園長ブログ

自然から学ぶ 〜見守る 1 〜

2012/08/31

畑という狭い空間をちょっと覗いただけでも、様々な生き物がお互いにつながり合い助け合って生きている姿が見られることを紹介してきました。様々な生き物どうしが助け合って生きている時に、人間は余計な手出しはしない方が良いと思います。極端な言い方をすれば、トウモロコシくんやナスくんトマトくん大豆くんは元気に育ってくれると信じて気をかけ「元気に育ってね」と声をかけるくらいしかできることはありません。

それでも少しくらいは何かした方が良いのではないかと、大きくなってきた草を切ろうとしたら、大豆がつるを伸ばしてつかまっていたことは何度も紹介しました。土を耕さないのも、土の中でいろいろな生き物が構成しているいる宇宙を壊さないためでもありますし、土の上に枯葉が積もった状態にしているのは、土の中の世界を守るのと同時に、土の中の水分が蒸発しすぎてしてしまわないためです。作物以外の植物が直射日光があたりすぎるのをさえぎって、水分が蒸発しすぎるのを防ぎますし、根から吸い上げた水分を葉から蒸散させますが、その水分が夜の間に夜露となって葉っぱにたまっています。天から降ってくる雨と、土から蒸発する水分とをうまくコントロールしているのかもしれません。そこで、人間が水をたくさんやったりするとそのバランスが崩れて、枯れてしまったり、人が水をあげないと育てなくなったりするそうです。

前にも紹介したように枯れてしまったかに見えたナスは、自分の力で葉を出して生きかえりましたし、地を這っていたいたトマトに支柱を用意しても、登ってくることはありませんでしたが、周りの草の背が高くなってくると、自分の力で立ち上がりかなり背が高くなってきています。もしかして支柱を立てて紐などで結びつけていたら、自分の力で立って伸びることはなかったかもしれません。

そうやって、植物は自分の力で生きているのです。自分で生きてゆく力を持っているのです。することといえば、最初に土壌に落ち葉を敷くなどして、育つ環境を整えておくくらいなのです。

それはわかっていても、畑にいくとついつい何かをしてあげたくなります。何もしない不安に負けてあれもこれもやってあげたくなるのです。それは、作物を信じ切ることができていないからです。あっちの方が良いのか、こっちの方が良いのか、といじくりまわしすぎて、結局、枯らしてしまったりするのです。

自然から学ぶ 〜ちがい〜

2012/08/30

自然農法を用いて作物を育てる中で、いろいろな生き物が様々につながって、それぞれの役割を果たし、助け合って生きていることの一端を見ることができました。そこから、すべての存在には何かしら意味があると感じました。人も同様なのではないでしょうか。

人にも、姿かたち、性別、人種、言語、宗教・・・様々な違いがあります。その違いに意味があるのです。みんなが全く同じなら、一つの病気が流行したら全員が病気にかかってしまいます。そうならないよう、一人ひとりが違うようにできているのです。

ですから、その違いは違いとしてそのまま認め合いその上で、地球上でどうやってより良く生きてゆくか、という目的に向かって意見を交換し合う努力をした方が地球の調和につながってゆくのではないでしょうか?

誰かが勝手に決めたカテゴリーにこだわりすぎて、それ以外を排除する方向で考えることは、どこか視野が狭くて、滑稽にすら感じられることがあります。みんな地球の上で生きているのだから、その地球に感謝し大切にする生き方、人間社会の中で生きているのだから、より良い人間社会になるような生き方をした方が良いし、それに逆行する生き方こそ慎まなければならないのではないでしょうか。

話が大きくなってしまいましたが、様々な生き物に違いがあり、その違いを活かしてうまく関わり合っているように、人間も一人ひとりにその人の特性があり、それを活かし助け合って生きてゆくようにできているはずなのです。それは、社会で生きてゆくようにできているということです。

人間社会という大きなくくりの中でもそうですし、ひとつの組織の中でももちろんそうです。子どもの集団だってそうです。いろいろな人がいてそれぞれの得意なところで、みんなに貢献することができれば良いのではないでしょうか。

子どもでも一人ひとり異なり、それぞれの興味感心意欲に従って自ら学んでゆくのに、なぜかひとくくりにして、まとめようとしてしまいがちです。そのまとめよとする単位になりがちなのが、4月2日から翌年の4月1日までの1年間に生まれた子どもたちをひとくくりにした○○歳児クラス、学校でいう学年の分け方です。これは学校で一人の先生が一斉に子どもたち知識を伝えるのに効率の良さそうな分け方です。
ですから、この分け方にこだわりすぎるのは、いかがなものかと思います。ある活動をする時に、子どもの学びが最も大きくな分け方の一つとしてあるだけなら良いのですが、すべての活動が○○歳児クラスごとであることは不自然です。

