2011年 11月

ごめんね

2011/11/09

悪いことをしたら、お友達を傷つけてしまったら謝る

当然のことですよね。

でも、なかなかそうはいかないこともあります。

いくら大人が咎めたところで、言葉にはなりません。

子どもには子どもの気持ちの整理のタイミングがあります。

わかってはいるものの、スムーズに事を運びたいがために、私もきつい言い方になってしまっていることがあると思います。

辛いですよね、子どもにとっては。

「待つ」という行為も必要な時は多くあります。

それぐらいの良い心の余裕を持って、子どもとは接していきたい、と思います。

本当に日々反省、勉強です。

ひとの役割

2011/11/08

ものの役割ということについて考えていたら、人もそうだと思いました。みんな役割を持っているのです。子どもでも、高齢者でも、男の人でも、女の人でも、誰でもその人ひとりひとりの役割があるはずです。そしてその役割が果たせるときが、いのちが輝くときなのです。

違う言い方をすれば、一人ひとりがそれぞれにステキなところを持っていて、それが発揮できる、自分の得意技を活かして誰かの役に立てる。自分が楽しい、うれしいと思って行うことで、誰かが喜んだり幸せになったりできる。こんなにうれしいことはなく、これほどいのちが輝くときはないと思います。

みんなが同じではないので、それぞれにもっている得意技が違います。それぞれの得意技を持ちより力を合わせれば、その力は何倍にもなります。そんな関係ができている集団には力があります。一人ひとりが、喜んでやるっている、やりたくてしょうがないことやっているのですから、力にならないはずはありません。一人ひとりが輝くことで全体としての輝きが増すのです。そんな集団がたくさんあればいいのにと思います。

そうなる前提として、お互いが認め合うことが必ず必要です。自分の考えだけが正しくて、人の考えは間違っている。だから人も自分の考えるとおりにやらなくてはならないし、それをやらない人はダメだ。となってしまうと、ダメだと言われる人はうれしいはずがありませんし、思い通りにならないといって苦しむのは、誰あろう自分自身なのです。意見が違えば、心を開いて徹底的に話し合えば良いのです。

そうなのに、「自分の思うとおりにしたい」という欲に振り回されて、苦しんでしまうのです。よほど気をつけて自分の心をコントロールしていないと、すぐにこの欲が出てきて暴れるので、心を持って行かれそうになります。気をつけたいものです。

認め合うことは、まず自分が相手を認めることから始まります。相手のステキをみつけることです。誰かのステキを見つけて尊敬できる。この誰かのステキがその人の役割なのでしょう。みんながお互いに認め合えれば、みんな幸せになれる。そんなふうでいられるといいなと思います。

みんなが幸せになんてなれないのでしょうか?

そろそろ人間もその方向を目指して進化しても良い頃だと思うのですが・・・

イイとこど~こだ?

2011/11/08

先週、いろんな保育園や先生達の講習会などでうた遊びや造形遊びをして活躍しているすてきな先生が鞍馬にやって来て、子ども達と一緒に楽しい時間を過ごしました。

子ども達が午睡している時間にいろんな話をしたのですが、しきりに「ここは自然に囲まれた良い環境だよ!」と言っていました。

ずっといると当たり前になって忘れてしまうようなことも、このような形で聞くとやっぱりそうだな~と思い出すことがあります。

このように園に来た人の意見で改めて気付くことや、他の園に見学に行って発見することもあります。

しかし、それらは人と人、園と園といったものの風通しが良くないと出来ないことだと思います。 やっぱり繋がりってのは大事ですね^^

もののいのち

2011/11/07

ごみのことをもう少し考えてみました。当園は「みんなのいのち輝く」ことを目指しています。「いのち」ということばに「役割」という意味を見いだせば、生物だけでなく、たとえ石や水といった無生物であっても「いのち」があるといえます。ですから、全てのものにはいのち(役割)があって、そこにいるのです。ですから、一仕事終えてひとつの役割を果たしたら、次の役割をはたすことでそのいのちを輝かせてほしいと思います。その役割が見えないことや気付かないことが多くて、すぐに何の役にも立たないと決めつけるから、ごみになってしまうのです。

ごみ問題ではよく3Rということが言われます。Reduce(リデュース)ごみの発生抑制・Reuse(リユース)再使用・Recycle(リサイクル)ごみの再生利用です。役割という視点で考えると、リデュースはごみにしないで別の役割を考えてみる、リユースはもう一度同じ役割を果たしてもらう、リサイクルは姿を変えて次の役割が果たせるようにすることだといえます。

こういうと、何でもかんでも残して、ため込むと片付かないと言われそうです。その通りです。ため込んでしまうと、そのものが役割を果たせなくなるので、ため込まない方が良さそうです。これがなかなかできないのですが・・・

