困った子とか気になる子ということがよく言われます。子どもを見ていると、できないところや問題点、不足しているところに目が向きがちです。そして、その不足しているところを埋めよう、引っ張り上げようとしがちです。あまり引っ張りすぎると「助長」になり、子どもは枯れてしまいます。
これは、大人の問題です。子どもを、例えばクラスという一つの枠だけでくくって、その中で全員が同じようにしないといけないという思い込みが強いと、そこから外れる子は、困った子、問題がある子と考えがちです。もちろんみんなと一緒に取り組むことが大切なのはいうまでもありません。しかし、大人に「やりなさい」と言われていやいややってもそれはみんなでやっていることにはなりません。心は離れています。
例えば、みんながダンスをしているとき、いくら誘っても一緒にしない子がいます。見た目は一緒にやっていませんが、後で同じ音楽を聞くと、みんなと一緒にやってなかったはずなのにちゃんと踊ることができたりします。みんながやっていたときは、なにかその子なりの想いがあってみんなと一緒に動くことはしなかったけれども、ちゃんとみんなの動きを見るという形で参加していたのです。目に見える形、大人の思うような形では参加していなくても、心では参加していたのです。その子なりの参加があるのだと思います。
どうしても、みんなが同じようにしなくてはならないという固定概念で、子どもをとらえがちです。もしかしたら、今の大人がそういう価値観の中で育ってきたのかもしれません。誰かに言われたことを忠実に行う、均質な労働力としての人材を育成するための教育こそが大切。そういった価値観から見れば、みんなと同じことを同じように行うことが必要で、同じように行わない人は問題です。そうしようと思うと、どうしてもできないところ、不得意なところに注目して、そこを強化しよう訓練しようという方向で考えてしまいます。できないところに注目してしまうのです。子ども本人がなにかに挑戦するという意欲を持って前向きに練習するのなら良いのですが、大人がそうさせようと思うといろいろな無理が生じてしまいそうです。
全員が一斉に同じことをやらなければならない条件の元では、一人ひとり異なる個性がそれぞれに輝くことは難しいと思います。