園長ブログ

獅子

2014/02/12

子どもたちは五感、特に聴覚、触覚、視覚を目一杯使って、太鼓を感じる体験をしました。金子しゅうめいさんが、一番大きな太鼓を演奏してくださったときは、それまで少しおしゃべりをしていた子も、じっと黙り込み、演奏されているしゅうめいさんを食い入るようにみつめていました。本物の持っているパワーや魅力を子どもたちは敏感に感じ取っていたのだと思います。

全身で太鼓を感じた後は、いよいよ獅子の登場です。緑色の布に包まれた、ひとかか
えほどあるかたまりがしゅうめいさんに抱えられて登場しました。緑色の布は獅子の胴の部分なのですが、包みが解かれて獅子頭が登場すると、子どもたちは一瞬身構えたり、後ずさりしていました。赤いおおきな顔に大きな目と大きな口の獅子がいきなり目の前に登場するのですから、多少たじろぐのも無理はありません。でも泣き出してしまう子はいませんでした。よく見ると獅子の顔はどことなく愛嬌があってかわいらしい顔をしているので、子どもたちはそれを感じる事ができたのでしょうか。それとも節分に登場した鬼に比べたら怖くなかったのでしょうか。理由はよくわかりませんが、この時点で泣く子はいませんでした。

お囃子が始まって獅子が踊り出しました。その動きと言ったら本当に生きているようです。「獅子という生き物がいるのなら、こういう動きをするのだろうと思う。」と言っていた保育士のことばがこのとき腑に落ちました。しゅうめいさんは、舞を始める前に「獅子が何をしているところか考えながら見てね。」と子どもたちにおっしゃっていましたが、何をしているのか子どもにも想像できるような動きにただただ驚くばかりです。
獅子が動き出してしばらくすると、泣き出す子もいました。あまりにもリアルな動きに、感性の豊かな子は本物の獅子という動物が来たと感じたのでしょう。

事前に用意する物のなかに、みかんという項目があったので、なぜみかんが必要なのだろうと思っていたら、獅子が舞っている途中でみかんを食べるのです。それもうまく口にくわえてから一気に丸呑みです。獅子がみかんを食べた瞬間子どもたちからはウヮーと小さな歓声が上がり、大人からは拍手が起こりました。そのみかんは獅子がちゃんと食べて、後で皮を吐き出すという芸の細かさです。みかんを取りに行く獅子の様子も、警戒しながら未知のものに近づいてゆくような仕草が、何ともステキでした。眠る獅子の姿は愛くるしいとでも表現できそうな動きです。その他の動きひとつひとつに感動せずにはいられませんでした。

心と身体に響く音

2014/02/11

地域の方や保護者の皆様も開演時間までに席についてくださり、子どもたちも一旦別の部屋に集まって、先生から注意事項など少し話を聞いてから揃って入場しました。「獅子舞」と聞いてなにやら不安げな子もいます。「節分に鬼が来て、とっても怖かったのに、その3日後に今度は獅子だって!? なんだ?その獅子って?」なんて思っていたのかもしれません。

緑色の大きな風呂敷包み(獅子頭)を持った金子しゅうめいさんが登場して「太鼓と獅子舞のミニライブ」いよいよはじまりです。事前の打合せで、先ずは子どもたちが太鼓を全身で感じることから始めて、最後に獅子舞で終了すると聞いていたので、どんな始まり方をするのだろうと思って楽しみにしていたら、最初はうちわ太鼓が登場です。しゅうめいさんが「ついこの間お正月が終わりましたね。」と話し出した途端に「今日、ぼくの誕生日!」と宣言する子がいて、会場を沸かせていました。するとしゅうめいさんは、扇子を取り出し、「お誕生日お祝いの舞」といってひとさし舞ってくださいました。ステキな舞に他の子どもたちも大喜びです。

