園長ブログ

習熟度別

2012/09/20

一人ひとりの子どもの発達を最大限に保証する。その子が、自分から興味感心を持って自発的、主体的に環境に関わることで、今を最も良く生きることができるようにサポートすることが必要なのです。

ですから、集団を構成する場合も様々な集団の種類があり、発達に合わせて集団が構成されることが大切だと思います。子どもが友達と楽しく遊ぼうと思えば、発達の近い子の集団で遊ぶでしょうし、少し発達の進んだ子がいるとその子を見て学ぶでしょう。お世話をする、されるという経験が必要なら、5歳・6歳の子と0歳・1歳が関わることができる集団にすれば良いでしょう。「みんなで一緒に」が楽しい3歳前後の子どもたちは2歳児クラスという集団が、就学前の仲間意識が高まる時期には年長児クラスという集団が必要になってくるでしょう。

小学校の学習指導要領では「個に応じた指導」の中の方法の一つとして、習熟の程度に応じた指導ということがいわれています。いわゆる習熟度別の指導です。習熟度別というと、差別だとか言われるようですし、私もそう感じていたこともありました。しかし、その子の発達にあわせた指導ということです。その子の今に最も適切な方法で教えるとが一番わかりやすいということだと思います。

次男が鞍馬小学校に通っていた時、夏のプール指導で習熟度別の指導を取り入れてくださっていたように思います。児童数が少ないということも一つの要因だったのかもしれませんが、全校生徒を、学年の枠を超えてどのくらい泳げるかでグループ分けをして、それぞれの習熟度によって指導方法を変えてくださっていたようです。低学年でも、水泳教室に通っているような子はどんどん泳げますし、高学年でも泳ぐのが苦手な子もいます。学年という枠だけにとらわれない、発達に応じたグループ構成にしてくださっていたようです。
次男に聞くと、無理なく楽しく泳げるようになった。と言っていました。

一人一人の発達に合わせた教育を経験することで、無理なく楽しく自然体で学ぶことができるのだとおもいました。

小学校でも様々な取り組みをしてくださっているのです。私たち幼児教育に関わるものこそ、たいせつにすべき部分ではないでしょうか。

集団

2012/09/19

子ども一人ひとりの発達をしっかりと見つめ、その子がその子らしく、今を最もよく生きることを大切にするというスタンスで、保育してゆきたいと思います。それは、年齢や性別、その他の様々な要素にとらわれることなく、まず、一人の人格としてその子を見るということです。4歳児だからとか、自閉症だからという区別からその子を見るのではなく、一人の人格として尊重したうえで、それぞれの特長について知れば良いのだと思います。どうして、外側からの区別にこだわるのでしょうか。外国では年齢や性別、しょうがいの有無で子どもを分けることは、差別だとして禁止しているところもあるそうです。

学年という区切りがしっかりとある小学校でさえも、平成23年4月から全面実施された新学習指導要領には「個に応じた指導の充実を図ること」(第1章総則第4 – 2 – 6)と記されています。その方法として、学校や児童の実態に応じ,
・個別指導やグループ別指導
・繰り返し指導
・学習内容の習熟の程度に応じた指導
・児童の興味・関心等に応じた課題学習
・補充的な学習や発展的な学習などの学習活動を取り入れた指導
・教師間の協力的な指導など指導方法や指導体制を工夫改善する
などがあげられているのです。
どちらかというと、乳幼児教育に比べて知識を一方的に伝えることが多い学校教育でさえも、個別指導や、習熟度別指導、子どもの興味・関心等に応じた課題学習など弾力的な子ども集団の編成、そして、ティームチーチングまでもが示されているのです。

乳幼児の発達は、子どもが環境に働きかけ、環境との相互作用を通して新たな能力を獲得してゆく過程であり、そこで大切なのは、子どもが自分から興味感心を持って自発的、主体的に関わろうとする意欲や態度なのですから、当然、小学校よりも「個に応じた」柔軟な子ども集団の編成(子どもが自ら集団を作るのですが)が必要なのではないでしょうか。

