園長ブログ

新国立劇場

2013/06/27

初めてのバレエ鑑賞がマリインスキー劇場での「ドン・キホーテ」。あまりの美しさと、豪華さと、本物の持つ力に圧倒されながら、感動の体験をする事ができました。それ以来、もし機会があれば、家族と一緒にもう一度「ドン・キホーテ」を鑑賞したいと思っていましたが、特に熱心に公演を探したわけではなかったので、なかなか巡り会うことはできませんでした。

ところが、最近たまたま雑誌を見ていたら、新国立劇場で「ドン・キホーテ」全幕が上演されることを知り、もう席は空いていないかと不安に思いながらも予約の電話を入れて見たら、運良くチケットを入手することができました。会場は新国立劇場、演じるのは新国立劇場バレエ団です。

日本の伝統芸能を上演する国立劇場には何度か行ったことがあったのですが、新国立劇場は初めて訪れました。京王新線初台駅の出口を上がるとそこが劇場の入口です。とても大きな劇場です。それもそのはず、1,800人を収容できるオペラパレス、そして中劇場と小劇場があります。

エントランスを入るとゆるやかな階段が奥の方まで続くロビーは、吹き抜けのトップライトからの柔らかな光で満たされていました。隅々まで見て回ったわけではありませんが、建物のデザインもステキです。コンクリートやガラスのような無機質な感じの素材と、木材の暖かさががうまくバランスしていて落ち着けます。

オペラパレスのホワイエからは大きな池を臨むことができますし、休憩時間にはバルコニーに出て外の空気に触れることもできます。劇場内部も、派手な装飾こそありませんが、壁も天井も木で覆われていて落ち着ける雰囲気でしたし、音が柔らかく響いてきそうな気がしました。後で知ったのですが、新国立劇場のオペラパレスは4面舞台いう構造になっているそうです。つまり舞台の上手下手の両袖と舞台の奥に舞台と同じ面積のスペースがあることで、スムーズな場面転換ができるのだそうです。舞台の奥と両袖と本来の舞台を合わせると4面あるので、4面舞台なのだそうです。

そんなステキな劇場で、「ドン・キホーテ」の幕が上がりました。

本物

2013/06/26

サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場での初めてのバレエ鑑賞。バレエについて何も知らず、どちらかというと、退屈なイメージしか持っていなかった私の目の前で幕が開きました。一番印象に残っているのは、幕が開いた瞬間のステージの華やかさというか、きらびやかさが圧倒的な質感と量感をもって目に飛び込んできたことです。

プロローグの騎士道物語を読みふけるドンキホーテのところにサンチョパンサがやってくるシーンがあったのだと思うのですが、どうも、第一幕のバルセロナの港の広場に人々が集まって、それぞれに楽しんでいる場面の印象が強いのです。たくさんの人たちが陽気に過ごしている様子が、心に直接飛び込んできた感じで、「なんやこれは!」と思ったのを覚えています。

宿屋の看板娘キトリと、その恋人床屋のバジルをはじめいろいろな人が踊ります。大勢で踊るときは、ぴったり合った動きも美しいですし、少しずつ違う動きをするところも、動きにハーモニーが感じられます。そして、広場に集まった人たちが、思い思いにいろいろなことをしている姿が、なぜかとても自然で楽しそうだと思ったのを覚えています。
また、視覚的な美しさに加えて、オケピットから響き渡るオーケストラの分厚い生演奏がおなかに響いてくるのです。

それまで私が持っていたバレエに対するイメージは一瞬にして完全に変わってしまいました。その後はどんどん舞台に引き込まれてゆきます。始めて目にする舞台のきらびやかさと、すばらしい音響、劇場全体の雰囲気とも相まって夢中で見入っているうちに場面はどんどん進んでゆきました。

途中の休憩時間に気がついたのですが、終演は夜遅くになるにもかかわらず、子どもの観客が多いのです。かわいらしく正装してマナー良く鑑賞していました。小さいころから本物に触れ、本物を五感で感じることの大切さを改めて思いなおしたのを覚えています。

初めてのバレエとの出会いがとてもすばらしかったので、これはなんとかして子どもたちに見せたい。できれば園児達に見せたいと思いましたが、それはどう考えても無理なので、せめて家族で鑑賞したいと思ったのでした。

