高コンテクスト文化の代表とも言える日本。私たちが使う日本語には、ことばの持つ雰囲気や響きを大切にするところがあります。もちろん音としての響きもそうですが、ことばのもつ意味や役割の響きも同時に大切にします。
「余韻」ということばで表すのが良いのか「間」というのが良いのか、ことばが持っている意味そのものだけではなく、そのことばがまとっている雰囲気みたいなものです。だから短歌や俳句のように限られた字数で無限の世界を表すような文学が成立するのかもしれません。表面的に表されることばの意味の周囲に広がる世界が豊かなのでしょう。
それは、もともと日本人がもっている世界観や、世界の理解の仕方によるのかもしれません。季節に伴って移り変わる豊かな自然と、そこからもたらされるめぐみによって生きてきた日本人は、八百万の神々ということばにも表されるように身の回りの自然界の様々なものに神を見て暮らしてきました。唯一絶対の神が創造し支配する世界ではなく。身の回りの全てに神が宿っている世界です。ですから世界を理解するのに、唯一絶対から見るのではなく、あらゆる方向から見るのです。立つ位置(立場)によって見方も変わりますし、聞き方も変わります。
世界を理解するために、ことばは世界を切り取ります、切り取ることでわかりやすくはなりますが、そのことばでは表しきれない世界もあります。表しきれない世界を余韻の中に表しているのが日本語なのかと思います。
いくらグローバル化が進んでも、全て完全に説明しきってしまうのではない部分があっても良いと思います。
この発想自体が、わかりにくいと言われそうですが・・・