携帯電話やメールが発達したこともその要因かもしれませんが、相手と対面してコミュニケーションすることが少なくなっています。息づかいや表情、目線で伝わるものが多いのに、それは対面しなくてはそれは伝わりません。
対話の対という文字はもともとは「對」で鋸刃のついた道具を手に持って土をうち固める姿を現しています。二人が向かい合って土をうちかためたことから、「むかう、あう、こたえる」という意味に使うようになったそうです。
相手と向かい合わず、携帯やスマホの画面ばかりを見ていることが視界を狭め、閉じこもる方向に向かいう可能性があります。そのことが周りを排除することにつながり、排除は自分の中でのバランスを欠いたときに外への暴力に変わる可能性があるそうです。「バーミヤンの大仏を破壊したタリバン、テロに対する暴力の応酬も、ヒステリックな排除の論理につながっています。」(京都新聞1月7日朝刊)と長倉洋海さんはいいます。
面と向かって話しをする、対話による相互理解、相手を排除するのではなく、相手を受けとめようとする姿勢、理解しようとする態度が必要なのに、排除しようとしてしまうのはなぜなのでしょうか。
イスラムの「ジハード(聖戦)」には二つあって、敵と戦う小ジハードと、自分の弱い所、エゴイスティックな部分と戦う大ジハードがある。対話する以上、まず自らに問いかけなくてはいけない。その前提がないと意見はぶつかり合うだけです。(京都新聞1月7日朝刊)と長倉さんは言います。
対話の最初は自らに問いかけることなのかもしれません。自分の弱い所、エゴイスティックな部分、つまり我欲に流されて発信するのか、本当の自分というか、自分は真摯に自らの役割を果たそうとして発信しようとしているのか、常に自分に矢印を向けて考えてから、真心の自分の声を聴いてから発信しようとしているのかを見極めなくてははならないということなのだと理解しました。
でもどうしても、我欲に引きずられた弱い自分で発信してしまいがちなのです。わかっているつもりでも、わかっていない自分がいるのも事実です。「我欲に持って行かれることもある自分もいる。」それも含めて自分自身なんだと心の底から思える、自分自身を丸ごと受けとめられる自分でいたいと思いますが、簡単にはできそうにありません。