園長ブログ

赤ちゃん学会 9

2013/06/17

赤ちゃん学会学術集会2日目のラウンドテーブル「乳幼児の社会性」〜乳児からの保育における環境による乳幼児の発達の保障〜では、環境を通して子どもが主体的に活動することの大切さ、子ども同士の関わりを大切にすることで子どもたち自らが発達してゆくことを目指したした保育について、日々の保育を記録した動画を中心に紹介してくださいました。

環境を整えるには発達の普遍性と順序性を理解していて、一人一人の子どもの発達に即した環境を構成する必要があります。そして、その子に一番必要な環境は何かを考えなくてはなりません。でもそれは子どもが教えてくれることが多いのです。子ども一人一人を見ることで、この子が今どんな環境を必要としているのかがわかります。

例えば、ハイハイしている赤ちゃんが、どうもドアの向こうが気になるようなので、安全に十分配慮した上で、ドアを開けてあげたら、赤ちゃんの探索行動が広がった。また、同じ種類の遊びでも、難易度を変えたものを何種類か用意すると、子どもたちが自分に合ったもので遊ぶようになった。といったことを発表してくださっていました。

また、子どもがおもちゃを選ぶのではなく保育者が管理していた時は、自分のしたい遊びが見つからない子が広い部屋で走り回っていたことが多かった。時間の区切りには必ず、保育者がトイレに誘うなど、すべてのことを保育者が援助する、養護することが大切だと考えていた。そして、それが子どものためだと思っていた。しかし、今考えると、そうしている時の子どもの姿は、与えられた物で遊ぶ、受動的なものが多かった。これは、「子どものため」とは思いながらも実は保育者が活動の中心になっていたことに気付き、今は、保育者が必要以上に声をかけることなく、距離を置いて子どもを見るようにしている。

そうして、いろいろな遊びを用意して、部屋をおもちゃや教材を入れた棚で区切ったら、いつも走り回る姿が見られなくなったし、自分の好きな遊びに集中している姿が多く見られるようになった。

0歳児の目の高さに合わせておもちゃを置いたら、自分の好きなおもちゃをとって遊ぼうとしたり、好きなおもちゃが見えることで、泣き止んで遊ぶことができるようになった。そして、他の子どもが遊んでいるところを見る機会が増えたことで、異年齢の関わりの大切さに気付き、異年齢で過ごす機会を増やしたところ、0歳児も3歳以上の子どもたちの活動をよく見ていることがわかり、子ども同士の関係こそが最も大切な人的環境なのだと思った。

というように、子どもが自ら主体的に環境に働きかけて活動すること、そして異年齢の様々な子どもが共に過ごす環境の大切さを発表してくださいました。

赤ちゃん学会 8

2013/06/16

日本赤ちゃん学会第13回学術集会、2日目はラウンドテーブルとシンポジウムが行われました。参加したラウンドテーブルは「乳幼児の社会性」〜乳児からの保育における環境による乳幼児の発達の保障〜というテーマです。

子どもは三歳頃まで母親自身の手元で育てないとその子どもに悪い影響があるという考え方、いわゆる「3歳児神話」というのがあります。一方、近年の赤ちゃんの研究の進歩により、乳児から他の子どもをはじめ、様々な人と接することが、正常な発達を促すことがわかってきています。「乳児からの保育がどのように子どもの発達を促すのか」「子どもの発達における必要不可欠な環境とは」「乳児からの保育でどのように社会性が育まれるか」また、「発達障害を抱える子どもたちの発達をも保障できる環境とは」という視点で保育現場の日々の実践から発表してくださいました。発表者は、るんびに保育園、まみぃ保育園、幸輪保育園、井尻保育園の皆様です。

保育所保育指針や幼稚園教育要領には保育(教育)は「環境を通して行う」と書かれています。「保育所は(中略)環境を通して、養護及び教育を一体的に行うことを特性としている。 」(保育所保育指針)

「幼児と人やものとのかかわりが重要であることを踏まえ,物的・空間的環境を構成しなければならない。」「環境にかかわって幼児が主体性を十分に発揮して展開する生活を通して,望ましい方向に向かって幼児の発達を促すようにすること,すなわち「環境を通して行う教育」が基本となる」(幼稚園教育要領解説)とあるように子どもが主体的に環境に関わる、働きかけることが大切なのです。決して大人が一方的に教え込むことではありません。「教師主導の一方的な保育の展開ではなく,一人一人の幼児が教師の援助の下で主体性を発揮して活動を展開していくことができるような幼児の立場に立った保育の展開」(幼稚園教育要領解説)が必要です。

