園長ブログ

勝林院

2013/10/15

大原三千院の前を通り過ぎ、律川にかかる橋を越えると、緑の分厚い絨毯のような杉苔に包まれた勝林院が見えてきます。勝林院は、慈覚大師円仁の弟子で慈覚大師が唐より将来した声明を受け継いでいた寂源上人が、大原魚山流声明の根本道場とし長和二年(1013)に建立しました。

勝林院の山号は魚山といいますが、これは、魏の曹植が空中に梵天の声を聞いて、声明を作ったという伝説の地である中国山東省の魚山にちなんでつけられています。以来、勝林院は声明を研鑽する僧侶で賑わったと言われています。

2013年はちょうど開創一千年にあたり、それを記念する慶讃法要が10月5日から20日までのあいだ奉修されています。

勝林院の現在の本堂は享保21年(1736)に消失し、安永7年(1776)年に再建されたもので、柱や床などはケヤキの木が使われ、外陣の天井には精緻な彫刻が施されています。本尊の阿弥陀如来座像は像髙約2.8メートル脇に毘沙門天と不動明王を脇侍に悠然と座していらっしゃいます。最近、京都産業大日本文化研究所が実施した調査で、仏像内に3体の胎内仏が確認されました。さらに宝蔵からは阿弥陀如来坐像の歴史を伝える「証拠之阿弥陀如来腹内記」の写本も見つかり、京都産業大むすびわざ館ギャラリー第5回企画展「京都大原 勝林院の仏教文化と歴史」にて展示されています。

このご本尊は「証拠の弥陀」と呼ばれています。寂源上人が比叡山より高僧を招き、法華経を講ずる法華八講を行ったところ、好相を表して「中道実相」こそが仏の説かんとしたことであるとあきらかにした「大原談義」、浄土宗の開祖法然上人が専修念仏の功徳によって極楽に往生することを説いたときにも光を放って、その正しいことを証明した「大原問答」という話がもととなって「証拠の弥陀」と呼ばれているそうです。

この勝林院開創一千年慶讃法要には縁のある宗派や団体が、連日慶讃の法要を厳修されます。私が所属する声明の研究会も、勝林院本堂で一座を勤めさせていただきました。

人道

2013/10/14

恵心僧都源信が表した往生要集は念仏によって極楽に往生することを説いて浄土教の基礎を作り、その厭離穢土、欣求浄土の思想は様々な影響を与えたといわれています。厭離すべき穢土として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道について書かれています。地獄の一部を紹介しましたが、六道講式でも六道が解釈されています。京都産業大学むすびわざ館での声明公演では、地獄道と人道を唱えました。人道の一部を紹介してみます。

まず、「この身常に不浄にして、雑穢その中に満てり」と、人の身の不浄さを説いています。様々な臓器を皮や膜が覆っていて、中には血や膿が充満し、外に汗などを流出している。こんな人間の体は朽ちた城郭のようだ。ちょっとグロテスクな表現ですが、全くその通りです。そして、「一切の諸々の世間に生ある者は皆死に帰す 盛んなる者は必ず衰ふることあり」と無常を説きます。
そして、人として生まれてくるのは難しく、仏法に遇うことも難しい。条件が整っている今が修行の好機なのに、名誉や利益にとらわれ、欲望に翻弄されて浄き行いをしないでいる。一生は尽きても欲望は尽きない。出家して頭を剃っても心を剃らず、衣を染めても心を染めず、いつも世俗のことばかりにとらわれている。破戒の罪は在家の人より重い。恥ずべし恥ずべし、悲しむべし悲しむべし。
しかし、そういう身ではあるけれども、本来全ての徳は自分の心に備わっているのだから自ら求めれば必ず得られる。だから、念仏して修行しなさい。

なんとも心にずしんと重く響くことばです。取るに足らないものに執着して苦しむばかり、欲望に翻弄されて罪を作るばかり。特に「頭を剃って心を剃らず、衣を染めて心を染めず」の部分を聞くと本当に悲しくなります。

しかし、最後には、「全ての徳は自分の心に備わっているのだから自ら求めれば必ず得られる。」とあり、少し救われる思いがします。とはいっても、安心だけして何もしなければ、あっという間に野辺の煙です。

地獄

2013/10/13

京都産業大学むすびわざ館ホールで行われた声明の公演、今年の演目は「六道講式」(二十五三昧式ともいわれます)です。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の輪廻転生する世界をいいます。ちなみに二十五三昧の二十五は二十五有といって、輪廻転生する生死の世界を欲界・色界・無色界の三つに分け、それを更に25に分けたものです。六道講式は、恵心僧都源信が始めた念仏講会二十五三昧式において二十五有を破する三昧から起こったものであり、その二十五有を六道に約し、六道を解釈した式文を講読することを中心とした法会です。要するに、地獄とは、餓鬼とは・・・と説明するように語ってゆくことが中心になっています。独特の節回しを付した日本語(和文)で語られることが特徴で、「平家琵琶」や「浄瑠璃」「謡曲」などのルーツではないかという説や、後の日本文学に大きな影響を与えたという説もあります。

