園長ブログ

義経祭にて

2013/09/15

今年も、お寺で源義経を偲ぶ法要「義経祭」が奉修されました。台風18号の接近で未明から激しい雨が降っていたので、法要だけでなく、様々な奉納も行われ、たくさんの人が参加、見学されるのに、大丈夫なのだろうかと心配になっていました。なにより、園児達が出仕することになっていたので、雨が強くなると心配です。5歳児の有志と保護者がが日曜日にもかかわらず出仕に協力してくださったのです。幸い園児達が来る頃には雨は小降りになり、法要の直前には薄日がさす時間もありました。園児達の役目は、毎年同じですが、義経さんにお供え物を捧げることです。どの子もとても丁寧にお供え物を運び供えていました。子どもたちの動きとといいその時の雰囲気といい、心を込めてお供えしている感じが、とてもステキでした。

昨年も書きましたが、いろいろな奉納をされる方々もいらっしゃいます。近隣の合気道の道場の皆さんが今年もいらしてました。日曜日ということもあって、3歳くらいのこどもからおとなまで50名ほどの方々の奉納演舞は見事ですし、小さな子どもでも姿勢や動きがとても美しかったのはとても印象的でした。

他に、奉納があったのが、「しずのおだまき」の踊りの奉納がありましたし、天狗舞鼓という芸能奉納が今年もありました。

奉納の中でも、一絃琴の演奏奉納は心に響く音色が印象的でした。一絃琴とは、文字通り一枚の桐の板に一本の絹糸を張っただけのシンプルな琴です。演奏法は、右手人差し指、左手中指に象牙の蘆菅(ロカン)と呼ばれるつめをはめ、右手で絃をはじき、左手を移動させることで音の高さを変えて演奏します。ギターのようにフレットがあるわけではないので、滑らかな音の変化も表現できそうです。このシンプルな楽器は、静かながらとても深い響きがあって、演奏されると厚みのある音が響きます。

一般的には演奏しながら歌うことが多いようで、今回は清虚洞一絃琴の家元が義経の生涯を題材にした曲を演奏していらっしゃいました。

清虚洞一絃琴は「特に琴学に基づく精神性を重んじている」(清虚洞一絃琴ホームページより)そうで、「清虚とは心が清らかで私心がないこと、月の都にあると言われている宮殿」という意味があるそうです。
私心のない清らかな心。どうすればそんな心になれるのでしょうか。

全て説明する

2013/09/14

私たちは様々な製品に取り囲まれて生活しています。これらの製品の取扱説明書には「警告」や「注意」として、いろいろなことが書かれています。これらの表示が増えたのは平成6年に製造物責任法が施行されてからだと思います。PL(product liability)法といわれ、製造物の欠陥により人の生命、身体又は財産に係る被害が生じた場合における製造業者等の損害賠償の責任について定めた法律です。

ここええいう欠陥には、設計自体に問題があるために安全性を欠いた場合(設計上の欠陥)、製造物が設計や仕様どおりに製造されなかったために安全性を欠いた場合(製造上の欠陥)、製造物から除くことが不可能な危険がある場合に、その危険に関する適切な情報を与えなかった場合、取扱説明書の記述に不備がある場合(指示・警告上の欠陥)があるそうで、取扱説明書に、警告や注意が事細かに書かれていないと、指示・警告上の欠陥にあたる可能性があるのです。

取扱説明書のこういった表示を呼んでいると、「そんなことわざわざ書かなくても・・・」と思うことが書いてあることがあります。やはり、いちいちことばで説明しないとダメなのです。「〜をしてはいけない」と書いてなかったので、〜したら、損害を被ったと言われかねないと言うことです。

