18ヶ月くらいの赤ちゃんは、大人が思うよりも豊かな心の世界を持っていて、意外と文脈を読んで行動していることがわかる実験を紹介しました。誰かがいない間に、増えたおもちゃがどれなのかがわかっていて、その人が戻ってきて「いいな」と言ったときにそのおもちゃを選んで渡してあげることができるという実験です。新しく増えたおもちゃはどれで、戻ってきた人がそれを欲しがっているということがわかるのです。
この実験のように、きちっと条件を整えた実験はできませんが、現場で子ども達と関わっていると、例え、ことばを話さなくても、よくいろいろなことを考えているなと思う場面に出会うことがあります。実験のように明確に検証できる場面というのは、そうあるわけではありませんが、友達が着替えようとしていたら、その子の服を渡してあげるといったことはよくある光景です。
心という目には見えないものに対する理解はいつ頃からできるうになるのでしょうか。「心の理論」という研究があります。誰かの心はどうなのだろう?他者にも心があって、心でなにを思っているのだろと考えることができるかどうかです。
誤信念課題という実験があります。
サリーとアンがいました。
サリーはカゴを持っていて、アンは箱を持っています。
サリーがカゴの中に自分のビー玉を入れて、部屋から出て行ってしまいました。
アンはサリーがカゴにいれたビー玉を、サリーがいない間に自分の箱に移し替えて部屋を出てゆきました。
部屋に戻ってきたサリーはビー玉で遊ぼうとします。
サリーはカゴの中を探すでしょうか、箱の中を探すでしょうか?
というものです。
カゴの中にビー玉をいれたサリーは、アンがビー玉を箱に移し替えたことを知らないので、自分がビー玉をいれたカゴの中を探す。
ということを普通私たちは考えます。それは、サリーの立場に立ってサリーならどう考えるかということ、サリーの心を想像するということをしているからです。しかし、3際くらいの子どもは、アンがビー玉を箱に移し替えたという事実に引きずられて、箱と答えてしまうことがあるそうです。
相手の気持ちになって考えるということは、社会を作ることで生き延びてきた人間にとってはとても大切なことだと思います。
(10月21日 日曜日にアップを予定していた記事です)