園長ブログ

運動会で考えたこと

2011/10/16

市原野小学校で運動会がありました。14日の午後から15日未明にかけてずいぶん雨が降ったので、延期だろうと思い込んで仕事をしていたら、運動会決行という情報が飛び込んできたので、慌てて応援に行きました。

市原野小学校は当園から3.5キロメートルほど離れたところにある小学校で、この学区からたくさんの子どもたちが当園へ通ってきています。当然、卒園生もたくさん通っているので、行事の案内を頂くと参観に行っています。この地区は、宅地開発が進み、新しい住宅に若い世代の方々がたくさん入居され、子どもの数が増えています。

私が叡山電車に乗って小学校に着いたころには午前中の競技が半分ほど終わってしまっていて、3年生と4年生がダンスをしているところでした。人数が多いので迫力があります。9月に児童数の少ない鞍馬小学校の運動会を見ていたので、余計にそう思うのかもしれません。わずか2キロメートルほどしか離れていない2つの学校で、一方は児童が少なくて困っているのに、もう一方は児童が多すぎる状況です。

他の自治体なら統廃合させるところでしょうが、京都市の場合は、地域の意向を最大限に尊重しています。それは京都の小学校の成り立ちの特殊性によるものです。京都の小学校のはじまりは番組小学校といいます。明治政府が明治5年に学制を発布して学校制度をスタートさせましたが、それに先立つ明治2年に京都の町衆が当時の住民自治組織だった番組を単位として作ったのが番組小学校です。小学校は地域が作ったという伝統もあり、小学校は地域の学校という性格が強く、行政の都合だけで統廃合が決められるわけではないようです。だからこそ地域住民が学校をどうしたいのかを真剣に考える必要があります。また、学区の範囲が厳格に定められていて、特別な理由がある場合を除いては異なる学区の小学校には通うことは難しく、2キロメートルしか離れていない学校で過疎と過密が発生してしまうのです。

せっかく行政が地域の意向を尊重してくれるのですから、それ活かして地域と学校と保護者が「子どもの育ちにとって本当に大切なこと」をしっかりと見据えて共通理解をすすめ、そのためにそれぞれができることを行えるしくみが機能してゆくと本当の意味での地域の学校になるのではないでしょうか。

運動会の競技から、子どもたちが積極的に取り組んでいるという印象を受けました。PTAの競技というのもあって、たくさんの保護者の方がボール送りで盛り上がっていらっしゃる姿から、一体感が感じられました。卒園生を探すのですが、人数が多すぎてなかなか見つかりません。でもそれぞれの種目に全力で取り組んでいる子どもたちの姿を見ることができ、短いながらも楽しい時間を過ごすことができました。

雨のあと

2011/10/15

昨日は午後から雨となり、昨夜と今朝早くには激しく降っていました。台風12号による豪雨で被害を受け、未だ危険な状態が続いている地域が心配されます。鞍馬も山の中なので、あまり激しい雨が長時間降ると心配です。

明るくなる頃には雨は上がりました。雨の後、外には様々な変化があります。谷川の水かさは増していますが、降り始めの時のように濁っているわけではありません。お寺の参道の坂は砂利道なので、水の流れた後が深くついています。一度にたくさんの雨が降って、勢いよく坂を流れ下りたのでしょう。

こんな雨の後は、木の枝が落ちてくることが多いので、頭上を気にしながら歩きます。雨が降っているときもそうなのですが、雨があがってからも、なぜか木の枝が落ちやすいのです。

地面にオレンジ色のじゅうたんを敷きつめたようになっているところがありました。少し前までとても良い香りを放っていたキンモクセイの花が一斉に散って地面を飾っています。

