2011年 9月

永続的で意義深いなにか

2011/09/26

人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めてゆくことには、どのような意義があるのでしょうか、自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。

わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと。人生に飽きて疲れたり、孤独さにさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活の中で苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけ出すことができると信じます。(『センス・オブ・ワンダー』新潮社P50)

人間も自然の一部であり、自然界のいろいろなものと繋がって生きているのです。今は、日常生活が自然から遠ざかってしまって、そのつながりを意識する機会が少なくなっています。一見何の役にも立たないように思える虫や、わたしたちを困らせるカビなども、あらゆる存在が見えないところで繋がっていて影響し合っているのです。もちろん空気や水もそうです。

自然には美しくやさしい、不思議さを与えてくれるだけではなく、荒々しい部分も多くありますし、わたしたちを困らせる部分もあります。だからこそ昔の人は様々な自然現象に畏敬の念を抱いていました。恵みを与えてくれもしますが、人間にはどうすることもできない猛威をふるうこともある。その両方を受け止めてきたのです。

見えない部分に思いをはせること。見える世界も見えない世界も含め、何が良いとか悪いではなく、良いことも悪いこともどちらでもないことも全体としてとらえることができると、そこに真理というか真実というか「永続的で意義深いなにか」を感じることができるのではないでしょうか。

レイチェルカーソンは海洋生物学者として、科学的に自然を研究してきました。「作者が素材を選ぶのではなく、素材が作者を選ぶのです」というほど研究を尽くしたのです。科学的につきつめればつきつめるほど、ことばでは説明のつかない「永続的で意義深いなにか」にであったように思います。

センス・オブ・ワンダー

2011/09/25

子どもたちの世界はいつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

もしわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けてほしいと頼むでしょう。

この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。(『センス・オブ・ワンダー』新潮社P23)

 子どもたちの好奇心、探求心がいきいきと発揮される最良の方法のひとつは、自然の中で過ごすことです。子どもたちの感性に響くものやことがたくさんあって、子どもたちはそういったものを発見する天才です。背が低いからでしょうか、地面の上の不思議なものやおもしろいことをすぐに見つけます。そのときにその場で、そのよろこびや感激、不思議さを子どもたちといっしょに感じ、「すごいねー!」と一緒に感動する人が側にいることで、子どもたちがもともと持っている「センス・オブ・ワンダー」を鈍らせることは少なくなるのでしょうね。

現代の都市空間では、自然とは全く関係のないところで、きわめて快適な生活ができてしまいます。花の香りや鳥のさえずり、まとわりつくような湿度、冴え渡る月光、吹きすさぶ寒風や雪の美しさを感じたり意識しなくても普通に生活することができます。逆に蒸し暑さや凍てつくような寒さを感じないからこそ快適なのかもしれませんが…

いわば、自然の巡りを感じたり自然の営みから切り離されて生きていることが多いのです。このことが、様々な現代人のストレスの原因になっているように思います。ときには「自然という力の源泉」に近づき、自然の巡りを肌で感じ、人間も自然の一部である感覚を取り戻すことが必要なのではないでしょうか。

近代文明の発達とともに、自然を支配し、自然を思うままにできると過信してきた大人は、「センス・オブ・ワンダー」を鈍らせたか、なくしてしまったのでしょう。そのために、全てをわかったつもりになって自分たちが頂点に立っているような錯覚にとらわれているのではないでしょうか。その幻想の美酒に酔ってしまい、揺すられても水を浴びせられても、なかなか目が覚めない状態に陥ってしまっていないでしょうか。

自分自身の生活を振り返ることから、今一番大切にしなくてはならないものはなにかをもう一度見つめ直してみる必要があると思います。

Tシャツに込めたもの

2011/09/24

 

先日、年中、年長合同でTシャツを創りました。全員分を並べて、一人一筆ずつ描くという方法で創りました。

 

 

子どもたちとは「みんなの一本、魂の一筆(ひとふで)」と銘打って始めました。

 

すると仲間の一本の線に込めた想いがどんどん集まって、終わらない終わらない、すっごい作品になりました。

 

みんな違うけどみんなどこかで繋がっている、そんな素敵なTシャツができました。

  

土壌を耕す

2011/09/24

レイチェルカーソンの『センス・オブ・ワンダー』にこんなことばがあります。

私は、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭を悩ませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要でないと固く信じています。子どもたちが出会う事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒や豊かな感受性は、この種子を育む肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。(『センス・オブ・ワンダー』新潮社P24)

ここに大切にしなくてはいけないことがあると思います。豊かな実りのためには、まずはしっかりとした土壌を作ることです。時期が来ていないのに慌てて種をまいても、無理に早く育てようとしても、作物はかえって育たなくなったり、余計なことをすればするほど、弱ってしまったりするものです。

子どもが自ら、何かに取り組もうとする力をしっかり養えば、子どもは自分に必要なことを自ら学んでゆきます。では、その力はどこから来るのでしょう。ひとつは、情緒が安定していることです。お互いの信頼関係の中で認められ、すべて受け止めてもらえる「安心基地」としてのお母さんやお父さん、保育士がいることで安心でき安定できます。失敗したり傷ついたりしたときに、無条件で受け止めてもらえるところがあってこそ、外の世界に向けて飛び出してゆけるのです。どこへいっても指示や命令ばかりで、自分をまるごと受け止めてもらえるところがなければ安心安定はできません。

