園長ブログ

見る 3(10月25日分)

2012/11/01

私たちは視覚を使って様々なものを見ますが、実は顔を見ることは他のものを見ることでは、情報処理のしくみがずいぶん違うようです。普通、目から入った情報は主に脳の視覚野というところで処理されるのですが、顔の情報は脳の紡錘状回という部分で処理し、上側頭溝という部分で他者の視線に関する情報を処理しているといわれています。自閉症の人の中には紡錘状回の反応が弱い人がいるそうです。表情が読むのが苦手といわれるのはこんなところにも原因があるのかもしれません。

それにしても、私たち人間にとって顔を見ることは、他のものを見ることとはずいぶんと意味合いが違うようです。それは、社会を構成するためには他者の顔や表情を手がかりとして、他者の心を読む必要があったからではないでしょうか。社会のなかで生きてゆくために必要な能力は、私たちのあらゆるところに備わっているのです。そして赤ちゃんはそれらを自ら発達させるようになっているのです。私たち保育者には、赤ちゃんが思う存分発達できるような環境を整え、見守る義務があるのです。

顔情報の脳での処理方法は他の物を見たときと異なるということは、もともとそうなのでしょうか。それとも赤ちゃんのうちから顔を見ることが多いので、学習効果によってそうなるのでしょうか。そんなことを実験した人がいるそうです。結果は顔以外のものでも、集中的に学習すれば、顔を認識するのとおなじ脳の部分が活動するそうです。

実験は、似ているけれども少しずつ形の違う、顔には見えない形の4種類の人工物を使い、ひとつずつに名前をつけて、名前と形を覚えるようにします。そうして名前をつけて覚えたものを見たときは、顔を認識するのと同じような認識の仕方をするそうです。ブリーダーが自分の育てている動物を見たり、バードウォッチャーが鳥を見るようなときも同じです。ここでは、名前をつけるなど愛情、愛着を持って関わることがポイントだそうです。人間でなくても、生き物でなくても、愛情を持って接するものについては、脳は顔と同じような認識の仕方をするのです。

非日常 5

2012/11/01

病院の治療計画や看護計画は、そこに関わるスタッフ全員が熟知していないと治療どころか患者さんのいのちに関わります。その計画を立てるためにも、患者さんの今の状況を把握する必要があります。そのために、いつも細かく、容体を把握しなくてはなりません。看護師さんは何度も体温、血圧、その他様々なことを細かく調べて記録していらっしゃいました。

全ての患者さんに対してなのだから大変だなと思いましたが、今は、病院もIT化されています。ナースステーションにはパソコンがずらり、点滴を交換するときも、患者さんの腕につけられたバーコードと点滴薬のバーコードを小さな端末で読むだけで、どの看護師さんが、いつどの患者さんの点滴薬を交換したのかが瞬時に記録され、サーバーに記録され、カルテに反映されるそうです。体温や血圧などの情報もその端末から入力していらっしゃいました。もしその記録を訂正したら、訂正したことも記録されると看護師さんはおっしゃっていました。医療過誤を防ぐ工夫がされています。

診察の時も、お医者様が、ついさっき撮影したCTの画像を診察室のモニターで見ながら、説明してくださいましたし、エコーの画像も見せて詳しく説明してくださいました。

技術の進歩により、様々なことが詳しく細かくわかり、症状の把握や治療に役立ったり、医療過誤の防止につながります。こういった技術の進歩をうまく活かしながら、かつデータだけではなく、ひとりの患者さんを頭の先から足の先までそして心までも、ひとりの人間として全体でとらえて治療も含めたケアが大切なのだと思います。

そのためにも、ケアする人たちがしっかりとチームを作り、情報共有する必要性があるのですね。

見る 2(10月24日分)

2012/10/31

赤ちゃんは、視力が弱くはっきりとは見えないことで、余分な情報が入ってこないので、表情を読み取りやすいということを知りました。しかし、以前別の実験で赤ちゃんが猿の顔を見分けるということが取り上げられていたことと比べると、視力が弱くディーテールを見ることができない赤ちゃんがどうやって猿の顔の微妙な違いを見分けているのか不思議です。

