・なたね焼
・フルーツサラダ
・具沢山スープ
2012/10/31
2012/10/31
赤ちゃんは、視力が弱くはっきりとは見えないことで、余分な情報が入ってこないので、表情を読み取りやすいということを知りました。しかし、以前別の実験で赤ちゃんが猿の顔を見分けるということが取り上げられていたことと比べると、視力が弱くディーテールを見ることができない赤ちゃんがどうやって猿の顔の微妙な違いを見分けているのか不思議です。
ところが、自閉症の人の中には、赤ちゃんの時には良くないはずの視力が良く、細部まではっきりと見えてしまう人がいるそうです。定型発達の場合は、顔を上下逆さにひっくりかえして提示すると顔として認識するのが難しく、これを倒立効果というそうですが、自閉症の人の場合この倒立効果が起こりにくく、顔の全体というよりも、目、鼻、口といった部分に注目して見ていて、特に目のあたりよりも口のあたりを見ていることが多いという研究があるそうです。
自閉症などの人は、見ている世界が全く違うということを聞いたことがあります。多くの人は、注意を向けているものははっきりと見ていますが、それ以外の視界には入っているものについての情報はある程度省いて見ています。それに対して、自閉症などの人の中には視界に入ってくる全てのものの情報が同じレベルで見えてしまう人もいるそうです。
聞くことについても、健常といわれる人たちが、様々な音のなかから聞きたい音を選んで聞くことができるのにたいして、あらゆる音が同じレベルで耳に飛び込んできたり、とても大きな音で聞こえたりするそうです。
感じ方が違うのです。ただ違うだけなのです。自閉症の人に限らなくても、誰でも一人ひとりそれぞれの見方をし、それぞれの聞き方をしているはずです。ただどれだけ違うかの差だけであって、大多数の平均的な感じ方とは違いが大きいだけなのです。その人でないとできない見方や聞き方があるということです。
それが、大多数の人とコミュニケーションを取るのに不都合だったりする場合もありますが、その人にしか見えない聞こえない世界もあるのです。お互いがそれぞれを理解するように努め、それぞれを認め合い、それぞれの良いところがみんなのために活かされるようであると良いと思います。
2012/10/31
病院には、いろいろな症状の患者さんが入院していらっしゃいます。そして、患者さんひとり一人に合わせた治療計画や看護計画が立てられているという説明がありました。当然といえば当然のことです。私のようにおなかの調子の悪い人もいれば、足を骨折した人もいます。ひとり一人症状が違います。どの患者さんもみんな同じように治療や看護ができるはずがありません。患者さんがどんな容体なのか、今何が必要なのか、次の段階は何なのか、ひとり一人の患者さんから考える事をしなくては、治療も看護もできるはずがありません。誰が考えてもわかることです。
保育だって同じだと思います。ひとり一人の子どもの今現在の状態はどうなのか、目の前のこの子が「今を最も良く生きる」ためには何が必要なのか、どんな環境を整えると良いのか、どんな働きかけをすると良いのかしない方が良いのか、今この子はどんな発達をしようとしているのか。まず子どもから出発しなくてはなりません。
そのためには、子どもの発達を理解した上でしっかりと見ている必要があります。ですから、保育計画も子どもひとり一人に必要となってくるのです。それが、ひとり一人に合わせた保育をするということです。発達に必要な集団を作るのであれば、その集団を必要としている子どもが集まれば良いのです。子どもから考えれば当然そうなります。病院でおなかが痛い人と足を骨折した人の治療が同じでないことは誰でもそう思うはずです。ひとり一人違う子どもも今必要なことは違うのです。同じことをさせることによって発達を促せるのでしょうか?治療を間違えば命に関わるように保育も間違えば大変なことになるのです。
病院にカルテがあるように、保育にもカルテのようなものが必要だと思います。それによって、子どもひとり一人の今にとって何が最も良いのか、保育者集団が共通認識を持ち、保育の方法を本音で議論する必要があります。
2012/10/31
この日は、秋晴れの散歩日和でした。すみれぐみ(1歳児)の5人と、れんげぐみのAちゃんは、お山の公園と川原まで、お散歩に出かけました。朝から、すごく楽しみにしていてリュックを離さない子もいました。お弁当だけは、園において水筒をリュックに入れていざ出発です。友達と手を繋いで歩くことも出来るようになって、それぞれ顔を見合わせてニッコリ微笑みながら繋いでました。神社で手を合わせた後は公園で、滑り台やブランコを順番に楽しんでました。
