園長ブログ

向精神薬

2012/06/22

先日NHKのクローズアップ現代という番組で、子どもへの向精神薬投与が取り上げられていました。普段、ほとんどテレビを見ないのですが、たまたまテレビから聞こえてきた「子どもへの向精神薬の投与」ということばが耳に入ったので、見入ってしまったのです。

番組の解説にはこうありました。
国立精神・神経医療研究センターが行った調査で、発達障害の症状がある子どもに対し、小学校低学年までに向精神薬を処方している専門医が全国で7割にのぼることが明らかになった。重い自閉症やうつ病の症状などに使われてきた向精神薬だが、子どもの脳に及ぼす影響は未解明で、明確な安全基準はない。基準が曖昧なまま進んだ子どもへの安易な投薬。その結果の過酷な現実を伝える。

上半身が揺れ続け止まらなくなった小学生、足先の痙攣が止まらなくなった高校生といった映像から番組が始まります。向精神薬とは精神安定剤や抗うつ薬、睡眠薬など精神に影響を及ぼす薬剤の総称だそうですが、子どもへ処方するための明確な基準がなく、その副作用に苦しんでいる子どもがいるのだそうです。

厚生労働省の調査では発達障害や精神疾患で精神科を受診した子どもの数が平成20年にはおよそ15万人と平成8年に比べて2倍になっているそうです。この数字とその増え方にも驚きますが、さらに驚いたのは国立精神・神経医療研究センターが行った調査で、就学前に精神科を受診している子が39パーセント、小学校低学年で受診している子が36パーセント、両方合わせると小学校低学年までに精神科を受診している子どもが全体のが7割以上にのぼるということです。そして、こうした子どもたちに対する危険性や適量などの基準が明確でないまま処方されていることがあるそうです。

国立精神・神経医療研究センターが行った精神科の医師へのアンケートが紹介されていましたが、興奮を抑える薬を3〜4歳から、睡眠障害を押さえる薬を1〜2歳で処方したという回答もあったそうです。重篤な副作用に不安を覚えながら、内心ヒヤヒヤしながら処方しているとういう医師の意見も紹介されていました。

もちろん薬の服用が必要でなおかつ有効なケースもあるはずなので、簡単に全てが良いとか悪いとかいうことはできませんが、私はどこか心配です。

竹伐り会式

2012/06/21

6月20日は鞍馬寺で竹伐り会式(たけきりえしき)という法会が修されました。

竹伐り会式の由来は、宇多天皇の寛平年間(889〜897)鞍馬寺の中興の祖、峯延(ぶえん)上人が護摩の秘法を修していると、北の峰から大蛇が現れて上人を呑もうとしました。古書には「舌長きこと三尺ばかり、さながら火炎のごとし」と記しているものがあるそうです。峯延上人が一心に祈ることで大蛇を退治し、そのことを朝廷に奏上すると、人夫50人を賜わり、大蛇は切られて龍ヶ嶽に棄てられたというものです。

その後もう一匹の大蛇が現れましたが、こちらは障りを為すことなく、本尊に捧げる水、閼伽(あか)を絶やすことなく護ることを誓ったので、閼伽井護法善神(あかいごほうぜんじん)として本堂の東側に祀られました。

先に退治されたのは雄蛇で、後の大蛇は雌蛇だったといわれているそうです。この故事にちなんで、青竹を雄蛇に見立てて伐るのが竹伐り会式です。

邪を為す雄蛇に見立てた竹を伐ることで、災禍を断ち切り吉事を招くという意味と、閼伽を護る神に祈りを捧げ水への感謝を表すという意味があるそうです。
修験道の峰入りの儀式に通ずるとする説もあります。

会場には雄蛇に見立てた根のない太い竹と、雌蛇に見立てた根のついた細めの竹が用意され、太い竹を伐り、根のついた細い竹は後に山に植え戻されます。江戸時代中頃からは、竹を伐る人たちが近江座と丹波座の二座に分かれ、竹を伐る早さを競い、その年の両地方の豊凶を占うようになったということです。

