大原三千院の前を通り過ぎ、律川にかかる橋を越えると、緑の分厚い絨毯のような杉苔に包まれた勝林院が見えてきます。勝林院は、慈覚大師円仁の弟子で慈覚大師が唐より将来した声明を受け継いでいた寂源上人が、大原魚山流声明の根本道場とし長和二年(1013)に建立しました。
勝林院の山号は魚山といいますが、これは、魏の曹植が空中に梵天の声を聞いて、声明を作ったという伝説の地である中国山東省の魚山にちなんでつけられています。以来、勝林院は声明を研鑽する僧侶で賑わったと言われています。
2013年はちょうど開創一千年にあたり、それを記念する慶讃法要が10月5日から20日までのあいだ奉修されています。
勝林院の現在の本堂は享保21年(1736)に消失し、安永7年(1776)年に再建されたもので、柱や床などはケヤキの木が使われ、外陣の天井には精緻な彫刻が施されています。本尊の阿弥陀如来座像は像髙約2.8メートル脇に毘沙門天と不動明王を脇侍に悠然と座していらっしゃいます。最近、京都産業大日本文化研究所が実施した調査で、仏像内に3体の胎内仏が確認されました。さらに宝蔵からは阿弥陀如来坐像の歴史を伝える「証拠之阿弥陀如来腹内記」の写本も見つかり、京都産業大むすびわざ館ギャラリー第5回企画展「京都大原 勝林院の仏教文化と歴史」にて展示されています。
このご本尊は「証拠の弥陀」と呼ばれています。寂源上人が比叡山より高僧を招き、法華経を講ずる法華八講を行ったところ、好相を表して「中道実相」こそが仏の説かんとしたことであるとあきらかにした「大原談義」、浄土宗の開祖法然上人が専修念仏の功徳によって極楽に往生することを説いたときにも光を放って、その正しいことを証明した「大原問答」という話がもととなって「証拠の弥陀」と呼ばれているそうです。
この勝林院開創一千年慶讃法要には縁のある宗派や団体が、連日慶讃の法要を厳修されます。私が所属する声明の研究会も、勝林院本堂で一座を勤めさせていただきました。