最近、「ちょっと気になる子」ということばがよく聞かれますが、気になると思う方が気になります。なぜ気になるのでしょうか。大人が勝手に決めた枠をあてはめて、そこからはみ出す子が「気になる」のです。最近その枠が狭くなっているように感じられて仕方ありません。もちろん、その子の特性をしっかりと捉えておくことは大切ですが、枠の中で子どもをまとめようととするから、その枠からはみ出しやすい子が気になるのです。

みんな、それぞれにその子なりの得意を持って生まれてきているのです。その得意は当然違うのです。その「違い」を大切にして認め合うことを、子どもたちにも伝えてゆけると良いと思います。

自然に学ぶ 〜それぞれの役割〜

2012/08/29

畑を通して、自然から多くのことを教えてもらっています。少し前に、いろいろなものがつながり、助け合いながら生きているということを書きました。大豆が根粒菌と共生して土を肥やしていること、トマトと大豆が水の量を調節し合っていること、大豆がとなりに生えた草を頼りにしていたことなど、虫が葉っぱを食べに来ても、作物の他にいろいろな植物があると均等に食べるので結果的には作物の被害は少ないということなど、私が見聞きして知ったことだけでも、いろいろあります。気がついていないところで、もっともっとたくさんのつながりや助け合いの関係があるのだと思います。虫どうしの関わりや、虫と植物のかかわりなどがたくさんあるはずです。

まして、落ち葉の下や地面の中には想像もつかないくらいの多種多様な生物がつながり、助け合って生きているはずです。私が想像できるのはミミズやセミ、カブトムシなどの幼虫、アリ、ダンゴムシ、ムカデ、ヤスデ、クモ、カニムシやヨコエビなどがいるかなということくらいです。目に見えるものでももっとたくさんいるでしょうし、目に見えない菌類なども含めたら、想像もできないくらいのいろいろな生物が生きているのだと思います。そしてそれぞれが何かしらつながり助け合っているのだと思います。

つながり、助け合っているということは、それぞれが自分の役割を果たしているということです。つまり、意味なく無駄に存在しているものはないのです。ただ、自然のつながりや役割に気がつかない、知らない人間が自分の都合だけで、「いる」「いらない」と勝手に決めつけてしまっていることが多いのです。

それぞれが、自分の役割を果たすことで全体の調和がとれているのが自然の姿です。人と人との関係もその方が良いのではないでしょうか。全てがみんなと同じでなくてはいけないというのは、無理があるように思います。自然はそれぞれが自分の役割を果たしながら、調和を保っていますが、そこに目的があるのかどうかはよくわかりません。調和を保つことが目的かもしれません。

人が集まって何かをするときには、何か目的があることが多いと思います。組織となると、理念や目的がないと組織の意味がありません。その理念や目的に向かい、その理念の実現に貢献するために、組織を構成するひとり一人が自分の役割を果たす必要があるのです。みんなが同じことをしていては、組織の意味がなくなってしまいます。ただし、それはみんなが自分勝手に好きなことをすれば良いと言うことではありません。それぞれが自分のやりたいことだけをやりたいようにしているのでは、組織の意味はなくなり、解体してしまいます。理念を実現することに全員が向かう必要があるのです。

オーケストラだっていろいろな楽器があり、各楽器がそれぞれの音色でそれぞれの旋律を奏でることで音楽が成り立ちます。みんなが同じ旋律を演奏したらオーケストラの意味がありません。しかし、楽譜もなくみんながバラバラな音を出しては音楽どころではなくなります。

組織など人が集まって何かを行う場合、みんなが理念という方向をしっかりと向き、それぞれの特性を活かして役割を果たし、お互いに認め合い、助け合う保つことが必要ですし、そこにこそ喜びが生まれるのだと思います。その喜びから生まれるひとり一人の力はより強いものとなりますし、その力が理念という一つの方向を目指す組織の力を何倍にもするのです。

みんな同じではなく、それぞれが自分の役割を果たし、調和を保っていることを畑の生き物たちから教えてもらいました。

大好き!ありがとう!