そんな、伝統行事に園児達が稚児として出仕しました。毎年年長の男児が出仕し、女児は一緒にお参りして男児を応援します。

男の子達は、装束を着け、ほんのりお化粧してもらって恥ずかしそうにしていました。男の子達がお化粧をしてもらっている間、女の子達は興味津々、私たちもして欲しいなといった顔つきで真剣に見入っていました。

お導師様に付き従って大勢の参拝者の間を行列してゆくと、どこからともなくわき上がる「かわいい!」という歓声に得意満面の子、恥ずかしそうな子様々です。園児達の役はお導師様のお祈りが終わって、いよいよ勝負伐りがはじまりますよという合図にお供えしてある花を下げてくるという役です。20分ほどのお祈りの時間正座をして待っているのですが、いつもはお昼寝している時間なので、どうしてもこっくりこっくりしてしまいます。中には熟睡の子も、隣に付いている保育士は倒れてしまわないように支えていることも多いようです。

無事お役を果たした後は、近江丹波両座の勝負伐りを正面の特等席で見学し、感激している子もいました。伝統文化に触れるという意味のひとつの体験になっているのでしょうか。

習礼

2012/06/20

6月19日、台風4号が接近してきて午後1時6分京都市に大雨・洪水・暴風警報が発令されたので、早速、保護者に連絡してお迎えをお願いしました。警報が出ると同時に「暴風警報が出たので迎えに行った方が良いですね。」と電話をくださった保護者もいらっしゃいました。その時点では園の周辺は雨は降っていたものの風は強くなく、台風という感じではありませんでした。午後3時までには全園児が降園し職員はそれぞれの仕事をしていましたが、午後4時ごろになって急に風雨が強まってきたので、早めに仕事を切り上げました。強い風で山の木々が、踊っているかのように大きく揺れ、風がヒューヒューと鳴り、山に縞模様を描きながら雨が横殴りに降ってきます。山の中なので、木の枝が落ちてこないか、山が崩れてこないかなど心配になることがたくさんあります。

園児も職員も無事に帰ることができたので、一安心でしたが、私にはもうひとつ心配なことがありました。夜には翌日お寺で奉修される竹伐り会式の習礼(しゅらい)があって私も参加することになっていたのです。習礼とは予行、練習という意味です。台風はどんどん近づいてくるし、この天気で大丈夫なのだろうかと少し心配になっていました。しかし、6時前には風も弱くなり雨も小降りになる時間も出てきて、習礼は予定通りに行われました。この習礼は竹を伐る役の方にとっては大切な機会なので、多少の風雨ではやめることはないといわれたと聞きました。習礼の始まる頃には、皆さんの気迫で台風もどこかへ行ってしまったのではないかと思うくらい風も雨も弱くなりました。

鞍馬では昔から七仲間という家柄格式があって、今でも伝統が生きています。
大惣(おおぞう)・僧達(そうだち)・宿直(しゅくじき)・名衆(みょうしゅ)・脇(わき)・大工衆(だいくしゅう)・大使(たいゆ)の七仲間です。お祭りの時などにはいろいろな役割があるようです。竹伐り会式には、大惣・僧達・宿直の方々がそれぞれの役割を果たしていらっしゃいます。なかでも竹を伐る役を担うのは、大惣仲間のなかの大惣法師仲間の方々です。習礼でも先輩方にいろいろと聞きながら気迫のこもった練習を長い時間行っていらっしゃいました。山刀と呼ばれる刃渡りは短いのですが、刃が幅広くとても重い刀です。少し触らせてもらいましたが、良くこれほど重いものを振り回すことができるものだなというのが感想です。

くさいもの

2012/06/19

田植えからはじまってにおいの話になってしまいました。
もちろん様々なにおいがあります。良いにおいと感じるか臭いと感じるかは人それぞれの好みによると思うのですが、最近の好ましくないにおいいわゆる「くさい」を敬遠する傾向は少し過剰かと感じます。「学校でくさいといっていじめられた」ということを聞いたことがあります。

