園長ブログ

オクラ

2011/09/06

3歳児がオクラを育てています。夏前に種をまいてみんなでせっせと水をやってかわいがっていたので、8月の初めには芙蓉に似たかわいらしい花が咲きました。

オクラの花

それから次々と実がなったので、初物はお供えをして、その後はみんなで食べました。給食に入れてもらおうと調理室に持ってゆくのですが、1日に2つか3つくらいしか実ができないので、調理員は苦労していたようです。おかずや汁物に入っているのもおいしいのですが、オクラだけを自分たちでゆでて食べてみようということになったらしく、何本かまとめて収穫して一人半分ずつくらい食べていました。何度も味わった後からもどんどん実が成ってきます。ちょっと変わったスターオブデイビッドという種類も育てていました。

ずんぐりむっくりなスターオブデイビッド

こちらは少し遅れて花が咲き実が実るのですが、ちょっとずんぐりむっくりの大きな実の形がおもしろかったので、普通のオクラとあわせてスタンピングに使おう、ということになったようです。せっかくなら紙ではなくTシャツを作ってみんなで運動会に着よう、と話しが膨らんだようで、オクラの星形の断面にアクリル絵の具をつけてTシャツにペタペタ。一人ひとり個性的な作品ができあがりました。

ステキなTシャツができました

種から大切に育てる楽しみ、咲いた花の美しさ、収穫するうれしさ、味わったときのおいしさ、そしてスタンピングのおもしろさと、オクラを楽しみ尽くした夏でした。

3歳児のある保護者から「このあいだスーパーに行ったら、子どもが野菜売り場からオクラとピーマンをとってきてカゴに入れるんですよ。ほんとに食べるのかなと思ったのですが、夕食に出したら喜んで食べていました。」と話していらしたそうです。自分で育てて収穫し、味わったのがうれしかったのでしょう。その子はオクラが大好きになったようです。

ちなみに、ピーマンは運動会で踊るダンスに出てくるようです。

ピーマンは苦みがあるので、苦手な子どもたちが多いようです。苦みを避けるのは毒を食べないように、酸味を避けるのは腐ったものを食べないようにという理由からもともと人間に備わっている自己防衛能力なので、子どもたちが嫌がるのは当然なのです。誰かがおいしそうに食べているのを見ることで、苦いものや酸っぱいものを食べられるようになってくるそうです。そういえば、子どもの時は大人が飲んでいるビールをおいしそうだからと飲んでも、何でおとなはこんなに苦いものを飲むのだろう 、と思いますが、大人になると「暑い日は風呂上がりのビールに限る」なんていって飲んでいますものね。

少し苦手な食べ物でも、一緒に食事する誰かがおいしそうに食べているのを見ることで、食べられるようになる。みんなで「おいしいね!」と言い合って楽しく食べることが大切なのだと思います。特に子どもどうしで楽しみながら食べることが大切です。

オクラのいのちも、子どもたちも輝いた夏でした。

保育園の役割

2011/09/05

待機児童対策ということが盛んに言われ、新しく保育園が作られたり、既存の保育園が増築されたり、定員が弾力化されています。しかし、待機児童対策として一人でも多くの子どもが保育園に入れるように努力しても、またすぐに待機児が増えてしまうということが起こっているようです。

当園でもここ数年、定員を少し超えて子どもたちを受け入れています。当園の園児のほとんどが4㎞以上離れたところから、電車や自家用車の送迎で通ってきています。毎日のことなので保護者の皆様は大変だろうと思いますが、こんな山奥まで通っていただき感謝しています。

少子化といわれているのにどうして待機児童が増えるのでしょう。様々な原因があると思います。もちろん両親の就労ということが一番大きな原因でしょうが、あるお母さんから「私も仕事をしたいし、子どもも家にいても一緒に遊ぶ友達もいないので…」ということばを聞いたことがあります。これも子どもを保育園に行かせたい理由の一つではないでしょうか。地域で子どもが集団を作って遊ぶことができなくなってきていて、保護者はそれを不自然に感じていらっしゃるのかもしれません。

少子化対策が語られる中で、違和感を覚えることがあります。子どもをまるで荷物か何かのように預けるというニュアンスを感じてしまうことがあるからです。保育園の役割はただ子どもを預かるだけではありません。子どもをしっかりと育てることです。その意味で、子どもの集団があるということはとても重要なことです。