もう一つは好奇心、探究心です。もともと子どもたちは生まれながらにして探究心をいっぱい持っています。その探究心を発揮して、いろいろなことに興味を持つことが大切です。子どもは必要ではない脳の機能を刈り込み、削ってゆくことで発達することは前にもここで取り上げました。だからせっかく生まれながらにして持っている好奇心探究心を子どもが削ってしまわないようにするのが大人の役割です。

そして、この好奇心や探究心とともにあるのが、感受性です。いくら美しいことに出会っても、おもしろそうなことがあっても、それに気づかなければただ通り過ぎてしまうだけです。

これは教えることはできません。だれかが何かを「美しいな」と感じたり、「すごいな」と感動し、「おもしろい」と興味を持ち、「楽しい」と取り組んでいいる場に居合わせる、皆で一緒に経験し、感動し、楽しむことが大切なのです。

乳幼児期にはこの部分がしっかりと育つことこそが大切です。なぜなら、自ら「美しいな」「すごいな」「なぜだろう」と心を動かされ、「さらに知りたい」「もっとわかりたい」と思って取り組んだことこそ本物の知識になるからです。

大人は知識だけを振り回して、すぐに教えよう、何かをさせようとしがちですが、大人と子どもが一緒に、自ら行い感じる。そんな実践を積み重ね、そこから共に感じ取ることこそが本物になるのでしょうね。

決して向かい合って教える(知識を伝える)のではなく、一緒に同じ対象同じ方向を見つめて、体験を共にしてゆきたいものです。

きらきら

2011/09/23

一気に秋の空気が流れ込んできて、ひんやりと肌寒くなったある朝、少し高くなったように感じられる空に、刷毛で掃いたような雲が浮かんでいます。

ふと、窓の外に目をやると、すぐ側にある樫の木がキラキラッ!キラキラッ!と輝いて、まるでイルミネーションで着飾ったクリスマスツリーのようです。近づいてようく見てみると、葉っぱ一枚一枚の先に夜露のしずくがついてその一つ一つが、昇ったばかりの日の光を受けて光っているのです。そこへひときわ涼しい風がサッとやってきて葉を揺らすと、それぞれのしずくが瞬くように輝きます。その美しさに思わずカメラを構えてしまいました。でも写真でその空気感を表現するのはむずかしいものです。人間の目ってすごいですね。目だけではなく他の感覚も同時に使っているからかもしれません。

向かいの山の杉の木の梢の輪郭がが朝の光にくっきりと浮かび上がり、何気ない日常の風景がとても美しかったので、しばらく見とれてしまいました。

葉っぱの先のしずくは相変わらず瞬いています。じっと見ていると、しずくの中に虹が入っているかのように七色に輝きます。しずくが揺れるので、太陽の光の屈折率が変化するのでしょう、。青っぽく見えたり赤っぽく見えたり白く光ったりしています。

こんな美しさに接すると、疲れも、心に引っかかっていることもすべて溶けて、穏やかな気持ちになります。

 

「レイチェルカーソンの感性の森」

2011/09/22

先日、久しぶりに映画を見ました。映画館に行って映画を見るなんて何年ぶりでしょう。見たのは「レイチェルカーソンの感性の森」劇場は京都シネマです。

レイチェルカーソンは、海洋生物学者であり作家、その有名な著書『沈黙の春』において、世界で初めて農薬や殺虫剤による環境汚染の危険性を告発しました。これがきっかけとなって、アメリカではDDTの使用が禁止されるなど、大きな影響を与えました。

レイチェルカーソンの遺作となった『センスオブワンダー』を映画化したのがこの作品です。

センスオブワンダーのセンス(sense)は感覚や感じ、感性の意味。ワンダー(wonder)は驚異、驚く、不思議に思う等の意味です。「ぅわー! なにこれ !? すごい! なんで?」と感じられる、そう思えるセンスがあるという感じでしょうか。日本語訳の『センスオブワンダー』(レイチェルカーソン著 上遠恵子訳 新潮社)には「神秘さや不思議さに目をみはる感性」と訳されています。ちなみにワンダー(wonder)がたくさんある、(wonder)で満たされるのがワンダフル(wonderful)です。

61席の小さなシネマは平日の午前中にもかかわらず、半分以上の席が埋まっていました。映画が始まって最初に驚いたのは、「この映画は2本のインタビューから成っています。」と字幕に出てきたことです。「1時間のあいだ、ずっとインタビューシーンが続くの?最後まで見られるかな?」と思ってしまいました。確かに、レイチェルカーソン役のカイウラニ・リーが一人で話し続けるのですが、レイチェルカーソンが1964年に帰らぬ人となっていることを意識しなおさないと、レイチェルカーソン自身が出演していると思ってしまうほどです。それもそのはず、主演のカイウラニ・リーは、一人劇「センスオブワンダー」の脚本を自ら執筆し18年間にわたって世界中で演じ続けてきた女優さんです。