子どもから出発するのではなく、大人の都合や、昔からこうしているからというだけの理由で、固定的に子ども集団を編成することには問題があるのです。

もちろん、発達にとって必要な集団も編成しないというのではありません。子どもの発達にとってどんな集団が必要なのかをよくよく考える必要があるということです。

一人ひとり(個)が、いきいきすることで、みんな(集団)がいきいきする。そしてその集団が、さらに個を育てるという相互作用が生まれるような集団、個が集団を高め、集団が個を高める、発達のスパイラルが生まれる集団になるにはどうすれば良いかを考えることが必要なのです。

一人ひとり

2012/09/18

見守るというのは、子どもを放任しておくことではなく、子どもが好き勝手にすれば良いというものではありません。まずは、子どもをしっかりと見るこが大切だと思います。そこから出発です。年齢や性別、しょうがいの有無といったことにとらわれ過ぎることなく、今、目の前にいる「この子」をできるだけわかろうと努力することです。一人ひとりみんな違うのですから、その違いをその子の特徴としてとらえ、一人一人が今を最もよく生きるには何が必要なのかを考えてゆくことです。

保育所保育指針にも「一人一人の子どもの心身の状態を把握しながら、その発達の援助を行うことが必要である。」(第2章第2子どもの発達)とあります。

背格好も顔も声も、好きなことも嫌いなことも、得意なことも苦手なこともみんなそれぞれに違う。早く育つ子もいれば、ゆっくり育つもいる。歩くのが難しくても、話すことが難しくても、その子はその子のいのちを精いっぱい生きているのです。その子自身を見ることなく、何歳児だからということだけにこだわることは全く意味がありません。というより、一人一人の発達を保証するという観点からすると、むしろマイナスに働くこともあります。

子どもが辿る発達の道筋やその順序性には共通のものがあります。 しかし、満3歳になった子がみんな同じではないことは誰でもわかります。

保育所保育指針では、子どもの発達課程を8つに分けて説明していますが、各区分の説明にはいる前に次のように書かれています。

子どもの発達過程は、おおむね次に示す8つの区分としてとらえられる。ただし、この区分は、同年齢の子どもの均一的な発達の基準ではなく、一人一人の子どもの発達過程としてとらえるべきものである。また、様々な条件により、子どもに発 達上の課題や保 育所の生活になじみにくいなどの状態が見られても、保育士等は、子ども自身の力を十分に認め、一人一人の発達過程や心身の 状態に応じた適切な援助及び環境構成を行うことが重要である。

何歳児だから!ではなくて一人ひとりがをしっかりと見つめてゆきたいものです。

信じる

2012/09/17

見守るというと、大人が何もしないことだと勘違いする人がいます。何もしないのは、育児放棄か放任です。そんなことで子どもが育つはずがありません。

見守るということの一つの意味は、その時その時で、目の前の「この子」に適切に関わることなのだと思います。その基本になる子ども観が、子どもは一人の人格として主体的に生きているというとです。そこを起点として考える必要があります。そして、子どもは一人ひとりがそれぞれに違うのです。ですから、一人ひとりの子どもが、遊びをとおして、人、物、自然などの環境に主体的に自発的に関わることを適切に援助する必要があるのです。

その基礎となるのが、子どもとの信頼関係です。子どもが大人を信頼してくれることが大切ですが、そのためにはまず大人が子どものことを信頼する必要があります。子どもは一人ひとりが違うので、様々な姿を見せます。その子どもを「きっと大丈夫」とまるごと信じることが第一です。

最近、子どもの足りないところや困るところばかりに目を向け、必要以上に気にし過ぎて「気になる」「気になる」といい、その「気になる」に名前をつけるだけで安心してしまうことが多いように思えてなりません。発達に偏りがあるなら(あって当然なのですが)それをその子の特性としてしっかりと捉え、その子どもが生きやすいようにはどうすれば良いのかを、専門機関との連携も含めて考えてゆけば良いのだと思います。カテゴライズするのではなくて、その子をしっかりと見ることです。

