分ける、隔てることから排除が起こる。分けることを徹底してゆくと、ひとり1人がバラバラになってしまいます。突き詰めれば、ひとり1人みんな違うのですから。私たちはそういうふうにできているのです。たとえ、家族といえども同じではありません。それぞれに異なる私たちが、一緒に生きて行くためには、お互いを知り、理解し、認め合うことが必要なのです。障害があるとかないとかという線引きはきわめて曖昧なものです。そうなのに、その線をくっきりと際立たせたくなってしまうのでしょうか。同じように線のこちら側にいると思っている同士でも、ずいぶん違うはずなのに。障害の有無だけでなく、人種や国籍や宗教の違いだって、同じだと思っている同士はどれだけ同じなのでしょうか。
どうしても、他の人も自分と同じように世界をとらえていると、勘違いしがちです。違う人なのですから違うとらえ方をしていることの方が多いのです。その違いを埋めるのは、知ること、理解すること、認めることそして、話し合うことなのだと思います。まず最初にすべきは、相手を受けとめることかもしれません。「この人はこういう人だから!」なんて決めつけることなく、素直にその人のことばを傾聴できると良いのでしょうね。
ひとり1人、決定的に違う私たちは、社会を作って生きるという道を戦略的に選んで歩んできました。最もうまくゆく社会の姿ってどんなでしょう。その社会を構成するひとり1人が、自分を活かせる。そのことでみんなの役に立つことができるというか、その人の良いところを活かせる社会でしょう。
国際障害者年行動計画には、「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである。」とあります。弱くもろい社会を作って私たちは生き延びてゆく事ができるのでしょうか。
共生と排除の谷間を埋めて行くために、相互に<知る・理解する・認め合う>回路を創ること、対立から対話に向かう一歩を踏み出すことからやり直すしかない