しかし、ただ単に子どもがたくさんいるだけでは意味がありません。そこで、子どもがお互いに意見を交換し、力を合わせて共に何かに取り組むという子どもどうしの関係と、その関係を通して子どもが主体的に遊びや生活を創造してゆくことができる環境が必要なのです。

だからこそ、私たち保育者は様々なことが、できるだけ子どもの中で、子どもどうしの関係で創造したり解決できるようにする。子どもが自ら遊びや生活を作ってゆける。そういう環境を整えることに力を注ぎたいと考えています。

子どもたちが大人になったときに、自ら進んで人と意見を交換し合い、共に力を合わせて、みんなが幸せになれる社会を築いてほしいと願うからです。

台風

2011/09/04

台風12号が四国から中国山陰を通って日本海に抜けてゆきました。京都はあまり台風が接近することは少ないのですが、今回は久しぶりに近くを通りました。9月2日金曜日から次第に風雨が強まり、2日夜から3日未明の風は、寝ていても目を覚ますほどでした。2日夜から京都市に暴風警報が発令されていたため、3日は保育はお休みです。万が一暴風警報が解除されたときのために職員は出勤しました。台風11号が接近したときは前夜から出ていた暴風警報が午前7時30分になっても解除されなかったので保育は休務だったのですが、8時30分に警報が解除され、その時点から保育を再会することになりました。幸い職員は出勤していたので慌てることはなかったのですが、職員も自宅待機にしていたら少し慌てていたかもしれません。

3日は台風が近づいてきて、最近経験しないくらいの強風に見舞われました。といっても園は山麓にあるので、開けた土地ほど風が強いわけではありません。それに対して山の上は少し風が強めだったようです。大きな杉の木が左右に大きく揺れて幹から折れてしまうのではないかと心配になるくらいです。強風に揺すられ、幹を大きくしならせながらも風に耐えている木が頼もしく見えました。

3日日中は風の強い状態が続き、雨は断続的でしたが、夜には風よりも雨が激しく降るようになりました。土砂崩れで園舎が埋まっていないか。木が倒れていないかなどと心配しましたが、幸い大きな被害はありませんでした。

和歌山県や奈良県をはじめ、各地で大雨による河川の増水や土砂崩れにより大きな被害が出ているところがあります。被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。

鞍馬も山に囲まれているところなので、土砂崩れなどが心配されます。今回、大きな被害がなかったことはありがたかったとしか言いようがありません。

でも、まだまだ雨は降り続いています。警戒を続けます。

心を開いて

2011/09/03

私たちは、毎日いろいろなことをしています。日々繰り返されること、毎週決まってやっていること。毎年巡ってくる行事。それらを行ってゆくうえで、毎日こうしているから、去年もこうしたから、とついついそのことの意味を考えず、慣例に従ってやってしまうことが多かったりします。いつもと同じやり方や形でも、何のためにそのことをするのかな?どんな方法や形が最適なのかな?と考えた上で、やっぱりいつものやり方が良いというのならそれでよいのですが、あまり考えないでいつも通りにやってしまうことがあります。

先日、このことを改めて考える機会に恵まれました。運動会が近いので、保育士が集まって打ち合わせをしていたのですが、毎年行っている方法はどうなのだろう?と一人の保育士が問題提起をしてくれました。それをきっかけに、いろいろな意見を遠慮なくぶつけ合うことができました。問題になったこと自体はとても些細なことですが、それぞれがいろいろな意見を持っていることがよくわかりました。誰かが納得いかないまま一つの方法を選びたくはなかったので、たとえ些細なことでもできるだけ意見を出してもらえるように時間をとりました。

人って不思議なもので、自分の考えでいろいろなことを解釈し、他の人も同じように物事をとらえ解釈していると思ってしまうのです。自分がもっているイメージと他の人のそれとでは違います。当然ですね、違う人間なのですから。でも、同じだと勘違いしやすいのです。心を開き、言葉を尽くして説明してこそ、少しずつわかり合えるのだと思います。

そうして、お互いの違いをわかり合っても、平行線のままのことが多いのです。そこで必要なのが、「そのことを何のために行うのか」から考えることだと思います。例えば運動会の開会式は何のために行うのか、そもそも運動会自体、なぜ行うのか。何のために行うのか。というところまで遡って、お互いに確認し合う。その共通認識をある程度もてたうえで、ではそれをどういう形や方法で行うかを作り上げてゆけると良いのだと思います。