少し話がそれましたが、大人が子どもをまるごと信じ切ることからしか信頼関係は作れないのです。まず、信じることをせずに「ダメ!」とか「話を聞け!」とか「食べろ!」などと指示、命令ばかりしていたら、決して子どもは信頼などしてくれません。

保育所保育指針 第2章 子どもの発達 第1項 乳幼児期の発達の特性にも「子どもは、大人によって生命を守られ、愛され、信頼されることによ り、情緒が安定するとともに、人への信頼感が育つ。」とあります。

この信頼することこそが、見守るということだと思います。子どもがどこまでも安心、安定できる安心基地でいてあげること。「こうしたかったんだね。こんな気持ちだったんだね。」と受け止めること、「きっと大丈夫だから、どんどん挑戦しておいで。」と勇気づけることが子どもが自立してゆくうえで必要なことです。
決して何もしないで見ていることが、見守ることではないのです。

見る。守る。

2012/09/16

子どもは、自ら主体的に生きている。しかも赤ちゃんのときからです。ですから、私たち大人は子どもが主体的に生きることを「応援する」ことが大切です。私たちは赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいる時は、赤ちゃんが主体的に生きることを保証しているではありませんか。たとえお母さんといえども、自分自身のの体の中にいる赤ちゃんをどうこうすることなできません。赤ちゃんが自分の動きたいように動き、音を聞き、光を感じ、味だって感じながら、ちゃんと自分で育っているのです。

出産というと、お母さんががんばって産むものだと思いがちですが、赤ちゃんも自分で外の世界に出ようと頑張っているのだそうです。お母さんと赤ちゃんの共同作業なのですね。お母さんの陣痛が始まるきっかけは、赤ちゃんが作るそうです。お母さんが産み出すというより、赤ちゃんが、「よし、今から外の世界に向けて出発だ!お母さん手伝ってね!」と言って出発のボタンを押しているかのようです。

うちの次男はせっかちだったのか、ずいぶんと早い時期にその発射ボタンを押したようです。陣痛を抑制する薬なども使いましたが、結局、早く外に出たかったようで32週で生まれました。私は、次男のおかげで、しばらくの間NICUを見学することができて、ラッキーと思ったのを思い出します。いつ生まれてくるかだって赤ちゃんが決めていて、それを大人が止めようと思っても止められないのです。

生まれてくるまでは赤ちゃんの主体性に任せている(任せざるを得ないのですが)のに、なぜ生まれた途端にそのことを忘れてしまうのでしょう。もちろん赤ちゃんは一人では生きてゆけないので、授乳をはじめいろいろとお世話をしてあげる必要があります。守ってあげる必要があるのです。それと同時に赤ちゃんをしっかりと見つめることも大切です。赤ちゃんのしていることにはすべて意味があるからです。それはお腹の中でそうだったように、赤ちゃんが自分で育つためにしていることなのです。ですから、この子は今どんな発達をしようとしているのだろうという目で見ると良いと思います。この、目の前にいる「この子」の姿をしっかりと見つめることなしに、「この子」にとって何が必要なのかはわかりません。主体的に生きている子どもを一人の人格として尊重し、その子の今を見ることで、どう応援してあげれば良いかがわかるのです。見るとと守ること、見守ることが大切なのですね。

子ども主体

2012/09/15

赤ちゃん学の一端を知るだけでも、子どもはお母さんのお腹の中にいる時から、自分の人生を自分自身で主体的に生きている、生きようとしていることがわかりました。そのようにプログラムされていて、そうでなくては発達できないし、自立して生きてゆけないのだと思います。自立し自律することができなければ、人間が生き残り戦略として作ってきた社会というしくみを機能させることはできませんし、社会自体が成り立たなくなります。

もちろん、様々な環境が変化しているわけですから、社会のあり方自体も変わるのでしょうけれど、今は複数の人が協力し合う状態という意味で、社会ということばを使います。

子どもは主体的に生き、自立するようにプログラムされています。しかし、とても弱い存在なので、守ってもらわないと生きてゆくことができません。ですから、大人は子どもが主体的に生きて、自立しようとしているのをうまく応援してあげることが大切です。守りながら応援するのです。主役は、主体はあくまでも子どもなのです。赤ちゃん学に触れることで、この「生きる主体は子ども」ということを再認識しました。

