園長ブログ

クリスマス

2011/12/25

今年もクリスマスの時期になりました。12月に入ると町はイルミネーションで美しく飾られ、大きなクリスマスツリーがお目見えします。京都駅にも大きなクリスマスツリーがありました。その横に小さなクリスマスツリーがあると思ったら、人がクリスマスツリーの格好をしていました。何かパフォーマンスでしょうか。いろいろな人がいるものです。

クリスマスはイエスキリストの降誕を祝うキリスト教の宗教行事で、キリスト教徒の方は教会でのミサに参加し、家族と過ごすことが多いようですが、日本では一般的にきらびやかな楽しいイベントというとらえられ方が大きいように感じます。特に最近は宗教的なものよりも、クリスマス商戦といわれるくらいに商業的な側面が大きくなっているように思います。楽しく過ごすこともロマンティックに過ごすことももちろん良いのですが、せっかくの機会なので、クリスマスについて考えてみようと思いました。

家に帰ると、珍しく夕食に家族がそろっていたので、「クリスマスって何?」と子どもたちに問いかけてみると、「イエスキリストが生まれた日だからお祝いをする。」という答えでした。「なぜイエスキリストをお祝いするのかな?」の質問には「キリスト教の神様で、人々を苦しみから救い、幸せにするから。」と返ってきました。「なるほど、では、幸せって何かな?どこにあるのかな?」と問いかけると「みんなの心の中!」と答えたのが4歳の三男だったので少し驚きましたが「みんなが幸せになるにはどうすればいいのだろうね?」といったテーマを家族で話すことができました。

宗教も違いますし、短い時間ではありましたが「幸せって何だろう?」とか「みんなが幸せになるってどういうこと?」に心を運ぶ機会を子どもたちと持つことができた嬉しいクリスマスイブでした。

ミノムシ

2011/12/24

大掃除をしていたら玄関のひさしに、ミノムシがぶら下がっていました。子どもの頃はよくミノムシを見ましたが、最近はあまり目にすることはありません。少なくなってしまったようです。

ミノムシはミノガという種類の蛾の幼虫です。前に保育園の子どもたちを自然観察に連れて行ってくださっていた方が、ミノムシの雌は蛾の形にならず、足も羽もないイモムシの姿のまま蓑の中で一生を過ごすと聞いたのを思い出しました。産卵も蓑の中で行い、卵からかえった幼虫はすぐに蓑を作るそうです。雄は羽化するまで、雌は一生を蓑の中で過ごします。

身の回りには、様々な生き物がいて、それぞれの生き方をしています。環境の変化などに対応してそれぞれに適した形で進化を遂げ、今の姿でいるわけです。どういう仕組みでそうなるのかと思っていましたが、共通の祖先から様々に枝分かれし、環境に適応した種類が生き残っているのです。どんな生きものもそれぞれに進化して今現在存在するので、人間が優れていてミノムシは劣っているということではなく、ただ、異なっているだけなのです。どんな生き物も姿形や生き方は異なっていても、同じように生きているのです。そんなことを考えていたら、頭の中で、『手のひらを太陽に』が流れていました。「ぼくらはみんな 生きている・・・ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな 生きているんだ 友だちなんだ」

人間どうしについても同じことがいえるのではないでしょうか。「あの人は違うからダメ!」を出発点にして考えず、それぞれがそれぞれであることを認めることから始めるのが良いように思います。

冬景色

2011/12/23

昨日は冬至でした。園児たちに冬至のことを説明しようと、昼の長さが1年で一番短い日だよと言ってみましたが、なかなかうまく伝わりません。そこで、保育園から帰るときの明るさが夏と冬とでは違うことを思い出してもらい、冬は昼間の時間が短くなることを伝えると何人かがうなずいていました。そんな話をしていると「昼間はどうして明るいの?」「太陽が出ているから!」などなどいろいろな疑問とそれに対する答えが、子どもたちから出てきます。「なぜ冬は太陽が出ている時間が短いの?」の質問に「寒いから!?」と答えた子がいました。一瞬私の頭の中は”?”だらけになりましたが、その子は「寒いから太陽も早々に姿を隠してしまう」と言いたかったようです。なんてステキな発想でしょう。子どもたちの「なぜ?」が増えるといいなと思いました。

