2011年 9月

台風

2011/09/04

台風12号が四国から中国山陰を通って日本海に抜けてゆきました。京都はあまり台風が接近することは少ないのですが、今回は久しぶりに近くを通りました。9月2日金曜日から次第に風雨が強まり、2日夜から3日未明の風は、寝ていても目を覚ますほどでした。2日夜から京都市に暴風警報が発令されていたため、3日は保育はお休みです。万が一暴風警報が解除されたときのために職員は出勤しました。台風11号が接近したときは前夜から出ていた暴風警報が午前7時30分になっても解除されなかったので保育は休務だったのですが、8時30分に警報が解除され、その時点から保育を再会することになりました。幸い職員は出勤していたので慌てることはなかったのですが、職員も自宅待機にしていたら少し慌てていたかもしれません。

3日は台風が近づいてきて、最近経験しないくらいの強風に見舞われました。といっても園は山麓にあるので、開けた土地ほど風が強いわけではありません。それに対して山の上は少し風が強めだったようです。大きな杉の木が左右に大きく揺れて幹から折れてしまうのではないかと心配になるくらいです。強風に揺すられ、幹を大きくしならせながらも風に耐えている木が頼もしく見えました。

3日日中は風の強い状態が続き、雨は断続的でしたが、夜には風よりも雨が激しく降るようになりました。土砂崩れで園舎が埋まっていないか。木が倒れていないかなどと心配しましたが、幸い大きな被害はありませんでした。

和歌山県や奈良県をはじめ、各地で大雨による河川の増水や土砂崩れにより大きな被害が出ているところがあります。被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。

鞍馬も山に囲まれているところなので、土砂崩れなどが心配されます。今回、大きな被害がなかったことはありがたかったとしか言いようがありません。

でも、まだまだ雨は降り続いています。警戒を続けます。

心を開いて

2011/09/03

私たちは、毎日いろいろなことをしています。日々繰り返されること、毎週決まってやっていること。毎年巡ってくる行事。それらを行ってゆくうえで、毎日こうしているから、去年もこうしたから、とついついそのことの意味を考えず、慣例に従ってやってしまうことが多かったりします。いつもと同じやり方や形でも、何のためにそのことをするのかな?どんな方法や形が最適なのかな?と考えた上で、やっぱりいつものやり方が良いというのならそれでよいのですが、あまり考えないでいつも通りにやってしまうことがあります。

先日、このことを改めて考える機会に恵まれました。運動会が近いので、保育士が集まって打ち合わせをしていたのですが、毎年行っている方法はどうなのだろう?と一人の保育士が問題提起をしてくれました。それをきっかけに、いろいろな意見を遠慮なくぶつけ合うことができました。問題になったこと自体はとても些細なことですが、それぞれがいろいろな意見を持っていることがよくわかりました。誰かが納得いかないまま一つの方法を選びたくはなかったので、たとえ些細なことでもできるだけ意見を出してもらえるように時間をとりました。

人って不思議なもので、自分の考えでいろいろなことを解釈し、他の人も同じように物事をとらえ解釈していると思ってしまうのです。自分がもっているイメージと他の人のそれとでは違います。当然ですね、違う人間なのですから。でも、同じだと勘違いしやすいのです。心を開き、言葉を尽くして説明してこそ、少しずつわかり合えるのだと思います。

そうして、お互いの違いをわかり合っても、平行線のままのことが多いのです。そこで必要なのが、「そのことを何のために行うのか」から考えることだと思います。例えば運動会の開会式は何のために行うのか、そもそも運動会自体、なぜ行うのか。何のために行うのか。というところまで遡って、お互いに確認し合う。その共通認識をある程度もてたうえで、ではそれをどういう形や方法で行うかを作り上げてゆけると良いのだと思います。

そこまで深く充分に話し合うことはできませんでしたが、みんなが「何のためにそれをするのか」ということを考えるきっかけにはなったと思います。話し合う上で気をつける必要があるのは、自分と違う意見を聞いたときに、「なんでこの人わかってくれないのだろう」と不満や怒りといったネガティブな感情が生じてしまいやすいことです。このネガティブな感情に流されないよう、自分を律して冷静に意見として受け止め、自分の意見も冷静に伝えられることを心がけたいと思います。