ひとつひとつのものに役割を見出す努力をする。役割を見いだせなくて、捨てる場合でも、「ご苦労様、ありがとう」という感謝の気持ちは持ちたいと思います。

ちいさないのち

2011/11/07

鞍馬山保育園の園庭の東側の石垣の上に園の畑があります。
先日、畑の中に植えてあった野イチゴの苗を畑の外のフェンスの周辺に植えていたところ、ちょっといいものを見つけました。
畑のそばに稲穂の刈り取られた後の小さな手作りの水田があります。その中に米粒程の大きなカワニナの赤ちゃんがたくさん住みついているんです。
小さな小さな命がいっぱい、いっぱい…。
こんな所に、しかも川からほど遠いのにどうして…。園児さん達はどう思うでしょうね。
是非見に行ってください。そして水が少なかったら水を足してあげてね。
育っている小さな命を大事にしてあげようね。

ごみ

2011/11/06

最近、ごみについて考える機会がありました。できるだけ排出するごみを少なくしたいという視点で、何人かの職員と話し合ってみたのです。その中で、そもそも「ごみってなんだろう」という話になりました。

広辞苑には「物の役に立たず、ない方がよいもの。ちり。あくた。ほこり。また、つまらないもの。」とあります。ことばの意味としてはそうなのでしょうけれど、私たちが毎日排出している「ごみ」と呼ばれる物は、「本当に何の役にも立たたず、ない方がよいもの」なのでしょうか。

11月の京都は紅葉の美しさに惹かれていらっしゃる方々であふれます。鞍馬も例外ではありません。保育園があるお寺の境内は、お寺のみなさんがが美しく掃除していらっしゃることもあって、ゴミが少ないと思いますが、ときどき空のペットボトルやお弁当の容器などが、トイレの脇などに置いてあることがあります。ごみといわれるものです。しかし少し考えると、このペットボトルやお弁当の容器は中身が入っているときはとっても重要な役割を果たしていたはずです。持ってきた人ののどの渇きを癒やしたり、空腹を満たすためのお茶やごはんを運んできたのです。物の役に立たないどころか、立派な役割を果たしていたはずです。それなのに、役割が終われば、ポイ!なのでしょうか。

お寺の境内に「ごみ(役目を終えた物)の持ち帰りにご協力ください。」という掲示があります。人であれば誰かが何かの役を果たせば、ありがとうとかご苦労様といって労をねぎらい、またよろしくお願いしますというはずです。ペットボトルだってお弁当容器だって、立派に役割を果たしたはずです。せめて、「お茶やお弁当を運んでくれてありがとう」という心は持ちたいものです。考え方の起点をそこに置けば、ただ、ポイ!と捨てるのではなく、何か次に活きてくれることを考えられるように思います。

お火焚き

2011/11/05

京都では11月になると、多くの社寺でお火焚祭が行われます。秋の収穫に感謝する収穫祭とも、火によって罪穢を祓う清めの行事とも、太陽の光が弱くなる冬に火を焚いて太陽の生命力の復活を祈る意味を持つともいわれ、庭火を焚いて祝詞があげられたり神楽が舞われます。このお火焚きの炎でみかんを焼いて食べると病気をしないといわれたり、この季節になると、お火焚きまんじゅうという宝珠の模様のついたおまんじゅうがお菓子屋さんの店頭に並んだりします。またこのお火焚祭は「おしたけさん」とよばれ親しまれているとともに、神社だけでなく民間でも広く行われています。

鞍馬地区のお火焚祭は、由岐神社、貴船神社、二ノ瀬のお宮と各地区の神社で行われていますが、各町内でもお火焚きが行われています。今は火を焚くということこそしなくなったものの、町内の各家から宿と呼ばれるその年の担当の家に集まって、皆で町内の安全や各家の安寧をお祈りし、会食や茶話会で親睦を深めるとともに町内の様々なことを話し合う場にもなっています。町内の役職交代の節目となっているところもあります。私の参加させていただいている町内では、皆が集まりやすいお宅が毎年会場を提供してくださっています。その家のお座敷に毘沙門天のお姿の描かれた掛け軸をお祀りし、お正月に供える鏡餅のような紅白のお餅、みかん、柿などをお供えして、皆で般若心経をあげてお祈りをしています。同じ鞍馬の中でも町内によって少しずつ違った方法で行われているようです。

現代の普段の生活の中で、神仏に祈るということが少なくなっているのではないでしょうか。昔から日本人は神仏とともに暮らしていて、様々なことが祈りと繋がっていました。どうしようもない自然の力を畏れ敬い、その中に神を見て謙虚な気持ちで生活していたのです。

