園長ブログ

妬み

2013/07/17

他人の喜ぶ姿と苦しんだり悲しんだりする姿のどちらが見たいと思いますか?「喜ぶ姿」と答える人が多いのかと思いますが、もしかして自分の心のどこかに、誰かの幸せを妬んだり、哀しみや苦しみを喜んでしまうところはないでしょうか。妬みの感情を持ったときに活発に活動しているのは脳内の前部帯状回という部分だということがわかっているそうです。前部帯状回は、血圧や心拍数の調節などの自律的機能の他に、注意機能といった認知機能や大脳辺縁系の一部として情動反応、また痛みや葛藤の処理にも関わっているそうです。ですから、妬みにだけ関係しているわけではないようで、妬みを含む

また、他人の不幸を喜んでいるときに活発に反応しているのが、脳内の線条体という部分で、運動機能に関わると同時に、心地よい感情や意志決定など情動や認知過程にも関わると考えられているようです。

この2つは密接に関係しています。他人の不幸を喜んでしまうのは、どんな人に対してでも喜ぶのではありません。妬みを持っている人に不都合なことや、不幸が起こったときに、喜ぶようです。それまで妬んでいた相手に対して持っていた劣等感が優越感に変わる感じなのでしょうか。

そして、妬みに関連する前部帯状回の活動が高い人ほど、他人の不幸に対して線条体が強く反応するのだそうです。

他人の不幸を喜ぶなんて、よくないことだといわれそうです。しかし、この機能は私たちが生きてくる上で必要なことだったのかもしれません。誰かの優れたとところをみて、「ああなりたい」とか「まねしてみよう」といった前向きに変えることができるとよいのではないでしょうか。

まめの葉の上で

2013/07/16

 葉脈標本のようになった大豆の葉

昨年園の畑でとれた大豆がまだ余っていたので、いくつか自宅でプランターに植えてみました。すぐに芽を出して、すくすくと育っていたのですが、ある日葉っぱが葉脈標本のようになっているのを見つけて、小学校の理科の時間に作ったのを思い出しました。葉っぱを重そうなど溶液に入れて加熱後、歯ブラシで優しくたたいて葉脈だけにするあれです。他にも葉脈標本になりかかっている葉っぱがあったので、よく見てみると葉の裏に小さな毛虫のような虫がたくさんついて、葉を食べています。それにしても、上手に葉の柔らかいところだけを食べるものです。他にも小さなバッタのような虫が来て大豆の葉を食べていることもありました。

    葉脈標本の製作者達


園の畑の大豆は、少しは虫に食べられていますが、葉脈標本のようになっているのは見かけません。自宅のプランターは近くに植物はあまりありませんが、園の畑は大豆のまわりに雑草と呼ばれる他の植物がたくさんあるので、虫たちは大豆も食べるけれども他の葉っぱも食べるので、大豆に集中することがないのかもしれません。そうだとすると、雑草と呼ばれる草も決して邪魔者ではありませんね。

人間が育てている植物が虫に食べられるのを少なくしてくれるという、全く人間の都合だけから考えても、雑草は役に立ってくれているところもあるのです。人間の都合を離れた自然の大きな巡りの中では、雑草も害虫もきっと何かの役割を果たしているに違いありません。邪魔だから取り除く、退治するだけではなく、雑草や害虫が生きていることにはどんな意味があるのだろう?と、少しだけでも考えてみるようにしてみたいと思います。

最近の畑

2013/07/15

      大豆の花

麦を収穫したときの畑の様子をお伝えしましたが、最近の様子もお伝えしようと思います。

大豆はますます背が伸びて、元気に大きくなっていました。ピンク色の小さな花がかわいらしく咲いています。それに対して黒豆は少し元気がありません。まわりを草に覆われすぎているのか、虫がついたのか、新しく出てきた葉がしわしわになったり、枯れたりしています。「元気で大きくなってね!」と声をかけましたが、ちゃんと実をつけてくれるでしょうか少し心配です。