発表してくださった園はどの園も共通の理念のもと、物的環境、空間的環境、人的環境など、環境が子どもたちの発達にどう影響するかを重要視して保育を行っています。そして、異年齢の子どもの関わり、複数職員による保育教育という人的環境のもと、子ども一人一人の主体的自発的活動を大切にしています。その背景には子どもは自ら発達するという認識があるとおっしゃっていました。

保育の基本である環境を通した「子どもの主体的な生活」と「子どもの自発的遊び」を大切にされているということです。

2013/06/15

♪お山に雨が降りましたー♪

久しぶりの雨です。京都では5月28日に平年より10日早く梅雨入りしてから3日間ほど雨が降り、梅雨入りしたとたんに梅雨らしくなったと思っていたら、5月31日から6月14日までの半月間、雨らしい雨は降りませんでした。とてもさわやかな日も多かったのですが、最高気温が30度を越える日も多く、6月13日には35.9度まで気温が上がりました。まるで真夏です。

子どもたちは園庭で一足早い水遊びに興じ、キャーキャー言いながら、びしょ濡れになって、一足早い夏気分を満喫していました。気温が上がっても、湿度はそれほど高くなく、本当に真夏のようでした。

それは良いのですが、山は乾き、木々もどことなく元気がなさそうに感じられました。心配だったのは、冬に園庭に植え替えてもらった柿の木です。せっかく順調に新芽を出し、葉が大きくなってきていたのに、余りにも雨が降らないので、葉っぱが少ししおれかかっていたのです。何度か水をやっていたのですが、土が乾きすぎていて深いところまで水が届かなかったのか、なかなか元気を取り戻してくれません。でもようやく雨が降ったので、少しは元気になるかもしれませんね。

雨を待っているのは、木々だけではありません。いつもなら、コロコロと軽快な泣き声を響かせているタゴガエルの声が全く聞こえません。いつも産卵しているところに水がなくて、卵が産めないのかもしれません。モリアオガエルは頑張ってもみじの枝に卵塊をいくつか産み付けていました。これだけ、変な気候だと、私たちが気付かないだけで、他にも困っている生き物がいっぱいいるのだと思います。少し雨が降ってくれたおかげで、ホッと一息ついているかもしれません。しっかり降り続くと良いのですが、雨量はそれほど多くなく、また夏空が戻ってくるかもしれません。

最近は雨の降り方が、激しくなったように思います。梅雨の時期は以前のようにしとしとと長く降るのではなくて、一気にザーッとたくさん降ることが多くなりました。それでも、降らないよりは良いのですが、そんな雨は地表を流れてしまい、地面に染みこむまでは行かないのです。ですから、山全体がどうしても乾き気味になっているように思います。

毎日毎日、雨というのもちょっと嫌ですが、雨の多い梅雨時期には雨が降る。順調に季節が進むのが一番良いのだと思います。

赤ちゃん学会 7

2013/06/14

赤ちゃんが普段自分が過ごしている言語環境に選好を示すのはなぜか。とう問いに対する答えは「慣れ」なのでしょうか。それほど単純なものではないそうです。

多様な言語環境を背景に持つ子どもについての研究からは、ネイティブ話者への選好は、「単に、より理解しやすい言語への選好にもとづいたもの」というわけではないことが示唆されています。さらに、ことばにもとづいた社会的評価は、慣れ親しんだ刺激に対する領域一般的な選好に由来するわけでもありません。むしろ私は、「子どもが示す、ことばにもとづく社会的選好は、社会的世界をカテゴリー化するベースとしてことばを使用するという傾向を反映したものである」と提案したいと考えています。この傾向は、ヒト認知の進化に由来すると考えられます。(日本赤ちゃん学会第13回学術集会プログラム・抄録集p14-15)とKinzler氏はいいます。

慣れているや理解しやすいといった理由だけではなく、社会をカテゴリー化するためにことばを使う。カテゴリー化して理解するということなのでしょうか。私が誤った理解をしているかもしれませんが、とても興味深い講演でした。