昨年の演目は「胎蔵界曼荼羅供」の一部を紹介するものでした。胎蔵界曼荼羅供は、胎蔵界曼荼羅を供養する密教法要で、声明曲はゆったりしたものから、リズミカルなものまで、変化に富んだものですが、それに比べたら式文を読むことが中心の六道講式は少し単調に感じた方もあったかもしれません。

「輪廻の世界を彷徨っている間はどんな報いを受けるかわからない。中でも最も忍び難いのは地獄の苦しみ、堪え難いのは餓鬼畜生の報いを受けることだ。三界の獄縛は一つも楽しむべきことは無い。」という前置きがあり、まず、地獄の様相が語られます。地獄には炎が渦巻いており、涼しい風を希っても炎が骨を焦がし、冷たい水を願っても熱湯におぼれる。泣いても涙は落ちないなぜなら猛火が眼に満ちているから、叫んでも声は出ない、鉄の珠が喉に入っているから。など、かなりリアルに表現されています。地獄絵というのがありますが、地獄絵の一部が浮かんで来そうです。
「悪いことをしたら地獄に行く」と昔から言われているのが、妙に心に響きます。

京都産業大学 むすびわざ館

2013/10/12

以前、このブログで声明(天台声明)について少し書かせていただきました。声明を学ぶきっかけは、20年以上前に貴重なご縁で声明の研究会に参加させていただき、皆様からご指導をいただいたことがはじまりです。毎月お稽古を行いながら、声明をいろいろな方々に紹介するため様々な公演に参加しました。チェコ、フィンランド、デンマーク、ポルトガルなど海外での公演にも何度もお供させていただきました。その後、研究会の変遷はありましたが、今でも京都で活動する研究会の一つに参加させていただいています。先日、その研究会の公演がありました。

京都産業大学という大学があります。鞍馬から車で10分ほど、当園に一番近い大学です。京都産業大学は昭和40年、世界的な宇宙物理学者である荒木俊馬博士を初代総長として開学されました。「大学の使命は、将来の社会を担って立つ人材の育成にあり、全世界の人々から尊敬される日本人として、全人類の平和と幸福のために寄与する精神をもった人間を育成することである。」(抜粋)という建学の精神に基づく教育が行われています。2008年に益川敏英博士が、「小林・益川理論」による物理学への貢献でノーベル物理学賞を受賞したときに教授として在籍していたことで、メディアで頻繁にとりあげられていたのを思い出します。

京都産業大学が2015年には50周年を迎えるので、記念事業として京都・壬生に大学と社会を結ぶ「知」の発信拠点となる「むすびわざ館」を開館しました。「むすびわざ」とは「産業」であり、「新しい業(わざ)をむすぶ」 という意味で「むすぶ」は「産(む)す」という語源を持つことから、「産み出す」をも意味し、新しい業(わざ)、価値、そして人材を産み出す、その先駆けを担うのが「むすびわざ館」の使命だそうです。

そのむすびわざ館にはホールがあり、そのホールで声明公演が行われました。昨年の第1回目の公演に続き、今年は2回目の公演になります。

むすびわざ館ギャラリーでは、9月3日(火)から10月20日(日)のあいだ、第5回企画展「京都大原 勝林院の仏教文化と歴史」が催されており、企画展と連動して講演会「大原勝林院一千年の祈りと法然上人」 と第2回「天台聲明の調べ」が開催されたのです。

めざすもの

2013/10/11

保育園は何をするところなのか、いつも原点にかえって考え直すことが必要だと思います。

当園の理念は「みんなのいのち輝く保育園」です。

「すべてのいのちが輝く世界」、みんながそれぞれに、自分らしく、いきいきと生きること、みんなのしあわせのために自分なりの方法で貢献できる。そうすることがしあわせだとみんなが感じられる。そんな世界になることをめざして保育してゆきたいと考えています。みんながしあわせでいられる社会になってほしいと思って、そのために自分のできる事を一所懸命に行うことができる。今、目の前にいる子どもたちがそんな人に育ってほしいと願っています。

子どもたちには、自信を持って自ら判断し行動できる。自分の想いを素直に伝える。相手の想いを全力で受けとめる。いろいろなことを素直に喜べる。自分は自分で良いし、友だちは友だちで良い、それぞれがそれぞれで良い、みんなステキなところを持っていると思える子どもに育ってほしいと願っています。