自然農法のトウモロコシ 小さめです

トウモロコシも花が咲いていました。トウモロコシは、一つの株に二種類の花が咲きます。一番上にさいているのが雄花で、穂のように出ているのはたくさんのお花の集まりです。雄花の下の方に、雌花があり、め花の先にあるひげがめしべです。雄花が花粉を落とすとひげのようなめしべにくっついて受粉するのだそうです。そうです。トウモロコシの実にくっついているひげは、めしべなのです。うまく受粉ができるように手伝ってあげた方が、たくさん実が入るかもしれませんね。

となりの慣行農法で3歳児たちが植えたトウモロコシはとても大きく育っています。2メートルくらいの高さになり、しっかりとした雄花と雌花が咲いています。さすが、店頭で売っている苗ですね。こちらもうまく受粉できて、たくさん実が入るといいなと思います。

にんじんの花の白い色は緑色の中でひときわ映えます。小さな花がたくさん集まって咲いていて、かわいらしい感じです。たくさんの虫たちがにんじんの花に集まって来ていました。他のにんじんは花が咲く前に収穫してみようと思いますが、いつ頃が収穫時なのかよくわかりません。

大きく育った3歳児のトウモロコシ

一本抜いてみるとよいのかもしれません。

畑の片隅に、植えたわけでもないのに、どこから来たのか紫陽花が美しく咲いています。

     にんじんの花

にんじんお花にあつまる虫たち

小麦収穫後の畑

2013/07/14

    少し大きくなった大豆

麦の収穫のために畑に行ったら、1週間ほどで、畑の様子が全く変わっていたのには驚きました。

まず、黒豆と普通の大豆がずいぶんと大きくなっていたのです。小さい間に間引いたり、世話をしようと思いながら、ついつい何もできないままになって、そのまま育ったので、2本の大豆がすぐ近くに生えている状態です。それでも、背丈は40センチメートルくらいになっていました。

近くに、こちらもあまり世話をしなかったトウモロコシが種を蒔いた分だけ芽を出し、林立していました。背はあまり高くなっていません。間引いてないからだと思います。

    トウモロコシ


種を取ろうと、トウモロコシの近くにそのままにしていたほうれんそうは、どこを探しても見当たりません。どこに消えてしまったのでしょうか。

黒豆とトウモロコシを植えた場所には、名前を知らない草が生い茂り、黒豆の背丈に迫る勢いでした。それを見て思い出したのは、黒豆と黒豆の間に種を蒔いたトマトです。小さな双葉が出ていたことは確認したのですが、背が高くなった草に阻まれて消えてしまったのかと思いました。草をそっと分けながら探すと、2株のトマトが、草に埋もれそうになりながらもけなげに伸びようとしているのを見つけました。「草に負けるな!がんばれよ!」と声をかけながら、まわりの草を少し刈っておきました。

そういえば、にんじんはどうなったのかと思って探してみると、一つの茎がとても伸びていて、先に白い花をつけています。以前見たときは葉っぱが少し大きくなりすぎているのかなと思っていたくらいだったのに、こんなに早く花がつくのが信じられないくらいでした。

     にんじんの花


この時期の畑は1週間でずいぶん様子が変わる者です。畑の中のいろいろな生き物が、それぞれのいのちを精一杯生きていることが感じられる、小麦の収穫でした。

2013/07/13

先日、畑に植えていた小麦を収穫しました。もっと早く収穫したかったのですが、なかなか手がかけられず、7月に入ってしまいました。1日の夕方、少しだけ時間ができたので雨が降る前に収穫しようと思い急いで刈り取りました。どうして良いのかわからなかったので、剪定用のハサミでジョキジョキ、根元から切り取りました。鎌を使うと穂をそろえるのが楽だったのですが、あいにく鎌を研いでいなかったので断念。使ったら、手入れをしておかないと、次に使いたいときに困ります。ついついおろそかになりがちですが、こうした小さなことを丁寧に行ってゆくことが大切なのでしょうね。