この講演を聞いて思ったことは、ことばによる社会的選好は所属感ということに関係するのだろうということです。自分の所属する社会の言語を好むのは、ヒトが社会を作って生きてきたことと関係していそうです。生活を共にする集団があり、そこに所属することで生きてきました。その集団の使用する言語によって表される価値観で世界を理解して生きてきたのだと思います。もちろん異なる言語を使用する別の集団もあります。講師は“Us and Them”とおっしゃっていました。安全で信頼できる社会的パートナーとしての“Us”とそれ以外の“Them”でしょうか。そこには異なる集団が存在し、
集団間で争うこともあったでしょう。しかし常に戦っているわけではなく、一緒にご馳走を食べることで集団間の緊張を緩和するということもしてきたようです。個人も異なる存在ですし、集団も様々な集団があります。“Them”を排除するのではなく、“Them”は“Them”としてあり、“Us”は“Us”としてあることが可能な世界に向かって進化してゆけると良い。

とても難しかった講演を聞いたあとの頭にはそんな想いが浮かんできました。

赤ちゃん学会 6

2013/06/13

ことばが、社会的カテゴリーとして機能しているのなら、赤ちゃんは何ヶ月くらいから、ことばを認識しているのでしょうか。Kinzler氏は次のような実験を紹介してくださいました。

赤ちゃんに、母語とそうでない言語で、同じおもちゃを提示します。すると、赤ちゃんは明らかに母語で提示されたおもちゃを選びます。例えば、日本語の環境にいる赤ちゃんは「here is your little bear」と英語で言うより「くまちゃんだよ」と日本語で言って渡した方を好むということです。実際には英語とフランス語で比較していらっしゃいました。この実験で、赤ちゃんが、とても早い時期からことばに対する明らかな選好を示すということがわかったそうです。

また、英語が母国語の赤ちゃんが英語で話す子どもの映像とフランス語で話す子どもの映像のどちらを好むかを調べた実験では、明らかに英語で話す子どもの方を選好したという結果が出たそうです。そして、この傾向は、英語とフランス語という言語の違いのみならず、同じ英語でもアクセントのちがいでも見られたそうです。自分のいる言語環境をかなり正確に捉えていると言うことです。

では、ことば以外、例えば白人と黒人といった人種、つまり視覚情報のちがいという要因はないのでしょうか。それも実験されたそうです。両親が白人の英語環境にいる赤ちゃんに、白人の子どもと、黒人の子どもの写真を見せたところ、白人の子どもを選好しましたが、赤ちゃんが生活する言語環境と同じ英語で話す黒人の子どもの映像と、フランス語アクセントの英語で話す白人の子どもの映像では、自分の言語環境に近い方をより選好したというのです。

では、なぜ言語は早期から強力に作用するのでしょうか。慣れなのでしょうか。もしそうなら、慣れはどこから来るのでしょうか?という疑問を投げかけていらっしゃいました。

赤ちゃん学会 5

2013/06/12

日本赤ちゃん学会第13回学術集会、1日目のラウンドテーブルの後には招待講演が待っていました。講師は、Katherine D. Kinzler氏(シカゴ大学心理学部)です。Kinzler氏は、エール大学 文学士取得、ハーバード大学 Ph.D.取得、2011年にはAssocietion for Psychological Science “Rising Star”受賞の新進気鋭の研究者と紹介されていました。演題はThe Development of Language as a Social Category(社会的カテゴリーとしてのことばの発達)。なにやら難しそうですね。日本語で聞いても難しそうなテーマです。「私、早口なのでできるだけゆっくり話します。」といいながらも相当の早口の英語で90分間、休む間もなく講演してくださったので、全く耳がついて行きませんでした。
講演を聞いて感じた個人的な感想を書いてみようと思います。

「ことばは人と人をつなぐこともあれば分断することもある」と講演は始まりました。ことばは、お互いを理解し合うとても有効なツールです。一方で、同じことばを使う集団に所属しているという所属感を感じる役割もことばは果たすと思います。性別、人種、年齢といったカテゴリーのようにことばも社会的なカテゴリーになります。

Kinzler氏は「ことばは指し示す情報を直接伝えるだけでなく、社会的な意味を伝達します。私はこれまで、社会的カテゴリーとしてのことばに関するヒトの思考の発達的起源について研究を行ってきたました。」(日本赤ちゃん学会第13回学術集会 プログラム。抄録集)と自己紹介していらっしゃいます。

「ことばは、子ども達による他者評価、他者に関する推論、そして他者からの社会学習に影響を与えているのです。」とKinzler氏が言うように、ことばは、ただ単に情報を伝えるのみならず、子どもたちが社会を学ぶ上で、大切な役割を果たしているのでしょう。

