園長ブログ

園庭

2012/06/02

     日よけネット

季節が進み、木々の葉もずいぶんと茂ってきました。桜の花が散った後は小さなさくらんぼができて、園庭にたくさん落ちています。それとともに小さな葉巻が園庭にたくさん落ちていて、子どもたちが集めています。この葉巻はオトシブミという虫が、けやきなどの葉に卵を産み付けたあと、その葉にうまく切り目を入れて、足でくるくると巻いて作ります。葉は卵を守るゆりかごになるのです。

園でもいろいろな変化があります。昨年保護者の方と作った砂場は子どもたちの人気の遊び場の一つで、よく遊んでいますが、あまり直射日光を浴びて遊ぶのはよくありません。特に日差しが強くなるこの季節は要注意です。そこで、何とか日よけを作って欲しいという保育士の願いを叶えるため、用務員役の保育士が頑張って日よけを作ってくれました。業者さんに頼んで作ってもらっても良いのですが、それじゃつまらないということで、できるだけ予算をかけずに作ることにしたようで、農業用の日よけシートを購入しロープをうまく使って砂場の上に張りました。砂場に適度な影を作っています。

       ブランコ

また、椿の木の間にかかっていたブランコを大きなムクノキの枝に掛け替えたら、子どもたちは早速いろいろな遊びを楽しんでいました。大きく揺らしてみたり、ねじってくるくる回ってみたり、何人かで乗ってみたり、ブランコ一つで子どもはいろいろな遊びを考え出すものです。

日差しも強くなってきて、子どもたちは園庭に出ると、すぐに水遊びや泥遊びに興じています。土や水など基本的な自然の構成要素は子どもの感性を刺激するというか、大人に比べて、子どもたちはそういった根源的な要素とより近いのかもしれません。

子どもの興味が広がるよう、様々な遊びの要素をいろいろなところにちりばめられると良いと思います。それも、あまり大人が作りすぎた物ではなく、土、水、木などの素材がたくさんあると子どもの想像力を刺激して楽しさが、何倍にも膨らみそうですね。                                           

     水と泥で

  築山から川ができました

話し合い

2012/06/01

先日、何人かの職員でお泊まり保育について話し合いました。普段の保育もそうですが、行事は何のために行うのか?この行事を経験することで子どものどんな学びを促すことができるのか?いつもそこに還って考える事をしないと、「毎年こうしているから」「去年もこうしたから」という理由だけで、同じことを繰り返していると、陳腐化してしまうだけです。たとえ、去年と同じことをやることになったとしても、いつも、基本に還って、子どもたちの育ちや学びにとってどういう意義があるのかを考える事こそが大切なのです。ことばを変えれば、理念とどう結びついているのか、いつも理念に照らして考える必要があるということです。

全ては変化します。変わらないもの、変わらないことはありません。ですから、去年のベストは今年のベストではないはずです。しかし、どうしても人は変化を避けようとします。「前もそうだったから」になりがちです。もちろん、毎年全てを変えてしまうのが良いといっているわけではありません。いつも「本当に大切なことは何か」からものごとを考え、必要だと思うことは変えるべきだということです。

お泊まり保育について、「子どもたちが主体的に活動できる内容とは何かを考えたいので、話し合いがしたい。園長も加わってくれないか。」と提案してくれました。これほど嬉しいことはありません。何をおいても話し合いに加わりたいと思いました。職員の意見の中には、「子どもが自分で考え、自分で決め、自ら行動する」という目指す子ども像から考えることが必要だというものがありました。これは大変重要なことです。

話し合いは、活発に意見が交換されるというほどではありませんが、なにを一番大切にするのかについて、それぞれの想いを出し合うことはできたと思います。少しずつみんなが思いを出し合い、受けとめあって、一番大切にすべきものを見つめて行くことができると良いと思います。

溝掃除

2012/05/31

園舎の周りを、溝がぐるっと取り巻いています。園庭に面している部分は雨で砂が流されて溝に入ってしまいます。特に激しい雨が降ると園庭に川ができたようになるので、たくさんの砂が溝に流れ込んでしまいます。最近は雨の降り方が激しいので、流れ込む砂の量も多くなっています。そんな溝を掃除しようと、みんなで計画して溝掃除を行いました。

