大病をしながらも、お医者様の力を借りながら、食べ物をはじめとした自分の生活を変えることで病気が軽快し、症状の進行を抑えて仕事もしている中学高校時代の友人が尋ねてきてくれる事になりました。大柄のスポーツマンで元気のかたまりのようだった友人がどれほど憔悴した姿になっているのか心配でしたが、お寺の山門前に現れた彼は、ずいぶん痩せてはいたものの、目は澄み、顔はすっきり涼やかな感じだったので、少し安心しました。薬の影響で朝起きたときにはとてもしんどかったけれども、頑張って行こう。と心に決めて新幹線に乗ったのだと話してくれました。
お寺の本殿にお参りしたあと話をしたのですが、病気の話を聞けば聞くほど、今ここにこうしていられるのが奇跡的という感じです。もちろん彼の病気は今も治ったわけではなく、いつまた病気が再発するかわからない状態です。そんな身体で新幹線に乗って尋ねてきてくれた事だけでも感激です。そして、病気の事を気にする様子もなく詳しく伝えてくれる彼の顔には全く屈託がなく、そんな大病をした事を感じさせないくらいです。それよりも澄みきった目で、ほほえみを湛えながら穏やかに話してくれる姿には、落ち着きが感じられました。
ちょうどこの日は秋晴れの清々しい天気だったこともあって、友人も山の気持ちよさを存分に味わってとても喜んでくれていました。楽しく話していると、彼がそんな病気をしたことを忘れてしまうくらいです。中高時代をふりかえって懐かしい話もたくさんしました。話している中でとても強く心に響いた友人のことばがあります。
自分は大きな病気をして、死んでいてもおかしくないところだった。もう死んでも仕方がないとまで思った。でもこうして今生きているということは、自分にまだ果たさなければいけない役割が残っているのだと思う。病気をするまでは仕事一筋でやってきたが、まだ生きていられるのなら、これからは何か人の役に立つことをしなくてはいけないと思う。今はまだそれが何かはわからないが、これからそれを探してゆこうと思う。
死の瀬戸際まで行って、心からこう言えるというのは並大抵のことではないと思います。澄んだ目で、話す友人のことばを聞いていたら、こちらが元気を頂きました。彼が神仏から与えられた役割を果たせることを祈らずにはいられません。