そこまで深く充分に話し合うことはできませんでしたが、みんなが「何のためにそれをするのか」ということを考えるきっかけにはなったと思います。話し合う上で気をつける必要があるのは、自分と違う意見を聞いたときに、「なんでこの人わかってくれないのだろう」と不満や怒りといったネガティブな感情が生じてしまいやすいことです。このネガティブな感情に流されないよう、自分を律して冷静に意見として受け止め、自分の意見も冷静に伝えられることを心がけたいと思います。

話し合いの最後は、意見がすっきりまとまったわけではありませんでしたが、みんなが心を開いて話し合うことができたと思いますし、本当に大切にしなくてはならないこと「すべてのいのちが輝くために」を基準にして考えることができたと感じました。

すばらしい仲間とチームを組めることに感謝しています。

社会

2011/09/02

「人間は他の動物と異なり、弱くなることで生き延びてきた。」という話しを聞いたことがあります。確かに狩りをするために鋭い爪や牙、速い足を持つという進化を遂げた肉食動物たちは強くなることで生き延びてきました。また、それらの肉食動物から逃れるために様々な術を持つという進化を遂げた他の動物たちも逃げるという能力をつけ、強くなることで生き延びてきたといえると思います。

園の近くにはよく野生の鹿が姿を見せますが、雨が降っていても、雪が降っていても、暑い夏の日も山の中をうろうろしています。そんな鹿を見ると、「寒くないのかな。よく耐えられるな。鹿と同じ条件で山の中に放り出されたら、私はとても生きてゆけないだろうな。」と思ってしまいます。そう思うと人間はとても弱いです。それなのに、どうして生き延びてこられたのでしょう。

その答えは、社会を形成したからだそうです。個々は弱くても社会を形成し、役割を分担し、守り合うことで生き延びてきたというのです。そして、その社会の中で最も中心にいるべきなのが、最も弱い存在、あかちゃんや子ども、高齢者やしょうがい者です。弱いからこそまん中で守られる必要があるのです。一番弱い人をまんなかに、その人たちのことを中心に考えることが社会の姿なのです。最も弱いあかちゃんを育てるという行為は人間が社会を作ってゆくために有効な手段なのです。そう思って今の社会を見てみると、少し心配になります。

子どもにも社会が必要です。というより、こどもも社会の一員なのです。だからこそ子どものうちに社会を経験しておく必要があるのです。昔は地域に子ども集団がありました。ガキ大将がいて、年長の子から小さい子までが群れて遊んでいました。そんな中で子どもたちは社会を経験してきたのです。その集団が同年齢ということはめったにありません。様々な年齢の子が集団を形成していて、大きな子が小さな子を守ったり、近い年齢同士での関わりなど様々な立場を経験していたのでしょう。ところが最近は地域で子どもが群れて遊んでいる姿を見ることが少なくなりました。だからこそ、たくさんの子どもが関わり、社会を形成する場が必要になるのです。それが幼稚園や保育園の役割なのです。そう考えると、異年齢の集団が一番自然なのではないでしょうか。4月から翌年の3月生まれの子どもしかいない集団は不自然です。

当園では基本的に異年齢で過ごしています。一番自然なかたちは0歳から6歳までが一緒に過ごすことなのでしょうが、今はそれは不可能なので、0歳1歳2歳と3歳4歳5歳という異年齢の集団で過ごしています。

「人間が社会を形成することで生き延びてきた」とするなら、子どもたちが子どもの社会を形成する経験をせずに、大きくなったときにちゃんと社会を形成できるのでしょうか。心配です。

子どもの主体性

2011/09/01

子どもは、あかちゃんのうちから立派な一人の人格であり、決して大人の所有物や大人に従属するのではなく、一人の人間として主体的に生きています。

子どもが大きくなるのには、首がすわり、寝返りをし、お座りをして・・・というように、一定の順序があります。そして、子どもは自分の発達に必要なことをします。ある時期、ティッシュペーパーをどんどん引っ張り出したりすことがありますが、それは引っ張り出すという動きを身につけるためにしています。また、食卓に座るときに、お父さんの席はここ、お母さんはあそこ、お兄ちゃんは僕のとなりと決まっていることが、何かの都合で変わってしまったりすると、どうしようもなくいやになる時期があります。それは、決まった人が決まったところにいる。いつも、同じ物が同じ所にある。いわば秩序を身につけたい時期なのです。その時期だけというわけではありませんが、それがその子にとって一番適切な時期なのです。