子どもたちがお昼寝をしている時間に、手の空いている職員が全員集まって、溝蓋を上げ、たまった砂や落ち葉をすくい出します。すくい出す砂がかなりの量になりそうだったので、軽トラックと溝掃除用のスコップを貸していただくようにお寺の方にお願いしたら、道具を持って手伝いに来てくださいました。とても助かりました。みんなで力を合わせると、作業がはかどること。あっという間に砂がなくなり、水を流してきれいさっぱり。みんなで力を合わせると気持ちもさっぱり。うれしくなります。

どんなことにもこのチームワークが発揮できると、みんなが気持ちよく仕事ができます。溝掃除の場合は、溝をきれいにすることが目的なので、みんなわかりやすく、役割分担もしやすいのですが、この目的(目指すところ)が、抽象的なことであったり、根幹に関わること、理念だったりすると、それぞれの価値観や今までの経験によって、そこに解釈の違いが生まれたりします。様々なとらわれから自分自身を解き放ち、素直にまっすぐに理念をとらえれば、本当はシンプルで簡単なことなのですが、どうしても自分の中の思い込みや、固定概念にとらわれてしまいがちです。本当に大切なこと、真理や真実を見つめられるように、素直な心でいられるように心がけたいものです。

忙中有閑

2012/05/30

忙しい中にも、少しくらい暇はあるものだ。という意味だそうです。忙しいと、ついつい忙しいという思い込んでしまいさらに忙しく感じてしまうということがあります。そんな中でも少しくらいは暇を見つけることができるはずです。というか、気持ちを切り替えれば、時間は作れるはずです。よく言われることですが、「忙」という字は心が亡くなると書きます。忙しさに振り回されて心をなくしてしまう前に、時間を作って、冷静に自分自身を見つめてみる必要がありそうです。

とはいってみても私自身、毎日、なにかに追われてバタバタしてしまっていますが、先日、お茶のお稽古があったので、久しぶりにお稽古をしていました。2週間に1度くらいお稽古があるのですが、年度替わりの忙しさに心を奪われ、しばらくお休みをしていました。そうしているうちに、季節は進み、5月に入って炉(畳の一部を切って床下にしつらえた小さな囲炉裏。そこにお釜をかけてお湯を沸かす)から風炉(炭を入れて釜を変える器)に変わってしまいました。5月の立夏前後から11月の立冬前後までは、風炉を使ってお手前をします。

長い間お稽古をサボっていたら、かなり基本的なことまで忘れていてしまっていて、ちょっとショックでした。やはり続けないとダメですね。後半は少し思い出してきたので、ひとつひとつの動作を丁寧に、手先の感覚をじっくりと感じながらお手前をしていたら、なんだか楽しくなってきました。

静かな茶室に座って、お湯が沸く音を聞きながら、お茶を点て、自分で頂くと、ホットして心がとても落ち着きました。もちろんお菓子やお茶がおいしかったこともありますが、いろいろな雑用のことが頭の中から消え去り、お稽古が終わる頃にはとてもゆったりとした気持ちになることができました。

生活にメリハリをつけることはとても大切ですね。仕事でも何でもなにか一つのことだけをずっと続けていると、どうしてもそのことにとらわれがちになり、そこから少し離れた異なった視点で物事を見ることができにくくなります。休日などもそういった意味で使うべきなのでしょうね。日々流されることなくしっかり自分をコントロールしたいものです。

おおきくなったね

2012/05/29

朝からとてもさわやかなお天気でしたが、昼頃には急に雲が広がってきて、雷も鳴り出しました。3・4・5歳児の子どもたちが、散歩に出ていたので、雨が降ってくる前に帰ってこられるといいなと心配していたら、汗をいっぱいかいて帰ってきました。子どもたちが帰ってくると同時に、パラパラパラと雨が降り出し、すぐに激しい降りになり、雷の音も大きくなってきました。5歳児は、お昼ごはんの準備ができるまでのあいだ、2階の保育室の電気を消して、稲妻を見ていたようです。ランチルームに来て、口々に説明してくれました。いろいろな自然現象に興味が持てると良いと思います。