2012/08/28

学童保育に通ってきている小学生、10名ほどと一緒に地蔵寺にお参りに行きました。本堂に着くと子どもたちは、自ら背筋を伸ばして正座していました。般若心経を唱えてお参りし、ご住職の法話を聞きました。ご住職は最近晋山式を挙げられたばかりの尼僧さんです。地域のため檀家の皆様のためになにかできないかと心を砕き力を尽くしていらっしゃいます。

ご住職は「お地蔵様は、一生懸命お願いすれば、みんなの願いをかなえてくれるけど、お願いの方法があるからそれをみんなにも教えてあげよう。」と話し始められました。子どもたちはこのことばに引き込まれたようでした。

お願いの仕方の一つ目は、「お地蔵さま大好き」というのだそうです。一緒に声に出して言ってみてといわれて、少し恥ずかしがりながらことばにしていました。「もっと大きな声で言わないとお地蔵さまは聞こえないよ」といわれ今度は大きな声で言います。二つ目は「お地蔵さまありがとう」です。今度は、子どもたちは元気に声を出していました。

ご住職に確かめたわけではないので、私の勝手な解釈ですが「お地蔵さま大好き」というのは、お地蔵さまを信じきる。ということなのだと思います。信じるというと「子どもを信じる」ことがすぐに思い浮かびます。子どもを丸ごと信じる。大人が困るようなことをしても、「きっと大丈夫」と信じるということです。子どものすることは、不適切と思えることであっても必ず意味があるので、それがなにかを知ろうと子どもの気持ちになって考えてみるのです。もしかしたら「こっちを見て」とアピールしているのかもしれませんし、何かを伝えたいけれど伝えられなくて困っているのかもしれません。そんなことしちゃダメ!と叱るだけではなく、この子の心は何を求めているのだろうと思いを馳せるのです。そう考えると、子どもをとても好きになることができます。

「お地蔵さまありがとう」は文字どおり「ありがとう」です。こうして生きていること自体が有ること難いことですし、多くの人に支えられ、教えられ、生かされているのだと思います。いろいろなことやものに、感謝できれば、これほど幸せなことはありません。子どもを見ているといろいろなことを教えてくれます。自分の思うとおりに子どもを動かそうとして、その通りにならないといって子どもを叱ってしまいがちですが、子どもをよく見ていると、子どもの「ステキ」や「すごい」にたくさん出会うことができ、学ぶことはたくさんあります。子どもに「学ばせてくれてありがとう」といいたくなります。

そんなことを思いながら、ご法話を聞かせていただきました。「お地蔵さま大好き」「お地蔵さまありがとう」は、きっと子どもたちの心にも届いていることだと思います。

地蔵盆のお参りに行きたいな

2012/08/27

地蔵盆のころは園児たちは結構忙しく過ごします。今年は8月22日に鞍馬の地蔵寺というお寺で地蔵盆の行事があってお参りしてきましたし、23日は園の地蔵盆で、3回もお参りをします。次の24日には鞍馬の各町内の地蔵盆が行われるので、そのうちの1箇所にお参りをします。お参りをすると、必ず般若心経を唱えてお参りをするので、お参りだらけで、子どもたちは少し飽きてしまうかもしれません。しかし、子どもたちも園以外で般若心経を唱えて「上手だね」などといわれると、やはり嬉しいのか、張り切って唱えたりしています。普段、教えているわけではないのですが、毎日のお参りに参加して自然に覚えているようです。

22日の地蔵寺での地蔵盆の行事には、午前中は園児達、午後からは学童保育に来ている子どもたちもお参りしました。この日は、私とお寺の担当者と2人で学童保育にあたっていましたので、私が地蔵寺まで引率してゆく事になっていました。学童保育では、基本的に自分のすることを自分で選びます。ですから、お弁当を食べ終わって地蔵寺にお参りに行くかどうかを尋ねると、2〜3人が行かないと言いました。そうなると、私が引率して寺の担当者が残ることになります。ところが、寺の担当者が「まだ地蔵寺に行ったことがないから、行ってみたい。」と言い出しました。普通に考えると大人が子どもにあわせるのかもしれませんが、ここは敢えて「○○先生もお参りに行きたいと言っているけど、大人が二人ともいてしまうと、お参りには行かないという子どもたちだけが残ることになるけど、そんなことはできない。○○先生は行きたがっているけど、どうする。」と投げかけてみました。「行かない」と行った子は、しばらく考えている様子でしたが、寺の担当者の「ちょっとだけつきあってくれへん?一緒に来てくれたら嬉しいな」のことばに、軽くうなずいて靴をはきだしました。