雨のしずくが、木々のはや実にぶらさがり、まだどんよりとした空からの弱い光を集めてキラッと光っています。

雨の後の自然は様々な変化があって楽しいですね。

雨の後には「雨がいっぱい降ったけど、みんなの周りでいつもと違うところはあった?」と子どもたちに尋ねることがよくあります。様々な変化に気持ちを向けてほしいと思うからです。当園は自然に囲まれた恵まれた環境にあります。もちろんそこにいるだけでも良いとは思いますが、子どもたちが自然に気持ちを向けたり、五感をフルに使って関わる環境や機会を用意すれば、より深く、より楽しく自然と関われるのです。

身の回りのいろいろな出来事が当たり前になってしまってただ漫然と過ごすのではなく、より積極的に関わり、異なる視点で見つめることで、新たな不思議や発見にであうことができます。子どもはもともとそういう能力を持っていますが、大人が環境を用意し、きっかけを作ることで、その能力がさらに発揮されるのだと思います。

あご

2011/10/14

どうも顎の関節が痛いなと思っていたら、だんだん痛みがひどくなってきて、口があけずらい、物が噛みにくいという症状になってきました。常に痛みはあるし、何よりもご飯が美味しく食べられないのが辛かったので、診てもらうことにしました。

原因を考えてみたのですが、最近の口の周りの変化といえば、前歯の治療くらいです。今まで前歯が悪い状態で長い間放っておいたのが、治療をして急に新しい歯が入ったので、噛み合わせが変わって顎がびっくりしているのだろう。と勝手に判断して、歯医者さんに相談して、診てもらいました。

先生は私が症状を説明する前に「仕事頑張りすぎなんちがう」と尋ねられました。何のことかわからず「そうでもないです」と答え、「前歯の噛み合わせが原因なんですか」と尋ねると「それはない」とあっさり。先生は、前歯の治療の時に最初から噛み合わせをきっちりと合わせると良くないので、発音に支障が無い程度にしておいて、落ち着いてから調整するつもりだった。だから前歯が原因ではないとおっしゃるのです。先生はちゃんと次の段階まで考えて、治療してくださっていたのです。それを知らずに素人考えは禁物ですね。勝手に前歯だと思い込んでいました。

最近顎の関節のトラブル(顎関節症)を訴える人が急増しているそうです。特に10代から30代の若い人が増えたように思うと先生はおっしゃっていました。顎関節症の原因は、歯を食いしばる、歯ぎしりをする。左右どちらかの歯だけで噛む、頬杖をつく、噛み合わせが悪い、不適切な牽引(背骨を伸ばすのに顎にベルトを掛けて引っ張る)などがあるそうです。「パソコンの使いすぎじゃないですか。」と先生。パソコンを使っているときは無意識に歯を食いしばっていることが多いのだそうです。たしかに最近よく使っているかもしれません。また、ストレスで寝ている間に歯ぎしりをしていたり、歯を食いしばっていることがあり、気付かないうちに顎関節に負担をかけているそうです。

ストレス・・・ たまっているのかな・・・?と考えてしまいました。どこか思うようにゆかなかなくて、考え込んでいる自分が時々いるかもしれません。ストレスマネジメントできている思っていたのですが、全然できていなかったのです。「こうしたい」という自分の欲に縛られ、振り回され、「そうならない」ことにストレスを感じていたのかもしれません。我欲がつくる罠に落ちてしまうと、どんどん深みにはまってゆきます。お釈迦様は「我欲が生み出す執着から自由になることが苦を取り除く」とおっしゃっています。顎の痛みが、苦しみの深みにはまってもがいている自分に気付かせてくれました。

治療としては、マウスピースを作って頂いて、普段はそれをつけることで顎への負担を減らすスプリント療法という方法をとっています。おかげで。痛みはほとんど無くなりました。あとは、自分の心を上手くコントロールしてストレスをためないことです。これは自分にしかできません。