給食には園の畑で採れたカボチャが出ていましたし、自宅の庭から柚の実をたくさん持って来てくれた職員もいました。さすがに柚風呂は無理でしたが、冬至を感じられる一日でした。

そして、冬至から一夜明けると雪です。寒気が南下して大雪の可能性があるので注意が必要という防災メールが何通も届いていたので、どれほどの大雪になるのかと気にしていましたが、鞍馬では山の木々がうっすらと雪化粧をして美しい朝になりました。

近年は鞍馬も雪が少なくなりましたが、一冬に一度は30センチから40センチの積雪があります。昨冬は雪が多く毎日のように雪かきをしていました。あまりたくさん雪が降ると、ここは京都市内なのかと思ってしまうことがあります。鞍馬から少し北に行くと花脊というところがありますが、そこはずっと積雪量が多く、まるで雪国です。今日もずいぶん積もっているのだと思います。

雪かきは大変ですが、積雪が少ないと次の夏や秋には渇水になります。山に積もった雪が春になってゆっくりと溶けることで、地面にしみこんで山が保水しやすくなるのです。近年は雨の降り方も短時間で激しく降ることが多くなったので地表を流れてしまい、地中にしみこみにくくなっているようです。いろいろなことが関連しているということを自然の姿から感じることができます。

 

 

 

 

 

向き合う

2011/12/22

誰かと話しをするときに、どんな位置関係で話しをするのかには、いろいろな方法があります。

一般的には相手と向き合って話すことが多いのではないでしょうか。相手のことをしっかりと見つめ理解しようとするためにも、また相手を受けとめるためにも向き合う必要があります。相手の目を見て話すためにはこの方法が最適でしょう。

カウンセリングを行う場合、カウンセラーとクライアントがL字型に座ると良いと言われることがあります。これは初対面の場合や、話しにくい内容を話す場合の心理的な圧迫を軽減するためです。この位置関係であれば、クライアントが目を合わせたいときには合わせられますが、そうでないときには視線を外すこともしやすくなります。

珍しい方法かもしれませんが、並んで座るという方法もあります。並んで座ると同じ目線で同じものや同じ方向を見ることができます。初対面ではなく、お互いを知っていてある程度信頼関係も構築されている場合は良い方法かもしれません。

話はそれますが、京都のまん中を北から南に鴨川という川が流れています。季候の良いころの夜に三条や四条の橋の上から鴨川を見ると、何組ものカップルが、計ったように一定間隔で並んで河原に座り、語り合っている姿が見られます。向かい合っているカップルはほとんどいません。どのカップルも並んで座って川の方を向いています。洋画では、よく愛し合う男女がお互いに目を見つめ合って I love you. と愛を語るシーンがありますが、邦画では二人が肩を並べて座りながら語り合っているイメージがあります。日本人にはそっちが合っているのでしょうか。こんなことを書くと「昔の青春ドラマじゃないんだから!」という声が聞こえてきそうですね。

恋愛関係だけではなくても、解決すべき問題を一緒に見たり、進む方向を見つめる場合などは、この方法が良いと思います。共に問題解決に取り組んだ仲間には一体感が生まれ、心の距離が近づきます。

お互いの関係性や目的によっていろいろな向き合い方があります。どれかひとつが絶対ではなく、そのときその場に最適な方法が選べると良いですね。

おじいちゃんおばあちゃんと

2011/12/21

先日、5歳児の子どもたちが、午後の時間を利用して近くの高齢者福祉施設のデイサービスセンターを訪問しました。デイサービスセンターの皆さんと当園の予定を調整するのが難しくてなかなか日が合わなかったのですが、ようやく訪問することができ、11人の子どもたちと30人くらいの高齢の方々が交流しました。いろいろな交流をする場合、交流する両者が対面しているだけではなく、一緒に何か同じことをするプログラムを入れるようにしています。向かい合っているとお互いがよく見えるというメリットがありますが、一緒に何かに取り組むとお互いの心の距離が近づくと考えるからです。

子どもたちが施設に到着、しっかりと手洗いうがいをしてからデイサービスの部屋へ向かいます。エレベーターの扉が開くと高齢者の皆さんが拍手で出迎えてくださいました。子どもたちの訪問を心待ちにしてくださっていたようです。まずは子どもたちが歌とおどりを発表、子どもたちの元気な歌声と、気持ちのこもったダンスにおばあちゃん方は大喜びです。中には感激のあまり涙を流しながら聞いてくださった方もあったようです。最初は興味なさそうにされていたおじいちゃんも発表が終わる頃には、笑顔に手拍子で喜んでくださいました。子どもたちの素直な心がもつ力が発揮され、それが伝わったのだと思います。