子どもも自分がやりたいことを申告できるのですから、大人だって「行ってみたい。」ということもできるのです。自分の想いを素直に伝えること、相手の思いを受けとめることを実践して、大人が子どもの思いを受けとめて考え、子どもがやりたいことができるようにすることがあります。逆に大人の思いを子どもが受けとめて考え、「しょうがないな、つき合ってやるか」と思ってくれることもあって良いと思います。子どもたちは大人が思っているよりずっとしっかり考えていて、大人の願いを聞き入れてくれるのです。

こうして、その日学童に来ていた小学生と大人2人で地蔵寺にお参りに行きました。

地蔵盆

2012/08/26

八月の下旬といえば地蔵盆です。各町内にいらっしゃるお地蔵様を祀って礼拝し、子どもたちが集まって、ゲームや福引きをしたりして遊びます。鞍馬だけでも6箇所で地蔵盆の行事が行われます。普段は町内の祠などにいらして静に町内をお守りくださっているお地蔵様ですが、この日ばかりは会場となる家にしつらえられた壇の上にお出ましになって、集まってくる子どもたちをお守り、ご利益を授けてくださいます。

長い年月にわたり毎年続けられてきた地蔵盆で使われている様々な道具を見ると、その歴史がうかがえます。大正時代に作られた幕だったり、数珠繰りといって、みんなで一緒に一連の大きな数珠を持って輪になって座り、お地蔵様の真言を唱えながらその数珠をまわすことをします。その数珠繰りに使われている数珠の箱書きには江戸時代の年号と寄進した人の名前が入っています。

お地蔵様のおみぬぐいをする子どもたち

私が手伝っている町内だけでもそうなので、各町を回ってみると、それぞれに歴史のある道具が使われているのだと思います。ずっと昔からこの行事を受け継いできた人々の思いが詰まった伝統を感じずにはいられません。そうやって毎年繰り返し積み重ねてゆく事で伝統や歴史ができあがってゆくのです。毎年の積み重ねは、毎日の積み重ねの上にはじめて成り立ちます。何気ない日常を心を込めて丁寧に生きてゆく事の大切さを思いました。

保育園の前にも、童形六体地蔵尊というお地蔵様がいらっしゃって、

 たくさんのお供え物を頂きました

子どもたちが登降園のときに手を合わせています。散歩でよく通る参道にも、牛若丸が拝んでいたといわれる川上地蔵尊がいらっしゃるので、8月23日には子どもたちと地蔵盆のお参りをして園舎の二階で数珠繰りをします。

この園での地蔵盆のお参りに先駆けて、年長の子どもたちが童形六体地蔵尊のお身ぬぐいをしました。石のお地蔵様なので、水をかけて洗います。細かな凹凸があってきれいにするのは難しいのですが、子どもたちは1時間以上もかけて真剣に洗っていました。おかげで、お地蔵様はさっぱりときれいになってくださいました。

  みんなでお数珠繰りをしました

お顔も嬉しそうに見えます。さっぱりとしていただいた後は、六体のお地蔵様それぞれに新しいよだれかけをつけてさし上げます。今回のよだれかけは深いブルーにレースをあしらった爽やかで涼しげなデザインです。このよだれかけは卒園児の保護者が毎年地蔵盆前と年末に新調してご奉納くださるものです。もう15年以上も続けてくださっていると思います。年に2回とはいえ、それだけ続けるのは容易なことではありません。ここにも歴史が積み重ねられています。

また、保護者の皆様はじめ、お寺の関係の方々がたくさんのお供え物をくださいます。いろいろな人がご縁をつないでくださることで行われる地蔵盆。お地蔵様がみんなの心をつないでくださっているのだと思います。このお地蔵様のお心に違うことのないよう、多くの人と心をつなぐことを実践してゆかなくてはなりません。

自然に学ぶ 〜つながり・助け合い〜

2012/08/25

畑で作物を育てることを通して自然の姿から学ぶことがたくさんありました。

何度も紹介しているように、園の畑は自然のままにしてあります。ですから、雑草と呼ばれる草もたくさん生えています。一般的に畑に雑草と呼ばれる草が生えていると、無精して手入れをしていない、恥ずかしいことだとか、良くないことだと思われるようです。
もちろん製品としての野菜を生産しようとするなら、いろいろな草が生えている畑では生産効率が下がるので、こんなやり方は不向きかもしれません。でも園では野菜という製品を生産しようとしているわけではなく、いろいろなものが生きていて、野菜もその中で生きていることを子どもたちに感じて欲しいだけなので、生産効率はあまり気にしなくて良いのです。