1日保育者体験

2011/10/13

「我が子の保育園での様子を知りたい。」よく耳にする保護者のご希望です。

「保護者に、子どもたちの園での様子をご覧頂き、子どもたちのすばらしさを感じていただきたい。」私たち保育者が願っていることです。

それなら、保護者に来園して保育を経験していただけばよい。そう思って始めたのが1日保育者体験です。できるだけ気軽に参加して園をご覧頂きたいので、見学していただいても、何か企画して行っていただいても良く、無理なく保育を体験して頂けるようにしています。

私の思いとしては、もう少し発展させて、保護者のお仕事や得意技を活かして保育して頂ける機会が増えると良いと願っています。今までにも染色に詳しいお父さんに藍などを使った染め物を指導をして頂いたこともありますが、もっといろいろな方が園に来て頂けるといいなと思っています。保護者もそれぞれの分野においてプロフェッショナルですし、そのプロの技なり、知識なりを園児に見せて頂いたり、お話を聞かせて頂きたいなと思っています。今はまだまだですが、徐々に充実してゆきたいものです。

この業界ではときおり保護者教育などということばが使われることがありますが、私はこのことばが好きではありません。何か上から目線のような気がしていやなのです。保護者の皆さんとは、子育てのパートナーとして、価値観を共有し、子どもたちの幸せのために力を合わせたい。と思っているからです。子どもを中心に、関わりのある人全員が得意なところを活かして、みんなで楽しくなりたい。輝きたい。保育園はそうありたいと願っているからです。

    琵琶湖岸でお弁当

先日のおいもほりには、お父さんが1人参加してくださいました。バスの中では子どもたちの先頭を切って歌を歌ってくださったり、畑では子どもが掘りやすいように、あらかじめ少し掘っておくことを手伝って頂いたり、琵琶湖岸でお弁当を食べた後は、子どもたちと思いっきり遊んでもくださいました。最後にはみんなで、鬼にタッチされると仲間に助けられない限り動けなくなる「バナナこおりおに」という鬼ごっこをしました。男性保育2人とお父さんの3人が鬼になり、参加した子どもたち全員を捕まえたら終了というルールです。これはかなりきついので、大変だろうなと思って見ていたら、おとうさんの元気なこと。子どもになんか負けてはいません。思いっきり走っていらっしゃいました。

お父さんも子どもも保育士も、みんなの笑顔が輝いていました。みんなで楽しさを分かち合う経験。大切にしたいですね。

   うゎー!海だ! ???

   大きな木でブランコ

おいもほり

2011/10/12

年中児と年長児あわせて22人がおいも掘りに行ってきました。滋賀県守山市にお住まいのお寺のご信徒が畑を提供してくださり、毎年春にいもの苗を植えて、秋に収穫させていただいています。今年は、いものつるや葉が生長した姿を見ようと、夏にも一度水をやりに行きました。広い畑にたくさん植え、たくさん収穫する経験できるので、毎年お世話になっています。

朝から少し曇りがちの天気となり、絶好の野良仕事日和です。みんなでバスに乗って出かけました。バスの中では保育士のギターに合わせて歌ったり、おしゃべりをしたり楽しく過ごしたので、畑までの45分はあっという間です。

畑に着くと、さっそく掘ります。畑の持ち主さんやお寺の方々が、よく茂ったつるや葉を前日に刈っておいてくださったので、すぐに掘ることができます。それでも、自分たちが植えた葉がどうなっているのかがわかるように一畝分だけはつるや葉を残してもらっていました。
大人の助けを借りずに自分の力で一株分を掘り出すことにみんなで挑戦しました。子どもたちはスコップをもっていないので、手で掘り出すしかありません。やってみるとわかるのですが、これが結構大変です。いもが見えたからといってあわてて引き抜こうとすると、ポキッと折れてしまいまうので、根気よくいもが全部見えるまでまわりの土を掘らなくてはなりません。やりはじめると子どもによって取り組む姿勢がいろいろです。黙々と土を掘り続ける子、「できない!できない!」と賑やかな子、少しやってみて手強いとわかると、あきらめて大人がスコップで掘ったところから次々といもだけ取り出す要領の良い子、隣の友達とのおしゃべりに夢中な子・・・ ほんとに、いろいろな姿があります。