強敵現る

2013/06/11

子どもたちとみんなで、えんどう豆を収穫、園庭でゆでて食べました。そのときはすべて収穫してしまったわけではなく、3分の1くらいは残しておき、改めて収穫することにしました。もう少し熟するとどうなるのか見たかったのもありますし、最終的には種も取りたかったからです。

子どもたちと収穫した後の畑をそのままにしていたので、翌日畑に行ってみました。そうしたら、ほとんどのえんどう豆がしおれて、地面に倒れてしまっています。子どもたちが収穫するときに引っ張りすぎて、茎が折れてしまったのかなとも思いましたが、子どもたちは茎を折らないよう、かなり気をつけて両手を使って収穫していたので、ほとんどがしおれてしまうようなことはどうも不思議な感じがしました。

茎が折れたのなら、残しておいたまめは早めに収穫した方が良いだろうと思い、探すのですがなかなか見つかりません。やっと見つけて採ろうとしたら、さやが半分なくなって、中のまめもすっかりないのです。いくつかみつけた他のまめも同様の状態です。

何者かが侵入して、食べてしまったのだと思います。そういえば、先日、学童保育の担当者が稲を植えるための小さな田んぼを耕そうとしたら、なにやら糞のようなものが落ちていたのを見つけ、その中には園庭にできているはずのぐみの実か種がたくさん混じっていたそうです。

確認したわけではありませんが、ハクビシンの仕業ではないかとみんなで想像しています。

ハクビシンは、頻繁に見かけるわけではないのですが、細長い猫というかイタチを大きくしたような動物で、その名の通り顔のまん中に白い線があります。雑食性で、果実などを食べることが多いそうですし、木に登ったりするのも得意なようなので、ハクビシンの仕業かもしれません。どこからどうして畑に入っているのか確認したいのですが、夜行性なので、昼間に出会う可能性は低そうです。

そういえば畑にいちごがたくさん実っていたのですが、赤くなったところを見ていませんし、収穫したという話も聞きません。また、園庭のぐみの実がいつの間にかほとんどなくなっています。昨年はビワの実が食べ頃になると何者かに食べられてしまいました。

畑は猿や鹿、猪が入れないようにしましたが、ハクビシンまでは想定していませんで開いた。夏になっていろいろな作物が実り出すと、どんどん食べられてしまうかもしれません。強敵現るってところでしょうか。

食べられてしまったえんどう豆

えんどうまめを食べる

2013/06/10

子どもたちがさやから取り出した豆をゆでます。沸騰前の熱めのお湯に塩を少し入れました。子どもたちが「何それ?」と聞くので、「何だと思う?」と聞き返すと、砂糖とか塩とか答えるので、少しずつ味わってもらいました。口に入れてこちらを見てにこっとするので「わかった?」と聞くと、うんとうなずく子、「もっと塩ちょうだい!」と催促してくる子もありました。その頃には畑に行かずに園庭で遊んでいた子どもたちも集まって来て、みんなが塩を味わってみたいというので、そっちが忙しくなってしまいました。

そして、いよいよお鍋にまめを入れると、泡がくっついたり離れたり、自分で泡をふいているのもいました。「まめがお風呂でおならしてる」なんて言っている子どもがいました。普通に料理するときには、鍋の中でまめがどうなっているかなんて、あまりじっくり観察しないのですが、コンロと鍋に子どもが近づきすぎないように気をつけるつもりでいたら、自然に鍋に顔が近い位置にいました。結構お鍋の中っておもしろいものです。そのうち温度が上がってくると浮いてくるまめが増えたり、踊り出すのだっています。そんなことを子どもたちと楽しみながらも、鍋に触ったりしないように細心の注意を払わなければならず、神経を使います。

しばらくゆでたので、一つ食べてみたら意外とやわらかくなっていました。そのうえ噛むとやわらかい甘さが口に広がります。まめ独特のにおいはあまり感じられません。思わず、「おいしー!」と言ったら、「ぼくも食べたい、私も食べたい」という子がたくさん集まって来ました。さすが食べることには敏感に反応します。ゆで上がったまめをざるにあけて、流水であら熱を取ってからひと粒ずつ食べてみました。子どもたちも、「おいしい!」と喜んで食べていました。

収穫からゆでるところまで、いっしょにしてくれた5歳児の女の子2人と相談して、ゆで上がったまめの半分をもう一つのざるに入れ、園庭で遊んでいる友だちや先生に配って食べてもらうことに決めました。2人はざるを持って園庭を歩き回っては、得意げにみんなにまめを配っていました。

