節分が過ぎ、立春を迎えて、昨日までよりは少しだけ、ほんの少しだけ暖かくなったように思います。日差しがたくさん降り注いだ分だけそう感じたのでしょうか。
節分は読んで字のごとく季節の分かれ目ですから、立春、立夏、立秋、立冬の前日なのですが、立春前の節分が、旧暦の大晦日前後だったことから、立春前日の節分が年の変わり目と結びついて、ことに重要視されるようになったのかもしれません。
節分といえば、鬼です。昨日のブログにも書いたように、保育園にも鬼が来ました。
鬼とは何でしょう。古来より季節の変わり目には邪気が生じると考えられ、この邪気が鬼です。その邪気を払う行事が「追儺」(ついな)といい、平安時代から宮中で大晦日に行われていた行事で「鬼やらい」「儺(な)やらい」ともよばれていました。
それは、方相氏(ほうそうし)〈大儺君ともいう〉と呼ばれる鬼を払う役が、金色の目が四つある面をつけ、黒い衣に朱色の裳を着用し、右手に矛左手に盾をもつ姿で、後ろに侲子(しんし)〈小儺君ともいう〉を従え、かけ声をかけて大内裏をまわり鬼を逐います。そして公卿等は方相氏に付き従い桃の弓で葦の矢を射て悪鬼を追ったというものです。
お寺では、この様子にできるだけ忠実に節分追儺式が奉修されており、保育園の5歳児たちがこの法会に出仕させていただいています。ここでは、子どもたちは侲子の役で方相氏に従って、目に見えない鬼を逐うという重要な役割を果たします。
鞍馬寺の節分追儺式には鬼は姿を現しません。方相氏は目に見えない鬼を追いはらう役割なのです。ところが、方相氏の恐ろしい姿を見て鬼だと勘違いされる方が多いのです。平安時代から時代が下るにつれて、この方相氏の異様な面や姿が鬼と間違えられ、次第に方相氏が公卿に射られるということが起こったようですから、それも仕方のないことかもしれません。
目に見えない鬼はどこにいるのでしょうか。
何よりも怖いのは、山から出てくる鬼ではなく、私たち一人ひとりの心の中に潜む鬼ではないでしょうか。