子どもは主体的に生きる。子どもはそうする力も持っているし、そうしようとしているのに、往々にして大人がそれを信じ切ることができず、子どもを自分の思うようにしようとしてしまいがちなのです。もちろん悪気があってそうするのではなく、子どものために良かれと思ってなのですが・・・

よくありがちなのが、過干渉です。少子化で子どもの数が減り、生活も便利になって、子どものことにあれこれ干渉できるようになったからかもしれませんが、ついつい、それをしてはダメ、こうしなさい、ああしなさい、と指示や命令ばかりしがちです。特に多くなるのが、ダメ!あかん!の禁止語です。禁止語を使うなといっているのではありません。危険が迫っている時は強く止めないと、大変なことになります。ところが、それほど切迫した状態ではないにもかかわらず、連発してしまうことがあります。でも本人はそれが良いと思ってしているので、なかなかそれに気づくことはありません。

逆に全くの放任というのもあります。子どもの好き放題を許してしまう、放っておいてしまうことですが、こちらはそれほど多くはないかもしれません。

いずれにしても、子どもが主体的に自分の人生を生きてゆくことにとっては、大きなマイナスだと思います。

いつも子どもの立場で考えたいと思います。大人の都合ではなく・・・
小西先生も「赤ちゃんの気持ちになって考えてよね」とおっしゃっていました。

どこまでも、子どもが主体です。大人が子どもを操作するのではないのです。

赤ちゃん学からの学び

2012/09/14

日本赤ちゃん学会理事長の小西行郎先生の講義を聞いて、感じたことを書いてきました。私の理解不足や誤解などから不正確なところがあったかもしれません。ごめんなさい。

お話を聞いて最も印象に残ったのは、「赤ちゃんは一人の人間として主体的に生きている」ということです。しかも生まれる前から、受精の瞬間からです。そんなこと当たり前じゃないかと言われるかもしれません。そうです。観念的にはわかっているつもりなのですが、赤ちゃんが自ら「主体的に」生きているという事実を様々な事例や研究を示して説明していただいたことで、より現実のものとして感じることができました。

ですから、赤ちゃんの主体性を大切にする必要があるのです。赤ちゃんは自分の発達に必要なことが何かがちゃんとわかっていて、その時期になれば周囲にそれを要求してきます。それに適切に応えてあげれば良いのです。だってお腹の中にいる時からそうなのですから・・・

育児というと、大人が何かをしてあげなくては!とか、しつけなくては!と大人から一方的に赤ちゃんを一定の枠にはめようとしてしまいがちです。それよりも、この子は今、どんな発達がしたいのだろう?という目で赤ちゃんをしっかりと見つめ、目の前の一人ひとりの赤ちゃんに応じた対応をしてあげれば良いのです。大人の思うようにしようと思って、それがうまくいかないからといってイライラするよりも、どうすれば、今、この子と楽しめるかな。と考えた方がずっと楽しいと思います。

小西先生が「今の育児の問題は、大人がやりすぎることだ」とおっしゃっていました。子どもが一人の人間として主体的に生きていることを尊重し、子どもが自分で育ってゆくこと、生きてゆくことを尊重してゆきたいと思います。

1歳未満の赤ちゃんが話さないのはなぜか?話せないのか、話さないのか?
この問いに対して、小西先生は「この時期はノンバーバルでつながりたい時期なのだ」とおっしゃっていました。この時期の赤ちゃんは伝えたいことをいっぱい持っているし、いっぱいつながりたいと思っている。しかしその方法は、ことばを通してではなく、運動、動くことにを通してつながりたいということなのだそうです。ですから話しかけるだけではなく、それよりも動くことを通してつながる。動作を共有する。いっそに遊ぶことが大切なのです。動作を使って育ちたい、学習したい時期なのです。だからその欲求を適切に満たしてあげれば良いのです。