発表の後は、高齢者7,8人に子どもが2,3人で1つのグループを作り、みんなで百人一首を使って坊主めくりをすると、それぞれのテーブルはとても盛り上がっていました。テーブルのまん中に置いたかるたに手が届かないおじいちゃんには「ハイ」といってかるたをとってあげる男の子がいたり、けがで腕をつっていらっしゃるおばあちゃんに「だいじょうぶ?痛くない?」と声をかけている女の子がいたり、子どもたちがもっている優しさが自然にさりげないかたちで発揮されている姿に、引率の保育士は心が動かされたといっていました。

取った札に書かれたうたを子どもに解説してくださる方、かわいいかわいいといって子どもの頭をなでてくださる方もいらっしゃいました。

高齢者の方々は子どもたちから元気をもらってくださったようですし、子どもたちは高齢者の方々と遊ぶのが楽しかったのか、高齢者の皆さんが自分たちがいることで喜んでくださっているのを感じたのか、大切にされているのが伝わったのか。「楽しかった!また来たい!」といいながら帰ってきたそうです。

これだけ年齢が離れていると、異文化交流です。普段はあまり接したことのない人とでも、自分がいることで相手が喜んでくれる。自分が必要とされているという気持ちを感じたり、誰かに喜んで欲しいという気持ちになる経験を子どもたちにはたくさんしてほしいと思います。

視力

2011/12/20

私たちは感覚器官というセンサーを使って外部から様々な情報を受け取りそれを処理して生きています。受け取る情報の中でも、見ることから得ている情報が他の感覚器官から得ている情報よりも圧倒的に多く、受け取る情報の8割以上が視覚情報だと言われています。

生まれたばかりの赤ちゃんはすでに0.01くらいの視力があるそうです。お母さんのお腹の中にいるうちから明るさを感じることができるようになっているのでしょう。視力は急速に発達して、生後3ヶ月で0.1、 6ヶ月で0.2くらいの視力になり、3歳で0.6〜0.9、 5歳で1,0以上となり、ほぼ成熟するそうです。保育園に通っている子どもたちの年齢がちょうど視力が発達する時期にあたります。この時期に「くっきりと見る」ことで視力は発達してゆくので、何かの原因で「くっきりと見る」ことができない状態がつづくと、視力の発達が遅れ、これを弱視といいます。その状態に気付かず8歳を超えてしまうと、大人になっても視力が出るのが大変難しくなるそうです。ですから、3歳くらいで、「くっきりと見る」ことができているかどうかを確認することが大切です。もしもくっきりと見えていないことがわかったときには治療をする必要がります。3歳児検診の項目に視力検査がある意味がわかります。1歳半にしても3歳にしても、発達の節目だからこそ検診が行われるのです。保護者の皆さんには必ず受診していただきたいものです。

「くっきりと見える」のかどうかは、子ども自身はよくわからないことがあります。ずっと「くっきりと見る」ことができない状態でいれば、それがその子の普通になってしまっている可能性があるので、保育園でも視力検査を取り入れてゆきたいと思います。

 

