園長ブログ

子どもの幸福度

2014/04/13

2013年12月『イノチェンティレポートカード11先進国における子どもの幸福度ー日本との比較特別編集版』が発表されました。ユニセフの研究機関であるイノチェンティ研究所では、2000年より先進国の子どもの状況に関する国際比較報告書を刊行しています。2013年4月に発表されたレポートカード11『先進国における子どもの幸福度』では日本に関するデータが不足していて総合評価の対象とされなかったので、国立社会保障・人口問題研究所の阿部彩氏(社会保障応用分析研究部長)と竹沢純子氏(企画部)がイノチェンティ研究所と協力して、厳密に比較できる日本のデータを加えたことにより、『日本との比較特別編集版』が発表されたのです。

ヨーロッパ、北アメリカ、日本など31ヵ国の子どもの状況を「物質的豊かさ」「健康と安全」「教育」「日常生活上のリスク」「住居と環境」の5つの項目で比較しています。調査の結果、総合順位は
1位 オランダ
2位 フィンランド
3位 アイスランド
4位 ノルウェー
5位 スウェーデン
6位 日本
7位 ドイツ
8位 スイス
9位 ルクセンブルク
10位 ベルギー
です。
これを見ると、日本はトップクラスです。ドイツ、スイス、ベルギーなどは日本よりもずっと上位にランキングされていそうですが、そうでもないのです。しかし、日本の6位は、上位5ヵ国と比べると事情が少し異なるようです。上位5ヵ国は5つの全ての分野で成績が良いのに対して、日本は「教育」「日常生活上のリスク」で1位になったのですが、「物質的豊かさ」では31ヵ国中21位になるなど、分野によってばらつきが見られたそうです。5つの分野は互いに関連性があるので、現在1位の「教育」「日常生活上のリスク」についても、将来的には悪化する可能性があるのだそうです。部分的に飛び抜けているのはどこかいびつなのだと思います。

散歩

2014/04/12

ゆっくり散歩してみたいと思うことはありますが、なかなかそうしている時間がありません。こんなに余裕がないのは良くないのですが、しょうがないですね。

先日たまたま、すき間の時間ができたので、散歩してみました。まず、美術館、博物館やホールが集まっている岡崎に用事があって行きました。さすがに桜の盛りは過ぎていましたが、舞い散る桜の花びらが疎水の水面に美しい模様を描いていました。しばらく見ていたら、向こうから満員の乗客を乗せた観光船がやってきました。岡崎桜回廊十石舟めぐりの舟で、約3キロメートルを25分ほどかけて巡るのだそうです。水の上から見る桜も美しいことでしょう。嵐山や伏見、宇治川などでも観光船が運航されているようですが、残念ながらどれにも乗船したことはありません。

その日はお天気が良かったので、鴨川沿いを歩いてみようと思い、岡崎から疎水沿いに鴨川まで出ました。ところが、北寄りの冷たい風が強く吹きつけ、のんびり、ほんわか散歩という感じではありません。かなり寒いなか鴨川を川上に歩きました。ソメイヨシノの花はほとんど散っていましたが、八重桜でしょうか枝垂れ桜でしょうかまだきれいに咲いている桜もあります。川沿いは薄曇りながらも明るい空が開けて、とても開放感があります。河原には、桜、ハナズオウ、ヤマブキ、ユキヤナギなど、いろいろな花が植えられていてそれぞれに美しく咲いていました。季節はずいぶん進んでいるのです。自転車で走る過ぎる高校生、ベンチでくつろぐ老夫婦、サッカーに興じる若者、花見の準備をしている学生、ジョギングを楽しむ人、河原では様々な人が、様々なことをしているものです。

冷たい風が強く寒いので、のんびりという感じではありませんでしたが、景色を見ながら歩くのが楽しく、結局今出川まで4キロメートルくらいを歩いていました。たまにはこんな時間も良いものです。

