森をしばらく進むと池があり、池の端に丸木橋が架かっています。子どもたちは対岸へ行きたくてその橋を渡ります。丸木橋ですから当然滑りやすく、よほど注意しないと池に落ちてしまいます。気をつけながら、さっさと渡りきる子もいれば、慎重に一歩ずつ進む子もいます。後ろに並んでいる子は決して「早くしてよ!」なんていうことはありません。急がせると危ないことがわかっているのでしょう。園長先生は見学者に「みなさんの近くで子どもが池に落ちたら助けてあげてください。」とおっしゃいます。見ているこちらは、ハラハラ、ドキドキ、ついつい何か言いたくなります。見学者を除けば、園長先生が一人で橋を渡っている子に「ゆっくりね。大丈夫だよ。」と声をかけていらっしゃるだけで、保育士さん達は他の遊びをしている子を見ていらっしゃいました。その様子を見ていて、子どもたちが自分自身をよくわかっているのだと思いました。
池を離れて山道をどんどん進みます。走って前に行く子、落ちている栗を拾っている子、様々です。当然、転ぶ子もいます。何度も転ぶところを見ましたし、私の歩いている近くで転んだ子は、そこに落ちていた栗の実をしっかりと握っていました。子どもたちは転んでも泣いたりしません。かなり派手に転んで、痛かったんじゃないかなと思うような転び方をした子も、痛そうな顔はしますが泣くことなく、すくっと立ってまた駆けてゆきます。子どもはとても集中して遊んでいるとき、その遊びが楽しいときは転んだりしてもあまり泣くことがないので、森に没頭してとても楽しく遊んでいたのかもしれません。
最後の関門は急斜面をよじ登る場面です。かなり急で、大人でも頑張らないと登れません。子どもたちはそれぞれに工夫して登ります。誰も遅い子を急かしたりしませんし、大人も手を貸すことはありません。ほとんどの子が登り切り、年少の子がひとり悪戦苦闘しながら登っています。先に登った年上の子どもが見かねて手伝おうと斜面を滑り降りてきますが、園長先生はその子たちに「ありがとう。でも○○ちゃんは自分で登るからね。」とやさしく声をかけていらっしゃいました。こういう場面って年上の子が優しさを発揮し、大人もそれを応援しがちです。それが良い時もありますが、いつもいつもそれが適切とは限らないかもしれません。自分で登ろうと頑張っている子にしてみれば、頼みもしないお手伝いは大きなお世話ですし、その子の自分からやっていようという気持ちを摘んでしまいます。子どもが自分のできる範囲をわかっていて、それを超える部分についてだれかに「助けて」といえる自立。お節介を焼かないけれども「助けて」と頼まれたときには進んで助けられる自立。そんな自立した関係が、子どもにも、大人にも必要だと感じました。