子どもが発達する上で欠かすことのできない「安全基地」は、あくまでも子どもの自主性、能動性を前提に、親がその「挑戦」を見守るというかたちで成立する
茂木 健一郎 氏のことばにあるように、子どもの自主性、能動性が大切なのです。子どもが自分の意志で、主体的、自発的に活動するからこそ、学びが深まるのです。そのためにも、大人は子どもの安全基地でいることが最も大切なのです。であるにもかかわらず、過干渉という形で自分の思うとおりに子どもを動かしたがる大人は多いのではないでしょうか。気をつけないとこの罠に陥りやすいのだと思います。
「過干渉」な保護者は、安全基地を提供しているとは言えない。子どもが何をやるべきか、「箸の上げ下ろし」まで指示し、干渉する。子どもを評価する文脈を、過剰に設定する。子どもが自主的に何かをしようとすると、「勝手にそんなことをしてはダメ」と怒る。そのような保護者は、子どもの自主性を伸ばしてあげることができない。
全くその通りです。そしてこうした保護者のもとで育つと、保護者が設定した文脈の中でしか能力を発揮できなくなるのでしょう。
子どもの頃から「受験」に追い立てられ、「一流大学」から「一流企業」へと進む。そのような日本のシステムに乗った「良い子」は、結局、文脈限定の能力を身につけているに過ぎない。「組織」や「肩書き」を自らの存在意義とするということは、能動性を前提にした「安全基地」の思想からは最も遠いことである。「組織」や「肩書き」によって自らを支えるということは、すなわち、一生「過干渉」な保護者の下で過ごすようなものである。
過干渉な保護者に育てられると、能動的、自発的に環境に関わる経験をしないので、子どもに主体性は育ちません。すから、大人になれば、保護者の代わりに、自分をある文脈限定にしてくれる組織や肩書きに縛られるというか、逆に依存してしまうのかもしれません。
*太字は茂木健一郎氏のブログ、クオリア日記「過干渉な日本社会」からの引用部分です。