弱くもろい社会

2014/04/11

分ける、隔てることから排除が起こる。分けることを徹底してゆくと、ひとり1人がバラバラになってしまいます。突き詰めれば、ひとり1人みんな違うのですから。私たちはそういうふうにできているのです。たとえ、家族といえども同じではありません。それぞれに異なる私たちが、一緒に生きて行くためには、お互いを知り、理解し、認め合うことが必要なのです。障害があるとかないとかという線引きはきわめて曖昧なものです。そうなのに、その線をくっきりと際立たせたくなってしまうのでしょうか。同じように線のこちら側にいると思っている同士でも、ずいぶん違うはずなのに。障害の有無だけでなく、人種や国籍や宗教の違いだって、同じだと思っている同士はどれだけ同じなのでしょうか。
どうしても、他の人も自分と同じように世界をとらえていると、勘違いしがちです。違う人なのですから違うとらえ方をしていることの方が多いのです。その違いを埋めるのは、知ること、理解すること、認めることそして、話し合うことなのだと思います。まず最初にすべきは、相手を受けとめることかもしれません。「この人はこういう人だから!」なんて決めつけることなく、素直にその人のことばを傾聴できると良いのでしょうね。

ひとり1人、決定的に違う私たちは、社会を作って生きるという道を戦略的に選んで歩んできました。最もうまくゆく社会の姿ってどんなでしょう。その社会を構成するひとり1人が、自分を活かせる。そのことでみんなの役に立つことができるというか、その人の良いところを活かせる社会でしょう。

国際障害者年行動計画には、「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである。」とあります。弱くもろい社会を作って私たちは生き延びてゆく事ができるのでしょうか。

共生と排除の谷間を埋めて行くために、相互に<知る・理解する・認め合う>回路を創ること、対立から対話に向かう一歩を踏み出すことからやり直すしかない

分ける

2014/04/10

障害者基本法は第二条で障害者や社会的障壁について定義し、第三条では地域社会における共生を謳い、第四条で差別の禁止を言います。
(差別の禁止)
第四条  何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
2  社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによつて前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。
3  国は、第一項の規定に違反する行為の防止に関する啓発及び知識の普及を図るため、当該行為の防止を図るために必要となる情報の収集、整理及び提供を行うものとする。
この差別の禁止を具体的に実現する法律として「障害者差別解消法」(障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)が2013年6月19日に成立し2016年度から施行されます。この法律は「障害を理由とする差別の解消を推進することにより、すべての国民が障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現を目指し」て制定されました。

「障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する」のです。「分ける」ということがことを難しくしているように思います。分けることで理解しやすくはなりますが、分けることが固定概念や差別につながるかもしれません。一つの枠を作って似たものをまとめることで、わかりやすくなるのですが、線を引くことができにくいこともあります。「障害者」とひとくくりにすると、一人一人の違いをみえにくくしてしまうことはないでしょうか。障害の様子も一人一人違いますし、何もできないように見えても、その人にしかできない事だってあるんです。そんなそれぞれのステキが活かされ、なおかつ困ることが少なくなるようにみんなが配慮できれば良いと思います。それは何も障害者に限ったことではなく、みんなそうなんだと思うのです。障害とか障害ではないと分けたとしても、一人一人が輝けるところを見つめてゆく視点も大切にしたいと思います。

ともにいきる

2014/04/09

障害者施設建設反対運動(施設コンフリクト)が起こる原因のひとつに、知らないこと、理解不足があるのですが、そもそも、「障害者」とはどう定義されているのでしょう。
障害者基本法第二条には次のようにあります。
(定義)
第二条  この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
1  障害者 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。
2  社会的障壁 障害がある者にとつて日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。

障害は心身の機能の障害、例えば目がみえない、歩けないなどその人が持っている性質だけによると考えられがちですが、そういった性質があるために、いろいろなことができない社会のしくみ自体にも問題がある。そのような社会と人との関わりから「障害」が生まれているととらえています。障害のある人が障害のない人に比べて不利になることが多いのですが、それはその人の機能障害のためと考えるのではなく、そういった人たちのことを考えないで作られた社会のしくみ(社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のもの)に原因があると考えます。そういった社会のしくみのことを社会的障壁といいます。

