彼らが地球への思いを持ち続けてくれれば、少しずつでも世界は変わるはずです。(京都新聞1月7日朝刊)と長倉さんのことばは、締めくくられています。

多様な人や国と目には見えないところでつながっている。そのことに思いを馳せる想像力が必要なのに、目の前に見えることだけを短い時間のスパンで見てしまう癖がついているのかもしれません。いろいろな人たちがいて、多様な価値観があることを、多様な人たちと接して対話することによって感じ取る必要がありそうです。

長倉さんは、子どもたちに期待すると言っています。子どもたちに期待するためには、乳幼児期にもっている豊かな想像力を、思う存分発揮できる環境を用意すること。子どもを管理し、大人の思うようにさせようとするのではなく、子どもが思う存分自分を発揮して、ぶつかり合ったら自分たちで対話して解決してゆくということ経験をたくさんしておくことが大切なのだと思います。ついつい大人の思うように子どもを管理する。大人にとって都合の良いように子どもをコントロールしがちなのではないでしょうか。子どもがひとりの主体的な人として育つことが大切だと思うなら、小さいときからそれを体験している必要があります。

対話するって?

2013/01/21

携帯電話やメールが発達したこともその要因かもしれませんが、相手と対面してコミュニケーションすることが少なくなっています。息づかいや表情、目線で伝わるものが多いのに、それは対面しなくてはそれは伝わりません。

対話の対という文字はもともとは「對」で鋸刃のついた道具を手に持って土をうち固める姿を現しています。二人が向かい合って土をうちかためたことから、「むかう、あう、こたえる」という意味に使うようになったそうです。

相手と向かい合わず、携帯やスマホの画面ばかりを見ていることが視界を狭め、閉じこもる方向に向かいう可能性があります。そのことが周りを排除することにつながり、排除は自分の中でのバランスを欠いたときに外への暴力に変わる可能性があるそうです。「バーミヤンの大仏を破壊したタリバン、テロに対する暴力の応酬も、ヒステリックな排除の論理につながっています。」(京都新聞1月7日朝刊)と長倉洋海さんはいいます。

面と向かって話しをする、対話による相互理解、相手を排除するのではなく、相手を受けとめようとする姿勢、理解しようとする態度が必要なのに、排除しようとしてしまうのはなぜなのでしょうか。

イスラムの「ジハード(聖戦)」には二つあって、敵と戦う小ジハードと、自分の弱い所、エゴイスティックな部分と戦う大ジハードがある。対話する以上、まず自らに問いかけなくてはいけない。その前提がないと意見はぶつかり合うだけです。(京都新聞1月7日朝刊)と長倉さんは言います。

対話の最初は自らに問いかけることなのかもしれません。自分の弱い所、エゴイスティックな部分、つまり我欲に流されて発信するのか、本当の自分というか、自分は真摯に自らの役割を果たそうとして発信しようとしているのか、常に自分に矢印を向けて考えてから、真心の自分の声を聴いてから発信しようとしているのかを見極めなくてははならないということなのだと理解しました。

でもどうしても、我欲に引きずられた弱い自分で発信してしまいがちなのです。わかっているつもりでも、わかっていない自分がいるのも事実です。「我欲に持って行かれることもある自分もいる。」それも含めて自分自身なんだと心の底から思える、自分自身を丸ごと受けとめられる自分でいたいと思いますが、簡単にはできそうにありません。

未来を共有する視点

2013/01/20

フォトジャーナリストの長倉洋海さん。戦場にカメラを向ける一方で、力強く生きる人々を様々な地域で撮り続けています。京都新聞社会面の新春企画「対話のカタチ」(1月7日朝刊)で長倉さんの印象的なことばが綴られていて心を動かされました。

まず、アマゾンの先住民クレナック族のことが紹介されています。勇敢な部族として知られているクレナック族は、土地と資源を求めてやってきた白人の入植者とは最後まで戦わずに故郷を去ったという話です。白人が来たときクレナック族が最初にしたのは、「戦いはやめよう」とみんなで念じた、懸命に祈ったそうです。人を憎んだり、暴力をふるったり、嫉妬したりすると自分の輝きが落ちてゆく、戦いは自分の魂をも傷つけると彼らは考えるそうです。白人には通じなかったけれど、相手と通じ合おうとする気持ちは大事なのです。とあります。