生活している中で周囲に臭いにおいが少なくなったことが原因でしょうか。私が子どもの頃は外で遊んでいると畑の片隅に肥だめがあって、そんな匂いは普通でしたし、トイレも汲み取り式があたりまえでした。ですから、そういうにおいも普通に日常生活の中にあったのです。それが、トイレが水洗になって日常の生活からはそんなにおいはほとんど無くなりました、他にも生ゴミなど、好ましくないにおいはあったと思いますが、現在のように何でもすぐに生ゴミとして捨ててしまうのではなく、できるだけうまく使い切る工夫をしていたので、ごみ自体も、においがすることも少なかったのかもしれません。においに限らず現在の日本の社会はあまりにも清潔に偏ってしまっているのではないでしょうか。「臭いものに蓋をする」ということばがありますが、においだけではなく、汚いもの、不都合なものを見えないようにしてきたのではないでしょうか。ですから、いろいろなものごとがどこかいびつになってきているように思います。

ずいぶん前になりますが、ある研修で心理学がご専門の先生のお話を伺ったときに、「タレントさんや自分の周りにどうしても好きになれない人、なぜか嫌な人はいませんか。そういう人は、自分自身が抑圧している影の部分と同じものを持っていて、その自分自身の影が相手に見えるので、相手に対して嫌な思いを抱くのです。」とおっしゃっていました。自分の嫌な部分、受け入れたくない部分を相手に投影してそれを嫌だと思っているのだそうです。嫌いな相手の嫌いな部分がそのまま自分の中にあって抑圧している部分なのだそうです。ですから、嫌いな人の嫌いな部分を自分の中にあると認め、自分の影の部分を自分で受け入れられると良いようです。

一人の人間の中にも光の部分と影の部分があるように、ものごとには必ず両面があります。見える部分と見えない部分です。近年そういう見えない部分をあまり考えなくなっていると講師の先生はおっしゃっていました。

水洗トイレはレバーをひねれば排泄物は見えなくなってあたかもどこかに消え去ったように勘違いしてしまいます。見えなくなっただけで、下水処理場などで相当な手間暇をかけて浄化されているのです。その見えない部分に心を運ぶことが、全体を考える事につながるのです。汚い部分、臭い部分、見たくない、触れたくない部分も意識し、全体を丸ごとで考えられると、少しはいびつでは無くなるのだと思います。

におい

2012/06/18

田んぼに稲を植えたこと、稲を植えるにあたって代掻きをしたら、肥料代わりに入れていた米ぬかが原因で土が臭くなっていたことを書きました。実際には代掻きの時も田植えの時も、子どもたちは思ったほどにおいを気にしていなかったようです。

しかし、最近はにおいにとても敏感になっている人が多いように思います。テレビでは良い香りがするという洗濯洗剤や芳香剤のCMをよく目にしますし、体臭などを気にしている人も多くなったのではないでしょうか。洗剤などで長く香りが残るということは、洗濯した後の衣服ににおいの元となる化学物質が長く付着しているということです。その化学物質が汗などと反応して皮膚に悪い影響を及ぼさないのか少し心配になります。

嗅覚は、鼻にあるにおいを感じる細胞が空気中に漂う化学物質を受け取ることによって感じるので、味覚とは違って離れていても感じられます。どこかからおいしそうなにおいが漂ってきてお腹が鳴るということもあるくらいです。もともと嗅覚は、これは食べられるものなのか、腐っていないかということをにおいを嗅ぐことで確かめたり、危険が迫っていないかを知るという目的がありました。動物は人間よりも敏感にいろいろなにおいをかぎ分けています。嗅覚から食料を得たり、危険を回避したりするための情報を収集している割合が人間より高いのでしょう。

においは男女の相性にも関係があるそうです。以前テレビで実験をしていたことがあります。ずいぶん前だったので詳しいことは忘れてしまいましたが、たしかこんな内容だったと思います。5人くらいの男性が何日間か着用したTシャツをポリ袋に入れ、何人もの女性がそのにおいを嗅いで、どう感じるかを判定するという実験です。その実験の結果は、Tシャツのにおいに嫌悪感を示した女性と、そのTシャツを着ていた男性の遺伝子は近く、Tシャツのにおいがそれほど臭いと感じない女性とそのTシャツを着ていた男性は遺伝的に遠い関係にあることが証明されたそうです。多様性を保つため、できるだけ遺伝的に遠い男女がカップルになるようになっているのかもしれません。