ある博物館の方からこんな話を聞きました。その博物館の自然科学部門の展示の中に、標本瓶に入ったホルマリン漬けのきのこの標本があります。ある日、担当社の方がふと見たら、観覧者が標本瓶のふたを開けて、中のきのこを触ろうとしていたというのです。そんなことしたら危ないですよ。というと、その観覧者は触ってはいけないと書いてなかったので、触ろうと思ったのだと言ったそうです。
また、人文系の展示の中に、文人の書斎を家屋のまま観覧できる展示がありますが、その書斎に上がり込んで、お弁当を食べている人がいたという嘘のような本当の話があったそうです。そこに入っていただいては困りますというと、入るなとは書いてなかったから入ったとおっしゃったそうです。若い人は皆まで言わないとわからないのかなと思ったら、結構年配の方だったそうです。ちょっと信じられないかもしれませんが、本当の話です。
ここまでくると、高コンテクスト、低コンテクストとかいう問題で葉ないような気もします。なんでも逐一説明しないといけなくなっているのでしょうか。

技を伝える

2013/09/13

日本は高テクスト文化で、逐一ことばで説明しなくても話が通じやすい文化だと言われているそうです。職人さんが技を伝えるのに、逐一説明したりはしません。もちろんことばで説明して習得できるものではないということもあります。「見て覚えろ」とか「技を盗む」ということが言われます。そうやって技を身につけるには、習う方の弟子が「できるようになりたい!」という強い意欲が必要です。意欲に裏打ちされた努力の積み重ねが技を身につけることに繋がります。親方はそんな弟子をうまく励ましたり、たしなめたりしながら、適切な距離感を持って見守ることで育てたのだと思います。ところが、最近はそうではないことがあると聞きました。ある職人さんがおっしゃっていたのは、「最近の若い人は、逐一ことばで説明して欲しいようで、説明をしないと何も教えてくれないと言ってやめてしまう人が多い」ということでした。そして、「説明したら説明したで、わかったような気になってしまって努力をしない。実際に技を身につけようとしたら、自分で練習して技を身につけるしかないのだけれど・・・」ともおっしゃっていました。

そんな話を聞いて、子どもの頃から、あれもこれも大人が主体となって教え込むことで、かえって知りたい、やってみたいという好奇心や探求心、学ぼうとする意欲を奪ってしまっているのかもしれない。と思いました。学ぶ方が主体的に学ぼうとしない限り、なかなか身につくことはありません。ですから、子どもの時に育てておきたいのはこの、「意欲」なのです。

逐一説明することにも良い面と悪い面があるということが、さきほどの職人さんの話からもわかります。全て説明すると、頭でわかった気になって、習得の努力を怠ってしまうこともありますし、全く説明しないと、何も教えてくれないと思ってしまう。うまくバランスをとりながら、育てる必要がありそうです。

世界のとらえ方

2013/09/12

高コンテクスト文化の代表とも言える日本。私たちが使う日本語には、ことばの持つ雰囲気や響きを大切にするところがあります。もちろん音としての響きもそうですが、ことばのもつ意味や役割の響きも同時に大切にします。

「余韻」ということばで表すのが良いのか「間」というのが良いのか、ことばが持っている意味そのものだけではなく、そのことばがまとっている雰囲気みたいなものです。だから短歌や俳句のように限られた字数で無限の世界を表すような文学が成立するのかもしれません。表面的に表されることばの意味の周囲に広がる世界が豊かなのでしょう。

それは、もともと日本人がもっている世界観や、世界の理解の仕方によるのかもしれません。季節に伴って移り変わる豊かな自然と、そこからもたらされるめぐみによって生きてきた日本人は、八百万の神々ということばにも表されるように身の回りの自然界の様々なものに神を見て暮らしてきました。唯一絶対の神が創造し支配する世界ではなく。身の回りの全てに神が宿っている世界です。ですから世界を理解するのに、唯一絶対から見るのではなく、あらゆる方向から見るのです。立つ位置(立場)によって見方も変わりますし、聞き方も変わります。

世界を理解するために、ことばは世界を切り取ります、切り取ることでわかりやすくはなりますが、そのことばでは表しきれない世界もあります。表しきれない世界を余韻の中に表しているのが日本語なのかと思います。