ドン・キホーテ

2013/06/25

「ドン・キホーテ」?
全国展開しているディスカウントストアではありません。

スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの小説?
そうですが、小説そのものではありません。

その小説を元にマリウス・プティパによって作られたクラシックバレエの「ドンキ・ホーテ」です。

この「ドン・キホーテ」が新国立劇場で上演されることを知り、鑑賞するために東京に行きました。

「なぜ、クラシックバレエなの?全く似合わないけれど・・・」そんな声が聞こえてきそうですし、私もそう思います。バレエに詳しいわけでもない。というか、バレエのことはほとんど何も知りませんし、好きでよく見に行くわけでもないのです。でも、どうしても「ドン・キホーテ」が見たかったし、家族の誰かに見せたかったのです。

8年くらい前になるでしょうか。園とは別の仕事で、ロシアのサンクトペテルブルグを訪れる機会に恵まれました。その際にマリインスキー劇場でバレエを鑑賞することができたのです。

マリインスキー劇場は、1783年にエカテリーナ2世により、オペラとバレエの専用劇場として開設され、1859年に現在の劇場が竣工したそうです。そして、2003年には新館の設計計画が持ち上がり、デザインコンペなど紆余曲折を経て、今年5月には新館が竣工しました。しかし、地元では新館のデザインを巡って、賛否両論が渦巻いているそうです。そういえば、訪れたときに、もうすぐ工事が始まるといっていたのを思い出しました。このときにマリインスキー劇場で見たバレエが「ドン・キホーテ」だったのです。

まず、劇場に足を踏み入れ、その雰囲気に圧倒されました。4階くらいまでそびえ立つ客席とその上を覆う天井はいたるところに装飾が施されていて、やわらかい照明とも相まってとても荘重な雰囲気なのです。建物を見るだけでも価値があると思ったのを覚えています。

しかし、劇場がいくらすごくても、休憩も含めて3時間を越える公演を鑑賞できるのだろうかと不安だったような覚えがあります。それまで、正直言って、バレエには全く興味がなく、どちらかというと退屈そうなイメージを持っていたからです。

東京タワー

2013/06/24

久しぶりにお休みをいただいて東京に行ってきました。東京には研修で行くことが多いので、他のことをしている時間はありませんが、今回は全くプライベートです。土曜日に園での会議が終わってから8時の新幹線に乗り、その日のうちに東京へ。日曜日は三男のリクエストで、東京タワーに行ってみました。東京タワーに行くのは何十年ぶりでしょう。

東京タワーは、1958年10月14日竣工ですから、55年ものあいだ頑張ってきたことになります。当時、放送用の電波がより広範囲に届くように高い電波塔の建設が必要とされており、建設されたそうです。高さは333メートル、150メートルの所に二層になった大展望台があります。

先ずはそこへ登りましたが、思ったより来場者が多くてしばらく並びました。東京タワーを訪れる人は少ないのかと思っていたのですが、そうでもありません。250メートルのところには特別展望台というのがあり、大展望台から更にエレベーターで上に登るのですが、そのエレベーターに乗るのにも30分ほど待たなくてはなりませんでした。整理券が発行されるので、待ち時間に大展望台からの眺望を楽しむことができます。大展望台の1階には、ルックダウンウインドウなるものがあり、床がガラス張りになっていて真下が見えます。私はどうもその上に乗る気にはなれませんでしたが、子どもは平気で乗っていました。

また、タワーから地上に向けてワイヤーが張ってあったので、何に使うのかと思っていましたが、どうやら資材の運搬に使うためのワイヤーのようです。

タワーのいろいろなところに足場が組んであったのが気になっていたのですが、塗装工事のための足場だったようです。約5年に一度塗装工事が行われるそうで、ちょうどその期間にあたっていました。古い塗装をおとし、下塗り、中塗り、上塗りの工程は、すべて職人さんが刷毛を使って手作業で行うそうです。特別展望台に塗装作業中の写真がありましたが、あんなに高いところでいのち綱一本を頼りに作業を行うなんて想像もつきません。