様々なことが様々に関係し合っている。においということ一つをとってみても、不思議な気がします。

田植え 2

2012/06/17

   苗代を田んぼまで運びます

田んぼに田植えをする前に、代掻きをしたことを紹介しました。田んぼの匂いはかなりり強かったようで、実際に子どもが田植えをする前に保育士が素手で田んぼの土を触ってみたら、しばらく手から匂いが取れなかったそうです。化学肥料や農薬を使わない、健康な田んぼは多少匂いがすると聞いた事がありますが、園の田んぼは、かなりのものでした。私が米糠を入れすぎたのだと思います。そんなわけで、子どもたちはポリ手袋をつけて田植えをしました。保育士としては、田んぼの土の感触を手でしっかりと味わって欲しかったようですが、それはあきらめたそうです。子どもたちが五感のなかの触感(触覚)をしっかりと使う機会にしたいと思っていたようです。普段からできるだけ意識して五感を使うことを大切にして保育をしようとしているので、それを実践しようとしてくれたのに、申し訳ないことをしてしまいました。他の機会を使ってもらうよう頼みました。逆に臭覚を使うことはできますが、今回の場合、臭いイメージばかりが印象づけられて、田んぼイコール「臭い」になってしまっては困ります。

    丁寧に植えています


子どもたちがしっかりと五感を使うようにするためには様々な機会を提供する方法があります。今回のように田植えの機会を利用して、泥の触感を楽しむということもそうです。片方で、常に触れることのできる環境を用意しておくということも考えられます。さすがに泥の感触は無理ですが、様々な触感を感じることのできるものを常に触れられるように用意しておくと良いのです。保育は、大人が教え込むものではなく子どもたちが環境を通して学び、自ら育ってゆくことこそが大切です。環境を適切に用意し、大人は見守れば、子どもは自ら育ってゆくのです。

余った苗は畑の周りの土に植えました

とみんなで簡易苗代を小さな田んぼに運び、株を小分けにして田んぼに植えてゆきます。楽しそうに植えていたようですが、苗が多くて少し間隔が狭くなってしまいました。植え終わったとはみんなで稲に「元気におおきくなってね」と声をかけました。まだ苗が余っていたので、畑の周囲の土に直に植えたようです。これからどうなってゆくのか楽しみです。

ころがしばらくして、田んぼを見てみると、植えたはずの稲がところどころなくなっています。どうやら網で囲っていなかったので、鹿が少し食べてしまったようです。少し植えすぎたので、鹿が間引いてくれたと思えば良いのかもしれません。でもこれ以上間引かれると困るので、田んぼを網で囲った方が良さそうです。

 
 
 
 

   みんなで看板も作りました

田植え 1

2012/06/16

もう1週間ほど前になりますが、年長の子どもたちが田植えをしました。昨年、自然農法で育てた稲を知り合いnの方から頂いたので、古くなったコンクリートを練るためのフネを使って田んぼを作りました。あまり世話もしなかったのに、すくすくと育ち大きくなって花も咲き実を結びました。途中カメムシに食べられたりもしましたが、少しは収穫もできました。しかし、みんなで食べるほどの量もなかったので、籾のまま保存していたのです。その籾を苗代を作って発芽させてみることにしました。籾を蒔いた簡易苗代を暖かいテラスに置いておくと、数日で小さな細い芽が出てきました。芽を出した稲はどんどん伸びて、1か月ほどで10センチくらいの長さになりました。昨年と同様に小さな田んぼを使って田植えをしようということになりましたが、問題は田んぼです。実は昨年の収穫の後、田んぼをそのまま放置したのみならず、できるだけ自然な形で稲を育ててみようかと思い、私が冬の間に山の落ち葉や刈り取った藁、米ぬかなどを山盛りになるほど田んぼに入れていて、それが完全に分解されずに残っていたのです。落ち葉や藁が残っているだけならそれをどければ良いのですが、問題は米ぬかです。ぬか漬けを作るぬか床を放っておくと大変なことになります。それと同じようなことが起こっていて匂いがひどい状態でした。まずは、分解しきっていない落ち葉や藁を取り除いて、少し代掻きをしようということになったのですが、混ぜると匂いが拡散して、ずいぶん大変だったようです。それでも昨年苗をいただいた方にもお手伝いいただき、子どもたちが保育士と一緒に何とか代掻きをしました。さすがのこどもたちも、匂いには圧倒されていたそうです。その後、少し土が沈殿し田んぼが安定するのを待つ間に苗代の苗も田植えができる大きさに育ったようなので、いよいよ田植えをすることにしました。