映画の前半は、メイン州の海岸にあるレイチェルカーソンが実際に過ごしたコテージで撮影され、周りの豊かな自然を織り交ぜた美しい映像と、その自然をレイチェルカーソンが愛でる様子が魅力的でした。また、亡くなる8ヶ月前、自宅で講演の準備をしながら話すレイチェルカーソンの少し疲れたような様子を描いた後半も印象的でした。『沈黙の春』を執筆したことによる賛否両論の渦に巻き込まれ、病と闘い、疲れ果てながらも自ら伝えたいことを伝え続けようとする姿は感動的で、勇気をもらいました。

仲間との関わり合いを通して

2011/09/22

みんなと一緒が楽しい二歳児クラス。仲間との関わり合いを通して仲間意識も更に広がってきて面白くなってきました。そんな関わりのひとこまを今回は少しのせたいと思います。午睡の着替えの時いつもは「先生して」というA君。この日は「パジャマのボタンをBちゃんに留めてもらう」と…Bちゃんもそれを聞いて先生みたいに上手に出来ないけどボタンを留めてあげたい一心で一生懸命、留めてあげている姿がありました。午睡で布団に入る時お友達の人形を抱えて運んできていたのはC君。それぞれのお友達のマークを確かめては枕元に一つ一つ置いていってくれてました。おやつ前、DちゃんにC君にパジャマ渡してきてくれる?と頼むと始めは自分のパジャマと一緒に抱えて持っていたのに中間ぐらいまで歩いたところで自分のパジャマだけ下に置いたので、どうするのかな?先に自分の片付けてから渡すのかな??と見てると、C君のパジャマを先にどうぞと手渡してから自分のを片付けている姿ありました。ちょっとした出来事かもしれませんが、そんな子ども同士の関わり合いを大事に見守っていきたいと思います。

お彼岸

2011/09/21

秋のお彼岸の入りとなりました。春分、秋分の日とその前後3日をあわせた7日間をお彼岸といい。彼岸会が行われ、お墓参りなどご先祖様の供養をするということが一般的です。

彼岸とは、悟りの世界を言います。生死を繰り返す迷いの世界である此岸、こちら側の岸に対して、向こう岸、つまり悟りの世界ということです。梵語のパーラミターの訳語で、正確には到彼岸と訳し、迷いの此岸から悟りの彼岸に到ることをいいます。つまり、日本独特の彼岸会は彼岸に到る法会という意味です。

彼岸の中日、春分の日や秋分の日には太陽が真東から昇って真西に沈むので、太陽が沈む真西、その先には阿弥陀仏がいらっしゃる極楽浄土があり、悟りを開くことが容易な極楽浄土を彼岸とするなら、春分秋分の日の夕日は極楽浄土への道を指し示すと考えられるのです。この極楽浄土への往生を願うことに、彼岸会の起源があるとも言われています。

お彼岸については様々な説明があります。春分秋分の日は昼の長さと夜の長さが同じであり、昼にも夜にも偏らないことから、仏教で大切にする「中道」つまり両極端を離れることで得られる中正な道を表していると考えられた。また、春には種をまいたり苗を植えて五穀豊穣を祈り、秋には収穫に感謝するという農耕儀礼に関係している。などです。

鞍馬寺ではお彼岸には酬徳会(しゅうとくえ)というご先祖様に感謝を捧げる法要が修されます。酬徳とは徳に酬いるという意味で、ご先祖様の徳に酬いるということです。

私たちが、今ここにこうしているのはご先祖様がいらしたからこそです。そのご先祖様に感謝を捧げ、徳に酬いるためには、私たちは何をすれば良いのでしょう。その答えの一つは「私たち自身がよりよく生きる」ということです。「より良く、というけれど何が良い生き方なの。」と自問自答することも含めてです。みんなが幸せになるためには、みんなのいのちが輝くためには、何をすれば良いのかを考え実践すること。そのことが、ご先祖様の徳に酬いるということではないでしょうか。

お彼岸の期間を、もう一度自分自身、自分の心を見つめ直す期間にしたいと思います。

秘密

2011/09/21

「先生な、実は宇宙人やねん・・・」

と、ある兄弟とわたしは会話していました。

話をしていくうちに2人の子どもは「星があるん?何しにやってきたん?」

と、きらきらした目でわたしに質問攻め。

最後には「この秘密をバラしちゃったら、先生この保育園いられなくなっちゃうよー」

と言っていると

「いやや!絶対にいやや!先生のこと大好きやもん!」

と言われ、1人勝手にきゅんきゅんしておりました。

そして勝手に夢があるなぁ・・・(*´▽`*)と。

その兄弟とは秘密の会話でいつも盛り上がっています(≧о≦)

保護者の皆様へ 9月21日保育は行いません

2011/09/21

保護者の皆様へ

台風15号ロウキーの接近に伴い

9月21日午前午前7時現在、京都市に暴風警報が発令されています。

午前7時30分までに暴風警報が解除される可能性は低いので、

保育は行いません。登園しないようにしてください。

詳細は9月1日付配布の「台風の接近に伴う保育について」をご覧ください。

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