切り取った小麦の穂を一カ所に集めたら一抱えほどありました。思ったより収穫に時間がかかり、予定時間終了。そのまま雨のあたらないところに置いて、翌日、実のついた部分を切り取りました。脱穀をするのに千歯扱きを使うなら、切り取らない方が良いのですが、茎の部分をつけたままだととてもかさばるので、切り取りました。脱穀は手揉みでしてみようと思います。

麦わらがたくさんできたので、どうしようかなと考えていたら、「麦わら帽子」ということばが頭に浮かんできました。そういえば麦は生活に密着していながら、あまり意識しないように思います。麦そのものの形で食べることが少ないからでしょうか。麦ごはんは食べることが少なくなりました。小麦からできているものはたくさん食べますが、パンやうどんから小麦は想像しにくくなっているのかもしれません。麦の秋、小麦色など麦のつくことばもいくつかあります。

収穫が遅すぎたのか、小麦色は少しあせていましたが、なんとか無事に収穫できました。

  たわわに実った小麦

水遊び

2013/07/12

平年より早く梅雨に入った近畿地方でしたが、梅雨に入ったとたんに雨が降らなくなり、水不足が心配されるほどでした。後半ようやく梅雨らしくなったかなと思ったのもつかの間、急に猛暑がやってきて、梅雨が明けていました。京都では祇園祭の山鉾巡行の前後に雷が鳴って梅雨が明けるというパターンが多いように思いますが、今年はずいぶん早いです。七夕あたりから京都の最高気温は連日35度を超えていて、37度に近い日が続いています。鞍馬は市街地とは違って気温は高くても30度くらいですし、風が吹いてくるとずいぶん涼しいです。特に湿度が低めの時はさわやかです。

園庭では子どもたちの水遊びやプール遊びが増えてきました。子どもたちはいろいろな方法で水の感触を楽しんだり、水の流れ方、砂をまぜるとどうなるのかなどいろいろな遊び方をしています。そんな姿を見ていると、子どもは遊びの中で学んでゆくこということが納得できます。

先生達もスプリンクラーを置いて水をまくなど、工夫していろいろ楽しいことを考えています。先日0・1歳児のためのプールというか水遊びスペースができていました。といっても専用の何かを買ってきたのではありません。原理は簡単、砂場にブルーシートを敷いて浅く水を張っただけです。子どもたちはこれが楽しいらしく、とても喜んで遊んでいました。シートの下は砂なので、転んでもあまり痛くありませんし、形も好きなように作ることができます。砂浜のような傾斜をつけたり、くぼみを作ってみたり、先日は古タイヤをビニールシートの下に置いてみたら子どもたちに人気だったと報告してくれました。

子どもたちも楽しいし、楽しそうな子どもを見ている大人たちも楽しい。楽しいがたくさん広がると良いと思います。

    砂場プール?

がんばる力

2013/07/11

梅雨が明けて、天気が良い日が続くので、園庭で遊ぶ子どもが多くなっています。少し前になりますが、園庭にある鉄棒や登り棒に挑戦する子どもが多くいました。「鉄棒の上に座りたい」「まえまわりがしたい」「さかあがりができるようになりたい」そんな想いで一生懸命に練習する子どもたち、一人が始めると、何人かに連鎖していって、競い合ったり、励まし合ったり、教え合ったりしながら練習しています。

子どもが行き詰まってしまった時には、先生たちは「大丈夫?」「困っていない?」とそっと声をかけます。どうしてもできないから教えてほしいと子どもから頼まれると、ポイントを少しアドバイスしていました。私はすぐに1から10まで教えたくなるのですが、それでは子どもは自分で考えたり工夫しなくなります。

子どもも自分で努力していると、少しのアドバイスがよくわかるようで、ちょっとしたきっかけで、できるようになります。

5歳児が中心になって頑張っていましたが、そのうちそれが他の子どもたちにも広がって、4歳児たちも挑戦している姿がよく見られました。ある日の夕方、園庭にいると4歳児の女の子が、「先生こっち来て」と私を鉄棒の方に引っ張っていって、「見ててや!」といって、くるっとさかあがりをしました。少し前に挑戦していたときには、まだ練習が必要かなと思って見ていたのですが、思ったより早くできるようになっていたので、驚きました。「できるようになりたい!」と思って練習してきた姿が目に浮かびます。

