園長ブログ

道徳 6

2013/03/29

子どもは、自分に影響を及ぼす物事について自由に自分の意見を述べることができる機会を保証されるべきです。ですから、いじめについて話をしたり、何かを決めるには子どもが意見を述べる機会がないといけないと思うのです。結局、いつも大人が決めて子どもに押し付ける。子どもにやらせる。ということが多いと思います。道徳の教科化、加害者への厳罰化もそういうことなのではないでしょうか。大人の都合から大人の目線で見て、子どもたちにやらせようということが多いように思えてなりません。

いじめは子どもたちの悲鳴です。多様な価値観といいながら、勉強ができるというひとつの価値観だけで判断し、テストで高い点を取れることを目指して競争ばかりすることに、子どもたちは疲れているのではないでしょうか。

そもそも、私たちはなぜ子どもを育てるのでしょうか、今何のために子どもを育てるのでしょうか。保育園や学校の役割って何でしょうか。学力って何でしょうか。いつも原点にかえって考え続けることが必要だと思います。

道徳 5

2013/03/28

何とかいじめをなくそうとみんなが一生懸命になっています。教育再生実行会議では提言がまとめられましたが、どこか違和感を感じてしまいます。もちろん大切なことが示されているのでしょうけれど、方向性というのか何かが違うように感じられるのです。道徳の教科化にしても、法制化にしても、毅然とした態度にしても、ある意味必要なことかもしれません。しかし、どうも大人から子どもに下向きに矢印が向かっているように感じられます。教科にして子どもに教える。法律を作り守らせる。大人が上から目線で命令し、子どもに「やらせる」ニュアンスを感じてしまうのです。そこには子どもが自ら主体的に生きる姿は感じられません。

いじめられる子はもちろん、いじめる子も、傍観者でいる子も、みんなとても苦しみ「助けて!」と叫んでいるように思えてなりません。そんな子どもたちひとり一人を受けとめ、寄り添い、支えることが必要なことのように思うのですが、考えが甘いのでしょうか。

教育再生実行会議には、そうそうたる方々が名を連ねていらしゃいますが、どうして子どもの代表がメンバーに加わっていないのでしょう。一番困っているのは子どもですし、直接子どもに関わる事なのですから、子どもたちが自分たちの想いを伝えることがあってしかるべきだと思うのですが・・・子どもの意見を聞くことは必要ないのでしょうか?

道徳 4

2013/03/27

いじめられる子も、いじめる子も、多くの子が苦しんでいる。いじめの問題に接するたびにそんなことを感じてしまいます。なぜ、こんなに多くの子どもたちが苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜこんなになってしまったのでしょうか。ほんとうに困ったものです。こんなに苦しんで育った子どもたちが、社会を形成できるのか心配になります。

でも、子どもたちの力を信じたいと思います。すり込まれた大人よりもずっとずっとすばらしい力を持っているはずです。私たち大人にできることは何でしょうか。

当園の前に童形六体地蔵尊というお地蔵さまがいらっしゃいます。子どもの姿をしたお地蔵さまです。その近くに「子どもはみんなほとけの子、子どもは天からの預かりもの、子どもは親の心をうつす鏡」ということばが掲げてあります。私たちはいつも「親」
の部分を「保育者」と読み替えて、それを心にとめるようにしています。

では、「親」を「大人」と読み替えるとどうでしょう。「子どもは大人の心をうつす鏡」だとしたら、子どもたちが苦しんでいるいじめの問題は、私たち大人の心をうつしている問題なのかもしれません。そう思うと私たち大人がどう生きているのか、子どもたちのいじめのようなことをしていないか。自分自身を深く深くふり返って見る必要がありそうです。

子どもたち、特に乳幼児は真似ることから学んでゆきます。ですから、私たちは特に子どもの前では、自分自身の一挙手一投足、一言ひとことに細心の注意を払っている必要があるように思います。