ところが、自閉症の人の中には、赤ちゃんの時には良くないはずの視力が良く、細部まではっきりと見えてしまう人がいるそうです。定型発達の場合は、顔を上下逆さにひっくりかえして提示すると顔として認識するのが難しく、これを倒立効果というそうですが、自閉症の人の場合この倒立効果が起こりにくく、顔の全体というよりも、目、鼻、口といった部分に注目して見ていて、特に目のあたりよりも口のあたりを見ていることが多いという研究があるそうです。

自閉症などの人は、見ている世界が全く違うということを聞いたことがあります。多くの人は、注意を向けているものははっきりと見ていますが、それ以外の視界には入っているものについての情報はある程度省いて見ています。それに対して、自閉症などの人の中には視界に入ってくる全てのものの情報が同じレベルで見えてしまう人もいるそうです。

聞くことについても、健常といわれる人たちが、様々な音のなかから聞きたい音を選んで聞くことができるのにたいして、あらゆる音が同じレベルで耳に飛び込んできたり、とても大きな音で聞こえたりするそうです。

感じ方が違うのです。ただ違うだけなのです。自閉症の人に限らなくても、誰でも一人ひとりそれぞれの見方をし、それぞれの聞き方をしているはずです。ただどれだけ違うかの差だけであって、大多数の平均的な感じ方とは違いが大きいだけなのです。その人でないとできない見方や聞き方があるということです。

それが、大多数の人とコミュニケーションを取るのに不都合だったりする場合もありますが、その人にしか見えない聞こえない世界もあるのです。お互いがそれぞれを理解するように努め、それぞれを認め合い、それぞれの良いところがみんなのために活かされるようであると良いと思います。

非日常 4

2012/10/31

病院には、いろいろな症状の患者さんが入院していらっしゃいます。そして、患者さんひとり一人に合わせた治療計画や看護計画が立てられているという説明がありました。当然といえば当然のことです。私のようにおなかの調子の悪い人もいれば、足を骨折した人もいます。ひとり一人症状が違います。どの患者さんもみんな同じように治療や看護ができるはずがありません。患者さんがどんな容体なのか、今何が必要なのか、次の段階は何なのか、ひとり一人の患者さんから考える事をしなくては、治療も看護もできるはずがありません。誰が考えてもわかることです。

保育だって同じだと思います。ひとり一人の子どもの今現在の状態はどうなのか、目の前のこの子が「今を最も良く生きる」ためには何が必要なのか、どんな環境を整えると良いのか、どんな働きかけをすると良いのかしない方が良いのか、今この子はどんな発達をしようとしているのか。まず子どもから出発しなくてはなりません。

そのためには、子どもの発達を理解した上でしっかりと見ている必要があります。ですから、保育計画も子どもひとり一人に必要となってくるのです。それが、ひとり一人に合わせた保育をするということです。発達に必要な集団を作るのであれば、その集団を必要としている子どもが集まれば良いのです。子どもから考えれば当然そうなります。病院でおなかが痛い人と足を骨折した人の治療が同じでないことは誰でもそう思うはずです。ひとり一人違う子どもも今必要なことは違うのです。同じことをさせることによって発達を促せるのでしょうか?治療を間違えば命に関わるように保育も間違えば大変なことになるのです。

病院にカルテがあるように、保育にもカルテのようなものが必要だと思います。それによって、子どもひとり一人の今にとって何が最も良いのか、保育者集団が共通認識を持ち、保育の方法を本音で議論する必要があります。

見る 1(10月23日分)

2012/10/30

私たち晴眼者は、何気なくものを見ています。視力が良い人そうでない人、様々な人がいて様々な見え方をしています。そして、視覚から得る情報が、他の感覚から得る情報よりも圧倒的に多いのです。