そんな訳で雑草と呼ばれるその他の草がジャングルのように繁った中で、今はトウモロコシ、トマト、ナス、大豆が生きています。その他の草は、人間からすると邪魔な存在かもしれません。しかし、そこに生えている植物たちがお互いに助け合っているようです。背が高くなった草を切ろうとしたら、成長して実をつけ始めた大豆が、蔓を伸ばして背が高くなった草に巻き付けていました。「これから実が大きくなると、重くなるからちょっと支えて」と頼りにしているようにみえました。

また大豆などのマメ科の植物は根に根粒というのがあり、そこで根粒菌という微生物が生活しています。根粒菌は空気中の窒素分子を窒素化合物に変えて土壌に固定する働きがあります。この窒素化合物が植物の肥料となり、根粒菌は大豆が光合成によって作り出す養分をもらうという共生関係ができているのです。大豆自身も根粒菌と助け合って生きていますし、その共生関係が生み出す窒素肥料が、土壌を肥やし、他の植物の役にも立っているのです。

トマトは水がありすぎることを嫌いますが、大豆は水が多いなら多いなりに少ないなら少ないなりに対応する力を持っているので、トマトと大豆を交互に植えておくと、トマトが必要としない水分を大豆が吸収してくれると聞きました。野菜同士もうまく組み合わせることで助け合うのです。

私のような素人が少し試しただけでも、畑の様子から植物のつながり助け合いを少し感じることができます。私には気がつかず、わからない助け合いの関係が、園の畑という狭い場所でも、たくさん繰り広げられているのだと思います。

自然は自然にしておくと、互いに助け合って生きているように見えます。人間も我欲や刷り込みの奴隷になってしまって、誰かを否定したり、争ったりすることではなく、互いに認め合い助け合うことを増やした方が、幸せに生きられるような気がします。

稲が育っています

2012/08/24

  ずいぶん大きく育ちました

春に、子どもたちや保護者の皆さんと植えた稲が順調に育って、花をつけていました。穂先の、成長すると籾になる部分から小さくてかわいらしい雄しべがたくさんでています。稲の花が咲く頃の田んぼに行くと、甘い香りに包まれますが、稲の花の香りだと思います。さすがに60本足らずのペットボトルに植えた稲の数では、甘い香りが漂うのは無理ですが・・・

みんなで植えた稲が元気で育ってくれて嬉しいですし、例え少しでもお米がとれることを祈るばかりです。

      花も咲きました

そんなことを思いながら、かわいらしい稲の花を見ていたら、そう簡単には行かないかもしれないなと思いました。

稲穂にカメムシが2匹くっついてなにやらごそごそしています。調べてみるとクモヘリカメムシというカメムシらしく、籾の中身がまだ柔らかいあいだに中身を吸って食べます。吸われた籾は実らなかったり、米に黒い斑点が付いたりするそうです。だからといって、農薬や殺虫剤を使うのは嫌ですし、化学物質の害の方が怖いと思います。カメムシも全てを食べ尽くすことはないでしょうし、お米を出荷するわけでもないので、あまり神経質になる必要はと思いました。

畑で作物を育てるようになって、自然はみんなうまく繋がり合い、絶妙なバランスを保ってお互いに役割を果たし合いながら、めぐっているということを実感するようになりました。今までに紹介してきたようにいろいろと気付かせていただいています。
       

  稲穂についたクモヘリカメムシ


自分の都合だけで見たり、今とか今日、明日といった短い時間のスパンだけで見ると、本当のことを見誤ってしまうのだと思います。本当に大切なことや、真実、物事の本質を見る心を養うことができるようになりたいものです。

となりの畑

2012/08/23

   茄子の花が咲きました

畑の様子をお伝えしましたが、ようく見ると、毎日のようにいろいろな発見があり、楽しくて仕方ありません。大豆の実も増えていましたし、トマトも増えて大きくなっていました。まだ赤くはなっていないので食べるのには早いかもしれませんが、食べられるようになるのが楽しみです。かなり前に、1つだけ早く実をつけて熟したトマトが落ちていたので、種を取ろうと中を見てみると腐っていました。次に熟したら種を取ろうと思います。

トマトは2種類植えてあって、1種類は煮込み料理に適したのと、もう1つは生で食べるのに適した種類です。

 スイカも元気を取りもどしました。

今、たくさん実をつけているのは煮込み料理に適していると言われている方です。でも、赤くなったらまずは生で食べてみようと思います。トマトは実が赤くなった時点で、種も成熟しているそうで、食べるときに種だけ取っておくことができるそうです。食べると同時に種も取れるなんて、嬉しいですね。

もっと嬉しかったのは、茄子の花が咲いていたことです。花を見つけたときは、「茄子くん良かったなー!」と叫んでいました。うまく実をつけて種が取れるまで成長してくれることを祈るしかありません。

 ニンジンくんも元気出して!

