園長ブログ

ジャングル出現 2013

2013/08/06

 あっという間にジャングルになった畑

畑はどうなっているのだろう?種を蒔いたままで何もしていないトウモロコシは実がついているのだろうか。葉っぱが伸びていたにんじんは土の中でどうなっているかな?大豆は?黒豆は?そういえば、トマトが草に負けそうになりながらも頑張っていたよなー・・・ 頭の片隅にはあったのですが、なかなか畑に行くタイミングがつかめず、10日ほどそのままにしてありました。

そして、久しぶりに畑に行ってみると、前回見たときとは全く別の世界が広がっていました。作物以外の草が高く伸び、

 黒豆は葉がたくさん茂っていました

トウモロコシは背が高いので、よくわかるのですが大豆はかろうじてどこにあるかわかるくらいで、トマトやにんじんはどこにあるのか全くわからない状態です。今年もあっという間にジャングルが出現していました。10日ほどの間に畑の状態をこれほどまで変化させる植物の生命力、自然の力を見せつけられた感じがしました。

作物たちはどうなったのでしょう。腰くらいまでの高さの草をかき分けて進み、黒豆の所に行ってみました。黒豆は虫に食われながらも、80センチくらいに育ってたくさんの葉を茂らせていました。

虫に食われながらも大きくなった大豆

ところどころ花が咲いていたので、しばらくすると豆が実りそうです。黒豆と同時に種まきした大豆も順調に育っていて、こちらは小さな豆が実っていました。ちなみに、私が自宅でプランターに蒔いた大豆は順調に芽を出して花を咲かせ、小さな実をつけていますが、ひょろひょろで弱々しい感じです。畑の大豆は、実こそまだ小さいものの、たくさん葉が茂って力強い感じに育ちました。プランターと地植えではこれほど違うのですね。でも過酷な条件のプランターの方が豆が種を蒔いた時期は遅かったのに、先に豆が実りました。どんな条件がどう作用して、どんな差になって表れるのか全くわかりません。

  小さな豆が実った畑の大豆

剪定

2013/08/05

園庭入口付近にはアジサイとガクアジサイ、2株のアジサイがあります。少し前のブログにも取り上げましたが、今年はたくさんの花をつけて、私たちの目を楽しませてくれました。しかし、美しかった花も役目を終えるとだんだんと枯れてきます。そのままにしておくとどうなるのか観察し続けるのも一つの方法かもしれませんが、全体的に背が高くなりすぎていたので、今年は剪定するのが良いのかなと漠然と考えていました。ただ、闇雲に剪定するよりも調べてから剪定した方が良いのかなと思いながらも、そのままになっていたら、園芸に詳しい保護者の方が気にしてくださって、剪定しましょうかと仰ってくださいました。

渡りに舟とばかりにお願いをしたら、早速いらしてくださいました。来年、芽が出るところを残しつつ、短くすっきり苅ってくださいましたが、その手際の良いこと、早いこと。若い先生と私と2人で手伝うつもりでいましたが、私の出番はなさそうだったので若い先生に任せました。

子どもたちは早速、刈り取られた葉っぱや花で遊んでいましたし、葉の陰から現れたカタツムリと遊ぶ子もいました。子どもはすぐに遊びにしてしまいます。

こうして園庭のアジサイはスッキリとしたのでした。剪定してくださった保護者に感謝します。ありがとうございました。

保護者の皆様はそれぞれに知識や技術をお持ちです。それを保育に活かしていただける機会や場を増やしてゆきたいと考えています。それは、園が助かるからだけではありません。子どもがいろいろな人と関わる機会になります。様々な知識や技術に触れることで、学びの幅が広がります。また、職員も学ばせていただくことがたくさんあるはずです。

保護者の皆様が得意技を発揮していただく機会を作りたいと考えています。ご協力いただければ幸いです。

   剪定前のアジサイ

   剪定語のアジサイ

集中力

2013/08/04

写経をしているときは、集中していないとすぐに間違えてしまいます。「乗」が「乘」、「観」が「觀」、「即」が「卽」というように旧字がたくさん使われているので、文字を間違えることがありますし、ひどいときには途中からとなりの行に飛んでしまう事もあります。それはやはり他のことを考えてしまったりしているときにおこります、やはり、集中している必要があるのです。

もう一つ難しいのは、筆にどのくらいの朱を含ませるかです。写経会では動物性の膠を使った墨ではなく、朱を使って書写しますが、その朱を含ませる量をこまめに調整して書くと、同じ調子で書くことができて美しくなります。

もともと字が下手な私にはなかなか美しく仕上げることは難しいことですが、筆に含ませる朱の量をできるだけ一定に保ち、筆の先が紙の上を滑る感覚を意識する、筆の先に意識を集中すると間違いも少なく、一定の調子で書くことができて、ある程度美しく書写することができます。まず大切なのは集中力を切らさないことです。しかし、2時間以上集中力を保つのは難しいものです。