太鼓はうちわ太鼓に始まって、4種類の太鼓を紹介してくださいました。紹介の仕方もただ単に太鼓の名前や音を子どもに伝えるというのではなく、子どもたちが耳を澄ませてじっくりと太鼓の音に聞き入ることができるように工夫してくださっていました。耳を澄ませてじっくりと聞き、太鼓の種類によって音の高さや響きが異なることを聞き分けます。リズミカルに太鼓が演奏されると、子どもたちの身体は自然に動き出します。後ろから見ていた私も、身体を動かしたくなりました。

耳に神経を集中して太鼓の音を感じた次は、身体全体で太鼓の音を感じます。床に身体をつけて、床に響く太鼓の振動を身体全体で感じていたら、やはり自然に身体が動いている子が何人もいました。

耳で音を感じ、身体全体で音を感じたら、次は目で音を見るというチャンスを与えてくださいました。思ってもいなかった方法で音を見る事ができた子どもたちは大喜び、5歳児2人も体験させてもらっていました。

それにしても、太鼓の響きというのは、心や身体の深いところにザワザワと響いてくる気がします。打楽器の持っている根源的なパワーなのでしょうか。太鼓の魅力を改めて感じました。

感じること

2014/02/10

金子しゅうめいさんによる「太鼓と獅子舞のミニライブ」、この公演について、事前に子どもたちに何を伝えるのか、伝えないのか迷いました。あらかじめ獅子舞について説明しておいて、子どもたちがイメージを膨らませてから公演に参加するという方法もあります。しかし、今回はほとんどの子どもが獅子舞を見るのが初めてだと思いましたし、私自身、本物の獅子舞を見たことはありませんでした。ですから、浅薄な知識だけで説明をするのではなく、子どもたちが感じるままに素直に感じるのが良いと思って、事前に詳しい説明をすることは敢えてしない方を選びました。

子どもたちが日本の伝統芸能に触れる、経験するということが、今回の公演の大きな目的のひとつです。子どもたちがそこで何を感じ、何が子どもたちの心に残るのかは、ひとり1人違います。子どもたちにとっては、五感をフルに使って全身で太鼓と獅子舞を先ず感じることが大切なのかと思ったのです。子どもたちは「獅子舞」ということは少し聞いていたようで、何が起こるんだろうと期待と不安が半分半分で、参加した子もいたようでした。

この公演のきっかけは、お正月休み明けに、保育士の先生が「獅子舞って見たことありますか。」「獅子という生き物がいるのなら、きっとこういうものだろう。と思わせる獅子舞があるので、是非子どもたちにみせたいんです。」と提案してくれたことでした。私自身、獅子舞を見たことがなかったので、是非一度見てみたいとも思いましたし、子どもたちにも初めての経験をしてほしいかったので、公演をお願いすることにしたのです。

「なんだ、園長が見たかったんじゃないか。」といわれそうですね。そうなんです、見てみたかったんです。子どもたちが、見たい!聞きたい!やってみたい!と思う存分かなえてあげることも大切なのはもちろんです。お父さんやお母さん、先生など身近な大人が見たいと思うものを真剣に見て、笑ったり泣いたり心を動かしている姿を子どもが隣で見ていること、同じ場に身を置き、その場を共有していることって大切なことだと思います。

子どもたちが、太鼓と獅子舞を全身で感じることを大切にしたい。と思います。「太鼓と獅子舞のミニライブ」には、演じ手のしゅうめいさんがいらして、太鼓があって獅子がいて、それを見ている子どもがいて、大人がいて、その場に存在するありとあらゆるものがその「場」を作るのです。ですから、そこにいる大人がどれだけ真剣に楽しんでいるかも「場」を作る大きな要素です。そうやって全てのものが互いに作用し合って、その「場」ができる。だから、しゅうめいさんは細部にまで気を配ることで、公演の「場」を大切にしていらっしゃるのだと想像します。