使う塗料の量も大変なもので、「総塗装面積94,000㎡に使うペンキの量は、34,000リットル、延べ約4,200人が作業に当たります。ちなみに使用する塗料を石油缶(18リットル缶)に置き換え、縦に積み重ねると東京タワーの2倍の高さになります。」とオフィシャルホームページにありました。

いろいろなものが、多くの人によって支えられているのですね。

アジサイ

2013/06/23

園庭の門を入ったところに2本のアジサイがあります。一本はふつうのアジサイ、もう一本はガクアジサイです。先日ふと見たら、薄い青紫色の花が美しく咲いていました。久しぶりの雨に気をよくしたのか、一気に咲いたという感じです。花びらについたしずくがキラキラしています。それにしても、いつの間に咲いたのでしょうか。
毎日の忙しさに流されていると、なんでもなさそうなことがついついおろそかになってしまうことがあります。そうすると細かなことから気持ちが離れてしまいます。さまざまな仕事が、心がこもっていない作業になってしまうということです。園庭でアジサイが咲いていることに気がつかなかったのは、目と気持ちが少し遠くなっていたのかもしれません。「気をつけて!」とアジサイの花が教えてくれているのですね。

最近、先生たちが、子どもたちが少しでも興味を持てるようにと、花壇に植えた花やアジサイなど、園庭の植物にたのしい解説をつけくれました。様々なものごとと子どもたちをつなぐインフォメーションが増えると良いと思います。

アジサイといえばカタツムリというイメージがあります。アジサイの葉の上を散歩しているカタツムリを見たことはありますが、アジサイにたくさんのカタツムリが集まっているところはあまり見ないように思います。カタツムリはアジサイを好むのでしょうか。私がしっかりと見ていないからわからないのかもしれません。

お寺で自然を調査してくださっているお寺の職員さんが、デジタルカメラを苔に近づけて何かを撮影していらっしゃったので、何がいるのかと尋ねたら、カタツムリという答えが返ってきました。しかし、私にはどこにいるのか全くわかりません。「ここにいますよ!2ミリくらいのカタツムリが!」といってくださってはじめて、これかな?と思ったくらいです。撮影した写真を拡大して見せてくださってはじめてカタツムリの姿がわかりました。一緒に映り込んだスケールと比べると殻の大きさが1.5ミリくらいの小さなカタツムリが写っていました。小さないのちが懸命に生きている姿に心が動かされました。

赤ちゃん学会 14

2013/06/22

発達に偏りのある子どもについて、発達障害などの診断名をあまり固定的にとらえることなく、一人ひとりの発達をしっかりと見据え、発達に応じた環境を整え、多くの子どもたちと関わり合うことを通して、それぞれの子どもが発達してゆくことに重きを置いた保育実践を発表してくださいました。そうする中で、子どもたちは自ら育ち、卒園する頃には発達の偏りも少なくなってくるということを多数の実例を示して発表してくださったのでとても説得力がありました。

発表が終わって、質疑応答の時間には、多くの質問や意見が会場から出されました。その中から小児科のお医者様のご意見を紹介します。まずおっしゃったのが、「発表者と同じ感想を持っている。」です。そして、「3歳3カ月検診で引っかかっても、4・5歳で症状が見られなくなることはよくあることだ。ところが一旦診断されると、日本ではそれが固定化するような傾向があり、問題だと思っている。」とおっしゃっていました。

さらにつづけて、「特別支援をすることが必要だと言われるのが日本では主流になっているが、それは危ない。特別支援は特別していないことがとても良いと思う。」ともおっしゃったのには少し驚きました。発表者の伝えようとされていたことと同じことを、小児科のお医者様がおっしゃったのです。そして。「(特別支援をする事によって)大人側から見て一面が改善したように見えても、それが、発達全体にどう影響するのかはわからない。」ともおっしゃっていました。

このお医者様の話を聴いて思ったのが、私たち大人には、「子どもを丸ごと信じる」という前提があるのか?」という問いを突きつけられているのではないかということです。たとえ、発達に偏りがあったとしても、その子がその子らしく育ってゆく事ができる。ということを私たち大人がどれだけ信じているでしょうか。ここが足りないから補う。できないからできるように訓練する。もちろんそれも大切だとは思いますが、それだけではないように思うのです。子どもは訓練するために生まれてきたのではないと思います。