話し合いの最後は、意見がすっきりまとまったわけではありませんでしたが、みんなが心を開いて話し合うことができたと思いますし、本当に大切にしなくてはならないこと「すべてのいのちが輝くために」を基準にして考えることができたと感じました。

すばらしい仲間とチームを組めることに感謝しています。

トマトおいしかったよ

2011/09/03

今年は、乳児クラスはトマトを育てることに…子どもたちが水を汲んでセッセと水やりしたお陰で今では花を咲かせ、ぐんぐん大きくなりました。トマトが緑になると今か今かと待ちわびていた子どもたち。ついに赤や黄色に色づき待ちに待った収穫の時…お味の方は?満足そうな顔でおいしい〜と頬張ってました。

保護者の皆様へ 9月3日 保育は行いません

2011/09/03

保護者の皆様へ

台風12号(タラス)の接近に伴い

9月3日午前7時現在、京都市に暴風警報が発令されています

午前7時30分までに暴風警報が解除される可能性は低いので、

保育は行いません。登園しないようにしてください。

詳細は9月1日付配布の「台風の接近に伴う保育について」をご覧ください。

 

社会

2011/09/02

「人間は他の動物と異なり、弱くなることで生き延びてきた。」という話しを聞いたことがあります。確かに狩りをするために鋭い爪や牙、速い足を持つという進化を遂げた肉食動物たちは強くなることで生き延びてきました。また、それらの肉食動物から逃れるために様々な術を持つという進化を遂げた他の動物たちも逃げるという能力をつけ、強くなることで生き延びてきたといえると思います。

園の近くにはよく野生の鹿が姿を見せますが、雨が降っていても、雪が降っていても、暑い夏の日も山の中をうろうろしています。そんな鹿を見ると、「寒くないのかな。よく耐えられるな。鹿と同じ条件で山の中に放り出されたら、私はとても生きてゆけないだろうな。」と思ってしまいます。そう思うと人間はとても弱いです。それなのに、どうして生き延びてこられたのでしょう。

その答えは、社会を形成したからだそうです。個々は弱くても社会を形成し、役割を分担し、守り合うことで生き延びてきたというのです。そして、その社会の中で最も中心にいるべきなのが、最も弱い存在、あかちゃんや子ども、高齢者やしょうがい者です。弱いからこそまん中で守られる必要があるのです。一番弱い人をまんなかに、その人たちのことを中心に考えることが社会の姿なのです。最も弱いあかちゃんを育てるという行為は人間が社会を作ってゆくために有効な手段なのです。そう思って今の社会を見てみると、少し心配になります。

子どもにも社会が必要です。というより、こどもも社会の一員なのです。だからこそ子どものうちに社会を経験しておく必要があるのです。昔は地域に子ども集団がありました。ガキ大将がいて、年長の子から小さい子までが群れて遊んでいました。そんな中で子どもたちは社会を経験してきたのです。その集団が同年齢ということはめったにありません。様々な年齢の子が集団を形成していて、大きな子が小さな子を守ったり、近い年齢同士での関わりなど様々な立場を経験していたのでしょう。ところが最近は地域で子どもが群れて遊んでいる姿を見ることが少なくなりました。だからこそ、たくさんの子どもが関わり、社会を形成する場が必要になるのです。それが幼稚園や保育園の役割なのです。そう考えると、異年齢の集団が一番自然なのではないでしょうか。4月から翌年の3月生まれの子どもしかいない集団は不自然です。

当園では基本的に異年齢で過ごしています。一番自然なかたちは0歳から6歳までが一緒に過ごすことなのでしょうが、今はそれは不可能なので、0歳1歳2歳と3歳4歳5歳という異年齢の集団で過ごしています。

「人間が社会を形成することで生き延びてきた」とするなら、子どもたちが子どもの社会を形成する経験をせずに、大きくなったときにちゃんと社会を形成できるのでしょうか。心配です。

出来たらいいのになぁ~

2011/09/02

保護者会でも何度か保護者の方々と職員でさせて頂いたことがありますが、いくつかのグループに分かれて一つのテーマにそって自分の思いを話したり、相手の話を聞いたりする「一円対話」。
職員同士でも時間がとれる時は、お昼寝の時間をつかって保育の事などを話しています。