子どもたちには、どうしてもできなくて、手伝ってほしかったら、「手伝って」と言ってね。と伝えてあります。しかし大人は「手伝って」といわれても必ずしもすぐに一緒に土を掘るわけではありません。「ずいぶん掘れたね」「おいもが見えてきたよ」「もう少しだね」とその子の努力を認めて励ます。「反対側の土もどけてみれば」とアドバイスをする。「おいもの先の方はどこまで続いてるのかな」と更に興味がもてるようにする。などすると、あきらめかけていた子どもたちは気を取り直してまた掘り始めます。何度かそれを繰り返すうちに、ほとんどの子は自力でいもを掘り出していました。もちろん、必要だと判断すれば一緒に掘ることもあります。どこでどんなふうに対応するかは、そのときそのときで違うので、状況を見極めて適切に判断する必要があります。

多くの子が、自分でいもを掘り出すまで取り組んでいました。中には大人に全く助けを求めず、40分以上も掘り続けていもを取り出していた子も何人かいて、その根気と集中力には驚きました。「すぐに結果を求めず、こつこつ努力をしなさい」と子どもが態度を以て諭してくれているように思え、自分を省みると同時に、ありがたくうれしい気持ちになりました。子どもっていろいろなことを教えてくれます。

ケヤキ 少しだけわかったこと

2011/10/11

少し前のブログに、ケヤキの葉が軒並み茶色になっているということを書きました。もちろん今でもそのままです。詳しい人に話を聞いたり、調べてみたりしましたが、なぜ今の時期に突然茶色くなったのか、未だ理由はわかりません。

ただ、ケヤキは実を遠くまで飛ばすために何枚かの葉がついた小枝ごと落ちるということがわかりました。つまり、実は葉を翼にして飛んでゆくのです。

確かに、枯れて落ちる姿は小枝に葉が何枚かついた形で落ちており、葉の付け根に実がいくつかついています。実のつく小枝の葉は他の葉より少し小さいそうです。植物の生き残り戦略なのですね。

落葉樹は秋になると葉が色づいてやがて散ります。これは葉の付け根に離層という組織ができて養分や水分が通らなくなり、やがてそこから切り離されて散ってゆくそうです。ケヤキも実のつく小枝の根元に離層ができてそこから切り離されるという説があったので、そう思っていたら、ケヤキの小枝には離層は形成されないという説もあり、どちらが本当なのだろうと思いました。

また、ケヤキは何らかの理由で、枝をつけていることが不都合になるとかなり大きな枝でも自ら落とすのだという古老の話を聞いたこともあります。

自然は不思議なことがいっぱいで、身近な自然でもわからないことだらけです。

数枚の葉と実のついたケヤキの小枝

実の部分を拡大してみました

個人と集団

2011/10/10

保育園では「集団生活をしているから・・・」とか「集団行動をとらなくては・・・」と言うことばをよく耳にしますが、そういった場合、往々にして、皆に合わせなくてはならない。自分の意見を出すことなく、命令や大多数に合わせなければならない。といった統制的なニュアンスが感じられる気がします。自発的に何かをするのではなく、強制的なニュアンスが強いといってもよいのでしょうか。

個を無視した集団は、だれかが多くの人を支配したりするためには都合が良いのでしょう。そこには集団から離れたところに集団を支配する人がいて、みんなに何かを「やらせる」という構造があります。

一方、集団を構成する一人ひとりが、役割を分担してそれぞれに自分の力を発揮して、自発的に何かをする。目標のためにみんなが力を合わせるという、個が発揮される集団もあります。

