2012年 5月

きょうのごはん

2012/05/28

・ごはん

・だしふりかけ

・大豆の五目煮

・野菜の和え物

・吸い物

ちょっとした気持ち

2012/05/28

少し前の話ですが、さくら組み(2歳児)の保護者の方が「先生これ、ちょっとお部屋にでもどうぞ!」と花を持って来て下さいました。

その花は、すごく不思議な花で名前は“ハナイカダ”というのですが、葉っぱの上のしかも真ん中に小さな緑の花が咲き、実がなります!葉っぱをイカダに見立ててこんな名前がついたらしいのですが、本当に不思議でかわいらしい花です。

花を持って来て下さる気持ちが本当にステキで、花のおかげで部屋もなんだか少しステキな雰囲気になれたような気がします。

カエル

2012/05/27

今頃になると、カエルの活動が活発になってきます。お寺の参道沿いの水があるところでクォクォと鳴き声がするので、たいていの人が立ち止まって、耳を澄ませていらっしゃいます。しかし、多くの人がカエルだとは気付いていらっしゃらないようで、「なにかなー?」と首をかしげながら聞いていらっしゃいます。

「カエルですよ」と教えてあげると、「カエルですか?」と驚かれる方が多いのに驚きます。中には、「スピーカーで鳴き声を流しているのですか?」とたずねられることもあって、さらに驚きます。鳴き声の主はタゴガエルというカエルです。タゴガエルはあまりカエルの鳴き声には聞こえにくいのかもしれませんね。ちょうどこの季節は産卵期で、山の中の伏流水などに産卵します。声が聞こえるのも、豊富に水があるとは思えないようなところなので、オタマジャクシはちゃんと育てるのかなと心配してしまいます。

園児たちも散歩に行くと声が聞こえるので、興味を示して立ち止まり、しばらく鳴き声に聞き入っています。ところが姿はなかなか見ることができません。狭い岩の間に入り込んでいるようです。いつも、鳴き声は聞こえるのですが、姿はほとんど見たことがありません。

カエルというと忘れてはならないのがモリアオガエルです。池の上に突き出た木の枝などに泡状の卵塊を作る種類のカエルです。山にモリアオガエルがたくさん産卵する池があり、以前は数え切れないくらいの卵塊を産み付けていましたが、最近はかなり少なくなってしまいました。
一匹の雌と複数の雄が協力し、雌がたまごを産み、雄が粘液を後足でかき混ぜてあわを作ります。時間が経つと泡の外側が乾いて難くなり、中の卵を包むように守るのです。あわは卵のゆりかごですね。卵はあわの中でオタマジャクシになり、雨で卵塊が崩れるのと一緒に水の中に落ちてゆきます。モリアオガエルは美しい緑色をしていて産卵の時期になると水辺に集まって来ます。普段はどこでどう過ごしているのかよくわかりません。今年ももう少し卵塊が増えたら子どもたちと見に行ってみようと思います。

自然の姿

2012/05/26

山にはいろいろな生き物がいます。植物も動物も菌類もたくさんのいのちが、お互いに支え合いながら、それぞれに精一杯生きています。小さいのから大きいのまで、生産者から消費者そして還元者、それぞれに役割を果たしながら関係し合って生存しています。種が芽を出して成長し花を咲かせて実をつける。そして種がまた芽を出して成長する。それを食べる虫や動物もいて、またその虫や動物を食べる動物がいる。木が枯れ葉をおとし、草花が枯れ、命絶えた動物たちが地面に横たわります。それらをキノコをはじめとした菌類が分解して土に返す。その土をよりどころとして、また新しいいのちが芽を出す。いのちは廻っているのです。

