園長ブログ

食糧不足

2013/09/25

「あー!おさるがいる」子どもたちの声が聞こえてきたので行ってみると、猿が一頭、畑のフェンスの上をうろうろしています。まわりに他の猿は見当たらなかったので、群れからはぐれたのかもしれません。かなり大きな猿でした。夕方子どもたちが園庭に出る前だったので、いつも通り園庭で遊ぶのか、猿を用心して室内で遊ぶのかを決めなくてはなりません。しばらくして猿の姿が見えなくなったので、子どもたちは園庭で遊ぶことにしました。野生の猿は特別なことがない限りは人間に近づいて来ることは少ないのですが、園庭に下りてきては困るので、私が畑で監視することにしました。畑に行ってみると。猿は畑の反対側の斜面にある栗の木に登って、一所懸命に栗を食べようとしています。しばらく見ていましたが、猿は栗に夢中です。まだ、熟していないので、食べようにも食べられないのかもしれません。猿も食べるものがないのでしょう。

杉や檜を植林した山が多くなって、野生動物の食料が少なくなっていると言われています。植林されたのは、戦後の拡大造林という政策で天然林が伐採され、有用とされるスギやヒノキを植林することが行われました。こうして雑木や広葉樹が少なくなったことで、動物たちの食べ物がなくなってきたといわれています。そして、たくさん植林がされたものの木材の需要が激減し、間伐や枝打ちなどの作業もされなくなり、新たな森林荒廃が進んだそうです。人間が、いろいろなことのつながりを考える事なく、目の前の自分の都合ばかりを考えてしまった結果かも知れません。

鹿や猿も食べるものがなくては、たまったものではありません。危険を冒しても人間の近くに来るしかないのでしょう。
自然の絶妙なバランスを保ちながら、そのなかで人が暮らしてゆくこと、自然の中で暮らさせていただいていることから発想した方が良さそうです。自然が先にあって、その後に人間がついて行く。謙虚な姿勢を忘れないようにしたいものです。ただし、自然は美しかったり優しかったりするだけではないので、その点も含めて長いスパンで考えられればと思います。

中秋の名月

2013/09/24

放生会は旧暦の8月15日に行われます。旧暦8月15日といえば、中秋の名月です。今年は9月19日、とても良いお天気に恵まれ、お月見日和でした。各メディアでも今年は晴れてきれいなお月様を見る事ができると報じていました。昨年は台風の接近で荒れ模様だったそうです。そんな報道の中で、「中秋の名月が満月になるのは次は8年後」と言われていました。一昨年、昨年、今年と3年連続で満月なのだそうですが、次に中秋の名月が満月になるのは8年後なのだそうです。中秋の名月というより、旧暦の15日は満月だと思い込んでいた私の頭の中は疑問符だらけになってしまいました。ひとつ疑問に思うと、わからないことばかりです。なぜ中秋の名月なのでしょうか。それは、旧暦では秋は7月8月9月の3カ月で8月はそのまん中の月、そして15日はそのまん中の日なので、秋のまん中だから中秋なのだそうです。15日が必ずしも満月にはならない理由には、旧暦一日(ついたち)の決め方、朔(新月)から望(満月)までの日数、朔と望までの実際の日数などがあるそうです。これらの原因が作用し合って実際の満月は旧暦15日よりも遅くなることの方が多く、満月になることのほうが少ないそうです。

せっかくだから、ススキを飾り、お団子を供えてお月見をしようと思い、お菓子屋さんに行ったら、月見だんごは売り切れていました。お月見する人が多かったようです。ほかのお菓子をお供えすることにしました。

雲一つない夜空に眩しく輝く月を眺めていたら、月の光がからだを通り抜けてゆくような気になりました。清らかな光で、心を清めていただけると良いのですが・・・

そう思って月を眺めていたら、心がゆったりしてきました。いつも、目の前のことばかりを狭い視野や短い時間のスパンで見ているのではなく、大きな視野とさまざまな視点、そして過去から未来までの長い時間のスパンで見る事を忘れないようにしないといけない。夜空の月がそんなことを教えてくれたように思います。

放生会

2013/09/23

9月19日は旧暦の8月15日でした。この日にはお寺の行事として放生会が行われ、5歳児たちが参加しました。放生会は殺生を戒め、捕獲された魚や鳥を池や野山に放し、放生の功徳を積むという意味があります。天台大師智顗が猟師が雑魚を捨てている様子を憐れみ、魚を買い取って放生池に放したことに始まったといわれています。