子どもどうしってとっても伝わると思います。子どもどうしで、あこがれたり、励まし合ったり、教え合ったり、競い合ったりするなかで、やってみよう!という気持ちが生まれ、それが子どもを動かします。大人が「やりなさい」と言うより、子どもどうしの方が「やろう!」という気持ちが生まれやすいようです。だからこそ、年齢性別などいろいろな子どもが一緒に過ごすことが大切なのです。

そんな前向きな気持ちが生まれるには、その基礎となる自己肯定感や自信を子どもが持つことが必要です。そのために必要なのが心の安心基地となる大人の存在です。それは、親かもしれませんし保育者かもしれません。もし、もくじけた時は、いつでも戻ってきていいんだよ。と受けとめてもらえる安心基地があるからこそ、どんどん挑戦する気持ちが生まれます。そのためには、子どもが「大丈夫かな?」とふりかえったときに、「うん!大丈夫だよ!」と視線を送ってあげられるように、子どもを見ていることが大切です。

お手伝い

2013/07/10

子どもが園で自分たちの生活のためにする仕事がいくつかあります。お当番といって、グループに分かれた子どもたちが日替わりで活動しています。お昼寝のお布団を敷く「お布団当番」、昼食後のランチルームを掃除する「お掃除当番」、5歳児が0・1歳のお世話をする「赤ちゃん当番」、朝のお参りの時に前に出てお参りをする「お参り当番」などがあります。どのお当番も、子どもたちが楽しみにしていて、張り切ってやっています。基本的に行うことは決まっていますが、担当したグループの子どもたちが、工夫して役割分担をしたり、力を合わせています。お布団をきれいにしく工夫、早くぞうきんがけをするためのぞうきん競争などです。

こうしたお当番活動が、何かの罰ゲームのような、やらされ感いっぱいの義務にならないようにしたいと思っています。やらないと先生に叱られるからやるというのでは、叱られなければ、やらされなければ、やらなくなってしまいます。そうではなくて、掃除をして美しくなるのが気持ちいい。みんなが喜んでくれると嬉しい。という気持ちをきっかけに、自分がやるという責任感を身につけてほしいと願っています。

最近、子どもたちのお手伝いが始まりました。昼食準備のお手伝いです。これはお当番ではなく、その時にお手伝いしたいと思った子どもたちが集まって昼食を作ることに参加しています。調理師や栄養士と一緒にお米を研いだり、野菜を洗ったり、皮を剥いたりといったことをしています。この取り組みは先生達の「子どもたちが食べる物に興味を持ってほしい」という思いから始まりました。今のところは毎日しているわけではありませんが、お手伝いをとても楽しみにしている子もいます。この日はパプリカ、ズッキーニ、オクラを水で丁寧に洗っていました。野菜を丁寧に洗いながら、パプリカの赤や黄色と、オクラ、ズッキーニの緑色が美しいことや、手触りが違うことを子どもたちは五感をフルに使って感じているようでした。

子どもたちが洗った野菜は昼食のスープの中に入っていました。野菜を洗った子どもたちは、「これ私が洗った野菜だ」と思いながら食べているに違いありません。私でさえ、そう思ったのですから。

こうして食べるものに興味を持つことから始まって、「食べる」ってどういうことだろうと考えたり、いのちをいただいていることに気付いてくれることを願っています。

  丁寧に野菜を洗う子どもたち

あきらめない

2013/07/09

音楽大学と企業のコラボレーションによって開発されたボイスケアのど飴、その開発の道のりは平坦ではなかったようです。試作品を作っては学生さんに試してもらい、アンケートを取るのですが、まず壁となったのが企業と大学の時間の流れ方の違いです。学生さんは試験や長期休暇など大学のリズムで動くので、すぐにアンケートに答えてもらえるわけではないのです。必然的に開発期間はのびてしまいます。