そして第三条には「地域社会における共生等」として共生について書かれています。
(地域社会における共生等)
第三条  第一条に規定する社会の実現は、全ての障害者が、障害者でない者と等しく、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい生活を保障される権利を有することを前提としつつ、次に掲げる事項を旨として図られなければならない。
一  全て障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会が確保されること。
二  全て障害者は、可能な限り、どこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないこと。
三  全て障害者は、可能な限り、言語(手話を含む。)その他の意思疎通のための手段についての選択の機会が確保されるとともに、情報の取得又は利用のための手段についての選択の機会の拡大が図られること。

「可能な限り、どこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないこと」ですから、施設コンフリクトはない方が良いのでしょう。しかし、法律で禁止されているからといって、無理矢理では共生はできそうにありません。

決めつけない

2014/04/08

障害者施設の建設に反対の声が上がる大きな原因の一つは、しょうがい者と呼ばれる人や障害者施設についての情報がないこと、つまり「知らない」ことです。知らないために、ネット上の情報だけで不安や恐怖を覚え、それがエスカレートしてゆくということが多いようです。だからこそ、障害者施設を運営するNPO法人の代表は、地域で説明会を繰り返すとともに、入居予定者1人1人のプロフィールを紹介する書類を作り、本人と一緒に近所を回ることを繰り返したのです、その結果、反対する人は徐々に減っていったというのです。知ること、理解することで不安はうすらぐのですね。

相手のことを知ることは、とても大切なことです。知るためには、あの人はどんな思いで話しているのだろうか?と素直な心で話を聴く、受けとめよう、理解しようとする姿勢が必要なのだと思います。

先日、保育士の先生が「いろいろなことを決めつけることをしないように気をつけたいと思う」と話していました。どういうことなのか聞くと、つい、この人はこういう人だから、と自分の先入観や固定概念で、その人のことを決めつけて見てしまったり、話を聞いてしまうことが、多いし、その固定概念が邪魔して、その人を受けとめることができなくなってしまうので、気をつけなくてはならないというのです。他の先生が、保育に使った物を置いたままにしていたので、「片付けるのを忘れている。」と思っていたら、実は何か意味があって置いていたようだった。というエピソードを聞かせてくれました。そんなところから、この人は忘れぽいから!なんて決めつけてみている自分がいることに気がつき、決めつけで人を見るのではなく、丁寧に話を聞くことが大切だと思ったそうです。この話を聞いて、そういう考え方ができるのはすばらしいと思いました。

確かにそういうことってよくありそうです。自分自身も気をつけなくてはなりません。固定概念、先入観、思い込みを取り払って心を開き、フラットにして、相手のことばを素直に聞く。忘れずに心がけていたいものです。

こうして、よく知ること、理解することによって、心の壁は低くなり、お互いの理解が進むのでしょう。もしそうであるなら、いろいろな人が近くで普通に生活していることが良いと思うのですが・・・

不安

2014/04/07

「京都の福祉」という京都府社会福祉協議会の機関誌があります。「もえくさ」というコラムに障害者施設建設反対運動についての記事がありました。NHKの番組で取り上げられていたようです。

国は、しょうがい者が自立した生活を送ることができるよう、施設で暮らすしょうがい者が地域のグループホームなどに移って生活する「地域生活移行」を進めています。グループホームですから何人かのしょうがい者といわれる方が、支援を受けながら普通に家で暮らすような生活をします。そんなグループホームの建設に対して各地で反対運動が起きているのだといいます。NHKの調査によると、過去5年間にこうした反対運動(施設コンフリクトとよばれるそうです)が58件も起きている。しょうがい者の家族の会の調べでは60件の施設コンフリクトのうち、36件は計画断念や、予定地を変更することになったそうです。