子どもは自分に必要な発達を遂げる時期が来るとそのことがやりたくなるのです。もちろんそれは、子ども一人ひとりで違います。誕生日が同じだとしても、子どもによって違います。

そんな子どもの発達にとって大切なのはどんなことでしょうか。それは子どもが自分の発達にあった遊びを自分で自由に選べる環境を用意しておくことです。これは、何をして遊ぶかを子どもが自分で選んで決めるということです。何をして遊ぶかに深く関わりますが、どこで遊ぶかということも子どもが選びます。

また、子どもはいつも一人で遊んでいるわけではありません。友達と遊ぶことの方が多いでしょう。では、子どもは誰と遊ぶでしょう。自分のしたい遊びと同じ遊びをしたい友達と遊ぶのが一番充実して楽しいのではないでしょうか。難しいルールのゲームをそのルールが理解できない子がやろうとしても、おもしろくないでしょう。3歳児でも木登りが得意な子は、5歳児と木登りをして遊んだ方がおもしろいこともあります。ですから、こどもが誰と遊ぶのかを選ぶことができるように、異年齢の集団を用意しておく方が良いと考えています。

そもそも5歳児とか4歳児とかいいますが、大人の都合で便宜的に4月1日という境界線をもうけて、子どもを分けているだけではないでしょうか。ですから、それにあまりにもこだわり過ぎる必要もないのかと思います。子どもが、誰と遊ぶか、どこで遊ぶか、何をして遊ぶかを自分で選んで決められることが大切だと考えています。

なぜなら、私たち保育者のすべきこと、最も大切にしなくてはならないことのひとつ、それは一人ひとり違う子どもたちが、それぞれの発達を十分に遂げることができるようにすることのはずです。そのためには何が必要かを考えると、子どもたちが自分で発達を遂げられるように最適な環境を用意しておくこと、その環境は子どもが誰とどこで何をして遊ぶのかを主体的に選ぶことができるという環境だと考えています。

子ども

2011/08/31

あかちゃんを含め、子どもってどんな存在なのでしょう。小さくて、弱くて、助けてあげないと何もできない存在。大人という完成形に向かって発達の段階を上っている未熟な存在。子どもって、そんなとらえ方をされていることが多いのではないでしょうか。

確かに人間の子どもは生まれてから独り立ちするまでの期間が他の動物に比べてとても長く、小さくて、弱くて、守ってもらわないと生きてゆけません。では、すべてにおいて大人に比べて劣っているのでしょうか。

赤ちゃんについての研究が進み、いろいろなことがわかるようになってきました。

脳にはニューロンという神経単位があり、このニューロンとニューロンの接続部分をシナプスといいます。このシナプスが多いということは、脳内の神経ネットワークのつながりが多いということです。刺激が脳内で信号として伝わる経路が多いということです。人間でこのシナプスが一番多いのは、生後8ヶ月くらいだといわれています。そして、大きくなるに従ってシナプスは減ってくるのだそうです。もし、脳内の神経回路のつながりが多いことイコール脳の機能が高いということであれば、8ヶ月のあかちゃんの脳が一番機能が高いということになります。

実際に赤ちゃんには大人にはない能力があります。例えば、人間の大人には猿の顔の違いを見分ける能力はありませんが、あかちゃんは猿の顔を見分けることができるのです。

今までは、何かを積み重ねて増やしてゆくことが成長だとととらえられていましたが、脳の神経ネットワークに関しては全く逆で、必要のない部分を削る(刈り込む)ことによって成長してゆくということなのです。

これは、人間が生まれたときには様々な環境に適応できる能力を持っていて、自分のおかれた環境で生きてゆくのに必要のない機能は削り取ることで、成長してゆくということなのだと思います。

赤ちゃんはもともと障害物をよける危険回避能力を持っているとします。ハイハイをしていて障害物が目の前に現れたらそれをよけることで、その能力を削り取らずに強化してゆくでしょう。しかし、危ないからと大人が先回りしてその障害物を取り除いてしまったら、赤ちゃんはもともと持っていた危険回避能力を使わなくてすむのでそれを削り取ってしまいます。大人が何でもやったあげることが、かえって赤ちゃんの能力を奪ってしまっているかもしれません。