例えば、運動会で行う組み体操も、全てを先生が決めて子どもを動かす。「こうしなさい」とやらせるやり方もあれば、今年当園で取り組んだように、できるだけ子どもたちが相談して決め、それぞれが力を合わせて行うやり方もあります。前者は一糸乱れぬ動きが美しいですし、統一感もありますが、どうしても子どもたちの「やらされ感」が強くなります。後者は見た目はぱっとしないこともありますが、それができあがるまでには、子どもどうしでアイデアを出しあったり、みんなで作り上げようという自発的な動きがあります。もちろんどちらにも一長一短がありますが、私は子どもの自発的な動きを大切にしたいと思っています。

個人を大切にするというと、みんなが相手のことなど考えずにそれぞれに自分の好き勝手なことをする、みんながバラバラでというイメージもあります。

「集団」に重きを置けば「個」は軽んじられ、「個」を大切にすれば「集団」は成り立たないのでしょうか。私はそんなことはないと思います。「個」が生きる「集団」が「個」を輝かせ、その「個」の輝きが「集団」をさらに輝かせるという、個と集団が高め合うという相互作用が働く集団もあると思います。

外からライトで照らされて光る集団よりも、一人ひとりが灯火のように輝くことで、全体が光る。鞍馬山保育園は子どもも保護者も職員も、みんんがそんな人の集まりでありたいと願っています。

力を合わせる 心を合わせる

2011/10/09

職員のブログにもありましたが、先日職員がみんなで、園舎の周りや倉庫をきれいに片付けてくれました。みんなが心を合わせ、力を合わせてひとつのことに取り組む。その姿勢がとてもうれしく思いました。今年度から職員が委員会を作り、そこで話し合って決まったことをみんなでやってゆくという取り組みが始まりました。そのうちの環境委員のみんなが中心になって片付けを提案してくれたのです。

以前の当園は45名の定員を割り込むほどの園児しかいなくて、職員も今のようにたくさんはいませんでした。ですから、あえて委員会を作らなくても、自然と役割分担が行われていたり、勤続年数の長い職員が多かったのでことばにしなくてもいろいろなことをみんながわかり合っていたのだと思います。今は園児数も増え、職員数も増え、それぞれの経験も様々です。だからこそ、面倒がらずにことばにして伝える場を設け、それぞれが自分の思いを伝え、相手の思いを受け止め、みんなが納得してものごとに取り組むことが必要なのです。その前提として、皆が心を開いて思いを伝え合える関係になれなくてはなりません。そうすることによって、お互いの心の風通しが良くなります。それを繰り返し続けることによって「何を大切にするか」を少しずつ共有してゆけるのだと思います。

様々なトラブルの原因はコミュニケーションが上手く行かないことが多いと言われています。人は、自分の世界で物事をとらえ、考え、価値を見いだしています。それをことばにして伝え、自分の世界を開いて伝える努力をしないと、お互い勘違いのまま平行線をたどることが多いのです。

このあいだ職員の一人と私の所有する車の話しをしていました。Aという古い車とBという新しい車があるのですが、職員はB車をイメージして話し、私はA車をイメージしながら話していたようで、なんか変だなと思いながらもしばらく話してようやく、お互いイメージしている車が違ったのだと気付いて、笑ってしまいました。この程度のことなら笑い話ですみますが、話題によっては大変なことになります。

ですから、ちゃんと相手に伝わっているかを確認したり、自分はこう思うんだよと様々な角度から伝える努力が必要なのですね。

伝わり、わかり合えることは、うれしく、楽しいことだと思います。

職員はお互いにそういう関係を作ろうと努力をしてくれています。私もみんな以上に努力しようと思います。

金木犀

2011/10/08

急に秋が深まりました。秋田から帰ってきた次の日、園に行こうと歩いていると、ふといい香りが漂ってきました。金木犀が香りはじめたのです。出かけた日には全く感じなかったのに翌々日にはとても良い香りを漂わせています。突然、香るって不思議です。