私は少し時間ができたので、久しぶりに0・1歳児の保育室に行ってみました。散歩から帰ってトイレを済ませ、自分でズボンをはこうとしていたところでした。みんな自分でやってみようと真剣なまなざしで取り組んでいます。何回かやってもできないと、「手伝って」と目と仕草で訴えてきます。でもできるところは自分でやろうと一生懸命です。ついつい、大人がやってあげた方が早いなどと、手を出しがちですが、じっくりと見ていると、できないところだけ「手伝って」と言って(意思表示して)いるのがわかります。自分のできることとできないことがわかっていて、できないことは「手伝って!」とできそうな人に頼んでいるのです。まさに自立した姿ですね。こういうときこそ、大人は手や口を出しすぎずに、しっかりと見守り、じっくりと待ちたいものです。

ズボンがはけたら、手を洗って食事です。Hくんが私の手を引いて、手洗い場まで連れて行ってくれました。「一緒に手を洗おう」と言っているのか、「見ていてね」と言っているのかよくわからずに、見ていたら何度も石けんをつけては洗い、また石けんをつけるを繰り返していました。どのくらい続けるのだろうと思って見ていたら。結構長い間続けていたのですが、納得したのか水を止めて手を拭きに行ってしまいました。自分でいろいろと考えているのですね。

食事を始めると、お散歩帰りでお腹がすいていたのか、黙々と食べていました。雷が鳴ると、外を指さして「ゴヨゴヨ」(まだゴロゴロと言えなくてゴヨゴヨです)と教えてくれてます。食事も、上手に使えるというところまでいっていませんが、スプーンで食べようとしています。右手でスプーンを握って左手でごはんを口に運ぶこともありますが、自分でやってみたいという気持ちを大切にしてゆきたいと思います。

新入園児さんもすっかり園での生活に慣れてくれたようで、部屋も落ち着いた雰囲気になってきました。一人ひとりがそれぞれのペースで、じっくりと育って行けるように見守って行けると良いと思います。

コウモリ

2012/05/28

山にはいろいろな生き物がいて、夜に活動する動物もたくさんいます。少し前にはトラツグミのピーンという声が月夜に響いていました。ムササビもキュルキュルキュルルルと鳴いています。じっくり観察すれば木の梢から梢に滑空する姿も見ることができます。まるで座布団のような影が夜空を横切ってゆきます。フクロウの鳴き声も聞こえることがあります。アナグマは昼夜問わずにうろうろしていますし、以前ブログに書いたシカはよく見かけまし、イノシシもたまに見かけます。

他にもたくさんいると思いますが、少し変わったところでは、コウモリがいます。冬に、建物の建具の隙間で越冬していると書いたことがありましたが、それはヒナコウモリという種類です。暖かくなったこの季節は夜になると飛び回っているようです。そんなコウモリが集まっている場所があります。そこにいるのはヒナコウモリではなく、はキクガシラコウモリという種類です。
このあいだ、夕方見に行ってみたら、6頭くらいが、天井からぶら下がっていました。いつもそこにいるわけではないので、住み処は別にあると思うのですが、生態はよくわかりません。どこかに洞窟があるのだろうかと想像が膨らみます。

青森県でコウモリを研究していらっしゃる先生が、ときどきいらして調査をしてくださっています。先生がおっしゃっていたのだと思いますが、青森県で捕獲されて鳥で言う足輪のような印をつけたコウモリがこの辺りで見つかった(逆だったかもしれません)ことがあったそうです。コウモリが京都と青森の間を行き来していたとは驚きです。まだまだわからないことがたくさんあるそうで、研究が進んでいろいろなことがわかるようになってくると、たくさんの不思議にであえそうですね。

人間のわかる範囲は限られているのに、なんでもわかった気にならない方が良いのかもしれません。

    キクガシラコウモリ

カエル

2012/05/27

今頃になると、カエルの活動が活発になってきます。お寺の参道沿いの水があるところでクォクォと鳴き声がするので、たいていの人が立ち止まって、耳を澄ませていらっしゃいます。しかし、多くの人がカエルだとは気付いていらっしゃらないようで、「なにかなー?」と首をかしげながら聞いていらっしゃいます。

「カエルですよ」と教えてあげると、「カエルですか?」と驚かれる方が多いのに驚きます。中には、「スピーカーで鳴き声を流しているのですか?」とたずねられることもあって、さらに驚きます。鳴き声の主はタゴガエルというカエルです。タゴガエルはあまりカエルの鳴き声には聞こえにくいのかもしれませんね。ちょうどこの季節は産卵期で、山の中の伏流水などに産卵します。声が聞こえるのも、豊富に水があるとは思えないようなところなので、オタマジャクシはちゃんと育てるのかなと心配してしまいます。