両手に物を持っているからといって、扉を足で開ければ、子どもはそれをまねをします。自分たちで解決する力のない子どもたちのけんかをどう仲裁すると良いのか、一方的に「謝りなさい」と言うのが良いのか、それぞれの気持ちを汲み取って表現するのを手伝い、双方が納得してわかり合えるように導いてあげるのが良いのか、よくよく考えないと子どもは、私たちが行ったとおりにします。子どもの前で人の批判をすれば、その子は人を批判する子になります。反対にいつも穏やかで、楽しい心でいれば、子どもも穏やかで楽しくなります。

当園の目指す子ども像の中には、「相手を受けとめることができる子」「自分の想いを伝えられる子」「感謝の心を持てる子」というのがあります。これは子どもがそうなってほしいという意味ですが、そのためには大人がそうするのが一番良いのです。

道徳 3

2013/03/26

「いじめは悪いことだ!絶対にしてはいけない!」声高に叫び、毅然とした態度で望むことは、もちろん大切なことです。こう叫ぶのは、子どもたちに「いじめは悪いことだ!絶対にしてはいけない!」と教えようということなのでしょうか。

「そんなこと言われなくてもわかってるよ!」そんな声が子どもたちから聞こえてきそうです。子どもたちは、今更いわれなくてもそんなことぐらいわかっていると思います。わかっていてもしてしまうのはなぜでしょう。

いじめられる子が被害者で、いじめる子は加害者。そんな単純な図式でとらえて良いのでしょうか。確かに殴る蹴るの暴力、持ち物を隠す、金品を要求するなど刑法に触れるような行為が行われてれているのが事実のようです。そんなことはしてはいけないとわかっているのにいじめをしてしまう子。その子こそ、心にトラブルを抱えているのではないでしょうか。なにか、いたたまれないものが子どもたちの心の奥にくすぶっているように思えてなりません。いじめられる子は被害者ですが、いじめる子も、「いじめずにはいられない」という心にさせられた被害者なのかもしれません。

こんなことを書くと、いじめられている子に、「何もわかってないのに、偉そうなことを言うな!」と叱られそうです。しかし、昨日までいじめていた子が、今日からいじめられるということがあると聞きました。子どもたちが「助けて!」と叫んでるのではないでしょうか。

それに対して、私たち大人がすべきことは何でしょうか。いじめた子を厳罰に処することなのでしょうか。考えれば考えるほどわからなくなってきます。

道徳 2

2013/03/25

教育再生実行会議の「いじめの問題等への対応について」という提言には、どこか違和感を感じてしまいます。法制化ってどういうことなのでしょう。確かに現在のようなひどい状況では、致し方ないのかもしれません。しかし、法制化ということはそれに違反すると罰せられるという意味合いがあると思います。罰せられるのが嫌だからいじめをしないというのは、どこか方向が違うように思えてなりません。

「いじめない」ということは、相手の気持ちに自らの心を運び、「こんなことをしたら、あんなことを言ったら、相手は辛いだろうな。」と想像する心、相手の気持ちを思いやることです。それがなければ、いじめは本当の意味ではなくならないと思います。

子どもは育てられたように育つといいます。誰かの気持ちに思いを馳せることができる子は、乳幼児期に周囲の人に、自分の気持ちを受けとめられ、認められて育った子どもです。そう考えると、いじめが蔓延しているということは、乳幼児期に丸ごとを受けとめられ。認められ、信じられずに育った子が多いということなのでしょうか。

乳幼児の育ちに携わる者としては背筋に寒いものが走ります。今まで、本当に真心を持って、ひとり一人の子どもの気持ちに寄り添ってきただろうか。ひとり一人の子どもを丸ごと信じて見守ってきただろうか。そのままのあなたで良いんだよ。と心の底から受けとめてきただろうか。その時その時は一生懸命やってきたつもりですが、不十分だったかもしれません。もしそうなら、これからはもっともっとそうしてゆきたいと思います。

だって、子どもひとり一人が輝いていてほしいから!いじめたら叱られるからいじめないのではなく、「そんな恐ろしいことはしたくないからしない。」という自らの心中から湧き出る思いで、いじめをしない人でいてほしいから!

こんな考えは甘いのでしょうか・・・?