金木犀の香りは、小学生の頃、放課後学校から帰って友だちと遊んでいたときの様子を思い出させてくれます。秋の光につつまれて全てのものがやさしく輝き、空気はひんやりと日ざしは暖かでどこか包み込まれるような、ホッとする感覚がよみがえってきます。

臭覚は他の感覚に比べて記憶や心の働きとつながりやすいという研究があるようです。脳内での臭覚情報の伝達経路が他の感覚器官とは異なっていて、臭覚だけは記憶をつかさどる海馬を経由するということを読んだ覚えがあります。だから記憶と結びつきやすいのかもしれません。

赤ちゃんのことを考えても、他の感覚はすべてお母さんのお腹の中で感じられるのに、においは空気を介して感じているので、においだけはお母さんのお腹から生まれ出てからしか感じられません。ただし、生まれてすぐの赤ちゃんでも自分のお母さんの母乳のにおいを嗅ぎ分けるそうなので、その能力は胎児のうちに備わっているのです。

脳の中での情報伝達経路が異なることと何か関係があるのかもしれません。

園の近くで園児を送ってこられたお父さんが、「金木犀が香り始めましたね。この香り好きなんです。」と声をかけてくださって、しばらく金木犀の話しで盛り上がりました。

子どもたちは園庭の生け垣に植えられた金木犀の花をつかって遊んでいます。オレンジ色の小さな花はかわいらしく、それをただ集めて宝石に見立てたり、砂で作ったケーキの飾りにしたり、子どもの想像力は無限です。

自然の贈り物はステキですね。

森から学ぶ

2011/10/07

秋田に行って森で様々なことを学び、考えました。

・森では子どもが自ら主体的に遊ぶこと
・子どもの今を受け止め、認め、信じて待つこと
・そのための子どもとの距離感や大人のスタンス
・自然と人間との関係

などなどです。

これらに共通するのは、「自立」と「自律」だと思います。子どもが自分で立って歩いてゆくために何が必要なのか。そのための大人の接し方はどうすればよいのか。

森では、子どもが自分の範囲をわきまえたうえで、自ら積極的に遊ぶ。そのために、大人は子どもに禁止や命令をしない。大人が禁止や命令ばかりしていたら、子どもは自分で判断しなくなります。それでは、「森の中では自分の身は自分で守る」という基本的な力を奪ってしまうことになり、それは危険を意味するのです。自分をわきまえ自分で判断する(自立)からこそ、これ以上は危険だからやめておこう。友だちが困るから我慢しよう(自律)とできるのです。

主体的に遊べる環境があれば、子どもは自分を発揮して、いきいきと遊び始めます。そんな子どもたちが「今、この瞬間を最も良く生きられる」ように、その子の今をまるごとしっかりと受け止め、認めることが大切です。目標値を設定して足りない部分にばかり注目し、そこを満たそうとする。いわば減点法の発想で大人が見ていては子どもは辛いだけですし、内側から湧き上がる子どもの力が発揮できません。這ってでも急斜面を登る力を自分から発揮し、やり遂げたときの達成感を感じた方が楽しいでしょう。ですから大人はある程度の距離感を持って子どもと接するのが良いのです。それには、「勇気」と「信じ切る」心の力が必要です。大人自身の自立と自律が求められるのです。

考えてみれば、これは森に限らず毎日の生活に通じることなのです。森は条件が厳しかったり、たくさんの楽しいことがあるので、必要なことが際だってくるのですが、上に述べたことは日常的に大切にすべきことなのです。

自然と人間の関係は、子どもに限らず、自然の一部である人間の「自立」と「自律」です。どうしても自然と人間という二項対立で物事を捉えがちで、森の中にトイレを作れば便利、階段をつければ坂が登りやすい。といった人間の都合だけで考えてしまいがちです。逆に森に合わせて、人間が自分を律するという考え方を持っている必要があると思います。

秋田の森でたくさんのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。

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