園児たちには、いろいろな生き物がいて、気がつきにくいけれどもみんな繋がっているから、いろいろな生き物がいることで私たちも生きる事ができること。そして、私たちはいろいろないのちをいただいて生きさせてもらっているから、いろいろないのちにありがとうという思いを込めて、魚を放すのだ。と説明しました。

法要が行われている間、子どもたちは静かに参列したあと放生池にいる魚たちに餌をあげに行きました。本来なら魚を放すところですが、池の中にはたくさんの魚がいて、これ以上数が増えるとかえって魚にとって良くないだろうという思いから、代わりに今いる魚たちに餌をあげることで、放生に代えています。

子どもたちは池の近くまで行って魚たちに餌をあげていました。このときは麩を餌がわりに使いましたが、麩をそのまま池に投げ入れる子もいました。そうすると大きな鯉は大きな口を開けて、麩を丸ごと口に入れることができるのですが、小さな鯉や金魚は、何匹かが一つの麩に集まってみんなで食べていました。その様子をじっと見ていた女の子が、しゃがみ込んだと思ったら、麩を小さく割って水面にパラパラとまいていました。きっとこの子は、小さな魚が餌を食べられないのを見て、かわいそうだと思い、小さな魚も食べられるように麩を小さくしてあげていたのだと思います。その優しさが伝わってきて、心が温かくなりました。

声明 4

2013/09/22

「良いあんばい」と言うときの「あんばい」は声明の塩梅(えんばい)と関係があるとわれていると書きました。「ろれつがまわらない」というのは、呂律がまわらないと書きます。呂の旋法か律の旋法かはっきりしない、音階が合わないという意味が転じて、ことばがはっきりしないという意味で使われるようになったそうです。雅楽でも呂律が用いられるので、雅楽からという説もあります。

声明では、ある曲をどれくらいの早さで唱えるかということは明確には示されていませんが、拍子があり、リズミカルに唱える曲も存在します。「序曲」というのが、無拍子の旋律による曲で、拍のない自由なリズムで唱える曲です。一つの旋律の長さ(唱える早さ)は楽譜には示されていませんが、伝承として伝えられていることは、何度も述べてきました。他には「定曲」といわれる拍子を持つ曲もあります。経文の一文字を四拍で唱える「四分全拍子」や二拍で唱える「切声拍子」、他にも複雑な拍子構造を持つ曲もあります。1曲の中に無拍子の「序曲」の部分と拍子のある「定曲」の部分を兼ね備えた「倶曲」というものもあります。また、「破曲」といって「序曲」なので拍子はないのですが、曲の途中で拍子があるかのような部分が現れる曲もあります。

一つの旋律型の長さ(一つの旋律が使用する時間)やある曲をどれくらいの早さで唱えるかということについて楽譜に示されているわけでもないのに、いろいろな拍子があって、しかもそれをみんなで合わせて唱えられるのだろうか。という疑問が湧いてくるのではないかと思いますが、それがちゃんと唱えられるのです。毎回必ず同じ長さで唱えてはいないかもしれませんが、その曲としては合うのです。もちろん、ひとり一人が伝承を受けてそれをマスターしていることは当然ですが、メンバーが一緒にお稽古をすることは必要です。

全てのことを楽譜に表さなくても唱えることができる声明が伝承されてきたのも、察する文化をもつ日本の特徴なのでしょうか。そこまでは言えないにしても、「聞く」ことに重きを置いていることが、根底にあるように思います。

(これまで、述べてきた声明は、天台声明を指します。)

声明 3

2013/09/21

声明を唱えるためには音の高さの他にもいろいろな要素が必要です。音の動きを表す「旋律型」もそのひとつです。高低変化を伴う一連の音の連なりのパターンがいくつもあり、それらの旋律型に「スグ」「ユリ」「ソリ」といった名前がつけられています。例えば「スグ」という旋律型は、一つの音を直線的に引くことを表します。オルガンで一つの鍵盤を一定時間押さえ続けて出てくる音というイメージです。「ユリ」はゆれうごくことで、音の高低変化を小さくつける、音が小さく揺れるようなイメージです。「ソリ」は音が滑らかに高くなり低くなってまた高くなるというような音の動きをします。(音の動きをことばで表すのは難しいですね)このような旋律型がたくさんあって、それらを組み合わせることで、曲が構成されています。ただ、ひとつの旋律型に明確に定められた長さがあるわけではなく、その時の唱え方によって長さが変わるので、1曲の長さも微妙に異なることがあります。しかし、複数の人が同じ旋律を唱えるので、ひとり一人唱える長さ(早さ)が異なれば、バラバラになってしまいますが、実際にはそうはなりません。それは、もともと一つの旋律の長さが伝承として伝えられているという基礎がある上に、その時々に他の人の声を聞いて微妙に調整しているからだと思います。