動作を使って学習するものにおもちゃがありますが、先生は、「良いおもちゃは存在しない」とおっしゃっていました。おもちゃの良し悪しは、その使い方で決まるということなのです。おもちゃを介してお母さんとつながること。お互いが共有しあって遊ぶことが、話し始める前には大切だということです。

そう考えたときには、大人も心から楽しんで遊ぶ方が良いと思います。義務感で遊んでいては、一緒に遊ぼうと真剣に誘いかけてくる赤ちゃんに対して失礼だし、第一楽しくありません。

赤ちゃん学に出会うことで、自分の子ども観をもう一度見直す機会となりましたし、子どもが主体的に育ってゆけるよう、一人ひとりの今を大切に保育してゆこうという思いを強くしました。

*赤ちゃん学について詳しく知りたい方は、Googleで「あかちゃんきゅー」と検索して見てください。

赤ちゃん学 〜気づく〜

2012/09/13

赤ちゃんはお母さんのお腹の中で動いて、音を聞き、光を感じ、味だってわかるようになっています。発達のプログラムに沿って、生まれてからの準備を着々と進めているのです。

赤ちゃんの動きの中には、お母さんのお腹の中ではしていたのに、生まれるとしなくなる動きがあるそうです。例えば、顔にさわるしぐさは胎児期にはよく見られますが、生まれてからは減ってゆきます。指しゃぶりは胎内でしていて誕生に向けてだんだん減少してゆき、生まれてしばらくすると、また指しゃぶりが増えてくるそうです。

そしていろいろな動きには赤ちゃんが自ら意識的に行っているものが多いことを知りました。例えば、新生児が仰向けに寝ていて左を向いていると自分の左手が見えます。そうすると右手よりも左手を動かす頻度が有意に高いそうです。見ている方の手を意識的に動かしているのです。主体的に動いているのです。

また、赤ちゃんはいろいろなことに気づきます。赤ちゃんに見慣れないものを見せると、不思議そうに見ますが、ずっと見続けていると慣れてきて、だんだん見なくなるそうです。そこで、別のものを見せると、またよく見るようになります。これは赤ちゃんが自分の見ているものの違いに気づいているということです。この自ら気づく力が育ってゆく力なのです。

こんな実験が紹介されていました。仰向けに寝ている赤ちゃんの上にモビールをつり下げ、そのモビールと赤ちゃんの手を糸で結びつけます。赤ちゃんが普通に動くと結ばれた糸に引かれてモビールが動きます。そのうち赤ちゃんは、他の手足ではなく、糸の結ばれた手を動かすとモビールが動くことに気づきます。そうすると、モビールと結び付けられた手を明らかによく動かすそうです。「どうやら、この手を動かすとモビールが動くようだぞ」と赤ちゃんは自分で気づいて自分で動いているのです。自分で学習して育つのです。

そんな赤ちゃんに接する時に大切なのは、赤ちゃんが気づく道のりを邪魔しないこと。いろいろなことに気づいている赤ちゃんに気づくことだそうです。

そうしようと思ったら、まず赤ちゃんをしっかりと見ることが必要になってきます。大人の勝手な思いだけで、してあげるのではなく、赤ちゃんは何をしようとしているのかをしっかりと見ることです。もちろん一人ひとり違う存在である目の前の赤ちゃんをしっかりと見て、今、目の前にいるその子に今必要なことは何かをよく考える必要がありそうです。

赤ちゃん学 〜表情〜

2012/09/12

赤ちゃんはとってもかわいいですよね。いつ見てもあやしたくなったり、話しかけたくなったりします。赤ちゃんが笑ってくれたりすると余計にかわいいと思えます。

新生児微笑といわれるこのほほえみは実は赤ちゃんがお腹の中にいる時から現れているそうです。赤ちゃんはお母さんのお腹の中でほほえむ練習をしているのです。もちろんこれは、嬉しいからとか気持ちが良いから微笑んでいるわけではありません。
この微笑みによって、周囲の人はなおさら赤ちゃんをかわいいと思い、あやしたり面倒を見たくなります。特にお母さんのこういう気持ちを引き出すために、お腹の中で微笑む練習をしているのです。