何年か前の夏のことです。鹿が足を滑らせたのか、参道の近くの谷に転落して亡くなりました。季節が季節だけに、すぐに悪臭を放ちはじめ、300メートルくらい離れた園の前でも風向きによっては、匂いが届きます。お寺に参拝される方々も、何の匂いかしらと困っていらっしゃる様子でした。何とかならないものかと、お寺の担当の方に相談したら、八方手を尽くしてくださったのですが、どうにもならないようでした。あっという間に腐敗が進んだようで、様子を見に行ったお寺の方は手のつけようがない状態だとおっしゃっていました。幸い姿はほとんど見えなかったのですが、匂いはとんでもないことになっていました。

お寺の貫主様に様子を説明したら、「自然のままにしておきなさい。」との一言でした。しかし、この匂いは大変です。と訴えても「すぐに自然が土に返してくれます。」とおっしゃるだけです。

いずれにせよ、どうしようもない状態なので、1週間なのか10日なのかもっと時間がかかるのかわかりませんが、そのままあきらめることにしました。

発見から3日目くらいまでは、ひどい匂いだったのですが、その後急に匂いがしなくなり、5日目くらいだったでしょうか、お寺の方が再び様子を見に行ってくださったときには、亡くなった鹿は既に骨だけになっていたそうです。

いつまでも悪臭を放ち続けるのではないかという私の予想は見事に覆されました。自然の力をまざまざと見せつけられたという感じです。部分にとらわれた一時的な思いは、間違った判断につながる。高いところからものごとを見つめる視点と、長いスパンでものごとを考えることの大切さと、自然の力を過小評価しないことを教えられたようなできごとでした。

園庭でピクニック給食!

2012/05/26

先日、気候がとてもよかったので園庭で給食を食べることにしました。

園庭にブルーシートを敷いて準備している時から、「わぁ!!今日外で食べるんやんなぁ!!」と嬉しそうなみんなでした。

新緑の中で食べる給食はとても心地よく、落ちてくる葉っぱや机に飛んでくる虫たちを見ておしゃべりも弾むようでした。

何よりもみんなの食欲にはびっくりしました!!

野菜嫌いで給食を食べるのに少々時間がかかる子も、普段から小食であまりおかわりをしない子も、その日はもりもりおかわりをしていました。

嫌いなものがあっても、ちょっと環境や気分が変わるだけで、自然に食べることができたりするものなんですね!!

自然の力と子ども達のパワーには限りないものがあるなぁと思いました。

みどりの季節

2012/05/25

若葉が青葉に変わり、山はみどりの季節になりました。新芽が出てすぐの明るい黄みどり色は、日の光を集めてそれ自体が発光しているかのような眩しいみどりです。日ごとに目に見えて大きくなって行く若葉の生命力がほとばしり出ているように思えます。

元気いっぱいではじけるようだったみどりも、今は少しずつ色が濃くなってきましたきました。それでもまだやわらかそうなみどりは、若々しくそれでいてしっとりとした落ち着きを感じさせてくれます。今日は雨模様なので、なおさらしっとりとした姿がしとやかに見えます。雨に濡れてもみじの枝が垂れ下がり、まるで木全体が大きな傘になったかのようです。近づいてみるとたくさんある葉っぱたちが、あちこちに雨のしずくをいっぱいにたたえて、お互いにその量を競っているかのようです。

先日、大きなモミジの木の下を通りかかったら、小さな赤いものがたくさん落ちていました。拾ってみてみると、プロペラの形をしたもみじの種です。それも、まだ大きくなりきれていないとても小さくてかわいらしいプロペラがたくさんついていました。強い風で落ちてしまったのかもしれません。もみじがいつの間にか花を咲かせて、実を結んでいたのですね。もみじは新芽が出る頃に小さな赤いかわいらしい花をつけると思うのですが、今年は見逃してしまったようです。

4月にようやく花をつけた本殿前の紅梅は葉が青々と茂り、実をたくさんつけていました。実も葉も緑色ですが、表面の質感の違いで、微妙に違う色に見えます。

みどりといってもいろいろなみどりがあります。それぞれに美しく、また、ひとつひとつの違いが全体として色の深みや美しさを作り上げているのだと思います。いろいろなみどりが、一緒にいるからこそ深みのある色になって、全てが同じ色よりも美しい。

