園長ブログ

体罰

2013/05/08

体罰が問題になっていて、メディアでもよく取り上げられています。

日本テレビの「世界一受けたい授業」武田鉄矢先生の新・教育白書(4月20日放送)で武田鉄矢さんが体罰について授業をしていらっしゃいました。そこでは、様々なデータを用いながら、体罰の実態が紹介されていました。

たとえば、

小学校から大学までで体罰が一番多い学校は小学校で60%近い体罰が行われている。

体罰が部活の最中に起こったか授業中かという問いには70%近くが授業中に起こっている。

どんな体罰を受けたかでは、70%近くが殴られるという体罰を受けている。

体罰を認めるか否かでは、一切認めないが53%、一定の範囲内で認めても良いが42%

教師を目指す学生に体罰を認めるかどうかを尋ねたところ、体罰を経験した学生は体罰を経験していない学生の3倍以上が体罰を認める

部活別体罰経験率では、バレーボールや野球などの団体競技での体罰率が高い

といったデータが紹介されていました。

小学校で授業中に、殴るなどの体罰が今現在も行われており、部活では団体競技で体罰が多い。といったところでしょうか。

一般的には体罰を一切認めない人が半数強いらっしゃるにも関わらず、体罰を経験した学生は体罰を経験しない学生の3倍以上が体罰を認めた。つまり虐待と同様体罰も連鎖するということです。

こういったデータは何を物語っているのでしょうか・・・

手をつないで

2013/05/07

     ほうれんそうの花

畑の様子が日々変化しています。ほうれんそうは、あまり葉っぱが大きくならずに花が咲いてしまったことは、前にもお伝えしました。種ができるまで待ってみようと思っています。4月の末に葉っぱを少し摘んで食べてみたら、その甘かったこと。こどもたちに食べさせてあげたくなりました。

ほうれんそうは何本か生えているのですが、種を取るためには葉っぱを残しておいた方が良いようにも思うし、子どもたちと葉っぱを食べたいし・・・

      麦の花?

悩んでいましたが、今日少し食べてみました。そうしたら4月末に食べたときほど甘くはなく、どちらかというと苦味が勝った味になっていました。悩んでいないで、早く子どもたちと食べた方が良かったなと思ってしまいます。

それにしても自然の変化は激しいものです。1週間の間に全く味が変わってしまうのですから驚きです。

小麦は、穂がたくさん伸びてきて背の高さも1メートル近くになり、花が咲き始めました。日の光を浴びて風にゆれる色と姿が

    えんどう豆

とても美しいと思います。

えんどう豆は元気に大きくなっています。ところが、豆がつるを伸ばして、つかまるところがないのです。市販の竿を立ててみたのですが、あまり好きではないようでつかまろうとしません。聞いたところによると竿は太すぎてつかまりにくいのだそうです。ネットを使うと良いと教えていただいたので、ネットを張ってみました。ありあわせを使ったので、よその畑で使われている細いネットではありませんが、豆はつかまって登ってくれるでしょうか。

ネットを張ったときにえんどうを見ていた子どもが「豆が手をつないでいる」というので、子どもが言う方を見てみると、となりの豆どうしが、つるをからめあっています。「手をつないで助け合おうとしたはるのかな?」という子どものことばがとてもステキだと思いました。

自分の心と向き合う

2013/05/06

「平安時代の浄土教には美しさがある。齊藤眞成先生の作品は往生要集の世界を絵画で表している。」京都文化博物館で行われた齊藤眞成展の初日を見学させていただいた後のオープニングパーティーで梅原猛さんはこうおっしゃっていました。

また、「近年の齊藤眞成先生の作品は軽くなった。しかしただ軽いのではなく、軽さと深さを兼ね備えている貴重な作品だ。軽くて深いことはそう簡単にできることではない。」ともおっしゃっていました。

木村重信氏が「おどろおどろしさが消えた」とおっしゃっているように、暗く、重たい深さから、明るく、軽い深さへと齊藤師の作品が変わってきたと言うことなのでしょう。

齊藤師が自然対象を心のるつぼで溶かしてから、作品に表していらっしゃるということは、齊藤師のお心は明るく軽く、しかも深い世界に他ならないのだと思います。

それにしても、自分自身の素直な心、本心に向き合い、本心を知る、本心の声を聴くと言うことはなかなかできる事ではないと思います。そもそも、今自分の考えていることが自身の本心から出ていることなのか、それとも我が儘、我欲というフィルターを通して出現していることなのか、考えれば考えるほどわからなくなります。たぶん頭の先で考えるからわからなくなるのでしょう。考えるからわからなくなる。感じればわかるのだと思います。しかし、感じるためには自身の素直な心、本心が働かなくてはならない。どこか堂々巡りのようにも感じます。