本当に祈るしかありません。だって、余計なことはせず、茄子の生きる力を信じて見守るのですから。

となりの畑もどうなっているか見てみました。収穫を終えた苺が放ってあるので、伸び放題に伸びていますし。作物以外の草も生えてきました。でも、ジャングルのようになった畑とは生えている草の種類も違いますし、繁り方も違うようです。すぐとなりなのに何が違うのかと思ってしまいます。想像ですが、一番大きな違いは土のような気がします。

ステキな色の柿の葉に出会いました

土を踏んだときに足に伝わってくる柔らかさが違うように思うのです。

保育士が子どもたちと植えたスイカが一時は枯れてしまったかと思うようなピンチに見舞われていたのですが、元気を取り戻しています。まだ実をつけるまでにはなっていませんが、蔓を伸ばしてきています。同じように、一時はなくなってしまったかと思っていたニンジンも細い葉が何本か伸びていて、いのちの不思議と強さを感じさせられました。「スイカくんもニンジンくんも大きくなってね!」と応援したくなります。

その畑に柿の木が2本あるのですが、うっかり植え替えるのを忘れていて、大きくなりすぎました。昨冬に植え替える準備をして、張りすぎた根や枝を切っておいたのですが、今はとても元気に葉を茂らせています。その柿が美しい色の葉を落としていたので、思わず写真に撮ってしまいました。

助け合って

2012/08/22

 なにすんねん! 暑いやないか!

畑がまるでジャングルになっています。1メートルくらいの深さの草の海が広がっているというとわかりやすいかもしれません。草をかき分けてなんとか歩けるという感じです。あまりにも草が覆い繁っていて、大豆の葉も探さないとわからないくらいなので、少し風を通した方が良いのではないかと思い、背の高い草を少し切ることにしました。畑に入って手近なところから背の高くなりすぎている草を半分くらいに切ってゆきます。はさみを入れようと、草をかき分けてみると、草の海の底の方は葉が少なくて意外と風通しは良さそうでした。                            

     まめの赤ちゃん

葉陰にはいろいろな虫がいます。カマキリが日陰でカマを伸ばして昼寝?をしていました。写真を撮ろうと葉っぱをどけると、直射日光がカマキリにあたるので、「何するんねん!」と迷惑そうな顔をしているように見えます。「昼寝の邪魔してゴメンね」と謝りそっとしておきました。

作物たちは、元気に育っているようです。大豆もトマトも実をつけていました。トウモロコシは実をつけているのですが取り頃がよくわかりません。一つ取って皮をむいてみると、全体は小さいのですが、4分の3くらいまできれいな薄黄色の実が付いています。

      なすのつぼみ

思わず嬉しくなって、職員たちに見せてまわりました。

私の気がかりは、元気のなかった茄子です。大豆やその他の草が大きくなって、日陰で枯れてしまったかと心配していたのです。「オーイ茄子くん。元気かー?」と探しますが、見つかりません。ふと視線を移すと、意外と大きく育ってつぼみをつけた一株がいました。小さかったもう一株はどうしただろうと他の葉をかき分けてみると、背は低いのですが少し葉が大きくなっていました。「オー!元気で良かったなー!」思わず声をかけている自分がいました。

大きくなりすぎた草を切りながら進むとハッとしました。大豆が蔓を伸ばして、切ろうとした草の先に蔓を絡めているのです。大豆も背が高くなってきたので、隣の草に「ちょっと支えてね。」と助けを求めていたのかもしれません。人間の都合だけで考えるとあまり意味のないように見える雑草ですが、それは人間の一方的な見方であって、自然は「お互いに助け合って合って生きているのだ」ということをあらためて実感しました。また、畑の植物たちから教えられました。

小振りだけど、つやつやのトウモロコシ

  ちょっと助けて! いいよ!

スクロール