集中力といえば、子どもの集中力ほどすごいものはありません。子どもが自分の興味があることに取り組んでいるとき、それがその子にとっておもしろければおもしろいほど集中します。まわりで他の子が騒いでいても、少しぐらい声をかけても、見向きもせずに取り組んでいる姿が見られることがあります。それは、子どもが自分の興味を持なにかを見つけて、自ら取り組んでいるときによく見られる姿です。

なぜ、それほどまでに集中できるのでしょう。それは、子どもが選ぶことが、その子の今の発達に必要なことだからです。子どもは自分の発達にちょうど合ったものを選ぶ能力を持っています。それはその子にとって必要なことなのです。自分に必要なことを自分で選び取り、それを行うことで自ら発達してゆくのです。そして、発達は子どもによって少しずつ異なります。だからこそ、ひとり一人の子どもの発達に合う多様な環境が必要なのです。

集中して取り組んだ結果として満足感が得られ、それが自信や次への意欲につながってゆきます。

写経

2013/08/03

今年もお寺の行事、写経会の時期が巡ってきました。8月1日から3日までは、勤行と写経の日々です。一日中、板の間に正座しているので足が痛いこともありますが、写経会のことだけを考えて、写経会に関係することを一生懸命にするので、他のことを考える必要がありません。そういう意味では一つのことに集中できる環境は整っています。

よく、○○三昧といいますが、三昧とはサンスクリットのサマーディという語の音訳で、心を一つの対象に集中させて安定した精神状態。雑念を去って没入するという意味があります。

写経三昧というなら、写経に集中して心の状態が安定していたのかと問われると、100%自信を持って、そうだとは言えません。というより、写経をしていても睡魔が襲ってきたり、ついつい頭の中に他のことがいろいろと浮かんで来て、ぐるぐる回るのに心が引きずられたり、物音が気になったり、とても集中している状態とは言えませんでした。ですから、写経三昧ではありませんね。

余りにもいろいろなことが多すぎると、ついついいろいろなことを考えてしまいますが、あっちこっち考えると、かえって訳がわからなくなってしまいます。いろいろな問題があっても、今は何が一番大切なのか、それをしっかりと選んで、そのことに集中する。まさに心を一つの対象に集中させ安定した精神状態で取り組む必要があるのだと思います。そのことをやり切るまでは、そのことだけに集中して他のことは考えない方がよいのでしょう。

そして、一つのことをやりきってから次のことに移り、そしてまたそのことに集中すれば良いのですが、気になることが多すぎると、ついついいろいろなことが頭を駆け巡り、それに気を取られてしまいます。

写経をするときに、こんなことを試してみました。筆の先が紙の上を滑る感覚を想像しながら書くのです。もちろん筆の先は私の身体の一部ではありませんので、実際に筆が紙に触れる感覚というのは感じられるはずはないのですが、筆の毛先は自分の指の延長だと思いながら、書いてみたら少しは書くことに集中できたように思います。

おとまり保育〜心から楽しむ〜

2013/08/02

おとまり保育を楽しんだのは子どもだけではなかったことを紹介しています。
子どもたちの楽しみにしているキャンプファイヤーだって、何とかして子どもたちを驚かせるような方法で点火したいという思いから、用務の先生が昨年考案してくれた自動点火システムを今年も使うことになりました。ただ、それを使うには、薪を組むときに細工をしておく必要があるので、あらかじめ準備をしなくてはなりません。鞍馬は涼しいといっても夏の午後の日差しはやっぱり暑く、炎天下で汗だくになって準備をしながらも、「仕事中にこんな楽しいことをさせてもらって良いのかな?」とニコニコしながら準備をしている先生の顔がとても印象的でした。

大人も遊び心いっぱいで楽しんで仕事をするからこそ、その楽しさが子どもに伝わるのかもしれません。とはいっても、おもしろおかしいだけで仕事をしているわけではなく、好きなことだけやっているわけではありません。どんなことでもいかに楽しむか。わくわくしながらできるかが、大切なのだと思います。「ついついやらなくてはならない!」と思ってやっていると、目がつり上がって、苦しくなってきますし、余裕もなくなってしまいます。忙しくても忙しさに負けてしまわず、遊び心を持って楽しめば、余裕が生まれてくるのだと思います。

そんなことを言いながら、私自身ついつい眉間にしわを寄せて、しゃかりきになってしまっていることがあります。そんなときには、できるだけ早くそんな自分に気付いて、余裕を持って笑顔で楽しみながら、仕事をしたいものです。自分を知って、自分を律する。まだまだその練習をする必要がありそうです。