赤ちゃんはどうでしょう、赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいるうちから様々な感覚を使っているという研究が進んでいることは以前紹介しました。嗅覚については見解が分かれるようですが、触覚、聴覚、味覚は胎児のうちから充分に使っています。赤ちゃんに視覚が必要になるのは、生まれ出た後からです。もちろんおなかの中では光は感じているそうですが、目を開けて見るのは生まれてからです。

中央大学教授 山口正美氏の講義を聴く機会がありました。先生は視覚の研究をされています。

赤ちゃんはどのように世界を見ているのでしょうか。生後1カ月の赤ちゃんの視力は0.02くらいで、6カ月頃になってようやく0.3〜0.4位の視力になるそうです。ですから、赤ちゃんの見ている世界は、鮮明ではなくぼやけているのです。

ところが、赤ちゃんは生後4日でお母さんの顔を見分けるそうです。もちろん顔だけがはっきり見えるということはありません。ぼやけて見えています。このはっきり見えないということが、赤ちゃんの見る、特に顔を見ることの発達にとっては重要な意味を持つそうです。

はっきり見えないということは、顔のディテールまでは見えないということです。つまり視覚から受け取る情報量が少ない。情報が少ないと学習しやすいということかありますが、ぼやけて見える方が、表情を読み取りやすいということもあるそうです。

たしかに、はっきりした写真の顔を見ると、目がどう、眉がどう、口がどうなっている。ほくろがあるなど細かなところに目が行ってしまって、無表情なのか、笑っているのか顔全体を見直すことをしないとわからないことがあります。ところが、ぼかした写真だと、目と口の形なのか位置関係なのか、表情がわかりやすいように思います。

視力が0.01という大人の人に裸眼で、1メートルほど離れたところに立った私の顔を見てもらいました。顔だということは認識できるそうです。笑った顔、怒った顔をして見たら、表情もわかるといっていました。

赤ちゃんにとっては表情を見分けることは大切なことなのです。ですから、必要な情報だけを活かして、不必要な情報はとりいれない、視覚の情報リテラシーの能力が赤ちゃんには備わっているのではないでしょうか。

非日常 3

2012/10/30

おなかの調子が、良くなくて入院し、絶食治療が4日ほど続きました。点滴で栄養補給しているので、特におなかが空いたとか何か食べたいという気にはなりませんでした。
このままなら、少したまったおなかの脂肪もとれるし、別に食べずにいても大丈夫かなと思っていたくらいです。

ところが、少し良くなったのでどうしてもしなく点滴を外して外出した日がありました。お医者様に病院に戻るように言われた時間に近づくと、エネルギーが切れたのか少しフラフラしてきたので、慌てて戻りました。カラータイマーが点滅し始めたウルトラマンになった感じです。

そして、久しぶりの食事の日がやってきました。メニューは重湯だけでしたが、スプーンですくって最初の一口を口に含んだときのおいしさは、なんともいえません。ほのかな甘みが口の中に広がって、重湯がこんなにおいしいとは思いませんでした。思わず、心の中で「ありがとうございます」と言っていました。

二口、三口とゆっくりと味わいながら、ゆっくり食べ進めるうちに、身体や顔が熱くなってきて、食べ物から力をもらっているという実感が湧いてきます。口から食べ物をいただくことの大切さを改めて実感しました。

当園の保育方針を記したコンセプトブックに、「食べることは、食べ物のいのちをいただくことだ」と書いています。食べるということは、お米にしても野菜にしても、魚や肉も、ほぼ全てがそのもののいのちをいただくということです。食べ物のいのちをいただくことができるからこそ、私たちは自分の命をつないでゆけるのです。
やはり、栄養剤の点滴だけでは栄養補給はできても、本来の意味での生きる力にはつながらないのだと思います。

そんなことはわかっているつもりだったのですが、一口ひとくち、「ありがとう」と感謝して丁寧にいただくことの大切さを改めて思い直しました。

こころ 7(10月22日分)

2012/10/29

自己と他者の関係で、自分に心があり他者にも心がある。他者は心で何を思っているのだろうと思いをめぐらすこと、相手の立場に立って考えることは、他者と協力し合い社会を作ることで発展してきた人類にとってはとても大切なことです。
「心の理論」という研究があり、そのなかの誤信念課題というのを紹介しました。