いくらグローバル化が進んでも、全て完全に説明しきってしまうのではない部分があっても良いと思います。

この発想自体が、わかりにくいと言われそうですが・・・

話す力聞く力

2013/09/11

高コンテクスト社会と低コンテクスト社会、エドワード・ホール氏は日本は最も高コンテクスト社会だと言いました。直接的表現より単純表現や凝った描写、曖昧な表現を使い、多くは話さない、いわゆる「察する」文化の代表と言えます。これは共通した文化的な背景を持つ人同士の間でないと機能しにくいのです。しかし世界がグローバル化し、外国から来た人と共に仕事をしたり、海外で働くこともあるかもしれません。文化的背景を異にする人とコミュニケーションが必要な場合は、「察する」は通じにくいでしょう。また、日本人同士でも世代間でコミュニケーションがとりにくくなっていることもあるようです。伝承されるべきものが伝承されにくくなってきているのかもしれません。

では、全てのことをことばで説明する。ことばにして伝えなくてはならないのでしょうか。全てをことばにして伝えなくてはならない低コンテクスト社会では、話し手の責任が重大です。きちっと論理的に説明できず、意味がわかりにくいのは、話し手に責任があります。いわば、いかに話すかが重要視されています。それに対して、高コンテクストの社会では、聞き手の受取方に依存するところが多いのです。聞いた人がそれをどう受け取るかです。こう言うと、話す方に責任があるのが当然だと言われそうです。しかし、同じことを10人の人に話したときに、いくら話し手が論理的に明確に説明したとしても、受取り方は十人十色、人によって微妙に異なるはずです。

話し手にフォーカスするのが低コンテクスト社会、聞き手の聞く力に任せるのが高コンテクスト社会です。ですから、高コンテクスト社会では、「聞くこと」が重要視されるのです。前にも書きましたが、この聞くことというのが意外と難しいことなのです。発せられたことばの表面上の意味だけをとらえるのではなく、ことばの背景には「何か意味があるのだろう」とことばの意味の余韻や背景までをも感じ取ろうとして聞く姿勢が大切であり、求められているのだと思います。心を傾けて聞く「傾聴」ということが大切になってくるのです。

世代間のちがい

2013/09/10

高コンテクスト社会と低コンテクスト社会というようにコミュニケーションのタイプが異なるということを理解していないと、コミュニケーションがうまくゆかないことになってしまいます。逐一ことばで説明することが必要とされる文化的背景を持っている人に、「言外の意味を察しなさい」といっても無理なはなしです。

高コンテクスト社会は、その背景にある文化的なものをしっかり共有していないと、コミュニケーションが難しくなってきます。ですから、様々な文化的背景を持った人々が共に過ごすグローバル化した社会では、コンテクストに依存したコミュニケーションではなく、ことばに重点を置いたコミュニケーションが必要となってくるのです。「こんなことぐらいいわなくてもわかるだろう」は通じなくなり、細かなルールを明確に決めて、ことばで表す必要があります。

これは国や人種としての特徴だけではありません。日本のなかでも、高コンテクスト、低コンテクストの差があり、それが広がってきているのかもしれません。若い社員とコミュニケーションがとれずに悩む管理職が増えているということも聞きます。「そんなことは言わなくてもわかるだろう」は通じないのかもしれません。これだけいろいろな変化の激しい時代ですから、世代間での差が大きくなっていて、若い人は低コンテクストで、全てのことを逐一説明してあげないといけないのでしょうか。確かに、「なんでできないのだろう?」と思うようなことも、細かく説明してあげて本人が理解するとできることはあります。理解し納得さえすればできるのです。そのためには、やっぱりことばで逐一説明する必要があるのですね。

若い人が、低コンテクストで、逐一説明しないといけないのなら、彼らは日常的にたくさんのことばを操っているのでしょうか。以前、高校生のやりとりしているメールを見せてもらったことがありますが、文字数が少なくて驚きました。私などが見ても話題が何かさえわからないくらいでした。仲間内では意外と高コンテクストなのかもしれません。