丁寧に

2014/02/09

獅子舞の獅子がやってきました。金子しゅうめい さんという獅子舞や太鼓の演奏を行っていらっしゃる方とステキなご縁をいただき、来園してくださることになりました。(金子しゅうめいさんの詳しいプロフィールは「金子しゅうめいWeb site」http://www9.ocn.ne.jp/~shu-mei/をご覧ください)しゅうめい さんにお願いしたのは「太鼓と獅子舞のミニライブ」先ずは太鼓の音を堪能してから獅子舞を見せていただくという内容です。せっかくの機会なので、地域の皆様や保護者の皆様にもご覧いただければと思って案内を差し上げました。平日の午前中なので10名ほど来てくだされば良い方かなと思っていたのですが、予想に反して20名以上の申し込みをいただきました。嬉しい限りです。

当日10時開演の予定のところ、しゅうめいさんは2時間前の8時にいらしてくださいました。太鼓をはじめとした道具を運び込み、セッティングをしているとあっという間に1時間以上が過ぎています。準備は余裕を持ってすることが必要だと改めて思い直しました。しゅうめい さんは太鼓のセッティングひとつとっても細かな位置まで、きちっと整えていらっしゃいます。ちょっとした置き方のズレでも、お客さんが舞台を見たときに違和感や不快感に繋がるからという理由です。「細部に神は宿る」といいますが、ついつい、なおざりになりがちな細かなところまできっちり実行してこそ、物事ができあがるのだと思います。もう一つ気にしていらしたのは、公演途中の観客の出入りです。人が出入りすることで一瞬にして会場内の雰囲気が変わることがあるので、できるだけ途中で出入りがないようにしたいとのことです。ただご自身がパフォーマンスするだけではなく、観客はもちろん会場にある物までをも含めた全てがお互いに作り出す雰囲気を大切にしながら公演されているのでしょう。

会場の準備が整うと、次にご自身の体と心のウォームアップを始められました。万全の状態でパフォーマンスに臨むためでしょう。さすがプロフェッショナルです。どんな些細なことでもひとつひとつすべてのことをとても大切に丁寧に考え、行うことが大切なのですね。

積雪

2014/02/08

「東京 20年ぶりの大雪」と報道されていました。2月8日は全国的に雪となったところが多かったようです。日本の南岸を発達した低気圧が通ることで降る、春の雪のパターンだったようで、普段は降雪の少ない太平洋側にたくさんの雪が降りました。東京都心の積雪が20センチを超え、雪が原因で怪我をされた方も多く、交通機関にも大きな影響が出たようです。普段雪があまり降らないところに突然たくさんの雪が降ると大変ですね。

京都市内の積雪は3センチとそれほど多くありませんでしたが、鞍馬ではもう少し積もりました。それでも20センチということはありません。前日の夜遅くから降っていたので、朝にはもっと積もっているかと思いましたが、それほどでもありませんでした。明るくなってから雪かきに出たら、既にお寺の職員さんが一通り雪かきをしてくださった後でした。朝の5時頃から雪かきをしてくださっていたそうです。8日は当園の作品展があり、保護者の方もたくさん来られるだろうからとの配慮から雪かきをしてくださったそうです。なんてありがたいことなのでしょう。

しかし、細かな雪が激しく降り続いたこともあって既に地面は真っ白です。そこで私も雪かきを始めました。一度除雪してあるので、ずいぶん楽でした。しかし、かなり広い範囲の除雪をしなくてはならなかったので、たっぷり2時間以上かかりました。除雪している間も雪は降り続くので、除雪した後から積もるという状態です。たとえ日差しがなくても太陽が高くなってくると、雪も融けやすいのですが、朝のうちは仕方ありません。

ちょっと疲れたので、手を休めて降ってくる雪をぼーっと眺めていました。とても小さな雪の粒がたくさん降って来て、除雪をしたばかりのところを白くしてゆきます。どけてもどけても積もる雪。払っても払っても心に積もる我欲や我執という塵のように思えてなりませんでした。雪は日が高くなって気温が上がれば融けてなくなります。心の塵はどうすれば融けるのでしょうか。ずっと払い続けなければならないのかもしれません。きっとそういうものなのでしょう。あまりとらわれることなく、肩の力を抜いて、塵を払い続けるのが良いのでしょうか・・・

目指す方向

2014/02/07

「なんのために?」なんて保育には必要ないでしょうか?