現代社会において猿の顔を見分ける能力を残す必要はあるとは思いませんが、危険を回避する能力は削り取ってしまわない方が良いのではないでしょうか。

子どもは、論理的に考えたり理路整然と説明したりすることは得意ではありませんが、突拍子もないことやおもしろいことを考えますし、想像力豊かです。逆に大人は様々なことを整理して考えたり、理論づけることはできますが、突拍子もないことを考えたり、想像力という点では子どもにはかないません。もちろん例外はあります。

ですから、一概に子どもが劣っていて大人が優れているとはいえないのです。

子どもが大人の従属物であるかのような考え方がありますが、そうではなく得意分野や役割がちがうだけなのです。決して子どもは大人の従属物ではなく、立派な人格を持った一人の人間です。その視点を常に忘れず、「子どもが今を最もよく生きる」ため、「子どもの最善の利益」のためには何が大切なのかを見つめ続けたいものです。

園の前にいらっしゃる童形六体地蔵尊の脇に札が立っていて、そこにはこう書かれています。

「子どもはみんな仏の子 子どもは天からの預かりもの 子どもは親の心を写す鏡」

子どもは大人の所有物として授かるのではなく、よりよく育つために大人に託された存在なのでしょうね。

あかちゃん 2

2011/08/30

あかちゃんは、胎児の頃から自分で生きてゆくための戦略を立て、身体を動かし、五感を使って周囲の環境と関わり合いながら学習している。胎児からなんて、ちょっと驚きではありませんか?

赤ちゃんが動くということは、まず触覚を使って自分が自分であることを認識し、自分と他を認識することなのだそうです。あかちゃんがお母さんのおなかの中で動くことで自分自身に触り、お母さんのおなかに触って自分と自分以外を感じているということです。触覚は自分が自分であることを認識する最も有効な手段なのだそうです。

胎児の世界は「動けばわかる自分の身体と他者」「動いて作る自分の脳」と小西行郎氏(日本赤ちゃん学会理事長)はおっしゃっていました。

園では毎朝3・4・5歳児と一緒にお参りをしており、その前に子どもたちと少し身体を動かします。そのなかで、やさしく自分自身に触ってみるということをすることがあります。例えば、両手でやさしく自分の顔をなでます。なでる手は顔の感触を、なでられている顔は手を感じます。そこで、自分の顔はここにあると再確認します。当たり前のようですが「自分の顔がここにある」と意識しながら顔を触ることって普段はあまりないと思います。また、顔に触ったときの手の感触に意識を集中する。また逆に顔で触っている手を感じるように意識するようにしています。「自分はここにいる」ということを自分の身体を触ることで再認識してほしい。という理由と、どんな感じがするかに意識を集中してほしいという理由からです。

研修で小西先生のお話を伺って「胎児のころからそんなことをしているんだ」と思いました。

胎児が行っているということは、それが胎児にとって必要だからです。生まれ出てからも少し大きくなっても、子どもがやりたいと思うことを、十分に行うことができるような環境を子どもの周りに整えておいてあげること、それが私たち大人のしなくてはならないことなのだと思います。特に五感をしっかりと使うことができる環境を整えておくことが必要だと思います。

あかちゃん 1

2011/08/29

皆さんは、あかちゃんは何ヶ月から動き始めるか知っていますか?

今年初めに開催された京都市保育士会の研修で講師の先生の最初のことばです。講師は小西行郎氏(日本赤ちゃん学会理事長)です。

正直言ってその質問には???でした。生まれてきたときにはもう動いてる・・・。そう思っていたのです。

「胎児のことですよ。」と言われ、ハッ!としました。「子どもを知るなら胎児のことから知るべきですよ。」先生の声がひびきます。

胎児が動く、いわゆる胎動の始まりは7〜8週頃からだそうです。身体全体を動かす運動から始まり、20週頃までにはほとんどの運動パターンを経験します。それは、あかちゃんが生まれ出たときの準備を自分でしているのだそうです。

いままで胎児は母親に付属するように考えられていました。しかし、最近はあかちゃんの研究が進み、胎児は生まれ出てから生きてゆくための戦略をしっかりと持っていて、その準備のためにお母さんのおなかの中で様々な行動をしていることがわかってきているそうです。そしてこの胎児期からの運動発達を受け継ぎ、新生児も自ら動き、五感を使って周囲との相互作用の中で自ら学習し、発達しているのです。また、生まれたてのあかちゃんも脳の前頭葉を使っていることがわかってきており、これはあかちゃんが自分で考えていることを意味するそうです。