そのうえ、返ってくる反応もなかなか良くはなりません。飴の品質をどう改善すれば良いのか見当はつかないし、時間は過ぎてゆくし、上司からはいつまでやってるんだと叱られるし、くやしくて家に帰って泣いたことも一度ではなかったと開発担当の片桐さんはいっていました。上司にしかられても、「どうしても、学生さん達が喜ぶのど飴を作りたい」という強い思いを伝え、その熱い思いを糧にけっして諦めることなく努力を続けたのです。

答えはアンケートの中にあるはずと、何度も何度もアンケートを読み返したといいます。そうして、開発担当の杉村さんの協力も得て作った試作品の数は60種類以上になりました。普通の商品開発ではこれほどの試作品は作らないそうです。食べやすさと、効き目を感じられる感覚のバランス、その上にどう味に個性を出すかという難問に取り組んで、最終的に3種類に絞り込んだうえで、学生さんの代表に選んでもらっらいました。

誰かに喜んでもらいたいという熱い思いと、決して諦めない強い意志がひとつの商品を誕生させたのです。学ぶところはたくさんあると思いながら番組を見ました。

カンロのホームページを見たら開発ストーリーが紹介されていて、そこにはパッケージデザインも学生さんのアイデアでクールな雰囲気と同時に親しみやすさも持ったデザインになったとありました。

みんなが力を合わせることができて、そこに喜びがある。そんな関係がチームであり、チームがステキを生み出す。しかしその背景には情熱と諦めない強い思いがある。何をするにも大切なことだと思いました。

分をわきまえる

2013/07/08

のど飴の原点にかえって、「声を大切にする人が必要とするのど飴」の開発する。その中心となったのが、当時入社4年目の女性社員片桐さんでした。特に声を大切にしている人は誰かと考えた末、声楽家という答えにたどり着き、国立音楽大学で教鞭をとっていらっしゃる声楽家の小林一男教授を訪ねました。

小林教授は「声楽家にとってのどは大切な楽器で、取り替えることのできない一生ものだから、24時間大切にしている。」とのことば荷も現れているように、のどを大切にする姿勢は並大抵ではありませんでした。小林教授は喉によい素材などをよくご存じで、何種類か紹介してもらい、それらを加えたオリジナルハーブエキスを杉村さんを中心とした研究チームが開発したそうです。

オリジナルハーブエキスを用いた試作品を作り、音楽大学の学生さんに試してもらってはアンケートを取るかたちで、開発は進みました。最初は、効き目を重視したあまり、味が苦くなってしまったり、食べたときの感覚がよくなかったりという意見が多かったようです。学生さん達にとってものど飴は必需品なので、よいのど飴ができるためなら、協力は惜しまない姿勢の方が多かったようですが、それだけにアンケートでは厳しい意見が多かったといいます。学生さんもそれだけ真剣に取り組んでいたということなのですが、片桐さんはじめ開発チームは行き詰まってしまいました。

小林教授に相談したところ、のどの調子が悪く治療が必要なら、私たちは医療に頼る。のど飴に治療を求めているわけではない。むしろ、これをなめているから安心できるとか、リフレッシュできるといったメンタルな部分を支えてくれることの方が大切な要素だとおっしゃるのを聞いて、のど飴に過大な役割を求めすぎていたことに気がついた。とたしか番組のなかでは紹介されていました。

そのものや人の役割というのは、なかなかわかりにくいもので、ついつい求められてもいないのに役割以上のことをやろうとしたり、役割を果たさずにいようとしたりしてしまいがちです。いまここにおける自分自身の役割をしっかりと見据え、理解し、その役割を果たすことに専念すべきなのでしょう。分をわきまえるということばが適切なのかどうかよくわかりませんが、自分の役割をわきまえて、それをしっかり果たす事に力を注ぐことが大切なのだと想います。

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