いじめられる子も、いじめる子も、多くの子が苦しんでいる。いじめの問題に接するたびにそんなことを感じてしまいます。なぜ、こんなに多くの子どもたちが苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜこんなになってしまったのでしょうか。ほんとうに困ったものです。こんなに苦しんで育った子どもたちが、社会を形成できるのか心配になります。
でも、子どもたちの力を信じたいと思います。すり込まれた大人よりもずっとずっとすばらしい力を持っているはずです。私たち大人にできることは何でしょうか。
当園の前に童形六体地蔵尊というお地蔵さまがいらっしゃいます。子どもの姿をしたお地蔵さまです。その近くに「子どもはみんなほとけの子、子どもは天からの預かりもの、子どもは親の心をうつす鏡」ということばが掲げてあります。私たちはいつも「親」
の部分を「保育者」と読み替えて、それを心にとめるようにしています。
では、「親」を「大人」と読み替えるとどうでしょう。「子どもは大人の心をうつす鏡」だとしたら、子どもたちが苦しんでいるいじめの問題は、私たち大人の心をうつしている問題なのかもしれません。そう思うと私たち大人がどう生きているのか、子どもたちのいじめのようなことをしていないか。自分自身を深く深くふり返って見る必要がありそうです。
子どもたち、特に乳幼児は真似ることから学んでゆきます。ですから、私たちは特に子どもの前では、自分自身の一挙手一投足、一言ひとことに細心の注意を払っている必要があるように思います。
両手に物を持っているからといって、扉を足で開ければ、子どもはそれをまねをします。自分たちで解決する力のない子どもたちのけんかをどう仲裁すると良いのか、一方的に「謝りなさい」と言うのが良いのか、それぞれの気持ちを汲み取って表現するのを手伝い、双方が納得してわかり合えるように導いてあげるのが良いのか、よくよく考えないと子どもは、私たちが行ったとおりにします。子どもの前で人の批判をすれば、その子は人を批判する子になります。反対にいつも穏やかで、楽しい心でいれば、子どもも穏やかで楽しくなります。
当園の目指す子ども像の中には、「相手を受けとめることができる子」「自分の想いを伝えられる子」「感謝の心を持てる子」というのがあります。これは子どもがそうなってほしいという意味ですが、そのためには大人がそうするのが一番良いのです。