その子のいのちの輝きはどこで発揮されるのか。それを見つけ、磨くお手伝いをする。それが大人の役割なのではないでしょうか。

赤ちゃん学会 13

2013/06/21

「ありえないということはありえない」赤ちゃん学会、ラウンドテーブルでの発表者のことばです。子どもが様々な症状によって何かの障害があると診断されたとしても、その症状が必ずしも続くとは限らない。ということです。

3歳3カ月検診で、歩くことはできないだろうと診断された子が、5歳になったら走ることができるようになった。といった実例をあげて、「この子が歩くことはありえないなどということはありえない」と発表してくださいました。障害があると診断されても、それは固定的なものではなく、変化してゆく可能性は十分にあるということです。

そして、「これは、大人の力ではなくて、子どもの発達に応じた環境と子ども集団の力、子どもどうしの関わりだ。」とおっしゃっていました。

自発的に環境に関わることで発達する子どもに対して、どのような物的、空間的、人的環境を整えるのか。その環境が適切であれば、歩けるようになることはないと診断された子どもでも走れるようになった。それは「発達に応じた環境を用意し、子ども集団の中で子どもどうしが関わり合うということ」によるところが大きいということです。

子どもは自ら育つ力をもっていて、その力は適切な環境を用意することで、発揮されるのです。その中の重要な環境の一つが、子どもどうしの関わりなのです。

もちろん、子ども集団があれば、歩けない子が必ず歩けるようになるといっているのではありませんし、どんな子どもに対しても、何もしないのが良いのでもありません。

大切なのは、まず子どもを一人の人として見ているのかどうか。そして一人ひとりの発達を理解し、その子に応じた環境を用意できているか。子ども同士の関わりを大切にしているか。なのだと思います。

子どもは発達してゆきます。そのスピードや、偏り方は子どもによってまちまちです。平均的な子もいれば、とてもゆっくりな子もいるし、偏りが大きい子もいるでしょう。ですから、その子の今の発達を、生活年齢だけで判断しない方がよいのです。「5歳児だから○○ができなくてはならない」ではなくて、この子は今どんな発達を遂げたいのだろと目の前の子どもに答えを求めることが必要なのだと思います。

「子どもの発達を基準として入学時期を決められると良いと思う。」発表者はこんなこともおっしゃっていました。

赤ちゃん学会 12

2013/06/20

発達に偏りがある子が「気になる子」なら、「気にならない」のはどんな子どもなのだろうかと考えてしまいます。気にしすぎてしまうのは大人の方なのかもしれません。子ども一人ひとりの発達をしっかりとみつめてとらえ、こども一人1ひとりがしっかりと発達するためにはどんな環境が必要なのかを考え、保育者どうしが議論して最も良い物的、空間的、人的環境を用意できると良いと思います。子どもの最善の利益を保障するということだと思います。特に保育者という人的環境は、子ども一人ひとりをよく見る。待つ。必要なときには手をさしのべるということなのでしょう。

赤ちゃん学会ラウンドテーブルで、発達に偏りのある子が、どのように育ったかを、実例をあげて発表してくださいました。
2歳まで全く発語をせず、3歳3カ月検診で「経過観察が必要だ」といわれた子が、年長になったら、他の子どもたちとちゃんとコミュニケーションをとってやっているという例があげられていました。その園ではその日に何をするのかを年長児が話し合って決定しているそうです。そんな場面でもその子が中心になって話し合いを進めているそうです。

4歳ぐらいまでは発達に偏りが大きい子でも、乳児からしっかりと発達を積み重ねてきた子は、5歳になると急に伸びると発表していらっしゃいました。でも、それはただ保育園で過ごせば良いというものではもちろんありません。乳児期から、子ども一人ひとりを良く見つめ、その子にとって最も必要な、物的空間的人的環境をととのえ、その子が主体的に生きるお手伝いを適切にしてもらった子が伸びるという意味です。放っておけば良いというのではありません。