神社の階段を下りる時、B君が一人立ち止まっていると「B君おいで〜」と呼んでいたのはCちゃん。他の子も下りてくるのをずっと待ってくれてました。それから川原まで出かけました。ススキの綿帽子をフーとしたり、ユラユラ揺らすと喜んでいたのはAちゃん。
絵本のお話にある大きなかぶごっこも好きで、この日は順番につらなって、ススキをうんとこしょ〜どっこいしょ〜で引っ張って、それでもススキは抜けませんと、盛り上がってました。移動する時、友達のリュックを集めて渡していたのはB君。渡されたDちゃんも嬉しそうでB君の頭をなでなでする姿もありました。
川では、木の棒をたらして釣りしたり、葉っぱの舟や小石をポーンと投げてみたり…カニとの出会いにじっと興味をもって最後まで見ていたのはE君。手でチョンと触ったり、ハサミのところに葉っぱを持たせてみたりしてました。皆、そろそろ帰ろうか〜と言っても、まだまだ遊んでたい様子でしたが、お弁当を食べに帰ろうかと言うと、そこからは帰る足取りも軽かったです。
いよいよ楽しみにしていたお弁当タイムに皆大満足のようで、モリモリ食べてました。余程、今日は楽しかったみたいで、次の日も、お弁当袋をさげて帽子かぶって、遠足ごっこ楽しんでいる姿がありました。
2012/10/30
2012/10/30
私たち晴眼者は、何気なくものを見ています。視力が良い人そうでない人、様々な人がいて様々な見え方をしています。そして、視覚から得る情報が、他の感覚から得る情報よりも圧倒的に多いのです。
赤ちゃんはどうでしょう、赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいるうちから様々な感覚を使っているという研究が進んでいることは以前紹介しました。嗅覚については見解が分かれるようですが、触覚、聴覚、味覚は胎児のうちから充分に使っています。赤ちゃんに視覚が必要になるのは、生まれ出た後からです。もちろんおなかの中では光は感じているそうですが、目を開けて見るのは生まれてからです。
中央大学教授 山口正美氏の講義を聴く機会がありました。先生は視覚の研究をされています。
赤ちゃんはどのように世界を見ているのでしょうか。生後1カ月の赤ちゃんの視力は0.02くらいで、6カ月頃になってようやく0.3〜0.4位の視力になるそうです。ですから、赤ちゃんの見ている世界は、鮮明ではなくぼやけているのです。
ところが、赤ちゃんは生後4日でお母さんの顔を見分けるそうです。もちろん顔だけがはっきり見えるということはありません。ぼやけて見えています。このはっきり見えないということが、赤ちゃんの見る、特に顔を見ることの発達にとっては重要な意味を持つそうです。
はっきり見えないということは、顔のディテールまでは見えないということです。つまり視覚から受け取る情報量が少ない。情報が少ないと学習しやすいということかありますが、ぼやけて見える方が、表情を読み取りやすいということもあるそうです。
たしかに、はっきりした写真の顔を見ると、目がどう、眉がどう、口がどうなっている。ほくろがあるなど細かなところに目が行ってしまって、無表情なのか、笑っているのか顔全体を見直すことをしないとわからないことがあります。ところが、ぼかした写真だと、目と口の形なのか位置関係なのか、表情がわかりやすいように思います。
視力が0.01という大人の人に裸眼で、1メートルほど離れたところに立った私の顔を見てもらいました。顔だということは認識できるそうです。笑った顔、怒った顔をして見たら、表情もわかるといっていました。
赤ちゃんにとっては表情を見分けることは大切なことなのです。ですから、必要な情報だけを活かして、不必要な情報はとりいれない、視覚の情報リテラシーの能力が赤ちゃんには備わっているのではないでしょうか。
2012/10/30
おなかの調子が、良くなくて入院し、絶食治療が4日ほど続きました。点滴で栄養補給しているので、特におなかが空いたとか何か食べたいという気にはなりませんでした。
このままなら、少したまったおなかの脂肪もとれるし、別に食べずにいても大丈夫かなと思っていたくらいです。
ところが、少し良くなったのでどうしてもしなく点滴を外して外出した日がありました。お医者様に病院に戻るように言われた時間に近づくと、エネルギーが切れたのか少しフラフラしてきたので、慌てて戻りました。カラータイマーが点滅し始めたウルトラマンになった感じです。