参考資料
子どもの眼『三歳児検診で弱視の早期発見を』
日本小児眼科学会三歳児検診検討会監修

ある朝

2011/12/19

ある日の朝、その日は早めに出かけていろいろな手続きをする予定だったので、開園前から園に行って書類を作っていました。7時半の開演時間になってIちゃんが登園してきました。「おはようございます」と挨拶を交わしたあと仕事の続きをしていると、朝のご用意を済ませたIちゃんが私のところへやってきて「園長先生遊ぼうよ!」と誘ってくれます。「今、遊ぶと出かけるのが遅くなってしまう…」一瞬そんな思いが頭をよぎります。早番の保育士がいるはずなので、「先生と遊べば?」というと「だめ、園長先生と遊ぶの!」とIちゃん。まだ他に登園してきている子もいなく、ご指名とあれば遊ばないわけにはいきません。乳児クラスのおままごとコーナーでのままごとにおつきあいすることにしました。Iちゃんがお母さん役で、私はお父さん役らしく、「お父さんは赤ちゃんを着替えさせてミルクを飲ませてください」とIちゃんお母さん。私が布団に寝ていた赤ちゃんのお人形を着替えさせているあいだにIちゃんお母さんは手際よくごはんを作っています。「この服はどうやって着せるの」と聞くと、またまた手際よく留めにくいボタンを留めてくれます。「ミルクはこれを飲ませてください」とほ乳瓶をわたされました。ミルクを飲ませてお父さんの仕事はひととおり終わったようだったので、「お父さんはお仕事に行く時間なので、行ってきます。」というとIお母さんは「行ってらっしゃい」と機嫌良く送り出してくれました。「しめしめこれで仕事にもどれる」などと良からぬ考えを起こして、書類に向かいましたが、しばらくするとIちゃんお母さんが、「もう!帰ってくるのが遅すぎます。」と迎えに来ました。Iちゃんお母さんと一緒におままごとの家に帰ると、今度は赤ちゃんを着替えさせてミルクを飲ませ、寝かせる仕事が待っていました。Iちゃんお母さんは相変わらず手際よく料理をしています。

「こうして15分か20分くらい遊ぶことで、出かけるのが遅くなっても、どうということはないなー!それよりも今、Iちゃんと遊んだ方が楽しいかも…」赤ちゃんのお人形を着替えさせながら、そんなことを考えました。そう思って遊んでみると楽しいものです。Iちゃんは、赤ちゃんの洋服のボタンがひとつ留まっていないなど細かなところまで気をつけてよく考えていることがわかりますし、彼女の中では、このままごとがかなりのリアリティーを持って進行していると想像できて、楽しい発見がありました。

ついつい目の前の仕事、それもそんなに重要でもないことにとらわれて、そればかりを見てしまいがちですが、視点を変えるともっと大切で楽しいことがいっぱいあるものです。

そうしているうちに登園してきたSくんがご用意を済ませてやってきました。そろそろ大人の出る幕は終了だと思ったので、「お父さんはお仕事があるので、会社に行ってお仕事をしてきます。」と言ってその場を離れました。子どもどうしで遊び始めたようで、Iちゃんお母さんが迎えに来ることはありませんでした。

秋のフェスティバル

2011/12/18

    小学生の話を聞きます

12月はじめ、鞍馬小学校の子どもたちが、先生と一緒に当園にやってきました。12月15日に開催される「秋のフェスティバル」の招待状を持って来てくれたのです。当日、年長組の子どもたちが参加しました。1年生から4年生までがいろいろなお店やコーナーを作って迎えてくれます。おめんやさん、ストラックアウト、まとあて、おうどんやさん、どんぐりのこま作りコーナー、フロッタージュコーナー、クイズコーナー、もみじの種おとしコーナーです。それぞれ工夫が凝らしてあります。

おめんやさんは、画用紙を自分の好きな大きさや形に切って台紙を作り、秋の野山で小学生たちが集めた木の実や、枯れ葉、小枝など自然の素材を台紙に貼り付けてお面を作ります。

    お面を作る園児たち

おうどんやさんは小学生が、うどんやそばを作って売っていました。もちろんほんとうのうどんそばではありませんが、いとで麺を作ったり、松ぼっくりや木の実で具を表現したり、紙を細かく切ったものを容器に入れたきざみねぎや七味まで用意してありました。

フロッタージュは様々な落ち葉が用意してある中から葉っぱを選んで、色鉛筆で行います。

クイズコーナーは、2年生が調べた地域のことや実際に野菜を育てるなかで体験したことを問題として出題してくれました。体験を通して問題を作っているので、プチトマトの花は何色?ナスの実が夏季節はいつできるか?など、とてもリアリティーのある質問です。

    クイズに答えられるかな?

おもしろかったのが、もみじの種まわしです。もみじの種をステージの上から落としたときに、くるくると回って落ちると、作りたてのポップコーンが1つもらえます。このポップコーンアー小学生が育てたトウモロコシを使ってつくられています。プロペラのようなもみじの種ですが、おとし方によってはまっすぐすとんと落ちてしまいます。少し横に向けて落とすと種が入った部分を中心にプロペラのようにくるくると回りながら落ちるのですが、回転の方向はどうやって決まるのか不思議に思ったので、子どもに声をかけて一緒に何度か落として観察してみました。どうやら羽の部分がどちらを向いているかで回転方向が決まるようでした。

 