稲といえば、5月に保護者の皆様にご来園いただき、子どもたちと一緒に植えたペットボトル稲が、畑の一角ですくすくと育っています。これから気温が高くなってくるともっと多聞く育つと思いますが、気は抜けません。さいわい畑に他の作物も植えているので、子どもたちも気にしてペットボトル稲の様子を見ているようです。先日は肥料代わりに米のとぎ汁を入れたりしていました。無事に育ってほしいものです。

みんなで植えた稲 2012年5月19日

稲が少し育ちました 2012年6月4日

元気に育っています。2012年6月15日

仲直り

2012/06/15

昨日の午後2時頃、温湿度計を見たら気温23度、湿度40パーセント、天気は晴れ、蒼い空が広がり、風が優しく流れ、梅雨の真っ最中とは思えないさわやかさでした。梅雨の晴れ間に子どもたちは屋外での遊びを思いっきり楽しんでいたようでした。雨の季節はどうしても室内遊びが多くなりがちですが、雨の降るときにしか味わえない自然を経験するために、レインコートを着て積極的に屋外に出ようと思っています。濡れていると滑りやすい、木の枝が落ちてくることが多い。増水した川には近づかない。など、晴れているときと違って注意をしなくてはならないこともたくさんあります。そんなことも子どもたちと共有しながら歩けば、子どもたちが様々な危険を自分で回避する手助けの一つとなります。なにより雨の時にしか味わえない美しさや、おもしろさに出会うことができます。雨だから外で遊べない。というマイナスの面だけでなく、雨だからこそできるプラスの面を楽しむようにしてゆきたいと思います。

先日の雨の日、室内で遊んでいました。私が3・4・5歳児の保育室に行くと3歳児の2人SちゃんとRくんががなにやらもめているようです。けがをしている様子でもなかったので、どうしたのかと思ってしばらく見ていました。どうやら、なにかの弾みで2人がぶつかり、Sちゃんが転んでしまったようで、泣きながら足が痛いと訴えていました。Rくんはボクだって痛かったんだよと言わんばかりの顔でSちゃんをにらんでいます。アクシデントなのでどちらが悪いというわけではないのですが、お互い納得がいかなかったようで、ケンカになりそうでした。そろそろ2人の言い分を聞いてみようかな思っていたときです。トラブルが起こっていることに気がついた5歳児のKくんが、「どうしたん?」とやさしく声をかけてくれていました。

S:「あんな、Rくんが押さはったし、こけたん。」
K:「そうなんや。どこかいたいの?」
S:「足。」(自分の膝を触りながら)
K:「痛かったんやなー。でも、血も出てないし大丈夫やで。」
と言ったあと、Rくんにむかって「押したん?」
R:「・・・」
だまって首を横にふります。
K:「そうか、ぶつかっちゃったんやな」「ほな、ふたりともゴメンで仲直りやな。」

どうやら、私の出番はなくなったようでした。

ロッククライミング

2012/06/14

「魔女がいるかもしれない!」ファンタジーの世界でドキドキしながら登り始めた山道をそれぞれに楽しみながら登ります。どんどん先に登りたい子もいれば、いろいろなものをじっくり見つけながら登りたい子もいるので、自然と列が長くなります。それぞれの興味に従ってそれぞれのペースで歩けるのが良いのですが、あまり離れてしまうと困ります。そういうときは、先頭の方の子が気付いて、遅い子を少し待ってくれます。先に歩いていた子どもたちが山道を見下ろせるところから、「オーイ!こっちだよー!」と声をかけてくれるので、後ろの方の子どもたちは、どうすればあそこに行けるのだろうと行ってみたくなります。後ろの方を歩いている子どもたちが、早くあそこに行ってみたいと思えるステキな誘い方だなと感心しました。私など「早よ来な、ほっていくでー!」と不安をかき立てて進ませる声がけをしてしまいそうです。それじゃ「びびらせてなんぼ」的な考え方になるので、楽しくありませんよね。