今回のテーマは
「どんなことも出来る設定で、子どもたちと保育園でしたい事」

少し考えただけで職員自身の好きなことや楽しい夢がたくさん出てきてました。
・園庭に迷路をつくって遊びたい ・ツリーハウスをつくりたい ・川にもぐって魚を捕まえてその場で食べたい ・運動場を全部つかってけんけんぱをしてみたい ・畑から滑り台をつくって滑りたい などなど・・・そして、「子どもたちと一緒につくれたら楽しいな」「お父さんお母さんにプロの方がいはったら一緒につくってみたいね」と夢がどんどん膨らんでいき、ついつい長い間話こんでしまいました。

ひとつくらい実現させたいなぁ~。

子どもの主体性

2011/09/01

子どもは、あかちゃんのうちから立派な一人の人格であり、決して大人の所有物や大人に従属するのではなく、一人の人間として主体的に生きています。

子どもが大きくなるのには、首がすわり、寝返りをし、お座りをして・・・というように、一定の順序があります。そして、子どもは自分の発達に必要なことをします。ある時期、ティッシュペーパーをどんどん引っ張り出したりすことがありますが、それは引っ張り出すという動きを身につけるためにしています。また、食卓に座るときに、お父さんの席はここ、お母さんはあそこ、お兄ちゃんは僕のとなりと決まっていることが、何かの都合で変わってしまったりすると、どうしようもなくいやになる時期があります。それは、決まった人が決まったところにいる。いつも、同じ物が同じ所にある。いわば秩序を身につけたい時期なのです。その時期だけというわけではありませんが、それがその子にとって一番適切な時期なのです。

子どもは自分に必要な発達を遂げる時期が来るとそのことがやりたくなるのです。もちろんそれは、子ども一人ひとりで違います。誕生日が同じだとしても、子どもによって違います。

そんな子どもの発達にとって大切なのはどんなことでしょうか。それは子どもが自分の発達にあった遊びを自分で自由に選べる環境を用意しておくことです。これは、何をして遊ぶかを子どもが自分で選んで決めるということです。何をして遊ぶかに深く関わりますが、どこで遊ぶかということも子どもが選びます。

また、子どもはいつも一人で遊んでいるわけではありません。友達と遊ぶことの方が多いでしょう。では、子どもは誰と遊ぶでしょう。自分のしたい遊びと同じ遊びをしたい友達と遊ぶのが一番充実して楽しいのではないでしょうか。難しいルールのゲームをそのルールが理解できない子がやろうとしても、おもしろくないでしょう。3歳児でも木登りが得意な子は、5歳児と木登りをして遊んだ方がおもしろいこともあります。ですから、こどもが誰と遊ぶのかを選ぶことができるように、異年齢の集団を用意しておく方が良いと考えています。

そもそも5歳児とか4歳児とかいいますが、大人の都合で便宜的に4月1日という境界線をもうけて、子どもを分けているだけではないでしょうか。ですから、それにあまりにもこだわり過ぎる必要もないのかと思います。子どもが、誰と遊ぶか、どこで遊ぶか、何をして遊ぶかを自分で選んで決められることが大切だと考えています。

なぜなら、私たち保育者のすべきこと、最も大切にしなくてはならないことのひとつ、それは一人ひとり違う子どもたちが、それぞれの発達を十分に遂げることができるようにすることのはずです。そのためには何が必要かを考えると、子どもたちが自分で発達を遂げられるように最適な環境を用意しておくこと、その環境は子どもが誰とどこで何をして遊ぶのかを主体的に選ぶことができるという環境だと考えています。

ある日のトイレ

2011/09/01

あちらこちらに散乱しているトイレのスリッパ。
気がついた先生達が、その都度並べなおしてはいるけれど、きちんと並んでいるのを見ることが少ないんです。
ある日、○○ちゃん、もう皆それぞれのお部屋へ帰っているのに、何かごそごそしている。後ろからそーっとのぞいて見ると、なんと、スリッパをきれいに並べてくれているんです。
わぁー○○ちゃんきれいに並べてくれてありがとう。「うん」とうなずいて、ニコッと笑って、お部屋の方へ走って行った。
いい顔していたなぁー。
きっと先生達のしている事を見ているんでしょうね。

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