他には、スマーティ課題というのがあります。スマーティとはチョコレート菓子です。日本にあるマーブルチョコレートみたいなチョコレートです。多くの人に親しまれたパッケージで、誰でも箱を見ればそれがスマーティだとわかるほどポピュラーな存在で、実験はこんな風に行われます。

スマーティの箱を子どもに見せて、「この中に何が入っていると思う。」と尋ねます。子どもは、スマーティと答えます。箱の中を見せて、実はスマーティではなく、鉛筆が入っていることを見せます。その後に「この箱を○○くんに見せて、何が入っているかと尋ねると、なんて答えるかな。」と尋ねます。

実験の結果では5歳くらいではチョコレートと答えるそうですが、3歳では、鉛筆と答えるそうです。

この実験の結果から、心の理論が理解できるのは4歳ぐらいだといわれています。つまり、相手の立場になり、気持ちになって考えられるのは4歳くらいからだというわけです。

しかし、先に紹介した18カ月くらいの赤ちゃんが、ある人が中座している間に増えたおもちゃを、中座から戻った時にその人に渡すことができるという実験は、赤ちゃんが中座した人の心に思いを馳せているように思えてならないのです。

ひとつ忘れてはならないのが、誤信念課題にしても、スマーティ課題にしても、実験はことばを介して行われているということです。ですから、ことばを話せない赤ちゃんにはこの実験はできないのです。ことばにするととても説明しにくく、特に文書にしてしまうと大人でも注意深く読まないと、何のことをいっているのかわかりにくいと思います。ですから、ことばを操ることができない赤ちゃんに同じ実験をすることはできません。

本当は4歳というよりもっと早くから、自分のこと、他者のこと、他者の心を考えているように思います。ことばを使わない方法で、同じよう実験をすれば、もっと小さいうちから心の理論を理解している結果が出るのではないかと思うのです。

非日常 2

2012/10/29

初めての入院は新鮮な体験ばかりです。まず、移動するときには必ず点滴スタンドを連れて行かなくてはなりません。慣れないと意外と不自由なものです。ついうっかり忘れて動くと手を引っ張られるし、トイレの個室には入りにくいし、さすがに、階段を使って移動しようという気になれません。バリアフリーということをもう一度考え直さなくてはならないと思いました。

バリアフリーといえば、車いすが思い浮かんだりしますが、車いすも初めて体験しました。歩けないわけではなかったのですが、お医者様の指示だったのだと思います。病室の移動や、検査室に行くときに車いすに乗りました。最初に座った時は妙に気恥ずかしい感じがしまし、いざ動き出すと普通に歩いて押してくださる速度がとても速く感じるのです。それに廊下の角にさしかかると、向こうから何かが来るのではないかという不安感に駆られます。慣れればそれもないのでしょうが、車いすに乗っていらっしゃる方の気持ちがほんの少しだけ感じられたように思いました。そして、やってみること、体験することの重要性も同時に突きつけられたように思います。ひとりで歩いて行けるのに忙しい看護師さんの手を取るのは申し訳なかったので、次の検査は自分で歩いて行きました。

症状が軽快したら、病院はとても快適です。暑くもなく寒くもなく、至れり尽くせりで、申し訳ない気がするほどです。夜10時には寝て朝5時前に起きる規則正しい生活ができますし、時間がたっぷりあるので、ゆっくりといろいろなことを考える事ができます。昼寝だってできてしまいます。身体は確実に休めることができます。(そのためにいるのですが…)本もある程度読めます。でも、ずっとひとりなので、少し退屈することもあります。

みんなに「身体をゆっくり休める機会なのだから、ゆっくり休まないとだめ。」といわれました。本当にその通りです。じたばたしてもどうしようもないので、腹を決めてゆっくり休息させていただきました。

こころ 6(10月21日分)

