「平安時代の浄土教には美しさがある。齊藤眞成先生の作品は往生要集の世界を絵画で表している。」京都文化博物館で行われた齊藤眞成展の初日を見学させていただいた後のオープニングパーティーで梅原猛さんはこうおっしゃっていました。
また、「近年の齊藤眞成先生の作品は軽くなった。しかしただ軽いのではなく、軽さと深さを兼ね備えている貴重な作品だ。軽くて深いことはそう簡単にできることではない。」ともおっしゃっていました。
木村重信氏が「おどろおどろしさが消えた」とおっしゃっているように、暗く、重たい深さから、明るく、軽い深さへと齊藤師の作品が変わってきたと言うことなのでしょう。
齊藤師が自然対象を心のるつぼで溶かしてから、作品に表していらっしゃるということは、齊藤師のお心は明るく軽く、しかも深い世界に他ならないのだと思います。
それにしても、自分自身の素直な心、本心に向き合い、本心を知る、本心の声を聴くと言うことはなかなかできる事ではないと思います。そもそも、今自分の考えていることが自身の本心から出ていることなのか、それとも我が儘、我欲というフィルターを通して出現していることなのか、考えれば考えるほどわからなくなります。たぶん頭の先で考えるからわからなくなるのでしょう。考えるからわからなくなる。感じればわかるのだと思います。しかし、感じるためには自身の素直な心、本心が働かなくてはならない。どこか堂々巡りのようにも感じます。
徹底的に自分を見つめ、自分の心を見つめ、自分の素直な心に巡り会うことができれば、明るく、軽く、深い世界が感じられるように思います。
まだまだ、我欲にまみれた重く暗い淵に沈んでいる私ですが、自分自身の素直な心、本心に巡り会い、本心の声を聞けるようになりたいと思います。そのためには徹底的に自分自身と向き合い自分の心を見つめてゆく必要があるのでしょう。
齊藤眞成師が、パーティーで繰り返しておっしゃっていたことばがいつまでも心にこだまし響き渡っています。
「私は今まで佛前で自分の心と向かい合って描いてきました。くりかえします。佛前で自分の心と向かい合って描いてきました。」