もしかするとそういう普段の心がけが、自分自身を見つめ律することにつながるのかもしれません。「誰も見ていなくてもお天道様が見ている」とよくいわれたものです。そんな気持ちを大切にながら毎日を過ごしてゆきたい。普通の生活に残っている伝統行事を通じてそんなことを感じました。

てるてる坊主

2011/11/05

5歳児と4歳児がバスに乗って防災センターに遠足に行きました。
前の日、だんだんくもってゆく空を見ながら「明日晴れないかなぁ」と子ども達も心配顔。(予報では降水確率60%くらいでした)
しばらくして…子ども達のにぎやかな声が玄関に響いてきたので見に行くと、なんと! 子ども達がグループのみんなと作った大きな大きなてるてる坊主が四体も。
「あした天気になーれ」とみんなでお願いして園庭脇の棒につるしていました。
とってもカラフルなてるてる坊主さん。
子ども達のお願いは聞いてくださるかなーと心配でしたが、次の日、雨は降らずに防災センターに行ったあと、梅小路公園でお弁当食べて遊べたみたいです。
あー良かった!
てるてる坊主さんもニッコリ、うれしそうでした…。

京都市学童柔道大会

2011/11/04

鞍馬小学校に柔道部があり、子どもたちが練習に励んでいることは以前のブログにも書きました。この子たちが日頃の練習の成果を発揮する場が年に3回あります。夏の京都市学童柔道個人選手権大会、秋の京都市学童柔道大会、冬に行われる耐寒学童柔道大会です。11月3日第51回京都市学童柔道大会が岡崎の旧武徳殿で開催されました。

武徳殿は平安時代に大内裏に建てられた殿舎で、演舞や競べ馬が行われる場所でした。現在、京都岡崎の京都市武道センターにある旧武徳殿と呼ばれる建物は明治32年(1899)に造営されたもので、現在は国の重要文化財に指定されています。そんな由緒ある建物で学童柔道大会が行われるというのも意義深いことです。快晴に恵まれた当日、最高気温23度という11月にしては暑い日になり、武徳殿の内側に開く蔀が全て開けられていました。開会式前から打ち込みをする子どもたちの額には汗粒が光っています。

午前中は個人戦が行われますが、これは順位を決めるのではなく、1人2戦する形で行われます。200名あまりの子どもたちが学年ごとに、同じくらいの体格のこと対戦できるようになっています。鞍馬小学校から出場したほとんどの子が1勝はしていました。町道場に通って練習を積んでいる子が多い他校の子どもたちに比べ、練習時間も短く、練習相手も少ない鞍馬小学校の子どもたちはよく頑張ったと思います。

午後は学校対抗の団体戦、こちらはトーナメント形式で優勝校が決まります。鞍馬小学校も少ないメンバーから5名を選手登録して初戦に臨みます。初戦は不戦勝1人を含め全勝で2回戦進出、保護者の応援にも熱が入ります。学校からも校長先生、教頭先生のほか2人の先生がいらしてくださいました。団体戦2回戦は強豪校とあたって、2勝3負と惜しくも敗れましたが、主将の6年生は圧倒的な強さで相手の主将を下していました。

こういった試合となるとどうしても勝敗が気になるところですし、子どもの達成感という意味で勝つことは大切な要素のひとつですが、鞍馬小学校の柔道部は少し変わっているかもしれません。それは指導者のこんなことばに表れています。

試合の勝敗なんてどうでもいい。柔道は相手が自分より強ければ負けるし、弱ければ勝てる。勝てる試合は勝てば良いけど、大切なのは負ける試合。自分より強い相手に対して自分がどれだけのことをできるか、強い相手に対して怖がらず、自分の技をかけてゆけるかそこが大切なんだ。

試合で相手に勝つことも大切ですが、それよりも自分の弱さに打ち勝って強い相手にでも技をかける勇気や、辛くても自分から積極的に練習に取り組む、そんな心の強さを柔道を通して子どもたちが育んでほしいという願いがあるのです。

  最初の試合が始まります

団体戦に臨む鞍馬小学校柔道部

乳児クラスの関わり合いの中で

2011/11/04

今年度は、乳児クラス(0、1、2歳児)活動はそれぞれ違っても同じ部屋で生活する事が多かったので子どもと子どもの関係性が実に面白く、その些細なエピソードについて少し書きたいと思います。
2歳児クラスが散歩に行こうと、帽子とカバンの用意してると、0歳児クラスのA君もやってきて同じように首からかけられるだけカバンいくつもぶらさげて帽子かぶっていました。上の子のしてる姿をよく見てるんだなぁと感心しました。また、逆に2歳児クラスのBちゃんは、最近、家では1歳児のCちゃんのまねをするのがお気に入りでハイハイしたり赤ちゃん言葉でしゃべったりしていて「Bちゃん」とお母さんが呼ぶと「ちがうCちゃんやで」と言うそうです。面白いですね。

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