2012/10/28

18ヶ月くらいの赤ちゃんは、大人が思うよりも豊かな心の世界を持っていて、意外と文脈を読んで行動していることがわかる実験を紹介しました。誰かがいない間に、増えたおもちゃがどれなのかがわかっていて、その人が戻ってきて「いいな」と言ったときにそのおもちゃを選んで渡してあげることができるという実験です。新しく増えたおもちゃはどれで、戻ってきた人がそれを欲しがっているということがわかるのです。

この実験のように、きちっと条件を整えた実験はできませんが、現場で子ども達と関わっていると、例え、ことばを話さなくても、よくいろいろなことを考えているなと思う場面に出会うことがあります。実験のように明確に検証できる場面というのは、そうあるわけではありませんが、友達が着替えようとしていたら、その子の服を渡してあげるといったことはよくある光景です。

心という目には見えないものに対する理解はいつ頃からできるうになるのでしょうか。「心の理論」という研究があります。誰かの心はどうなのだろう?他者にも心があって、心でなにを思っているのだろと考えることができるかどうかです。
誤信念課題という実験があります。

サリーとアンがいました。
サリーはカゴを持っていて、アンは箱を持っています。
サリーがカゴの中に自分のビー玉を入れて、部屋から出て行ってしまいました。
アンはサリーがカゴにいれたビー玉を、サリーがいない間に自分の箱に移し替えて部屋を出てゆきました。
部屋に戻ってきたサリーはビー玉で遊ぼうとします。
サリーはカゴの中を探すでしょうか、箱の中を探すでしょうか?

というものです。

カゴの中にビー玉をいれたサリーは、アンがビー玉を箱に移し替えたことを知らないので、自分がビー玉をいれたカゴの中を探す。
ということを普通私たちは考えます。それは、サリーの立場に立ってサリーならどう考えるかということ、サリーの心を想像するということをしているからです。しかし、3際くらいの子どもは、アンがビー玉を箱に移し替えたという事実に引きずられて、箱と答えてしまうことがあるそうです。

相手の気持ちになって考えるということは、社会を作ることで生き延びてきた人間にとってはとても大切なことだと思います。

(10月21日 日曜日にアップを予定していた記事です)

非日常 1

2012/10/28

フランスでは夏にバカンスといって長期の休暇を取る習慣があるそうです。他の欧州諸国でも、同じような習慣や制度がある国が多いと聞きます。最近ではどうなのかわかりませんが、1カ月も休んで遠くへ出かけたりするそうです。日本では考えられないことですね。

ところで私も、1週間という少し長い休暇をいただいて非日常の世界で、心も体もゆっくりと休養させていただきました。ただ、自分で選んでそうしたのではなく、半ば強制的にです。

どこへ行っていたのだろうと思われるかもしれませんね。実は、しばらく病院で過ごすことになってしまったのです。たいした病気ではないのですが、絶食治療が必要というお医者様の判断で病院にいることになりました。入院した翌日にはすっかり症状も落ち着いて、いろいろなところに興味を持って病院内をうろうろしていました。

まず最初の挑戦したのは、パソコンをインターネットにつなぐことです。モバイルルーターなどは持っていないので、いろいろな手を使って試したのですが、私の知識と技術と発想では無理でした。そんなわけで、ブログが滞ってしまって申し訳ありません。

まず驚いたのが、病院にはたくさんの人がいることです。患者さんもそうですが、病院で働いている人の多いことには驚きました。お医者様、看護師さん、から毎日病棟をお掃除してくださる方まで、みんな忙しそうに働いていらっしゃいます。特に看護師さんは、何人かの患者さんを担当して、日々、いや刻一刻変わってゆく容体をを把握し伝達し、必要な処置をしてくださっています。入院している間はほとんど看護師さんがお世話くださっているのだと知りました。看護師さんだけに限ってもチームでみてくださっているのです。情報共有の方法や、ミスを防ぐための多くの工夫が為されているのだと思います。どう情報共有し、チームでお仕事をされているのかとても気になりましたが、そんなことまでわかるはずもありません。

保育だって子どもたちの大切ないのちを預かっているということでは、病院とかわりません。参考になることはあるはずだと思いました。

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