高コンテクスト・低コンテクスト

2013/09/10

コミュニケションは様々な媒体によりますが、ことばによることが多いと思います。アメリカの文化人類学者エドワード・ホールは「高コンテクスト文化と低コンテクスト文化」という概念を提唱しました。コンテクストということばには、文章などの前後関係、文脈、脈絡、や(ある事柄の)状況、環境という意味があります。コミュニケーションのコンテクストへの依存度が高いのが、高コンテクスト文化で、全てを言語で説明しようとするのを低コンテクスト文化というそうです。

高テクスト文化は、人間関係や社会習慣など、ことば以外に依存する傾向が強いタイプのコミュニケーションです。詳しく説明しなくてもお互いにわかりあえる、「言外の意味を察する」というように察することができる文化です。「以心伝心」や「一を聞いて十を知る」といったことが成立するのです。ですから、聞き手に「察する」能力が求められます。特徴として、直接的に表現するより単純な表現、曖昧な表現が多い。逐一説明しないので、多く話さない。などの傾向があります。

一方、低コンテクスト文化は、ことば以外のものに依存しない傾向が強いタイプのコミュニケーションです。なんでも、ことばにしないとわかり合えない、ことばで一から十まできっちりと説明する必要があります。ですから、話し手の能力が求められます。非論理的であったり、曖昧な表現では通じません。傾向として、直接的で解りやすい、はっきりした表現が必要とされ、多く話す事が必要となってきます。

世界をコンテクストへの依存の高さで分類してみると、高コンテクストのグループには日本人、中国人、アラブ人であり、低コンテクストのグループにはドイツ人、スカンジナビア人、アメリカ人となるそうです。その中でも日本は最も高コンテクストなのです。

コミュニケーションの大切さ

2013/09/08

最近コミュニケーションということが、よく話題に上ります。ビジネスシーンにおいても、コミュニケーションの大切さがいわれ、コミュニケーションに関する研修なども数多く行われています。社会福祉施設を対象とした研修案内にも、そういった内容のものがたくさんあります。より良くコミュニケーションすることが求められているのです。裏を返せば、コミュニケーションが難しくなってきているということなのだと思います。誤解や、すれ違い、思い込みばかりで意思の疎通がうまくゆかなくては、社会生活を営むことはできません。「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒介とする。」広辞苑にはこう説明されています。以前にもコミュニケーションについて書いたことがありますが、英語のコミュニケーション(communication )はラテン語の“communis”や“communio”と“munitare”からできているそうです。“communis”は“common”や“public”のように「共通の」という意味、“communio”は“comm”共に、“unio”一致という意味で、それに“munitare”(舗装する, 通行可能にする)という意味がプラスされたことばなのだそうです。「共通の」「共に一致する」ところが「通行可能になる」つまり通い合う、通じ合うということなのでしょう。「知覚・感情・思考の伝達」なのです。それが一方通行ではなく、「通じ合う」ことなのです。人間が社会を構成して生きてゆくためには必要なことなのです。
では、このコミュニケーションが難しくなってきているのはなぜでしょう。

環境によって育つ

2013/09/07

赤ちゃんがことばを獲得してゆく、もっとも最初の部分を学び、とても興味を持ちました。ことばを操ることができるのは人間だけだと言われていますが、ほかの動物も人間とは異なる形でコミュニケーションしています。犬や猫もそうでしょうし、イルカは水中で会話をしているといわれています。イルカのことばを解明する研究などもあるそうです。象は数キロ先の仲間と会話をしているともいわれます。テレパシーでも使っているのでしょうか。テレパシーではなく地面を伝わる振動を利用しているのではないかと言われています。人間以外の動物たちも、いろいろな方法で、コミュニケーションをしています。もしかしたら、植物もコミュニケーションしているのでしょうか。興味のあるところです。

人間は、主に言語というツールを使っています。しかし、人間のだけでも世界にいくつくらいあるのか、3,000とも6,000とも8,000ともいわれ、はっきりした数はわからないそうです。