胎児でもそうなのだから、あかちゃんの「自分でやってみる」ということを大切にしてあげてほしい。と講師の先生はおっしゃっていました。

当園では、子どもが主体的に活動することを大切にしています。それは、子どものすることにはすべて意味があり、子どもは自ら発達するために動いていると考えているからです。

冒頭で私がハッ!としたのは、胎児や新生児のことまでは考えていなかったからです。「あかちゃんが自分でやってみるということを大切に!」というくらいですから、当園に在籍している年齢の子どもなら、なおさら「自分でやってみることを大切に!」ではないですか!

あかちゃんは自ら動く、触る、見る、聞くことによって自ら成長している。だから大人はできるだけ邪魔をしないことが大切なのです。

今の保育士にできないこと、それは「動くな!黙って見ていろ!」だそうです。インパクトの強いことばですが、肝に銘じておきたい言葉です。

「しゃべらず(しゃべりすぎず)動かず(動きすぎず)目でとらえる保育士が必要」と先生はおっしゃっていました。まさに私たちが目指している「見守る」ということと同じだと思うのです。

枕木花壇

2011/08/28

今年度の初め、保育士たちが花壇を作ろうと話し合って、園庭に小さな花壇ができました。

どんな材料を使って花壇の枠を作るのかいろいろと考えて、一人の保育士が子どもたちが毎日乗っている叡山電鉄の枕木を使うというアイデアを出して「それいいね!」とみんなの意見がまとまりました。

翌日、電車で出勤した保育士が早速運転手さんに枕木のこと話したようで、数日して担当課から電話がありました。

古い枕木を頒布しているので、都合の良い日に取りに来てもらえれば良い。ただし1本100キログラム近い枕木をフェンス越しに積み込まないとならないので、積み込み用クレーンのついたトラックが必要との話しでした。トラックはあってもクレーン付きとなると考えないといけないので、検討して連絡することにして電話を切りました。

どうしようかと考えていたら、再度電話があって、「ゴールデンウイーク明けに持って行きます。何本くらいいりますか。」とのこと。驚いた私は、配達なんてしてもらえないはずなのに良いのかな?と思い、「それは申し訳なのでなんとかトラックを手配します。」というと、「いつもお世話になっている鞍馬山さんのことですから!」とおっしゃってくださいます。確かに電車で通園している園児はいますが、そこまでしていただくのは申し訳ないとも思いました。でも、せっかくのご厚意なので甘えることにしました。

何でも自分でやろうとするのも良いけれども、できないことはあまり無理せず、力を貸してください。とお願いするのも必要なこと。自分にできること、できないことをしっかりとわきまえていて、できないことはできる人に素直に「お願いします」と頼めることが自立しているということ。と言う話しを聞いたのを思い出しました。人のつながりが希薄になってきている今、あえてつながること、助けてもらうときは助けてもらうこと、助けられるときは助けることも必要なのかと思います。

そして、ゴールデンウイーク明けのある日の朝、叡山電鉄の方3人が枕木を届けてくださったのです。男性保育士も手伝って園庭まで運び込んでいただきました。ほんとうにありがたかったです。10本近く運んでくださったので、とりあえず園庭に並べたら、子どもたちは早速ステージに見立てて、その上で歌を歌ったていました。

その日電車で帰る子どもたちに「今日、保育園に来た枕木と同じのが、みんなの乗る電車の線路を支えてるよ。」と保育士が説明すると子どもたちは納得していたそうです。

後日、お寺の管理部の皆さんの力を借りて小さな花壇ができあがり、一人の男性保育士が花を買ってきて一生懸命植えていました。花の元気がなくなったこともありましたが、少し植え足したりして今ではかわいらしい花が元気に咲いています。

一人の保育士がアイデアを出し、それを電車の運転手さんに伝えた別の保育士がいて、叡山電鉄の皆様のご厚意により枕木、それも子どもたちが毎日乗っている電車の枕木が届き、お寺の職員さんの力を借りて花壇ができる。いろいろな人がつながり、力を合わせてできあがった花壇に咲く花はひときわ美しいように思います。

叡山電鉄の皆さん、花壇作りに関わってくださったみなさんありがとうございました。

みんなの力でできた花壇

スクロール