おとまり保育 〜こだわり〜

2013/08/01

0・1・2歳児担当の先生達は直接おとまり保育に関わりませんが、みんなで知恵を出し合って、おとまり保育のためにスペシャルなおやつを考えてくれました。内容は直前まで子どもはもちろん、担当の先生にも内緒になっていたようです。当日のサプライズといったところでしょうか。

どうやら、フルーツジュースを作ろうと計画していたようで、どんなフルーツをどれくらい入れると良いのかなど、何度か試作品を作って検討していたようです。そして、誰が言い出したのか、タピオカを入れようということになり、子どもたちに食べさせるのだから漂白剤などを使っていないものが良いのではないかなど、かなりこだわっていたようです。試作品をいただきましたが、酸味と甘みのバランスがほどよく、濃厚だけれども、後味がスッキリさっぱり、タピオカの食感も楽しめて、とてもおいしく仕上がっています。

当日、スペシャルおやつが出てきて、子どもたちは、まずカップの底に沈んでいる黒ぽい小さなかたまりが、気になったようでした。「これ何」と聞く子どもに、誰かが冗談で言った「カエルのタマゴ」のことばに及び腰になっていた子もいましたが、いざ口にしてみると食感が良かったのか楽しんでいたようです。

しかし、ただおやつをいただくだけでは終わるはずがありません。飲み終わったフルーツジュースにはどんなフルーツが入っていたかを当てる問題が用意されていて、4択なのですが、子どもたちは一生懸命考えていました。子どもたちは飲むだけでわかるのかな?と思っていましたが、結構真剣に考えて答えていました。正解は翌朝までおあずけ。はてさて正解は???

おとまり保育 〜たのしむ〜

2013/07/31

おとまり保育に参加した5歳児たちは、きっと楽しいことの連続で、思い出もたくさんできたのではないでしょうか。この経験から、自分でできる!という自信や、みんなで心を合わせ、力を合わせて何かをやり遂げることの楽しさを感じてくれたことと思います。なによりも、子どもたちがもともと持っていた優しさが、もっと深まったように思います。

子どもたちはおおいに楽しみましたが、楽しんだのは子どもだけではありません。先生たちもそれぞれにどうすれば「子どもが生活する」ことをより楽しく、興味を持って取りめるか、工夫を凝らしていたようです。

当園には、お当番活動などを行なう子どものグループがありますが、年度当初グループ名を子どもたちが決めたときに、ドラゴンフルーツという名前を付けたグループがありました。そこで、ドラゴンフルーツを知っている子どもはあまり多くないだろうから、この機会に本物のドラゴンフルーツを食べさせてあげたい。と考えた先生たちがいて、沖縄に行って買ってきてくれました。もちろんわざわざ買いに行ったのではありません。おとまり保育直前にプライベートで沖縄に行った職員が買ってきてくれたのです。他にも様々なフルーツを買ってきてくれて子どもたちといただきました。

ドラゴンフルーツを初めて見る子、食べる子の顔、そして「あんまり味しいひんなー」「おいしい!」「こらあかん」様々な反応がありました。先生達はきっとその顔が見たくて、力を合わせたのだと思います。

おとまり保育 〜 視点 〜

2013/07/30

火の神様から火を頂いたことがうれしくて、いつまでも心に残っていて、ありがとうと言い続けている。こんなにピュアで、素直で、優しい子どもたちと過ごすことができるのだと思うと、嬉しさがこみ上げてきます。

先生がこんなことを言っていたのを思い出しました。
なかなか先生の話しを聞かずに、自分の言いたい事ばかり言っている子がいて、どうすれば良いかと悩んでいた。しかし、その子の言っていることをよくよく聞いてみると、「誰かが困っているよ。」と訴えかけていたり、「そんなことしたらみんなが困るからやめようよ。」という意味のことを言っていた。その子はその子なりに、みんなが良くなればよいと一生懸命考えてのうえで言っていたことだったのだ。それは、その子がとっても優しい気持ちを持っているということなんだと気がついた。表面上の姿だけを捉えて、話しを聞かないからダメだと決めつけるのではなく、その子の心にまで想いを運んで見てあげることが必要なのだと思った。そういう視点でその子を見ると、今まで「どうして話を聞けないのだろう?」と、どちらかというとネガティブにとらえていたその子のことが、「なんて優しくて一生懸命な子なんだろう」と思えるようになった。そして、子どもに話しを聞きなさいというばかりで、自分自身は子どもの話をどれだけ真剣に聞いているのかと、自分自身を振り返った。

大人は、ついつい、子どもたちの好ましくないと思うところばかりが目について、どうしたら良くなるのかなと考えがちです。100点を目指して、足りない部分、マイナスを埋めようとしてしまいそうになります。どうして減点法で見て足りないと思うところ足そうとしてしまうのでしょうか。自分自身がいつも100点取ることが一番良いことだと思って育ってきたのでしょうか。マイナスばかりを見るということは、その子のプラス、良いところがだんだん見えなくなってくるということのように思います。