ある程度登ったところで、みんなが最後尾の私を待っていました。私が追いついたらまた、道なりに登るのだと思っていたら、道から外れて山の中へ分け入ってゆきます。どこかにつかまらないと登ることができないくらいの斜面を、ずるっと滑りそうになりながらも子どもたちは登ります。しばらく登ると大きな岩が目の前に、えっ!まさかロッククライミング?この岩を?と思いましたが、子どもたちは平気です。園庭の石垣を登るのとは訳が違うのですが、実は上りやすいルートがあってこどもたちでも比較的簡単に登ることができるのです。私も3番目くらいに登って上で待っていました。怖がったり、しりごみしたりすることなく一人ずつ登ってきます。みんな登り切ったところで、帰る時間が近づいてきたので、岩の上から山道に戻りました。ロッククライミングをすると山道をショートかとできるのです。

子どもたちは、山歩きのおじさんたちと仲良しになっていましたし、私は子どもたちのたくましさを感じながら園に帰ってきました。

山に入ると

2012/06/13

4歳児たちが向かいの山にさんぽに出かけました。鞍馬川のほとりでみんなでノイチゴを分けて食べたあとは、いよいよ山に入りますが、その前に一工夫。みんな石段に座り込んで、ズボンの裾を足首に巻き付けて上から靴下で覆います。山に入るときには長袖長ズボンが基本ですが、裾から虫が入ってこないようにと考えてこうすることにしています。気温が高くなると生き物の活動も活発になって、いろいろな生き物に出会う機会が増える反面、虫に刺されたりすることも増えます。完全に防御することは難しいかもしれませんが、少しでも守れればと思います。自然は人間にとって都合の良いことばかりではないことを知り、自分の身を守る術を子どもたちが経験してくれると良いと思っています。準備が整ったら、登り口にあるお宮さんとお寺に手を合わせて、出発です。

登り始めてすぐのところに廃屋があり、子どもたちはそこに魔女が住んでいると信じています。京都の保育園児たちの間で魔女の住んでいるといえば、京都市保育園連盟の運営する八瀬野外保育センターの「魔女のいえ」でしょう。とても立派な建物があって、子どもたちの心にファンタジーの世界を広げています。しかし、薬王坂の登り口にあるのはちょっと気味悪い雰囲気のある廃屋です。なぜここに魔女が住んでいることになったのか、そのいきさつはよくわかりませんが、子どもたちはそう信じています。近くを通るときは静かにしないといけないらしく、私がイノシシが地面を掘ったとを見つけたので「イノシシの掘った穴があるよ」と近くの子どもに話しかけると、子どもたちから一斉に「シーッ!」「静かにせなあかんで!」といわれました。

ちょっと不思議な雰囲気の場所を通り過ぎ、山道を登ってゆく子どもたち、おもしろい形の石を拾ったり、葉っぱを見つけたりしながらゆっくりと進みます。山歩きをしている人に出会うと、ちゃんと「こんにちは」と挨拶をしていました。

石や虫、葉っぱ、花・・・ 自然のいろいろなもので遊んでいる子どもたちをじっくりと見ていると、それぞれの心にそれぞれの世界が広がっている気がします。もちろんいつもそうなのですが、特に「山にペンギンがいる」とか「あの木はお話ししてるんで」などと聞くと自然をみていると、そんな心が広がりやすいのかもしれないと思うのです。そのそれぞれの心の世界が子どもどうしの会話を通して重なり合って、さらに広がってゆく。二人で並んで、何人かで丸くなって、一つのものを見ている姿からそんなことが想像してしまいました。

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