徹底的に自分を見つめ、自分の心を見つめ、自分の素直な心に巡り会うことができれば、明るく、軽く、深い世界が感じられるように思います。

まだまだ、我欲にまみれた重く暗い淵に沈んでいる私ですが、自分自身の素直な心、本心に巡り会い、本心の声を聞けるようになりたいと思います。そのためには徹底的に自分自身と向き合い自分の心を見つめてゆく必要があるのでしょう。

齊藤眞成師が、パーティーで繰り返しておっしゃっていたことばがいつまでも心にこだまし響き渡っています。

「私は今まで佛前で自分の心と向かい合って描いてきました。くりかえします。佛前で自分の心と向かい合って描いてきました。」

心の深層

2013/05/05

芸術について何かを言えるほどの見識は持ち合わせていませんが、「佛心の造形 齊藤眞成展」を見学させていただいて感じたことを書かせていただいています。

佛心の造形でいう「佛心」というのは、人がそれぞれに持っている仏様の心、言い換えれば、心の奥深いところにある素直な心、本心ということだと思います。齊藤師はご自身の佛心、本心をみつめ、佛心、本心が赴くまま忠実に描いていらっしゃるのだろうと想像します。

長い間、齊藤師の作品を見続けていらっしゃる方が、以前は暗い色使いが多かったが、最近の齊藤師の作品は色使いが明るくなったとおっしゃっていました。明るく暖かな仏様の世界を感じながら描いていらっしゃるのかもしれません。

美術評論家の木村重信氏が、この展覧会の図録に寄せられた文書があります。そこには、齊藤眞成さんは「鬼」とか「業」の画家と言われ、鬼や地獄にまつわるイメージが濃かったが、近年抽象性がますます強まり、重く暗い画面は軽く明るい表情に変化した。とあります。

また、齊藤絵画は抽象ではなく非具象である。外見上は抽象絵画と変わらないように見えても、自然対象に徹底的に精神操作を加えて、心のるつぼのなかで溶かしてから出すので、抽象とは異なる。

と齊藤師の作品が「心」から生まれてくることをおっしゃっています。

また、齊藤絵画をビオモルフィック(生命形態的)と名付けたい。心理と生理、無機と有機が統一された形態を示すこと、そのような絵画を描くことによって齊藤さんは生命の生成の過程に立ち会ったのである。それは九十六歳の高僧にして達し得た画境でもある。と締めくくっておられます。

「生命の生成の過程に立ち会う」というところまでは、さすがに思いが至りませんが、精神活動の奥深いところ、(真理と言っても良いと思います)から生まれ出てくるのが齊藤師の芸術なのでしょう。

映し出される心

2013/05/04

芸術作品から何を感じるのか?それは、見る人それぞれであって良い。ということを齊藤師の作品を拝見して、自分自身が感じたことと照らし合わせてみると、自分の内面が見えてくるようで、少し怖いような気持ちになりました。多くの作品から、和みや安らぎ、調和などが感じられました。特に動物の姿が描かれた作品には、ユーモラスさのようなものを感じました。

ところが「念」と題された作品に対したときは、何か自分自身の心に突き刺さるような感覚を覚えました。「念」は良い意味で、念ずること、祈ることなのかもしれませんが、私には、良くない「念」が描かれているように感じられてのです。

作品は、僧侶のような人が祈りを捧げているように見える構図です。私にはそう見えました。それはどんな祈りなのかはわかりませんが、私には、作品の中で人物の輪郭のように使われている青色の線が、気になって仕方なかったのです。その青色が、どうも自分の心の中の我が儘であったり。こうなってほしという自分勝手な都合、我が儘を表しているような気がして、思わず作品の前で立ち尽くしてしまいました。

まさに作品を見る人の感じ方です。自分自身の心が、反映されているのだろうと思います。

自分自身、心の中の我が儘な部分や我欲にとらわれている部分が、作品に反射して、自分に返ってきているのです。我欲を離れ、様々なことを素直な心で感じ受けとめられるようになれるとどんなに幸せなことでしょう。自分の中の我が儘な心にとらわれ振り回されることのないように、常に自分の心を見つめ、自分の心の状態を把握し、自分を律してゆくことが大切になってくるのでしょう。