園児たちも散歩に行くと声が聞こえるので、興味を示して立ち止まり、しばらく鳴き声に聞き入っています。ところが姿はなかなか見ることができません。狭い岩の間に入り込んでいるようです。いつも、鳴き声は聞こえるのですが、姿はほとんど見たことがありません。

カエルというと忘れてはならないのがモリアオガエルです。池の上に突き出た木の枝などに泡状の卵塊を作る種類のカエルです。山にモリアオガエルがたくさん産卵する池があり、以前は数え切れないくらいの卵塊を産み付けていましたが、最近はかなり少なくなってしまいました。
一匹の雌と複数の雄が協力し、雌がたまごを産み、雄が粘液を後足でかき混ぜてあわを作ります。時間が経つと泡の外側が乾いて難くなり、中の卵を包むように守るのです。あわは卵のゆりかごですね。卵はあわの中でオタマジャクシになり、雨で卵塊が崩れるのと一緒に水の中に落ちてゆきます。モリアオガエルは美しい緑色をしていて産卵の時期になると水辺に集まって来ます。普段はどこでどう過ごしているのかよくわかりません。今年ももう少し卵塊が増えたら子どもたちと見に行ってみようと思います。

自然の姿

2012/05/26

山にはいろいろな生き物がいます。植物も動物も菌類もたくさんのいのちが、お互いに支え合いながら、それぞれに精一杯生きています。小さいのから大きいのまで、生産者から消費者そして還元者、それぞれに役割を果たしながら関係し合って生存しています。種が芽を出して成長し花を咲かせて実をつける。そして種がまた芽を出して成長する。それを食べる虫や動物もいて、またその虫や動物を食べる動物がいる。木が枯れ葉をおとし、草花が枯れ、命絶えた動物たちが地面に横たわります。それらをキノコをはじめとした菌類が分解して土に返す。その土をよりどころとして、また新しいいのちが芽を出す。いのちは廻っているのです。

何年か前の夏のことです。鹿が足を滑らせたのか、参道の近くの谷に転落して亡くなりました。季節が季節だけに、すぐに悪臭を放ちはじめ、300メートルくらい離れた園の前でも風向きによっては、匂いが届きます。お寺に参拝される方々も、何の匂いかしらと困っていらっしゃる様子でした。何とかならないものかと、お寺の担当の方に相談したら、八方手を尽くしてくださったのですが、どうにもならないようでした。あっという間に腐敗が進んだようで、様子を見に行ったお寺の方は手のつけようがない状態だとおっしゃっていました。幸い姿はほとんど見えなかったのですが、匂いはとんでもないことになっていました。

お寺の貫主様に様子を説明したら、「自然のままにしておきなさい。」との一言でした。しかし、この匂いは大変です。と訴えても「すぐに自然が土に返してくれます。」とおっしゃるだけです。

いずれにせよ、どうしようもない状態なので、1週間なのか10日なのかもっと時間がかかるのかわかりませんが、そのままあきらめることにしました。

発見から3日目くらいまでは、ひどい匂いだったのですが、その後急に匂いがしなくなり、5日目くらいだったでしょうか、お寺の方が再び様子を見に行ってくださったときには、亡くなった鹿は既に骨だけになっていたそうです。

いつまでも悪臭を放ち続けるのではないかという私の予想は見事に覆されました。自然の力をまざまざと見せつけられたという感じです。部分にとらわれた一時的な思いは、間違った判断につながる。高いところからものごとを見つめる視点と、長いスパンでものごとを考えることの大切さと、自然の力を過小評価しないことを教えられたようなできごとでした。

みどりの季節

2012/05/25

若葉が青葉に変わり、山はみどりの季節になりました。新芽が出てすぐの明るい黄みどり色は、日の光を集めてそれ自体が発光しているかのような眩しいみどりです。日ごとに目に見えて大きくなって行く若葉の生命力がほとばしり出ているように思えます。