人間だって同じです。みんながちがって、それぞれに違いをいかし合える。みんなそうなりたいですね。

きょうのごはん

2012/05/25

・三色どんぶり

・わかめの酢の物

・さつま汁

・バナナ

親子遠足

2012/05/25

天気も晴れて親子遠足日和になりました。子ども達も、半日お父さんお母さんと一緒でテンションがあがっている子もいれば甘えた姿の子もいましたがみんな元気いっぱい楽しんでいたかなと思います。

散歩ではいつものように急な坂道を走っている年長.年中さん!!それを後ろから一生懸命追いかける保護者の方達!!由岐神社付近で「ついて行くのが精一杯…しんどい..」と言う保護者の方もいましたが四脚門まで行って帰ってこられた保護者の方には「普段のこども達の様子が知れてよかったです」と喜んでもらえてこちらも嬉しかったです。

短い時間でしたがとっても楽しい充実した半日を過ごせて良かったです。お忙しい中来ていただいた保護者の皆様ありがとうございました。

やらされ感

2012/05/24

『あやもよう』という機関誌があります。先日から紹介している子どもと生活文化協会が発行していらっしゃる機関誌です。机の上にあった『あやもよう』の平成23年秋号が、ふと目にとまり開いてみました。巻頭言に「やらされ感のない気持ちよい生活」という記事があり、読み返してみました。

私が参加した「生活体験合宿」の場となった市間寮での生活は様々なところに「やらされ感のない生活」の工夫が凝らされています。生活の日課の中に作業の時間があり、これは他の日課と違って唯一「やらないという」自由が認められないものなのだそうです。それは、薪割り、草刈り、畑作業、買い出しなど生活をするうえでやらなくてはならないことだからです。そんな場合は、いくつかのやらなくてはならないことの中から一つを選んでやることになっているそうです。そういえば、私が体験したときも、調理か掃除かなどと参加者が自分で選ぶようになっていました。
他の日課を行う場合でも、必ず「他にやりたいことがある人は?」という呼びかけをして、自由を認める工夫をされているそうです。

どの作業を行うかを決めるときには、子どもが、できる力をつけていることを認めてあげさえすれば、その子がその仕事ができることを誇りに思い、そして自らがやりたい、やらせてもらいたいと積極的になり、やらされ感など持つことはないのだそうです。

当園でも、子ども自身が選ぶことを大切にしています。「みんながやることをやらないのはダメ!ずるい!」などと言ってしまいそうになりますが、それでは子どもはやらされ感100%になってしまいます。「やらされてやる。」方向を変えて言えば「やらされないとできない。」そんな子どもになってほしくはありません。

30年くらい前の「はじめ塾」の合宿では、高校生や大学生が、中間指導者で「どうしたら下級生たちにやらされ感を持たせないですむか」が課題だったそうです。未熟な指導者たちは、なかなか言うことを聞いてくれない下級生を怒鳴ったりしたそうですが、そんなときには創始者の先生から「どうしたら下級生が気持ちよくやれるようになるか知恵を働かせなさい。」と言われたそうです。そういわれて、取り組んだことは自分自身が力いっぱいやるということでした。

毎朝、正座をしてから、急な坂を少し登ったところにある神社の掃除をしていましたが、中間指導者たちは、正座をした部屋の後片付けを最後までした後、誰よりも早く神社行って掃除を始めました。
自分自身が力いっぱいやっていれば、言うことは素直に聞き入れてくれるものだと言うことを体験的に知ることが、相手にやらされ感を与えないですむ智恵なのだそうです。

「親の言動一つで、子どもがやらされ感を抱き、不満を持ちながら暮らすのかどうかが決まります。」と巻頭言は結んでありました。ドキッとすることばですね。この「親」をそのまま「保育者」にも「園長」にも置き換えられそうです。

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