どうして、反対するのかなと思ったら、「女性の後を付け回したりしないか」「ギャーとか、動物的な声が聞こえる」「地価など、資産価値が下がる」といった不安や「周辺の道路が狭い」という反対理由などがあるそうです。しょうがい者と呼ばれる人たちと暮らすことに不安を感じているそうです。

そんな反対運動を乗り越えてオープンしたグループホームを運営するNPO法人の代表によると、反対する人のほとんどが、しょうがい者とほとんど接したことがない人だ。そして、ネット上にある、突然に突き飛ばすとか、叩くとか、噛みつくといった情報だけで不安感をもち、その不安が悪い方にエスカレートしてゆく。その前提にあるのが、わからないことに対する恐怖だといいます。

代表は、不安を取り除くには知ってもらうしかないと、説明会を繰り返すとともに、入居予定者1人1人のプロフィールを紹介する書類を作り、本人と一緒に近所を回ることを繰り返した結果、反対する人は徐々に減ってきたそうです。「反対している人は、数はそんなに多くはない、声が大きい。だから、とにかく説明をして分かっていただいて、反対している人と戦うのでなく、賛成している人を増やそうと。」活動されたそうです。

決めつけること

雪月花

2014/04/06

春らしい暖かな日がしばらく続いたので、京都の市中は桜がとても美しく咲いています。ところが、4日の午後から急に気温が下がりはじめました。突然冬がもどってきたかのような寒さです。鞍馬より北から通ってきている職員が峠では吹雪いていたと言っていました。まさかと思っていたのですが、5日土曜日も寒さは続きました。気温の乱高下が続くと子どもたちの体調が心配です。6日日曜日、朝の気温は2度、日中でも5度を上回らない真冬並みの寒さです。冬型の気圧配置になって強い寒気が上空に流れ込むので、突風や突然の雨、降ひょう、落雷、竜巻に注意するようにという気象情報が流れていました。午前中は時折雨がザーっと降ってくる天気でした。

そんななか、お寺では今年も千本ゑんま堂大念佛狂言の奉納が行われました。昨年の演目には「舌切り雀」があり、園児達が雀役で出演したのですが、今年の演目は「いろは」と「花盗人」なので園児の出番はありませんでした。

「いろは」は、読み書きの苦手な小僧さんが寺子屋に入門して、お師匠さんから「いろは」を教えてもらうのですがなかなか覚えられず、お師匠さんのいうことをそっくり真似するというお話しです。小僧さんの役を演じていらしたのは、中学生くらいの男の子だと思いますが、雰囲気いっぱいに演じていらっしゃるのに驚きました。

「花盗人」も太郎冠者とお殿様の滑稽な姿がとても楽しい演目で、思わず笑ってしまいました。

気温が低い屋外で、時折冷たい風が吹きすぎてゆきますが、日差しはしっかり春なので、日の光の下ではとてもポカポカしました。

狂言の舞台は三分咲きの桜の額縁に縁取られた絵画のようで、その場の全てがとてもステキです。色も形も光も影も日差しの暖かさも冷たい風も香りも静けさも・・・全部が組み合わさって、何とも言えない雰囲気を醸し出していました。

狂言が終わってしばらくすると、薄暗くなり始めた夕暮れに、ふと空を見上げると月が空に輝いていました。目線を下ろせば三分咲きの桜と満開の梅、あられのような雪がさーっと通り過ぎて行く様は、何とも美しいものです。まさに雪月花。こんな経験なかなかできません。

何もしない

2014/04/05

春休みの学童保育は賑わっています。このところご紹介しているように、全員で行う行事のような活動以外の時間は、基本的には子どもたちは自由に過ごしています。この自由というのが結構難しいのです。やりたいことがしっかりとある子は迷うことなく自分のやりたいことに取り組みます。なかなかやりたいことが見つからない子は、落ち着かない様子です。自分で選んで決めることができないと、「何をやっても良い」と言われると困ってしまったりします。自分で決めることができるようになるためには、自分で選んで決める経験をたくさんすると良いのです。自由をしっかりと使いこなすためには、自分がしっかりしている必要があるのですね。