よく考えてみると、これは子どもをそう育てるというだけのことではなく、私たち大人が「自分自身いつもこうあるのか」という問いかけでもあるのです。自分自身こうあること、少なくともこれに向かって努力することが求められているのです。

いつも、この自省を怠ることなく、大切にしてゆきたいのは、大人が一斉画一的に教え込むのではなく、子どもが自ら考え試行錯誤することで学ぶことですし、その前に、できるようになりたい、学びたい、挑戦したいという意欲がなくては学びはありません。意欲に繋がる興味関心はひとり一人異なるので、それぞれの興味関心を刺激するような環境を用意することです。

もう一つは、子ども同士の関わりの中で育つことを大切にしたいということです。大人が、ああしなさいこうしなさいと言うよりも、他の子をを見たり、子ども同士で教え合ったりすることで、学ぶことの方がずっと大きいのです。子ども同士の関わりを大切にしたいのは、子どもたちはそこから、いろいろな人が共に生きてゆく社会を学ぶからです。

子どもたちが、今を最も良く生きることが、未来をしあわせに生きる事につながるのです。

保育園の役割 2

2013/10/10

保育所保育指針総則の保育所保育の目的には、「保育に欠ける子どもの保育を行い、その健全な心身の発達を図ることを目的とする児童福祉施設であり、入所する子どもの最善の利益を考慮し、その福祉を積極的に増進することに最もふさわしい生活の場でなければならない。」とあり、その解説には「子どもの最善の利益」と「最もふさわしい生活の場」について取り上げられています。

子どもの側から保育園の役割を考えてみると、子どもにとって家庭と保育園の違いはなんでしょうか。

最も大きいのは、子ども同士が関わることのできる子ども集団という環境の有無ではないでしょうか。少子化が進んだことや子どもたちの遊び方の変化などの影響で、子どもが地域で群れて遊ぶ姿があまり見られなくなりました。私が子どもの頃は、幼児から小学生くらいまでの子どもたちがよく外で遊んでいました。遊びの内容によっては自然といろいろなグループに分かれるなどしていたように思います。こういった異年齢のいろいろな子どもが同一集団の中で入り交じって遊ぶというのが、普通に見られる光景だったのではないでしょうか。その中で、子どもたちはそれぞれに自分の役割を果たし、相手の立場や気持ちに心を運び、相手を思いやり、自分の意見を述べながらも、折り合いをつけてゆくことなど、人との関わり方を学ぶのです

ところが、地域にそういった環境がなくなってしまった現代では、地域の遊び場が果たしていた「様々な子どもが関わって遊ぶ」環境を提供することが、保育所の役割、しかもかなり重要な役割となっているのだと思います。子ども同士の関わりの中でこそ子どもは育つのです。そして人と関わる力を養ってゆくのです。

子どもが様々な人と出会い、関わり、心を通わせながら成長していくために、乳幼児期にふさわしい生活の場を豊かにつくりあげていくことが重要であり、そうした役割や機能が今日、保育所にはますます求められているといえるでしょう。 (保育所保育指針解説)

保育園の役割 1

2013/10/09

保育園はなんのためにあるのでしょう。児童福祉法第39条には「保育所は、日日保護者の委託を受けて、保育に欠けるその乳児又は幼児を保育することを目的とする施設とする。」とあります。保育に欠けるとはどういうことなのでしょうか。

児童福祉法施行令には、次のようにあります。

1. 昼間労働することを常態としていること。
2. 妊娠中であるか又は出産後間がないこと。
3. 疾病にかかり、若しくは負傷し、又は精神若しくは身体に障害を有していること。
4. 同居の親族を常時介護していること。
5. 震災、風水害、火災その他の災害の復旧に当たつていること。
6. 前各号に類する状態にあること。

両親がこれらの状態にあって、子どもを保育することができず、同居の親族なども保育できない場合に保育を行うということです。
当然と言えば当然のことですし、何らかの理由で子どもを保育できない保護者に代わって保育をするのは保育所の最も大きな役割の一つです。保育所の役割を言う場合、就労支援など保護者にとっての機能、保護者サポートという側面について言われることが多いように感じます。
もちろん保護者支援は大切なことなのですが、主役は子どもです。子どもがより良く育つために、保護者を支援するのです。

保育所保育指針の第1章総則には「趣旨」に続いて「保育所の役割」が(1)保育所保育の目的 、(2)保育所の特性 、(3)子育て支援 (4)保育士の専門性の4つの観点から記されています。その中で、(1)保育所保育の目的にはこう書かれています。