前にも書きましたが、もともと声明には楽譜はなく、口伝で教えられた通りに唱えるのですが、備忘のためであったり、わかりやすく表現するために「博士(はかせ)」という一種の記譜法が用いられています。現在使われているのは鎌倉時代初期に考えられた目安博士と呼ばれるものの改良型で、音の高さと旋律型が表されています。

ところが、ここには表されない要素がたくさんあります。どれくらいの早さで唱えるのかということもそうですし、塩梅(えんばい)という博士には表されない音もあります。例えば「スグ」という旋律型は1つの音を直線的に引くのですが、オルガンの鍵盤を押さえるように一つの音だけを出すのではなく、少し低い音から出し初めて本来出すべき音まで上がる前倚音や、旋律型を唱え終わるときには終わりの部分を少し高い音にして終わる、後倚音などが付加されます。この塩梅があることで旋律型に深みや味が出るのです。

ちょうど良い加減という意味で「良いあんばい」と言いますが、塩梅とは「あんばい」とも読み、塩と梅酢で調味すること。料理の味加減を調えること。物事のほどあい。かげん。身体の具合。などという意味があります。塩味や酸味がなければ料理は味気ないものになりますし、これらが強すぎると、味が台無しになります。塩梅はほどよく付加するのが良いのです。塩梅は博士には表されませんが、声明曲に重要な役割を果たしています。

声明 2

2013/09/20

もう少し声明について書いてみようと思います。声明を唱えるには様々な要素があり、その一つは音の高さです。十二律といわれる1オクターブのあいだに12の音を配した標準的な音の高さ(平均律ではない)をもとにします。その12の音の名前は次の通りです。

壱越(いちこつ)・断金(たんぎん)・平調(ひようじよう)・勝絶(しようぜつ)・下無(しもむ)・双調(そうじよう)・鳧鐘(ふしよう)・黄鐘(おうしき)・鸞鏡(らんけい)・盤渉(ばんしき)・神仙(しんせん)・上無(かみむ)

その12の音のなかから、宮(きゅう)、商(しょう)、 角(かく)、 徴(ち)、 羽(う)の五音や五声といわれる5つの音を使って曲が構成されます。時に7つの音を使うこともあるので七声ともいわれます。

そして、この5音をどう決めるかに、呂、律、中の3種類の決め方があるのです。これを三種の旋法といいます。

そして、12律のどの音を宮(きゅう)に定めるかでその曲の調子が決まります。壱越(いちこつ)の音が宮(きゅう)であれば、壱越調(いちこつちょう)の曲です。壱越調(いちこつちょう)、律の旋法であれば、宮=壱越、商=平調、 角=双調、 徴=黄鐘、 羽=神仙

ピアノでいうと1オクターブの中に12の鍵盤があります。これが十二律だとします。ある曲を唱えるのに、その中の「レ」「ミ」「ソ」「ラ」「ド」の5つの音を使いますよ。と決めます。別の曲では「レ」「ミ」「ファ♯」(ソ♯)「ラ」「シ」(ド♯)と7つの音を使うと決めることもあります。この5つ(もしくは7つ)の音の決め方に3種類の決め方があるのです。

こうして、その曲の音の高さ、どの音を用いるのかが決まります。

声明

2013/09/19

声明(しょうみょう)とは、仏教の儀式音楽で、経文に一定の旋律をつけて、法要などで唱えるものです。名前の由来は、サンスクリットの「シャブダビドヤ」の訳語です。シャブダとは「音声」「言語」という意味、ビドヤはものごとを明らかにするという意味です。この「シャブダビドヤ」とは古代インドの学問分野である五明(ごみょう)の一つで、音韻学・文学を指す声明、工芸・技術論という意味の工巧明、医学を指す医方明、倫理学を指す因明、自分の宗教に関する内明の5種類の学問分野です。インドで音韻学、文学を表す語が、日本では仏教の儀式音楽という意味で使われるようになったようです。中国では梵唄とよばれていました。