赤ちゃんは、どの言語にでも対応できるように生まれてきて、1歳頃までには母語に最適化してゆきます。どんな環境の中でも生きてゆけるように、どんな環境にも適応してゆけるような形で、発達してゆくのです。それは、ことばに限らず、他の様々な発達についても言えることです。

だからこそ、子どもたちがどんな環境で過ごすかがとても大切なのです。子どもたちは自ら主体的に環境に関わることで発達します。その中でも、最も大切なのが、人的環境かもしれません。子どもどうし、子どもと大人、大人と大人。いろいろな人的環境があります。

そういった多様な関わりの中で、こどもに学んで欲しいことは、「より良い社会の一員になる」ということです。そのために必要なことの一つは、子どものモデルとなる関係性が子どものまわりにあることです。「より良い社会」のモデルを大人が示す必要がありそうです。

ことばをまなぶ 7

2013/09/06

私たちは、赤ちゃんに何気なく語りかけていますが、何気ない語りかけにも、赤ちゃんにとっても、私たちにとってもいろいろな意味があることがわかります。どうしても赤ちゃんを見ると、高い声で、抑揚豊かに、はっきりとした母音を使って話します。もちろん、そういう話し方をした方が、赤ちゃんが話している人に注目する割合は高くなります。なにも意識してそうしているわけではないのに、そうなってしまいます。赤ちゃんを目の前にするとそういうスイッチが入るのでしょうか。もしそうなら、きっと赤ちゃんがそのスイッチをONにしているのだと思います。この赤ちゃんに話しかけるときの特徴は、様々な言語で共通していいるそうです。

しかし、日本語には一つの特徴があるそうです。それは育児語と呼ばれるものです。「わんわん」「あんよ」「くっく」「ぶーぶ」といった特殊なことばを赤ちゃんに対して使います。この3拍もしくは4拍のことばが文中に入ることで、文全体が特殊なリズムを持った文になります。このことが赤ちゃんの発語に関係するのです。育児語には、連続した音の中から、単語を切り出しやすくする役割があるそうです。

まったく聞いたこともない言語で誰かが話しているのを聞いているところを想像してみてください。ただ音が連続しているとしか聞こえないし、どこからどこまでが一つの単語かなんてわかりっこありません。赤ちゃんもことばを覚える前は、似たような状況にいるのではないでしょうか。その川のように流れる音の中から、単語を見つけてすくい上げるのは至難の業だと思います。その助けとなるのが育児後なのです。「わんわん」という繰り返しや、「くっく」のようにまん中につまった音が入っていることば、「あんよ」のように「ん」の音がまん中に入っているもの、そして長音を伴うものがあります。これら特殊なリズムを持ったことばを使うことで、赤ちゃんが連続した音の中から単語を単語として認識しやすくなるのだそうです。

また、「うさちゃん」のように「〜ちゃん」という接尾語をつけること、「おかし」「おもち」のように「お」という接頭語をつけることも同じように単語を抽出するのに役立っているそうです。

大人は赤ちゃんと接するときに、乳児語や育児語を使います。赤ちゃんは乳児語や育児語を好んで反応するという相互作用が、言語の発達には必要なようです。相互作用と言えば、赤ちゃんが音声を発したときに、タイミング良く、話しかける、ほほえむ、身体に触れるなどの応答をしてあげると、声を出すことが多くなったり、ことばを話すような発声が増えたりするそうです。

このように大人の適切な語りかけが、赤ちゃんのことばの発達をうながすのです。

人はことばを使って複雑なコミュニケーションをとります。ことばは、お互いにより良い社会を築いてゆくために獲得したツールなのだろう。そんなことが頭に浮かんできました。

NTTコミュニケーション科学基礎研究所人間情報研究部 麦谷 綾子先生の講義は、専門知識がない私にもわかりやすく、とても興味深いものでした。このような機会に巡り会えたことを感謝しています。麦谷先生とこの機会を設けてくださった保育環境研究所ギビングツリーの皆様にお礼申し上げます。

ここに示したのは講義を聞いた私の感想であって、私の聞き間違いや、理解不足による誤りがあるかもしれません。ご容赦ください。

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