そんなことはありません。保育という大切な仕事だからこそ、目的や理念がなければ、みんながどこに向かって行けば良いかわからずバラバラになってしまいます。それぞれが自分の基準だけでいろいろなことをやってしまうと、一番困ってしまうのは子どもです。保育園の目的は子どもが最大限に発達できるよう保障することです。保育園に関わる全ての人が目的や理念を理解し、共有し、それぞれの立場でそれぞれのできることを活かして、目的や理念に貢献できることが理想です。保育園には保育士、栄養士、調理員、用務員、看護師、園長などの職種の人がいますが、みんな保育者です。みんなで子どもたちみんなを育てるのです。直接子どもたちに関わる時間は保育士が一番長いのですが、他の職種の人も子どものことをよく理解し、それぞれの視点から見える子どもの姿をお互いに共有し、意見を交換して子どもたちの発達を最大限に保障するためにはどうすれば良いのか、何が必要なのかをよく考える事が大切です。その時に見失ってはいけないのが、「なんのために?」という目的や理念です。それは目指す方向と言っても良いでしょう。みんなが目指している方向が違えば、前に進むことはできなくなってしまいます。

子どもたちの生活は保育園にだけあるわけではありません。当然のことながら、家庭で家族とともに過ごす中で育つのです。ですから、保護者の皆様には「子どもを育てることが嬉しい楽しい。」「うちの子ってすごい!」と思っていただけることを応援する。私たち保育者はそんな気持ちでいたいのです。そのためにも、子どもたちが保育の中で見せるステキな姿やことば、そして気持ちの動きをたくさん伝えることができると良いと思っていますし、保護者が困っていらっしゃるときには、できる限りのサポートをしてゆく。そうして、子どもたちの成長を共に喜びながら、保育園は「なんのために」保育をしているのか、目的や理念を少しずつ理解し共感していただけるようになりたいと願っています。そうして、保育園の職員だけではなく、保護者の皆様と心を合わせ、力を合わせて子どもを育ててゆくことが、子どもの発達を最大限に保障することにつながると信じています。

「なんのために」そうするのか?それは、子どもが、その子らしくちゃんと育つことで、よりよい社会を築いてくれることを願うからです。当園の言い方で言えば、「みんなのいのち輝く世界」です。

共通の目的

2014/02/06

なんのために勉強をするのか?なんのために仕事をするのか?なんのために生きているのか?なんて言っていると、「そんなことはいいから早く目の前のことをやりなさい!」と言う声が聞こえてきそうです。もちろん、早く実行しないといけない仕事はあります。重要な仕事もあります。それは実行しなくてはならないのです。その仕事をするときに「なんのために」をいつも思い返さないと、その仕事を片付けること自体が目的になってしまいそうです。いつも、遠くの目標を見つめていないと、目の前の作業に忙殺されかねません。そうならないためにも、仕事の優先順位を決める必要があります。緊急度と重要度という2つの尺度で、優先順位を決めると良いときいた事がありますが、本当に大切にしたいことは何かを常に見つめていないと、基準が曖昧になりそうです。

「なんのために?」を別の言い方をすると「あなたがやりたいことは何」「なりたい自分はどんな自分」ということもできるかもしれません。「本当に自分がやりたいこと」「本当になりたい自分」を知るために、自分に向き合うことが必要になってきます。