そして、久しぶりの食事の日がやってきました。メニューは重湯だけでしたが、スプーンですくって最初の一口を口に含んだときのおいしさは、なんともいえません。ほのかな甘みが口の中に広がって、重湯がこんなにおいしいとは思いませんでした。思わず、心の中で「ありがとうございます」と言っていました。
二口、三口とゆっくりと味わいながら、ゆっくり食べ進めるうちに、身体や顔が熱くなってきて、食べ物から力をもらっているという実感が湧いてきます。口から食べ物をいただくことの大切さを改めて実感しました。
当園の保育方針を記したコンセプトブックに、「食べることは、食べ物のいのちをいただくことだ」と書いています。食べるということは、お米にしても野菜にしても、魚や肉も、ほぼ全てがそのもののいのちをいただくということです。食べ物のいのちをいただくことができるからこそ、私たちは自分の命をつないでゆけるのです。
やはり、栄養剤の点滴だけでは栄養補給はできても、本来の意味での生きる力にはつながらないのだと思います。
そんなことはわかっているつもりだったのですが、一口ひとくち、「ありがとう」と感謝して丁寧にいただくことの大切さを改めて思い直しました。
2012/10/30
お昼寝の時、布団に入ってからお喋りが楽しくて仕方のないみんな。布団に入って横になりながらお喋りがはずみます。
大人でも旅行なんかに出かけると夜中まで友達と会話がはずみ意味のある深い話になることもあると思います。
先日、日頃口数の少ないAちゃんが「なんでいっぺん着た服は持ってかえらなあかんの?」「なんで靴下毎日持ってかえらなあかんの?」などポツリポツリと聞いてきました。
毎日、本人もみんなも当たり前のように繰り返している行動に「なんでかな?」と感じていたことを知り驚いたのと同時に いつもしていることを一瞬立ち止まって考えられるAちゃんに感心しました。
きっと、頭の中で‘?’と感じながらも口に出すタイミングがなく日々が流れていたのかもしれません。
体と心をそっと落ち着かせ休む時間だからこそ、普段聞けないことが聞けたり、ちょっといつもと違う一面を見せてくれたりするのかもしれませんね。
お昼寝時のほんの30分ほどの短い時間ですが子ども達のことをより深く知る為の時間として大切にしたいなぁと思いました。Aちゃんとのほんの数分のやりとりでしたが、いろいろ考えるきっかけになりました、Aちゃんありがとう!
2012/10/29
2012/10/29
自己と他者の関係で、自分に心があり他者にも心がある。他者は心で何を思っているのだろうと思いをめぐらすこと、相手の立場に立って考えることは、他者と協力し合い社会を作ることで発展してきた人類にとってはとても大切なことです。
「心の理論」という研究があり、そのなかの誤信念課題というのを紹介しました。
他には、スマーティ課題というのがあります。スマーティとはチョコレート菓子です。日本にあるマーブルチョコレートみたいなチョコレートです。多くの人に親しまれたパッケージで、誰でも箱を見ればそれがスマーティだとわかるほどポピュラーな存在で、実験はこんな風に行われます。
スマーティの箱を子どもに見せて、「この中に何が入っていると思う。」と尋ねます。子どもは、スマーティと答えます。箱の中を見せて、実はスマーティではなく、鉛筆が入っていることを見せます。その後に「この箱を○○くんに見せて、何が入っているかと尋ねると、なんて答えるかな。」と尋ねます。
実験の結果では5歳くらいではチョコレートと答えるそうですが、3歳では、鉛筆と答えるそうです。
この実験の結果から、心の理論が理解できるのは4歳ぐらいだといわれています。つまり、相手の立場になり、気持ちになって考えられるのは4歳くらいからだというわけです。
しかし、先に紹介した18カ月くらいの赤ちゃんが、ある人が中座している間に増えたおもちゃを、中座から戻った時にその人に渡すことができるという実験は、赤ちゃんが中座した人の心に思いを馳せているように思えてならないのです。
ひとつ忘れてはならないのが、誤信念課題にしても、スマーティ課題にしても、実験はことばを介して行われているということです。ですから、ことばを話せない赤ちゃんにはこの実験はできないのです。ことばにするととても説明しにくく、特に文書にしてしまうと大人でも注意深く読まないと、何のことをいっているのかわかりにくいと思います。ですから、ことばを操ることができない赤ちゃんに同じ実験をすることはできません。
本当は4歳というよりもっと早くから、自分のこと、他者のこと、他者の心を考えているように思います。ことばを使わない方法で、同じよう実験をすれば、もっと小さいうちから心の理論を理解している結果が出るのではないかと思うのです。