    おいしそうなポップコーン

園児たちはじっくりと時間をかけて各コーナーをとても楽しみながら巡っていました。帰りには、その場で焼いてもらったポップコーンをお土産にいただき、各自作ったお面やどんぐりごま、フロッタージュを大切に持って帰りました。

とても楽しい時間を過ごすことができました。鞍馬小学校の皆さんありがとうございました。

 

一緒に食べる

2011/12/17

食事を共にする「共食」の関係が家族の基本ですが、今では家庭でいろいろな人が共に食事をすることが大変難しくなってきています。核家族化で、家族の構成人数が少ないうえに、生活サイクルが異なるなどして、ますます大勢が一緒に食事をする機会が少なくなっています。大勢の家族が共に食事をするとき、赤ちゃんは大人のこともよく見ていますし、いろいろな人の間で交わされる会話を聞き、動作を見て学んでゆきますが、一番よく見て真似をするのが自分と発達の近い子どもです。ところが、少子化の現代では家庭に一緒に食事をする子どもがいなかったり、いてもとても少ないのです。お兄ちゃんお姉ちゃんがいれば、赤ちゃんはその姿を見て真似をします。お兄ちゃんお姉ちゃんは小さな子の面倒を見たり、教えたりします。子どもどうしの関わりの中で育ってゆくのです。

こんな時代だからこそ、子どもがたくさんいる保育園などが大切な役割を持ってきます。たくさんの子どもが一緒に食事をするとお互いにモデルになったり、真似をし合うことができるのです。例えば、食べたことのないものや、あまり好きではないものが、お皿にのっていたとします。大人に食べなさいと言われて口に入れられても、はき出してしまうか、食べたとしてもおいしいとは感じません。ところが、他の子がおいしそうに食べているところを見ていると「ちょっと食べてみようかな」という気持ちになります。そこで、少し口に入れてみると案外食べられる。少しでも食べられると嬉しいので、もう少し食べてみようかと思って、徐々に食べられるようになる。ということがあります。

苦い味や酸っぱい味も、周りの人がおいしそうに口にするのを見たり、おいしいと言っているのを聞いたりしているうちに、興味を持って口にしてみる。そして少しずつ食べられるようになってゆき、おいしいと感じるようになるのです。

そんな子どもどうしの関係性を大切にして、子どもどうしで育ち合える環境を作ってゆくことが保育園の大きな役割だと思います。

共に食べる

2011/12/16

赤ちゃんは、いろいろな人と一緒に食事をすることで、いろいろなものが食べられるようになり、おいしいと感じるようになってきます。昔は大家族で、いろいろな人と食事をすることが普通だったのですが、現代は家族の構成人数が少ない上に、それぞれの生活サイクルが異なったりして、家族みんなで食事をすることが少なくなってきました。「個食」ということが言われ出したのが1990年代だそうです。そのころから家族がバラバラに食事をすることが問題視されていました。今では様々な「コショク」があり、「個食」は、家族が一緒に食卓を囲んでいてもそれぞれ自分の好きな物を食べるという意味になっているようです。他には、家族がいなくて、ひとりで食べる孤独な「孤食」、自分の好きな決まった物しか食べない「固食」、いつも食欲がなく、食べる量も少ない「小食」、ダイエットのために減らすこともあるそうです。パンなどの粉製品を主食として好んで食べる「粉食」、味の濃い物を好んで食べる「濃食」などです。食育と言われながらも、子どもの食を取り巻く状況はますます悪化しているようです。

いろいろな人と一緒に食卓を囲むことがいろいろな意味で大切でそれが家族のはずなのに、食から見る限り家族が家族ではなくなっています。そもそも家族って何でしょう。大昔、人間が狩猟生活をしていた頃、捕ってきた獲物を分け合って食べたのが家族の起源だと言われています。食物分配の単位というのが家族が成立した意味なのです。そう考えると食事を共にしない現代の状況は、本当に家族と言えるのでしょうか。また、人間を他の動物と区別するときに、火を使うこと、ことばを使うことなどがあげられます。食べることに関して言えば、上にあげたように共に食事をすること「共食」があり、もう一つは「料理をすること」です。住居を共にし、材料を料理をして一緒に食べるのが人間が家族でいることの大きな意味のひとつなのです。

家族がみんなで料理をして食卓を囲む、そんな基本的なことくらいはできる生活のあり方を、働き方を含めて考える必要があると思います。

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