組織でも同じです。メンバーが組織の目的や理念を見失ってしまうと、違う方向に進んで行ってしまいますし、何が大切なのか見えなくなります。またそれぞれが勝手な価値観でものごとを判断して行動すると、みんながバラバラになってしまって組織の力は激減してしまいます。反対に、メンバーが組織のめざすところを理解し、「なんのために」という組織の目的や理念をしっかりと腹に据える。そのうえで、その目的達成に自分はどのような形で貢献できるのかを考え、自分の最も貢献できる部分、自分にしかできない部分を最大限に活かせば、メンバーの力は飛躍的に伸びる。そのことはそのまま組織の力が伸びると言うことです。

メンバーが、組織の目的、目指す方向を理解し、心からその目的を達成したいと思っているのであれば、自分にしかできない事で組織に貢献することは、そのまま他のメンバーのお役に立つことができるということなのです。お役に立つことができれば、他のメンバーは喜び、その喜びをくれた人の役に立ちたいと思うようになります。お互いに助け合える良い関係を築くことができるのです。

そんな、お互いに認め合い助け合える。そこに身を置くことは、どんなにか楽しいことでしょう。

なんのために

2014/02/05

突然ですが、「あなたは、毎日なんのために生きていますか?」と聞かれたらなんと答えるでしょう。すぐに答えることができますか?ちょっと考えてしまいますか?

先日、ラジオを聞いていたら、パーソナリティがそんなことを話題にしていました。
「今、学校で出席もとらないし、テストもないといったらどれくらいの生徒が学校に来るのだろうか。江戸時代の私塾では、出席もとらなかっただろうし、試験もなかっただろうと思われる。塾生はみんな学びたくて学びたくて塾に来ていたのだから、そんな必要はないのだ。」というような内容だったと思います。

吉田松陰が教えた松下村塾、緒方洪庵の蘭学の私塾適塾、ドイツ人医師シーボルトの鳴滝塾など数多くの私塾があったと日本史で習ったのを思い出しました。幕末から明治維新にかけて日本を大きく変える原動力となった人たちが、こういった私塾で学んでいました。私塾で学んでいた人々は、それぞれに目的を持ち、その目的を達成するために自らの意志で、学びたくて学んでいたはずです。実際にどうだったのか調べたわけではありませんが、ラジオで言っていたように出席を取ることも、試験もなかったのかもしれません。大切なのは目的を持っているかどうかということなのでしょう。

また、仕事にしても然りで、もし「仕事をしてもしなくてもいい、生活は保障する。」といわれたときに、あなたはどうしますか。という問いかけもされていました。

「あなたはなんのために仕事をしていますか?」という問いに「生活のため」と答える人は多いと思います。もちろん生活ができなくてはどうしようもありませんが、生活のためにだけ仕事をするのでしょうか。自分の志を遂げるため、なりたい自分になるため、自分のミッションを遂行するため、自分はなにがしたいのか。自分の人生の目的は何か。を常に意識しながら仕事ができると、きっとやり甲斐があるし、楽しいのではないかと思います。

もちろん特別な目的を持たなくても、何となく生きてゆく事もできます。それが悪いと言っているわけではありませんが、自分の生きる目的を持ち、目的に近づくために努力をする。そうやって一歩一歩山を登るように、自分の目的に近づいてゆけたら、どんなに楽しいことでしょう。常に目的を見据えてブレることなく進みたいと思います。そのためにも自分にしっかりと向き合うことが大切なのかもしれません。

「なんのために!」青臭い問いかけかもしれませんが、何をするときでもこの「なんのために」を忘れることなくいたいものです。

「衣食足りた後に行くのはどこ?さらなる収入?権力?それを探すのが1年という時間なのかもしれません。」ラジオのパーソナリティはそんなことばで、そのコーナーを締めくくっていました。

まめまき 2

2014/02/04

鬼が残していったパンツや帽子はあるし、鬼からの手紙はあるし、そうこうして鬼のイメージを思いっきり膨らませて迎えた節分、鬼が来るかもしれないと思うと、朝からどことなく落ち着かずそわそわしている子もいました。

