園長ブログ

「大人」になる

2014/04/02

子どもにとって「安全基地」でいることのできる保護者、保育者でいたいものです。そんな大人の元で育った子は、他の人にとっての「安全基地」になることができるのです。なぜなら、その子が丸ごと信じてもらって育てられることで、「自分は自分で良いのだ」という自信を持つことができるからです。自分の寄って立つところが、育つのです。このことが「確実性」、生きてゆくための基本となる自分自身をしっかりと確立するための方法なのです。

これは、私たちのめざしていることと同じなのですが、茂木氏が

「組織」や「肩書き」によって自らを支えるということは、すなわち、一生「過干渉」な保護者の下で過ごすようなものである。

とおっしゃるところまでは、考えが及びませんでした。乱暴かもしれませんが、言い換えれば、過干渉は子どもの主体性、自発性、自信、自己肯定感を育てることがない。そこが育たないまま大きくなると、「組織」や「肩書き」という自分の外側にある物に依存して自分を支えることしかできなくなってしまうのだ。というところには気づきませんでした。

茂木氏はこう言います。

「組織」の一員として、自らの行動の自由、ダイナミック・レンジをあらかじめ縛ってしまう。「肩書き」に「ふさわしい」行動を取ろうとするあまり、自らの自由を縛ってしまう。「過干渉」な保護者の下で、子どもの自由がいわば「窒息」するのと同じように、文脈過多な日本の社会は、その構成員の能動性、自主性を奪う。
 子どもの頃から受験に追い立てられ、「履歴書に穴が開いてはいけない」とばかり「組織」という「過干渉」な鎖に縛り付けられる日本人は、一人で不確実性に向き合うために必要な「確実性」を自らの中に涵養する機会を奪われている。日本人は、自分の中に「安全基地」を培うことができていない。結論として、「大人」になることができていないのである。

私たちはどうあれば良いのでしょうか。考えさせられます。

*太字は茂木健一郎氏のブログ、クオリア日記「過干渉な日本社会」からの引用部分です。

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