元気いっぱいではじけるようだったみどりも、今は少しずつ色が濃くなってきましたきました。それでもまだやわらかそうなみどりは、若々しくそれでいてしっとりとした落ち着きを感じさせてくれます。今日は雨模様なので、なおさらしっとりとした姿がしとやかに見えます。雨に濡れてもみじの枝が垂れ下がり、まるで木全体が大きな傘になったかのようです。近づいてみるとたくさんある葉っぱたちが、あちこちに雨のしずくをいっぱいにたたえて、お互いにその量を競っているかのようです。

先日、大きなモミジの木の下を通りかかったら、小さな赤いものがたくさん落ちていました。拾ってみてみると、プロペラの形をしたもみじの種です。それも、まだ大きくなりきれていないとても小さくてかわいらしいプロペラがたくさんついていました。強い風で落ちてしまったのかもしれません。もみじがいつの間にか花を咲かせて、実を結んでいたのですね。もみじは新芽が出る頃に小さな赤いかわいらしい花をつけると思うのですが、今年は見逃してしまったようです。

4月にようやく花をつけた本殿前の紅梅は葉が青々と茂り、実をたくさんつけていました。実も葉も緑色ですが、表面の質感の違いで、微妙に違う色に見えます。

みどりといってもいろいろなみどりがあります。それぞれに美しく、また、ひとつひとつの違いが全体として色の深みや美しさを作り上げているのだと思います。いろいろなみどりが、一緒にいるからこそ深みのある色になって、全てが同じ色よりも美しい。

人間だって同じです。みんながちがって、それぞれに違いをいかし合える。みんなそうなりたいですね。

やらされ感

2012/05/24

『あやもよう』という機関誌があります。先日から紹介している子どもと生活文化協会が発行していらっしゃる機関誌です。机の上にあった『あやもよう』の平成23年秋号が、ふと目にとまり開いてみました。巻頭言に「やらされ感のない気持ちよい生活」という記事があり、読み返してみました。

私が参加した「生活体験合宿」の場となった市間寮での生活は様々なところに「やらされ感のない生活」の工夫が凝らされています。生活の日課の中に作業の時間があり、これは他の日課と違って唯一「やらないという」自由が認められないものなのだそうです。それは、薪割り、草刈り、畑作業、買い出しなど生活をするうえでやらなくてはならないことだからです。そんな場合は、いくつかのやらなくてはならないことの中から一つを選んでやることになっているそうです。そういえば、私が体験したときも、調理か掃除かなどと参加者が自分で選ぶようになっていました。
他の日課を行う場合でも、必ず「他にやりたいことがある人は?」という呼びかけをして、自由を認める工夫をされているそうです。

どの作業を行うかを決めるときには、子どもが、できる力をつけていることを認めてあげさえすれば、その子がその仕事ができることを誇りに思い、そして自らがやりたい、やらせてもらいたいと積極的になり、やらされ感など持つことはないのだそうです。

当園でも、子ども自身が選ぶことを大切にしています。「みんながやることをやらないのはダメ!ずるい!」などと言ってしまいそうになりますが、それでは子どもはやらされ感100%になってしまいます。「やらされてやる。」方向を変えて言えば「やらされないとできない。」そんな子どもになってほしくはありません。

30年くらい前の「はじめ塾」の合宿では、高校生や大学生が、中間指導者で「どうしたら下級生たちにやらされ感を持たせないですむか」が課題だったそうです。未熟な指導者たちは、なかなか言うことを聞いてくれない下級生を怒鳴ったりしたそうですが、そんなときには創始者の先生から「どうしたら下級生が気持ちよくやれるようになるか知恵を働かせなさい。」と言われたそうです。そういわれて、取り組んだことは自分自身が力いっぱいやるということでした。

毎朝、正座をしてから、急な坂を少し登ったところにある神社の掃除をしていましたが、中間指導者たちは、正座をした部屋の後片付けを最後までした後、誰よりも早く神社行って掃除を始めました。
自分自身が力いっぱいやっていれば、言うことは素直に聞き入れてくれるものだと言うことを体験的に知ることが、相手にやらされ感を与えないですむ智恵なのだそうです。

「親の言動一つで、子どもがやらされ感を抱き、不満を持ちながら暮らすのかどうかが決まります。」と巻頭言は結んでありました。ドキッとすることばですね。この「親」をそのまま「保育者」にも「園長」にも置き換えられそうです。

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