もちろん、良いところばかりを見て、その他を見なくても良いと言っているのではありません。子ども全体をしっかりと見つめながら、重点を置いて見るのはどこかをよく考える必要があると思います。

足りないところを外から引っ張って伸ばすのではなく。足りないところがあるなら内側からそこが膨らんでくるようにすることが大切なのではないでしょうか。いつも、ここが足りないあそこが足りないと引っ張ろうとばかりすると、かえってしぼんでしまわないでしょうか。

おとまり保育 〜ファンタジーの世界〜

2013/07/29

火の神様から火を頂いて、無事に点火されたキャンプファイヤーを囲んで、子どもたちが楽しんでいるところに、遅れて現れた私を見つけた子どもたち。口々に、「園長先生、あんな、あんな、火の神様が来はってん!」「みんなでお願いしたら火をつけてくれはったんやで」「めっちゃ嬉しかったわ」と告げてくれます。どの子も誰かに聞いてほしくてしょうがないという感じです。

「ほんま、ありがとうやわ」「火の神様ありがとう」火の神様に火をもらったことを私に伝えることで、点火の瞬間を思い出し、火の神様のことを考えたのでしょう。「火の神様は、どこから来はったんやろう?どこに帰らはったんやろう?」と話し合っていました。
月の近くに飛行機雲のような雲があるのを見つけて、「あのロープにつかまって、お月様まで帰らはったんやろか」「まだ、近くで見たはるかもしれへんで」火の神様の話しは尽きません。何度も「火の神様が火をつけてくれはって良かったなー」「火の神様ありがとう」ということばが出てきます。毎年、火の神様に火をもらってキャンプファイヤーをしていたのですが、これほどまでに感動して、いつまでも「火の神様ありがとう」と言っている子どもたちは初めてです。しかも火の神様についての想像がどんどん広がってゆきます。キャンプファイヤーが終わって園に帰る途中にも、火の神様の話しをしていましたし、お布団を敷いて寝る直前も、「窓の外に火の神様の足が見えた」とか「さっき帰っていかはったんと違う」と話しは尽きないのです。

そんな子どもたちを見ていて、なんてピュアで素直で、ファンタジーの世界を遠く、深くまで旅することができる力を持った子どもたちなんだろう。この子たちってなんてすごいんだろう。と思いました。そう思ったら、いつもにも増してこの子たちがいとおしく思えてきました。

おとまり保育から1週間が過ぎた今でもあちこちで「火の神様が来てくれはったんやで」という声が聞こえてきます。

おとまり保育 〜キャンプファイヤー 2 〜

2013/07/28

キャンプファイヤーの火をもらいたくて、火の神様を呼び出して一生懸命にお願いする子どもたち。しかし、今年の火の神様は、すんなりとは火をくれません。神様の出す課題をクリアしないとならないのです。

最初の課題、「最近朝の集まりで歌っている『海賊の歌』を歌え」と神様の声が響きます。子どもたちは、毎日歌っている歌なので、大きな声で歌ってクリア。

2つ目の課題は「保育園の前にいらっしゃるお地蔵さまは何人(体)か答えろ。」だったのですが、子どもたちはすんなり「6人」と答えていました。毎日見ていても、いざ細かなところまで尋ねられると答えられなかったりすることがありますが、子どもたちはちゃんと答えていました。

3つめは、「毎朝お参りの時に唱えている『三つの誓い』を言ってみろ」というものでした。もちろん子どもたちは、毎日唱えているのですんなりと唱えられるのですが、今年の火の神様は、「ひとつひとつがどういう意味か説明しろ」などと無理難題を出してきます。それでも子どもたちはなんとか答えていました。

さあ、やっと火がもらえると思ったら、またまた火の神様から、みんなで心を一つにして「火をください」と祈るようにという指示が来ます。子どもたちは一生懸命に「火をください」と祈ると、ようやく神様のお許しが出て、火がいただけることになり、みんなでカウントダウンです。「5、4、3、2、1、0」

「ボッ!」という音と共に、組み上げた薪が炎を上げました。

誰も火をつけていないのに、燃え上がった薪を見てさすがに子どもたちもびっくり。火の神様の力で火がついた。と喜んでいました。「火の神様ー!ありがとーう!」何度も何度もお礼を言う子どもたちに「さらば」とひとこと残して火の神様は行ってしまったようでした。火の神様は最後まで声が聞こえるだけで、姿は見えませんでしたが、子どもたちひとり一人にはそれぞれの火の神様が見えていたかもしれません。神様が行ってしまったあとも、子どもたちは繰り返し「ありがとう」を言い続けていました。

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