仏教が日本に伝わるとともに声明も伝わってきたのでしょう。天平勝宝四年(752)に修された東大寺大仏開眼供養会は、一万人の僧侶を請して修された大法会で声明が唱えられていました。平安時代になると、最澄と空海が唐より声明を将来したと言われています。空海の将来したものは真言声明として伝わりましたし、最澄が伝えた天台声明は円仁が入唐によって将来した声明によって興隆しました。現在も仏教各宗派で声明が唱えられています。

そうして仏教の儀式音楽として唱えられていた声明は邦楽の源流ともいわれ、邦楽の発展に大きな影響を与えています。

声明はどんな方法で伝承されるのでしょうか。もともと声明は面授口決といって、お師匠様から教えられたように唱えることが基本で、何度も唱えているうちに覚えてゆくものなのです。ですから、楽譜はありませんでした。のちに博士(はかせ)と呼ばれる楽譜に変わるものが考案され、音の高さや旋律型を表すようになりましたが、博士はもともと備忘のために記されたと言われています。五線譜のように時間的経過を表す要素がないので、みんなで唱える時は、うまく合わせる必要がありますが、そこはなんとなく合ってしまいます。声明ではなくても「お経は耳で唱える」と言われるように、まわりの人の声を聞きながら唱えているのです。

楽譜

2013/09/18

コミュニケーションのとり方による伝え方の違いを見ていたのでしたが、しばらく話題がそれて、行事や台風になってしまいました。

日本は世界の中で最も高コンテクスト社会だとアメリカの文化人類学者エドワード・ホール氏は言っています。高コンテクスト文化を持つ社会では、ことば以外の社会的習慣や人間関係などに依存する割合の高く、聞き手に「察する」「文脈を読む」ことが求められることが多く、低コンテクスト文化を持つ社会では、ことば以外のものに依存しない傾向が強く、一から十までことばで説明する必要があり、直接的ではっきりした表現が必要とされるという考え方です。

伝統的な職人技などは、ことばで説明するだけで伝えきれるものではありませんし、それは程度の差こそあれ、洋の東西を問わずそうなのだと思います。

音楽においてもそんな傾向があるかもしれません。園で先生達がピアノを弾くときは、五線譜を使っています。現在音楽、特に西洋音楽を楽譜に表すための記譜法で用いられているのはこの五線記譜法が一般的です。五線の上に音符や休符が並べられ、音の高さや音の長さ、時間的要素を表します。その他様々な記号を用いて、演奏に必要な要素を表しています。歌がある場合は歌詞も付されるでしょう。かなり細かな要素まで決められていて、楽譜が読めれば、演奏ができます。

お寺では、よく声明(しょうみょう)が唱えられます。声明は経文に一定の旋律をつけて、法要などで唱えられるものです。簡単にいえばお経に音楽がついていると思っていただいてもいいでしょう。この声明を唱えるにあたっては、ピアノを弾くときのような五線譜は基本的には用いません。音の高さや旋律を表す博士(はかせ)といわれる印が使われます。これがしっかりと読めれば、唱えられないことはありませんが、音の長さなど時間的要素はそこには表されていません。それでも、みんなで唱える、いわゆる合唱することができます。

日本の文化は、音楽を楽譜に表すにも、すべてを表すことはしないのでしょうか。

自然の厳しさ美しさ

2013/09/17

特別警報がこんなに早く、しかも身近で発令されるとは思いませんでした。朝、ラジオから番組のパーソナリティーのこんな話が聞こえてきました「放送で特別警報が解除されたと言ってしまうと、警戒しなくても良くなったような誤解を視聴者与える。特別警報が警報に切り替わっただけで、引き続き厳重な警戒が必要なことにはかわりはないいので、伝え方には細心の注意を払わなくてはならない。」
それを聞いて、特別警報が発令されたから、特別警報が解除されたから、大丈夫という考えが自分自身にもあったように思いました。警報が発令されたら警戒すべきなのに、その上のランクの特別警報というのができたことで自分の中で警報の重大さの位置づけが下がってしまったのではないかと思ったのでした。