感じるところ

2013/05/03

「佛心の造形 齊藤眞成展」を見学していたら、ある宗教紙の記者さんが取材に来ていらして、齊藤師にインタビューをしていらっしゃいました。展覧会を見学し終わり、オープニングパーティー会場に移動する途中、その記者さんと話す機会がありました。

「取材したことを記事にするのは難しいんでしょうね。」なんて話していたら、「齊藤先生に変なことを聞いてしまいました。」と少し後悔していらっしゃる様子だったので、どんな質問をされたのかに興味が湧いてきて、どんな質問をされたのか、尋ねてしまいました。

記者さんは、「それぞれの作品に何か伝えたいメッセージはあるのでしょうか。」と質問してしまった。そうしたら齊藤先生は「それは見る人がそれぞれに感じてくだされば、良いことなんです。それぞれの見方、感じ方をしてくださることが大切なのです。」とお答えになった。それを聞いて、なんて変な質問をしてしまったのだろうと、恥ずかしくなったとおっしゃっていたのです。

確かに、おなじ絵を見ても、見る人のその時の心の状態、感じ方によって、作品はさまざまに見えるし、感じられるのだろうと思います。それは、作者の意図がどうであれ、それがそのまま響くときも響かないときもあるはずです。むしろ、齊藤師のおっしゃるように作者の意図やメッセージよりも、受け手の心情の方が、受け止め方に影響するのだと思います。ですから見る人こそ自分自身が今、どんな気持ちなのか、自分自身をある程度把握していることが必要なのかもしれません。

いやもしかしたらそんなめんどくさいことを言わず、素直な自分の心がどう感じているかを、しっかりと見つめていることが大切なのかもしれません。

素直な心で

2013/05/02

齊藤眞成師の個展を見学させていただきました。齊藤師の作品を見るたびに思うのが、この造形はどのようにしてできあがるのだろうということです。そんなことを考えずにただ作品を感じれば良いのだと思いますが、ついそんな思いが浮かんできます。

以前、齊藤眞成師の個展が京都造形芸術大学で開催されていたときに、見学に伺ったことがありました。その時はたまたま見学者がいらっしゃらなくて、齊藤師と少し話すことができたので、失礼ながら、どのように作品を作られるのか思い切って尋ねてみました。そうしたら、「いろいろですが、思いつくままを描いてゆくのですよ。電話しながらメモに落書きすることがあるでしょ?あんな感じで描き始めたものが広がってゆくのですよ。」と答えてくださいました。包装紙に落書きするような気持ちで描いていたら、包装紙の模様がおもしろかったのでそれをそのまま作品になってしまったというエピソードも聞かせてくださいました。実際にそんな作品も見せていただきましたし、今回の個展にも出品されていました。

それを伺って、師はご自身の素直な心を解放して、作品に表現していらっしゃるのだと感じました。最初から最後まで素直な自分、ありのままの自分で作品を仕上げることはなかなかできる事ではないと思います。

私などは、少しでも良く見せたいとか、自分の我欲から出てくるいろいろな思いがすぐに邪魔をしてきます。自分の本心とはなにか、今感じていることが素直な自分の心から出てきていることなのか、常に自分の心に向き合い、心を見つめている必要がありそうです。知らず知らずのうちに我欲が心を覆い「我が儘」にしたくなってしまうからです。

齊藤師は、ご自身の心に向き合いながら作品を作っていらっしゃるのだろう。そんなことを思っていたことを、思い出しながら作品を見学させていただきました。

展覧会

2013/05/01

絵画の展覧会とそのオープニングパーティーの案内をいただいて、参加させていただきました。展覧会のタイトルは「佛心の造形 齊藤眞成展」、画家は齊藤眞成師です。齊藤眞成師は洛東の名刹 真正極楽寺(通称真如堂)の貫主を勤められたこともある高僧でしらっしゃいます。御年なんと96歳、今もなお矍鑠として作品を作り続けていらっしゃいます。平成15年に師がポルトガルで個展を開かれた際に、お供をさせていただいたことをきっかけに、現在でもありがたいご縁をいただいています。

師の作品は、一見抽象画のように見えるのですが、ご本人は抽象ではないとおっしゃっています。表現形式をどう呼ぶかはともかくも、芸術に対する造詣や見識、知識、見る目をまったくといって良いほど持ち合わせていない私にとってさえ、師の作品はどこか、心の奥底に訴えかけてくる魅力があり、よくわからないながらも見入ってしまいます。