道徳 1

2013/03/24

いじめや体罰など子どもが犠牲になる事件がたくさん起きています。多くの人が現状を憂い、このままではいけない、何とかしなくてはと思っているはずです。どうすれば良いのでしょうか。

今年1月教育再生実行会議の開催が閣議決定され、3月22日までに4回の会議が持たれています。2月26日には「いじめの問題等への対応について 」という第一次提言が出されました。提言には、道徳の教科化、いじめ対策の法制化、いじめに向き合う体制の構築、毅然とした指導、体罰禁止の徹底が謳われています。

これを読んだときに、私はどこかしっくりこない感じがしました。道徳を教科にするということは、子どもに道徳を「教える」ことを強化してゆこうということだと思います。道徳って教えるものなのでしょうか?

道徳には教科として教えられる部分というのもあるかもしれませんが、社会生活を送るための基本は、他の人との関係性をどう持ってゆくかということです。それは誰かに教えられてわかることではないように思います。例えわかったといっても、それは頭でわかっただけで、心で感じたり、魂に染みこむようなものとは違います。心や魂でわかるためには、赤ちゃんの時から主体的に環境に働きかけて活動することを保証され、適切に見守られながら育つこと。他の子どもと関わる機会をたくさん持っていることが大切なのだと思います。他の子どもとの関わりは楽しいことばかりではありません。ケンカを通して自分の想いだけを通すことはできないことを体験し、相手の想いを推し量ることなど様々な体験をすることで、自立と自律を学んでゆきます。これは体験を通して生活の中で学ぶことなのだと思うのです。だからこそ、0歳のときから他の子どもとわることが、大切になってくるのです。

自分の心からわき上がってくる思いが道徳の基本にあるように思えてなりません。

プレゼント

2013/03/23

5歳児たちが卒園してゆくにあたって保護者の皆様から記念品を頂戴しました。まず一つ目は、万が一のときのための防災頭巾を整えさせていただきました。二つ目は、タペストリーになったカレンダーです。縦80センチ、横60センチくらいの大きさのタペストリーにマス目状の刺繍が施してあります。そのマス目に綿が入った丸い布にフエルトでつくった1から31までの数字を縫い付けたものをマジックテープで貼り付けるようになっています。これが日にちなので、31まであるのです。月の数字はマス目の左右に並んでいて、当月の数字をカレンダーのまん中に貼ります。余ったマス目には子どもたちひとり一人が思い思いに飾り付けた布を貼るようになっています。手作り感いっぱいで、とても暖かな感じのするタペストリーカレンダーです。

園にいただいたのはこの二点ですが、職員も銘々にステキなプレゼントをいただきました。1つは額に入った写真です。卒園児全員と、職員それぞれが一緒に写っている写真を、子どもたちがかわいらしくデコレーションした額に入れてくださいました。事前に時間を見つけて園に来ては子どもたちと職員の写真を撮影するなど、手間と時間を惜しまずに作ってくださったのです。写真の中の子どもたちはどの子もとびきりの笑顔です。本当にステキな手作りのプレゼントです。その他にも私は何にでも合わせやすくブルーグレー色でセンスの良いのネクタイをいただき、早速つかわせていただいています。

保護者の皆様には何から何までお世話になり、感謝しても感謝しきれません。

謝恩会

2013/03/22

卒園式のあと、保護者の皆様に謝恩会の席を設けていただき、全職員をお招きいただきました。卒園児11名に対して職員15名なので恐縮してしまいます。にもかかわらず、保護者の皆様には心を尽くしていただきました。本当に本当にありがたい限りです。こんなに園のことを思ってくださっている保護者の皆様に支えていただいているからこそ、当園が成り立っているのだと思います。

それなのに、保護者の皆様の思いを汲みきれないのであれば、困ったものです。自らを省みることを忘れないようにしなくてはなりません。もちろんなんでもかんでも全て保護者のおっしゃるとおりにするということではありません。真心を尽くして皆さんの思いを受けとめる姿勢でいたいということです。そこを立脚点として、子どもたちの育ちについて、大切にしたいことについて語り合えると良いと思います。できる限りを尽くしてゆきたいと考えていますが、自分中心になったり、奢った考えになることがあるかもしれないので、十分気をつけなくてはなりません。

基本的には、保護者の皆様と職員が心を開いてつながってゆくことが、とっても大切だと思っています。私たち大人がより良くつながることが、人と人がより良く関わるというモデルを子どもに示すことができるのです。