印象的だったのは、「園における特別な支援はしていない。子どもが求めてきた場合には発達の偏りに関係なく支援する。」という発表者のことばでした。発達の偏りのあるなしではなく、その子が求めてきた時にはすぐに手をさしのべることができるよう準備をしておかないといけないのです。そのためには、保育者たちが、どの子のことも理解し、気にかけ、目をかけ、見守っている必要があるのだと思います。そうでないと子どもが「助けて!」とサインを出しているのに、保育者がそれに気づけなくて、その子が最も必要としているときに助けてあげることができなくなってしまうのです。

赤ちゃん学会 11

2013/06/19

「乳幼児の社会性 −乳児からの保育における環境による乳幼児の発達の保障−」というラウンドテーブルでは、発達に偏りのある子が、様々な子どもが関わり合うことのできる集団の中でどのように育つのかという発表もありました。

最近よく発達障害ということがいわれますが、この発達障害であったり「気になる子」ということばが多く使われることが、気になる。という話から発表がはじまりました。私も以前ブログで書きましたが、なぜか「ちがう」ことだけに焦点をおいて「気になる」と言ってしまったり、診断名をつけることで安心してしまったりすることが多いように思います。

発表者は「日本の教育システムがマイノリティーを受け付けないシステムになっているのではないか?」と問いかけていらっしゃいました。大人が、はみ出すことをきらって、子どもを管理するためにカテゴライズしてしまっているのではないだろうか、障害の名称にこだわっていないだろうか。ちょっと違うこと、偏っていることばかりを気にする大人。やたらと分けたがる保育園や小学校の大人。一人一人の発達ではなく、集団ありきで考えたい大人。そんな大人が多すぎるのではないかという問いかけに、そうはありたくないが、ついついそうなってしまっている自分がいるのではないかと、自問しました。

「環境を通して保育する」と保育所保育指針にありますが、その環境をどうとらえるとよいのか。発表者はこんなとらえかたをされていました。物的環境は、保育室の構造化。空間的環境は子どもたちの主体的で自発的な活動の場。そして人的環境は、子どもと子どもの関わり。そして、大人という人的環境、大人のやるべきことは、子ども一人一人をよく見る。待つ。必要なときには手をさしのべることだそうです。大人が主体になって子どもを動かすことが保育ではないのです。

そのはずなのに、どうしても「集団ありき」で集団に一人一人を合わせようとする考え方になってしまいがちです。自分自身がそういう教育環境で育ってきたから、考え方もそうなってしまうのでしょうか。あくまでも子ども主体を忘れずにいたいものです。

赤ちゃん学会 10

2013/06/18

赤ちゃん学会第13回学術集会2日目のラウンドテーブルでは、0歳から在園していた1歳児と、1歳になってから入園してきた1歳児の園での様子を比較しての発表もありました。もちろん保育園という環境に慣れているかどうかということも関係するとは思いますが、0歳から在園している子の方が、階段を下りるときに不安そうな子には手をつないであげるという行動がみられるなど、子ども同士の関わり合いは深いことを示す映像をたくさん見せていただきました。
保育士をきっかけとして、子ども同士が遊ぶことができるのは、それまでにみんなで同じ場所で遊ぶという経験があるからだとおっしゃっていました。

また、子ども同士の関わりについて、4歳児のリズム遊びや体操教室など身体を動かす遊びの中に1歳児が入って一緒にする事があるが、4歳児はもちろんそれを嫌がることはなく、1歳児に配慮して動いているし、1歳児ができるように教えてあげたり手伝ってあげたりしている。逆に1歳児は真似をしようとするかのように4歳児の動きをじっと見ているそうです。2歳児の時に5歳児に靴を履くのを手伝ってもらっていた子が、3歳児になったら2歳児が靴を履くのを手伝ってあげていた。というエピソードも紹介してくださいました。このエピソードに現れているように、異年齢での関わりの中でいろいろな経験が伝承されてゆくのだと思います。いわゆるクラスの中でも自分がしてもらったことを誰かにしてあげることはあります。保育者に鼻水をふいてもらっていた1歳児が、次第に自分でふけるようになり、おともだちの鼻をふいてあげていた。ということも紹介されていました。

子どもどうしの関わりが育む子どもの社会性は、いろいろな年齢で関わることでより育つということなのだと思います。

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