高コンテクスト社会と低コンテクスト社会、エドワード・ホール氏は日本は最も高コンテクスト社会だと言いました。直接的表現より単純表現や凝った描写、曖昧な表現を使い、多くは話さない、いわゆる「察する」文化の代表と言えます。これは共通した文化的な背景を持つ人同士の間でないと機能しにくいのです。しかし世界がグローバル化し、外国から来た人と共に仕事をしたり、海外で働くこともあるかもしれません。文化的背景を異にする人とコミュニケーションが必要な場合は、「察する」は通じにくいでしょう。また、日本人同士でも世代間でコミュニケーションがとりにくくなっていることもあるようです。伝承されるべきものが伝承されにくくなってきているのかもしれません。
では、全てのことをことばで説明する。ことばにして伝えなくてはならないのでしょうか。全てをことばにして伝えなくてはならない低コンテクスト社会では、話し手の責任が重大です。きちっと論理的に説明できず、意味がわかりにくいのは、話し手に責任があります。いわば、いかに話すかが重要視されています。それに対して、高コンテクストの社会では、聞き手の受取方に依存するところが多いのです。聞いた人がそれをどう受け取るかです。こう言うと、話す方に責任があるのが当然だと言われそうです。しかし、同じことを10人の人に話したときに、いくら話し手が論理的に明確に説明したとしても、受取り方は十人十色、人によって微妙に異なるはずです。
話し手にフォーカスするのが低コンテクスト社会、聞き手の聞く力に任せるのが高コンテクスト社会です。ですから、高コンテクスト社会では、「聞くこと」が重要視されるのです。前にも書きましたが、この聞くことというのが意外と難しいことなのです。発せられたことばの表面上の意味だけをとらえるのではなく、ことばの背景には「何か意味があるのだろう」とことばの意味の余韻や背景までをも感じ取ろうとして聞く姿勢が大切であり、求められているのだと思います。心を傾けて聞く「傾聴」ということが大切になってくるのです。