私の所には、たくさんの子どもたちが集まってきて、まめをせがみます。わたしが勧めても、「いらない」と言っていた子もいましたが、他の子どもたちが、あまりにも欲しがる様子を見ていたら、食べたくなったのか、「ちょうだい」と言いながら近づいて来たので、まめをあげると、「ありがとう」とおいしそうに食べていました。

少しだけですが、みんなでおいしくえんどう豆をいただくことができました。

お鍋の中でおいしくなります

えんどう豆をゆでる

2013/06/09

えんどう豆を収穫するだけではつまらないので、収穫してすぐに食べられる予定をしていました。塩ゆでにするのが、一番シンプルで豆の味が味わえるかと考えて、お鍋とカセットコンロを用意しました。

収穫してきた豆をさっと水洗いしてから、豆のへたとすじを取ろうと思い、子どもたちにお願いしたら、「できひん!」といいながらも挑戦していた3歳児がステキでした。

途中で、豆のさやの中はどうなっているのか子どもたちに見せてあげよう。と思ってさやを開けて見せたのがおもしろかったようで、子どもたちはすじを取るに止まらず、さやを開けて中の豆を取り出し始めました。私はさやごとゆでて食べようかと思っていたのですが、子どもたちは豆を取り出すのがおもしろかったらしく、どんどん取り出してゆきます。子どもが豆を取り出した後のさやをかじってみたら、やわらかく生でもおいしいものもあれば、もう固くなってしまっているものもあったので、豆だけにして正解だったかもしれません。

先日、紹介した写真は5月28日(火)に撮影したものなので、まださやも青々としていて、中の豆も小さめのものが多いのですが、収穫したときにはかなり熟してきていて、さやの色も少し黄色味がかっているものがありました。

作物の様子は日一日と変わってゆきます。すべての物事は変わってゆくのに、いつまでも旧態依然としていては、大変です。畑の作物を見ていてそんなことを思いました。

子どもたちと言えば、さやから豆を取り出すのが楽しくなってどんどん豆を取り出します。さやのやわらかそうなものをいくつか残しておこうと手に持っていたら、子どもがあまりにも欲しがるので、少し分けてあげました。それほど、豆を取り出すのがおもしろかったのですね。

えんどう豆の収穫

2013/06/08

園の畑に植えていたえんどう豆が実りました。5月の下旬から実りだしていて、いつ収穫しようかと思いながら、どうせなら私が一人でやってしまうよりも、子どもたちと一緒に収穫したいと思い、他の保育との予定を調整していたら、時間が経ってしまいました。
ようやく予定があって6月8日に収穫しました。土曜日なので、出席している子どもは普段より少なかったのですが、3・4・5歳児の中から希望者を募ったみました。最初何をするのかと思って、ほとんどの子が集まってきたのですが、「畑に豆を取りに行きたい人」と募ったら、9人の子どもが残りました。

今、園庭で鉄棒や登り棒などの遊びに夢中になっている子が多いので、それをやりたかったかったのだと思います。5歳児が2人4歳児が5人3歳児が2人の9人で先ずは畑に行きました。畑にいろいろなものを所狭しと植えているので、参加者がたくさんになると、畑に入りきれなくなったり、他の作物を踏んづけたりしそうだったので、5人くらいずつ行くのが適当かと思っていたのですが、9人なら2回に分けるよりも、みんなで行った方が良いと思いったので、みんなで畑に行きました。えんどう豆もそれほどたくさんあるわけではないので、ちょうど良い人数でした。

実った豆を両手を使ってちぎると良いと教えてあげると、年が上の子はすぐに覚えて、できないという年下の子に教えていました。近くに芽を出したばかりの大豆や、冬を越して芽を出していたにんじんがあるので、子どもたちが踏まないか、私は一人でヒヤヒヤしていました。多少踏みはしたものの、子どもたちは子どもたちなりに気をつけてくれているようでした。

みんな上手に収穫してゆきます。4分の3くらい採ったところで、あとは残しておこうということになって、畑から園庭に戻ってきました。

女の子の参加が多かったものの、3・4・5歳児がバランス良く参加してくれ、助けたり、助けられたりしながら収穫ができて良かったと思います。畑で育っている麦や豆、トマトなどをもう少し詳しく紹介すれば良かったかなと思っています。

たわわに実ったえんどう豆

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