究極の祈りであり、相手を受けとめようとする姿勢です。戦わないという信念を守り、故郷を去ったというのですからその覚悟は想像することもできません。

そして、
神や精霊、先祖、自然に根付いた豊かな精神世界が薄れるなか、日本人は地球とも対話していない。現代社会は自然との間にフィルターを作って直接感じ合わない。地球のリズムに合わせるゆとりがない。と自然を感じたり精神世界に思いを馳せることが少なくなっていることを指摘しています。

南米インディオやニューギニア、北シベリアの先住民たちは鳥や獣、巨木、水などさまざまな「命」に話しかけます。クレナック族は「人間は死ぬと、すべてを創造するエネルギーの塊のもとに帰る」という。肉体はたかだか50年から100年だけど、精神のつながりはもっと広く伸びてゆく。未来を共有している。一つの豊かさがそこにあります。(引用)

ここを読んで、どうしても近視眼的に目の前のことだけに対処しよう、そこだけを何とかしようとしてしまいがちになってはいないか。ふり返って見ました。未来を共有する他の命のことにも思いを馳せる、広く高い視野が必要なのだと思います。子どもを育てることにこそそういう視点が必要なのではないでしょうか。

久しぶりの畑

2013/01/19

強い寒気が入ってきて、1月18日は朝から雪になりました。久しぶりの積雪です。一日中雪が降り続き、寒い日になりました。夕方には雪はやみましたが、夜には更に冷え込み19日の朝の気温は氷点下4度くらいでした。雪はすっかり止んで、美しい青空が広がり、残った雪の白とのコントラストが美しい朝となりました。

たまっていた事務仕事を少し片付けて、久しぶりに畑に行ってみました。年末年始はバタバタしていて、畑の作物たちが気になりながら見に行くことができなかったからです。

猿に全て食べられたと思って、そのままにしていた豆には、サヤの中に実が残っているものもあったので、すべて刈り取って、残っている実を収穫しました。霜や雪にあっていますし発芽するのかどうかはわかりませんが貴重な黒豆です。乾かして春には蒔いてみようと思います。とてもおいしい黒豆が実ることを期待してつつ。

 8センチくらいの大きさになった麦


黒豆の足下に種を蒔いた小麦がしばらく見ないうちに少し大きくなりました。豆を刈り取るのにうろうろしていたら麦を踏んでしまっていたようです。麦踏みというのがありますが、麦を踏むことで、霜柱などで根が浮き上がってしまっている場合には根を土の中に押し戻す効果があるそうです。そして、もうひとつの麦踏みをする理由は、麦の茎を太く強くすることです。踏むことによって傷口からエチレンとうい物質が放出され、これが茎を太くする作用があるのです。茎は太くなりますが背はあまり高くならないので、実が実ったときに倒れにくくなるのです。また、株が分かれて枝が増える効果もあるそうです。

  ほうれんそうも大きくなりました

たまたま踏んでしまって、後から麦踏みのことを思いだしたのでは、麦に失礼ですね。今度は心を込めて踏んであげようと思います。

となりに蒔いていたほうれんそうも少し大きくなっていました。寒いのでとてもゆっくりですが、確実に成長しています。まだまだ食べられそうにはありませんが、じっくりと見守ってゆこうと思います。雪の間から出ている葉もありました。

えんどう豆も芽を出して、3センチくらいの大きさに育っていました。こんなに寒いのによく頑張ってくれています。思わず「寒いのに頑張ってるんだね」と声をかけてしまいました。

えんどう豆も芽を出して育っていました

やはり、蒔き時を間違えたにんじんはさすがに芽を出していないようです。

寒くても、季節は進み、作物はゆっくりゆっくりですが、着実に生長しています。自然のいとなみやいのちの力強さを改めて感じました。

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