そのような観点から考えても、保護者の皆様には、心を尽くしていただいていることを感じています。いつも素直な心でいるよう努力すべきは私自身です。

謝恩会では、お心づくしをいただきましたが、私たち園の職員こそが保護者の皆様のご恩に感謝すべきだと思います。

ありがとうございます。

春分の日

2013/03/21

二十四節季のひとつ春分になりました。春分を辞書で引いてみると「二十四節気の一つ。太陽の中心が春分点上に来た時の称。春分を含む日を春分の日といい、太陽暦では3月20日頃。春の彼岸の中日に当たる。昼夜の長さがほぼ等しい」(広辞苑)とあります。

天球上における太陽の通り道である黄道と天の赤道が交わる点を「分点」というのだそうです。この分点が春と秋の2つあり、それぞれ春分点、秋分点と呼ばれています。春分点は太陽が南から北へ通過する点で、太陽が春分点を通る瞬間を春分、春分を含む日を春分日という。2013年は3月20日が春分の日でした。

春分の日をはさんだ前後7日間がお彼岸です。暑さ寒さも彼岸までと言いますが、今日はとても寒くなりました。2月下旬並みの寒さだそうです。今朝は気温は1度に届かないくらいの寒さ、強い風に小雪が舞っていて、冬に逆戻りです。前日までとてもあたたかだったので、とても寒く感じられます。春のお彼岸中は必ずといって良いほど寒くなる日があるので、不思議です。

イランの暦では春分の日が元日で、お祝いされるそうです。冬至が太陽が生まれ変わるといった意味で新しい始まりとされることがあるというのは、前にも書きましたが、春分も春の訪れ、新たな始まりの意味があるのでしょう。

年度末で目が回るほど忙しいですが、また新たな始まりの準備だととらえて力を尽くしてゆこうと思います。全ての人の心に春が来ますように。

卒園

2013/03/20

11名の5歳児が卒園してゆきました。卒園式で卒園証書を受取りにくる子どもたちは、緊張してはいますが、しっかりと前を向いて凛々しく歩いてきます。長い子では5年数ヶ月を当園で過ごしてきました。みんなそれぞれに大きくなりましたが、日々この子達が「今を最も良く生きる」ような保育ができたのかと考えてしまいます。この子達がこの先、持てる力を最大限に発揮し、皆が認め合いながら、違いを活かしてお互いに助け合って生きてゆくことができますように、と祈らずにはいられません。

子どもたちの育ちに十分に貢献できたのかとふり返っているあいだも卒園式はどんどん進みます。保護者の謝辞をいただくことになりました。謝辞の一部を抜粋して紹介します。

現代の暗闇のような社会でも「思いやりの心」「命を大切にする心」「自然に感謝する心」「何事にも諦めない心」 鞍馬山保育園で育った子どもたちは、出口の見えにくい大きな問題に遭遇しても静かに耐えぬき、いつかきらきら輝く日々を自ら見つけ、解決できる力を養いました。この力は自信となり、もっと高く高く弾みをつけて様々なことに挑戦し、人を守り癒やすことが自分の喜び、使命を感じる人へと成長してくれるでしょう。

謝辞を述べてくださった保護者は「みんなのいのち輝く保育園」という当園の理念を理解してくださり、子どもたちが自分のいのちをかがやかせ、他のいのちをかがやかせるように育つとおっしゃってくださっています。理念を理解し同じ思いを持ってくださっていることがとても嬉しくもあり、責任の重大さに気持ちが引き締まります。

保護者の皆様には、園をしっかりと支えていただいているということを最近痛切に感じます。本当にありがたいことです。だからこそ、保護者の皆様の園に対する真心に答えるためにも、全職員が真心を持って丁寧に子どもたちひとり一人のより良い育ちをしっかりと支え、それぞれの力が引き出せるよう保育をしてゆかなくてはなりません。子どもの育ちこそ、私たちの最大の喜びであり、全職員が同じように喜び合えるところです。

子どもたちの今は、今しかないのですから、一瞬一瞬を大切にしてゆく覚悟をあらたにしました。

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