2階で『おなかのなかに おにがいる』(作:小沢孝子 絵:西村 達馬)という絵本を読んでもらったり、5歳児達が鬼に扮してみんなでまめまきをして楽しんでいると、突然、どこからともなく「オレが手紙に書いたことを守っているか?今から確かめに行くからな!」と大きな声が保育室中に響き渡りました。次の瞬間、どこから来たのか太鼓の音と共に黒い鬼が乱入してきました。「早く豆を投げて」と促す先生。しかし子どもたちはそれどころではありません。黒鬼がこわくて逃げているうちに赤鬼まで登場します。赤鬼は誰かをさらってゆこうとしているかのように、子どもたちを引っ張ってゆこうとします。

鬼がきたらやっつけてやる。といっていた男の子は誰よりも早く逃げていました。キックやパンチどころか、洋服をつかまれて連れて行かれそうになり、青くなって逃げてきていました。ところが、普段はおとなしい子なのに、果敢におにに豆をぶつける女の子もいますし。怖さに絶えながら、鬼の後ろに回り込んで豆をぶつける男の子もいました。普段、大きなことを言っている子はこういうときになると、からっきしダメで、いつもおとなしい子が平気で立ち向かっていったりすることがあります。

突然「キャー」という声が響き、何事かと思って声の方を見てみると、5歳児の担任の先生が、鬼に腕をつかまれ、引きずられるように連れて行かれています。「だれか助けて−!」大好きな先生の声に、助けに行かなくては、でもこわすぎる。集団から飛び出して助けに行こうとする子はなかなか現れません。すると5歳児Kちゃんがひとり、引きずられてゆく先生の足を持って引き戻そうとします。目と鼻の先には、黒鬼と赤鬼がいるのにです。なんて勇敢なんでしょう、後ろから豆を投げつけに行く5歳Yくんも、こわいのを我慢して、うまく鬼の視界から外れながら、豆で攻撃します。なかなかの頭脳プレイでした。そして、なんと2歳児のYくんが、鬼に引きずられている先生を助けに飛びだしてゆきました。その頼もしい姿と、まさかの展開に職員一同驚愕の瞬間でした。

子どもたちのいろいろな面が見られたまめまきでした。

まめまき 1

2014/02/03

   おにの帽子? パンツ?

ついこの間、お正月だったと思っていたら、もう節分がやってきました。節分と言えば、子どもたちにとっては、こわい鬼のやってくる日です。数日前、5歳児たちが散歩から園にもどってきたら、園庭の入口におにの帽子?とおにのパンツ?が引っかかっていました。それを見て大騒ぎの子どもたち、よく見るとなにやら紙が貼ってあります。「おじぞうさまをみろ!」それを読んだ子どもたちは、六体地蔵様のところへ走り寄ります。なんだろう?お地蔵さまの後ろに行った子どもが、何かを発見!巻いた紙がお地蔵さまの後ろに立てかけてあったのです。子どもたちはワーキャーいいながら、保育室に戻って手紙を読んでいました。なかには鬼からの手紙と知って泣き出してしまう子もいましたが、何が書いてあるのか興味津々です。夜遅くまで起きていないか?友だちにいじわるをしていないか?こんど見に行くからな。といった意味のことが書かれていました。子どもたちはもう鬼の話でもちきりです。鬼がきたらやっつけてやる。キックしてパンチしてやる!と興奮している男の子、想像するだけでこわくなって泣いてしまう女の子、「今日から早く寝よ」と言っている子、冷静な子もいます。

鬼が置いていったと思われる帽子?とパンツは手紙と一緒に置いてありましたが、次の日になると、2階の天袋、その次の日は階段室、そして本棚と毎日移動しています。子どもたちは、「あっ!今日はこんなとこにある!」「なんで勝手に動いてるんやろ?」と毎朝鬼のパンツと帽子の話で盛り上がっていました。そうして、1日1日と節分が近づいてくるのでした。

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