私たちは赤ちゃんをお世話してあげていると思っていますが、実は赤ちゃんが、私たちにお世話したくなるように働きかけているのです。一人では生きてゆくことができない赤ちゃんの生き残り戦略なのです。赤ちゃんの体つきや顔つきだって丸っこくて、おでこが広く、目鼻が顔の真ん中より下に集まっています。かわいく見える姿かたちをしているのです。

そんな言い方をすると、赤ちゃんがかわいくなくなってしまいますか?戦略といっても、赤ちゃんが「よしこうしてやろう。」なんて考えてやっているわけではないのは当然です。そのようになっているのです。

赤ちゃんは、こうやってお腹の中にいる時から表情をつくり、コミュニケーションの準備をしているのですね。

生まれたばかりの赤ちゃんでも、顔の表情をまねすることができます。赤ちゃんの顔の前で口を開けたり、舌を出して見せたりすると、おなじようにまねをします。まねをするというとは、学習の始まりです。赤ちゃんはお母さんのお腹の中でその準備をして、生まれ出てから、すぐに学習をしている、学習の始まりです。ただそれは、赤ちゃんが自らの意思で、そうしようと思わないと学習は成立しません。いくら大人がさせようと思っても、赤ちゃんが興味を示さなければ、学習は成立しません。
あかちゃんが自分から興味を持つからこそ成り立つのです。主体はあくまでも赤ちゃんです。赤ちゃんが自ら学ぼうとするのです。

赤ちゃん学 ~感覚~

2012/09/11

赤ちゃんはお母さんのお腹の中で動くことによって、自分を知り他を知り学習をしているということを前に書きました。家内が妊娠中に、よく「赤ちゃんがお腹を蹴っている」と言っていました。その時は、本当かな?どうして蹴っているとわかるのかな?と思っていたのですが、胎児はキッキングといって妊娠11~12週ごろから足を蹴るように動かすのだと知りました。家内の言っていたことは間違っていたわけではなかったようです。このキッキングは生まれてから歩くための練習をしているのです。にわかには信じ難いのですが、歩く時と同じ足の動きをしているそうです。こうして赤ちゃんは自ら動き、触覚を使って学び、生まれてからに備えているのですね。生まれてからも、動くことと、触ることを大切にしてあげると良いのかもしれません。

私たちは視覚にしょうがいがなければ、多くの情報を目から得ています。60パーンセントくらいを視覚情報に頼って生きているそうです。ところが胎児は触覚で生きているそうで、視覚は最後に完成するのだそうです。大人が視覚人間だとすれば、赤ちゃんは触覚人間。異なる世界に生きているといえます。ですから赤ちゃんの「触る」を大人の感覚で捉えない方が良いのかもしれません。

生まれたばかりの赤ちゃんも光に反応して、脳の視覚野が働くそうなので、お腹の中ですでに視覚は完成しているということです。

他の感覚はどうなのでしょう。

聴覚は、いろいろな音を赤ちゃんに聞かせると、音の刺激に驚いて動きます。赤ちゃんが生まれてからでもお腹の中で聞いていた音を聞くと泣きやむということはよく言われています。

味覚も胎児はわかるそうです。胎児はお母さんのお腹の中で羊水を飲んいます。これも生まれ出てから母乳を飲む練習をしているのかもしれません。羊水に苦い味をつけるとあまり飲まなくなり、しかめっ面をするともあるようです。逆に甘い味をつけると、よく飲むそうです。

嗅覚についてはどうなのでしょう。臭いは空気中の化学物質に反応することで感じるので、羊水という液体の中でも臭いを感じているのでしょうか。嗅覚は7ヶ月の頃にはできていて、生まれてすぐに母乳のにおいを嗅ぎ分けることができるそうです。

感覚ではありませんが、胎児の心拍数、体の動き、目の動きをそれぞれ計測してみると、35週ではバラバラだった3つが38週ごろには同調してくる。起きている時、寝ている時がはっきりしてくるということです。意識と無意識という状態がでてきているということです。

こうやって赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいる時には既に、生まれ出てから必要な能力を獲得するためにいろいろなことに挑戦しているのですね。

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