16日の早朝は猛烈な雨風でしたが、時間と共におさまってきて10時頃には雨もほとんど降らなくなり、雲間から薄日も差すようになりました。周辺に被害がないか確認しましたが、幸い大きな被害はありませんでした。あれだけ強い雨が長時間降ったのにも関わらず、ありがたいことです。しかし、普段は水なんてないような所から水が出ていたり、谷の水かさが大幅に増えていたりしています。お寺の職員さんと一緒に危険箇所がないか見て回っていたら、突然大きな音がしたので、山崩れか、倒木かと思って音のした方を見に行ってみたら、直径60センチはある大きな木が倒れて他の木や土砂と共に参道を塞いでいました。つい10分ほど前に私たちが通った所です。もう少し遅かったらと思うとぞっとしました。風雨が収まってからでも、倒木や土砂崩れは起こりうるということを目の当たりにし、台風の猛威はもちろん自然の厳しさを感じました。

今日は台風一過、昨日までが嘘のような美しい青空が広がっていました。自然の厳しさと美しさの両面を改めて感じさせてくれた台風18号でした。

特別警報

2013/09/16

台風18号が近づき、通り過ぎてゆきました。9月15日日曜日の夕方から雨量が多くなってきたり、強い風が、雨を斜めに降らせます。風の強さよりも雨の降り方が気になりました。とにかくすごい勢いです。それでも夜のはじめまでは息をつくように雨脚が強くなったりそうでもなくなったりしていました。ところが、夜が更けてくるにつれ猛烈な雨が絶え間なく降り続くようになってきます。風も強まってくるので、不安が募ります。園の裏山は崩れていないだろうか、何か飛んでいっていないだろうか。木が倒れてこないだろうか、窓ガラスが割れたりしていないだろうかと気にはなりますが、どうしようもなく、ゴーゴーと雨風が暴れる音を聞きながら休みました。目覚まし代わりに使っているスマートフォンから、突然いつものアラーム音とは違う音が響き渡り、緊急地震速報かと思って慌てて飛び起きました。画面には、「緊急速報 大雨特別警報発表5時05分京都府全域に多め特別警報が発表されました。これまでに経験したことのないような大雨になるところがあります。最大級の警戒をしてください(京都府)」とあります。5時7分のことでした。

特別警報は平成25年8月30日に気象庁により運用が開始されました。これまでは、大雨、地震、津波、高潮などにより重大な災害の起こるおそれがある時に、警報が発表されていましたが、これに加えて、警報の発表基準をはるかに超える豪雨や大津波等が予想され、重大な災害の危険性が著しく高まっている場合、「特別警報」を発表し、最大限の警戒を呼び掛けるというものです。特別警報が出た場合、数十年に一度しかないような非常に危険な状況にあります。周囲の状況や市町村から発表される避難指示・避難勧告などの情報に留意し、ただちに命を守るための行動をとってください。とされています。

この特別警報の運用が開始されたときは、「数十年に一度しかないような非常に危険な状態」とあったので、滅多に発表されることはないのだろうと思っていたのですが、まさか1ヶ月足らずで、しかも京都府に発表されるとは、驚くとともに不安になりました。それでなくとも、相変わらず猛烈な雨と風の音が聞こえているので、不安は募ります。窓から外を見てみましたが、暗くてよくわかりません。

10分後に京都市より「大雨特別警報に伴う情報」として、追加情報が送信されてきました。「浸水が想定される区域では2階以上に避難するなど身の安全を守る行動をとってください。」など具体的な内容が追加されています。

明るくなってきたので、外に出てみました。強い雨と風です。谷の水かさが上がり、ものすごい勢いで流れています。時折大きめの石が流れてゆく音が響きますが幸い近くを見た限りは大きな異常はありませんでしたが、私は見に行かなかった鞍馬川はかなり増水していたようです。

特別警報の発令を知らずに周囲の状況を見ているだけでは、不安の度合いは違ったかもしれません。「数十年に一度」ということばが頭の片隅にあるので、木が倒れてこないだろうか。山が崩れてこないだろうかと、とても気をつけながら歩いている自分に気がつきました。

警報は良く発令されるので、どこか「また警報」という感覚になりがちですが、本当は警報でも充分に気を引き締める必要があるのです。特別警報が運用開始されたことで、警報を軽視してしまわないように気をつけないといけないと思いました。

嵐山の被害状況が報道されていましたが、京都市内はじめ府下、全国各地で被災された方にお見舞い申し上げます。

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