こう書くと、一所懸命に何かに取り組んでいることだけが良いことで、何もしていないのは良くないことだと言っているように誤解されがちですが、そうではありません。なにもしないという選択肢ももちろんあるのです。大切なのは、子どもたちが「自分でそうしたい」と思ってそれをやっているかどうかだと思います。

子どもたちを見ていると、一所懸命に塗り絵に取り組んでいる子もいれば、ビーズを使って何かを作っている子、カードゲームに興じるグループ、寝そべって本を読んでいる子、何もしないでゴロゴロしている子、窓の外を眺めている子など様々です。それでいいんです。それがいいんです。

ある日、学童保育に来ている小学生の保護者と話をする機会がありました。子どもがとてもうれしそうに学童保育に通っていると喜んでくださっていました。「いつも楽しみにしていて、他の予定と重なっても、なんとしてでも行くと言って聞かないんです。」とまで言ってくださいます。「いえいえ、何もできていないんです。」と答えると返ってきたのは「何もしないからいいんです。」のことばです。思わず「えっ?」と聞き返すと「うちの子は何もしなくてもいいのが、とても心地良いようなんです。」とのこと。どうやらその子は、いつも真面目で緊張感が高いようです。でも、めぐみ精舎の学童保育に来ると、やらなくてはならないことはないので、何もせずに自由に過ごせることが嬉しいのだそうです。この話を聞いて、もちろんその子の性格にもよるのですが、今の子どもは結構大変なんだなと思いました。と、同時に、そんな子にとって自分を解放できる場所であること、ホッとできる場であることを嬉しく思いました。

基本的にめざしていることの一つが、みんなが自分らしくいられる場、好きに過ごせる場であることですから。その役割を少しは果たせているかもしれません。

春休み

2014/04/04

小学校が春休みで、めぐみ精舎の学童保育に通ってくる子もグンと人数が増えました。毎日20人以上の子どもたちで賑わっています。そんな中みんなでごはんを炊いて食べようという企画が実現しました。以前は白米を炊き比べてみて、炊き方によって味が違うかどうかを確かめることを目的にごはんだけを炊いたこともありますし、野菜のスープを作ったこともあります。今回は古代米と言われる黒米を白米に混ぜて炊いてみることにしたのです。ところが、参加人数が多く、昼食をごはんだけでまかなおうとすると、そんな量を炊くだけの鍋や釜がないので、1人当たりのごはんの量を抑えて、野菜スープも作ることにしたようです。家から一人一品好きな野菜を持って来ます。おじいちゃんの育てたという大きなしいたけをはじめ、じゃがいも、にんじん、大根など様々な野菜が集まりました。

野菜の皮を剥いたり、切ったりと下処理をして昆布だしで煮た後、味付けは2人の男の子が担当したそうです。塩、しょうゆ、味噌などの調味料があったのですが、2人はシンプルに最小限の塩だけで味付けをしました。後で残ったものを少しもらったのですが、おいしいのです。確かにスープ自体の味はとても薄いのですが、ひとつひとつの野菜はとてもおいしいのです。素材それぞれの味が引き立てられている感じです。指導に当たっている先生によると、味付け担当の2人の男の子は、「塩を入れたら甘くなった」と言っていたそうです。とっても本質的だと思います。

普段は野菜が苦手で、家ではあまり野菜を食べない男の子が、お椀に野菜スープをいっぱい入れていたので、食べられるのか心配になって、思わず大丈夫かと聞いてしまったと担当の先生は言っていました。
自分で調理したものは、例え苦手なものでもおいしく食べることができるのだということを改めて思いました。

黒米を入れて炊いたごはんは、赤飯の色を濃くしたような色になり、玄米である黒米の歯触りや香ばしさが感じられる美味しさになりました。17合炊いたごはんが、少ししか余らなかったそうです。野菜スープも大きな寸胴にたくさんあったのが少し残っただけ。みんなおいしかったのでしょう。たくさん食べました。

    黒米を混ぜて炊いたごはん

  シンプルな味わいの野菜スープ

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