うまく言い表せないことをわかったうえで、あえてどんなところに惹かれるかと言えば、その一つは作品に時々登場する犬や猫、鳥などの動物がどこかホッとできる存在なのです。もちろん色使いや、構図、一つのモチーフ(テーマといえばよいのでしょうか?)のように作品に登場する形(これは私が勝手に感じているだけだと思いますが)なども、心を惹かれる存在です。そして、経文であったり、梵字であったり、仏教的な要素が多く盛り込まれているのも、作品の特徴です。また、多くの作品が大きくてとても迫力があるのです。今回の展覧会で最も大きな作品は横2.5メートル、縦2メートルほどの作品でした。

大きな作品の製作には体力が必要だと思いますが、師の作画に対する情熱と、エネルギーは想像を遥かに超えています。そのエネルギーの源はどこにあるのでしょうか・・・

そんなことを思いながら、作品を配線しました。

「佛心の造形 齊藤眞成展」
京都展
会期:平成25年5月1日〜5月12日
会場:京都文化博物館
山形展
会期:平成25年5月30日〜6月9日
会場:山形県郷土館

鳥たち

2013/04/30

山の上の池にカエルの観察に出かけた小学生たちが「寒かったー!」と言って帰ってきました。一緒に行った担当者に聞いていたら、寒かったものの子どもたちはヒキガエルの卵を見つけて興味を持っていたようです。ヒキガエルの卵はゼリー状の透明な細長い紐のようなものの中にポツポツと卵が並んで入っています。最初は気持ち悪いといって触ろうとしなかった女の子も、少しずつ慣れて来て、帰る前には普通に触っていたそうです。子どもは先入観が少ないので、すぐに慣れることができるのかもしれません。言い換えれば、変化に柔軟に対応することができるということです。

子どもたちは山に登るときに、木の枝でさえずっているオオルリに出会ったそうです。しかも長い間おなじ枝にとまっていたということです。オオルリは冬場は東南アジアなどの暖かいところで過ごし、この時期には日本にやってくる鳥です。雄はその名の通りとても美しい青色をしています。青色の羽も美しいのですが、そのさえずる声の美しさからコマドリ、ウグイスとともに日本三鳴鳥といわれています。

そういえば、今年は今のところウグイスの声を聞くことが少ないように思います。その年その年によって様々な条件で違うのでしょう。

このあたりでときどき見られるめずらしい鳥にアカショウビンがいます。この鳥も冬は南の方で過ごし、夏には日本に渡ってきます。その名の通り赤く美しい羽を持っており、赤く大きなくちばしも特徴です。昨年は5月頃によくさえずっていましたが、私は姿を見たことはありません。今年は姿を見てみたいものです。思い出のある鳥なので。

鞍馬にはいつもたくさんの鳥がいますが、今の季節は美しい声でさえずる鳥が多いように思います。新緑に包まれて鳥の声を聞いていると、とてもゆったりと落ち着いた気持ちになれます。

虫土土

2013/04/29

春はいろいろな花が咲いたり、木々が芽吹いたり、土の中から顔を出し始める生き物もいます。先日、学童保育に来ている小学生たちが、山のうえにある池に「虫土土」の観察に行きました。「虫土土」って何?と思いますよね。組み合わせて漢字一字にしてみてください。もうわかりましたよね。「蛙」です。学童の担当者が、「カエルの観察」ではおもしろくない。予定表になんとと書いてあったら、子どもたちが興味を示すだろうと考えて「虫土土」にたどり着いたようです。

遊び心たっぷりに案内に惹かれて、参加してくれた子どもたちは8名。事前のお知らせを参考にして万全の装備でやってきました。長そで、長ズボンに軍手、とにかく肌の露出を極力抑えた服装です。もちろんズボンの裾は靴下の中に入れます、ながぐつを持って来た子もいました。お弁当、水筒と、観察に必要な者を持っていざ出発。今回はお寺の自然に詳しい方が一緒に行ってくださったので、内容も楽しみです。私も行きたかったのですが、残念ながら留守番でした。

10時頃出発した子どもたちは、私が園から昼食を運んできて1人で寂しく食べ終わった1時過ぎに帰ってきました。帰ってきた子どたちの第一声は「寒かったー!」でした。その日は季節外れの寒気が流れ込んでいて山麓の保育園では少し肌寒いくらいだったのですが、山を登って峠を越えると、風も強くてとても寒かったのだそうです。冬には良くあることなのですが、山の南側では晴れていても、北側に行くと吹雪いていたりします。雪こそ降らないものの、山の上は寒かったようです。それでも、みんな楽しかったようで子どもたちや、職員の話を聞いているとわくわくしてきました。きっととても楽しんできたのでしょう。いきいきと話す子どもたちの顔が印象的でした。

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