・ごはん
・クリームシチュー
・フルーツ
*本日の給食のクリームシチューは、手作りクリームシチューです。まろやかな、とろーりとした、クリームシチューにしあげました。子どもも大人もいっぱいおかわりしてくれました。
2016/01/30
2016/01/29
どうしようもないことを泣きわめきながらも経験するときに、側に寄り添っていてくれる大人の存在、安全基地としての大人の存在が、子どもにとって重要になってくるのです。
0・1・2歳児の子どもたちには、そんな体験をして欲しい!私たちの願いと、金子しゅうめいさんの思いが一致したので、0・1・2歳児だけを対象に、獅子舞を経験するという試みをしてみました。
金子しゅうめいさんの言葉を借りれば、「みんなでお散歩している途中に、たまたま獅子舞に出会った感覚でいてほしい」ということです。ごくごく日常の一場面として、獅子舞を感じ、恐怖にパニックになりながらも、安全基地としての保育士の先生がいてくれる。でもその先生が、自分の頭を獅子に噛ませる。「なんじゃこりゃー?!」の経験をして欲しiいな!と思ったのでした。
何を意図して、どんな経験をするか、いろいろと考えてゆきたいと思います。
2016/01/29
2016/01/28
世界には、成人するための様々な通過儀礼があります。そういった通過儀礼は往々にして困難や恐怖を伴うことが多いように思います。鞍馬村の通過儀礼は、鞍馬の火まつりにおける「チョッペン」というしきたりです。
京都新聞の「観光・京都おもしろ宣言」とうホームページ
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/omoshiro/hito02_02.php
に「チョッペン」について記した記事があったので、引用させていただきます。
チョッペン−。言葉も不思議なら、そのスタイルも奇妙だ。鞍馬地区独特の、大人デビューを果たすための重要な儀式である。たいまつの派手さに隠れて、あまり知られていない。
炎の嵐が収まり、午後9時を回ったころから二基の神輿(みこし)の渡御が始まる。若者たちに担がれた神輿は、女衆の引き綱でコントロールされ、そろそろと山門下の石段を降りる。この時、その左右の担ぎ棒の先端に注目だ。そこには締め込み姿の若者がぶら下がり、足を逆さ大の字にし、それを担ぎ手がさらに押し上げる! なんとも珍しいセレモニー。
もしものことがあれば、神輿の担い棒に押しつぶされて、いのちを奪われるかもしれない。その恐怖に絶えることが通過儀礼になっているように思います。
獅子舞の獅子に頭を噛まれることが、通過儀礼とはいいませんが、どうしようもないことを泣きわめきながらも経験することも、発達につながるのかもしれません。
2016/01/28
2016/01/27
やりたいけれどもできない。「〜〜だけれども、〜〜だ!」自分を自分で乗り越えることが発達だともいわれます。もしそうだとしたら、一見、矛盾する事柄を自分自身の中でどう整合性をつけるのかも、発達かもしれません。「あー!あれは親の深い愛情とつながっていた行為なんだなー」と気づくのは、ずっと後になってからだと思いますが、そこを通過することが、そのことに気づくための布石になっているのではないでしょうか。また、どうしようもなくこわいこと、一見理不尽だと思えるようなことが、起こりうるということを経験する事も、子どもの発達にとって大切なのではないでしょうか。
そんな困難を経験するときに必要なのが、安全基地となってくれる親や保育者です。心折れたときに帰るところがある。いざというときには、守ってもらえる安全基地があるからこそ、子どもはいろんな事にチャレンジしてみよう。と思えますし、積極的に未知の世界に働きかけようともするのです。そこには絶対の信頼関係があるのです。子どもは信頼してくれているはずなので、大人が、ありのままのその子をどれだけ信じる事ができるかが重要です。ついつい自分の都合の良いように、大人が思うとおりに子どもを動かそうとしてしまいがちですが、余計な一言を言うのをぐっと我慢して、その子を待つ。その子を丸ごと信じて見守る。事が大切なのだと思います。そのためにも、子どもを立派な1人の人格として認める、尊敬するという基本的な姿勢が必要だと思います。
2016/01/27
2016/01/27
学童保育 2016年2月の予定をお知らせします。
2016/01/26
子どもは怖くて怖くてしょうがないのに、大人は笑いながら泣いている子どもの頭を獅子に差し出す。大人の気持ちとしては、「どうぞこの子が、元気で上部に育ちますように!この子に良いことがありますように!」という祈りの気持ちで獅子に子どもの頭を噛んでもらうようにするのですが、子どもにしてみれば、なんで?なんで?となるのではないでしょうか。
自分を守ってくれるはずの親が、恐ろしい獅子に自分の頭を噛ませるように仕向けている。この矛盾に子どもはその時はパニックになるかもしれません。表面的には矛盾しそうなことが同時に起こっている。その矛盾を経験すると、いつかその時のことをふり返ったときに、親の深い愛情に気づく事ができ、それに気づいたときに腑に落ちるのかもしれません。
やりたいけれどもできない。「〜〜だけれども、〜〜だ!」を乗り越えることが発達だともいわれます。もしそうだとしたら、一見、矛盾する事柄を自分自身の中でどう整合性をつけるのか。「あー!あれは親の深い愛情でつながっていた行為なんだなー」と気づくのは、ずっと後になってからだと思いますが、そこを通過することが、そのことを気づくための布石になっているのではないでしょうか。
2016/01/26