(1)保育所は、児童福祉法(昭和22年法律第164号)第39条の規定に基づき、保育に欠ける子どもの保育を行い、その健全な心身の発達を図ることを目的とする児童福祉施設であり、入所する子どもの最善の利益を考慮し、その福祉を積極的に増進することに最もふさわしい生活の場でなければならない。

そして、この部分の解説では、「子どもの最善の利益」と「最もふさわしい生活の場」
について取り上げられています。

「子どもの最善の利益」とは、子どもの権利条約に定められた概念で、保護者を含む大人の利益が優先されることへの牽制や、子どもの人権を尊重することの重要性を表しています。その子どもの最善の利益を守り、子どもたちを心身共に健やかに育てる責任が保育所にあるのです。

保育指針にあるように、子どもの側から保育所の役割を考えたいと思います。

関係性

2013/10/08

人と人が関わる、社会の中で生きるようにできている。長い進化の過程でそのことが遺伝子に組み込まれているのなら、どのような社会であると良いのでしょうか。人間同士の関係でいえば、ひとり一人違う人と人が、それぞれ違うままにお互いに認め合い、助け合い、自分の特長や得意なことを活かしてみんなのしあわせに貢献できることではないかと考えています。「みんながしあわせになれる」といえるでしょうか。

子どもたちが毎日唱えているお祈りのことばのなかに「私たちはまごころをもって世につくす人となる」ということばがあります。誰かを批判や否定するのではなく、まして蹴落とすのではなく、助け合うことができる。そんな社会だといいなと思います。

人間同士だけではなく、ありとあらゆる生き物との関係も、生物に限らず非生物との関係も、全てがわかるわけではありません、というより、わからないことの方が多いのですが、どこかで繋がっているのではないかと意識しながら日々を暮らしてゆけると良と思うのです。よくつかわれることばで表せば「共生」ということでしょうか。

そのために、子どもたちに何が必要なのでしょうか。先ず、その子がその子としてそのまま認められることです。そして、もともと持っている豊かな探求心に従って、自発的に主体的に思う存分世界と関わる事だと思います。そのために保育園は、まず子どもにとって居心地の良い場でなくてはなりません。子どもが安心して心も身体もすこやかでいられ、自分を思う存分発揮して認められる場であることが必要です。

保育者は、どんな子どもも受けとめ、共感し、寄り添う。自分がその子になったつもりでその子のことを想う。そのうえで、ひとり一人の子どもの探求心を刺激する環境を用意したり、不思議だな、なぜだろう、と思えるような声がけやきっかけ作りをしたりすることで、子どもたちが自発的に環境に関わる機会を提供してゆきます。そして、ちょっと困ったときや不安になった時にはいつでも戻ってきて安心できるよう、いつも見守っている存在でいる。子どもが何かを指さしたとき、「あれ見て。」といったときに子どもが見ているものと同じものを一緒に見る事ができるように見守っていることです。そしてその背景には、子どもを丸ごと信じる姿勢が必要となってくるのです。

そんな環境の中で子どもたちが自分を発揮していきいきと活動することで子どもの自己肯定感が育ち、自信を持つことができるのだと思います。

関わる

2013/10/07

人類は社会を構成するという戦略をとることで繁栄してきたといわれています。社会を構成するために、人は赤ちゃんのうちから様々なことを学びます。9月に満1歳になったお子さんが入園してきました。初めての環境にきょろきょろもして、いろいろなことに興味を持っているのがわかります。一番よく見ているのは発達の近いお友達の姿です。もちろん、自分より少し発達が進んだ子やずっと年上の子も見ます。そして、いろいろな大人の姿も見ます。こうして、いろいろな人が周りにいる環境が大切なのです。そしていろいろな人と関わることによって、世の中にはいろいろな人がいる事を知るのだと思います。また、自分の発達に必要な人と関わろうとするのです。ですから、いろいろな人と関わることができる環境、特にいろいろな子どもたちが関わりあえる事のできる環境が必要なのです。そういうと、赤ちゃんはお互い関わることはないという声が聞こえてきそうです。もちろん関わるということばの定義にもよりますが、ただ、見ているだけでもある種の関わりを持っていることになると思います。見る相手がいなければ、真似をすることもできません。

前にも書きましたが、赤ちゃんが興味を示すのは人間の顔に似た形です。顔が好きなのか、逆三角形の配置が好きなのかという議論はあるようですが。 ・_・ のような形を好んで見ることがわかっています。また、赤ちゃんは視力が発達していないので、全てのものがぼやけて見えているのですが、人間の顔に加えて、その人がどこを向いているのか、その視線を見分けることができるそうです。人の顔や視線に興味を持つということは人との関わりを築いてゆこうとしているということです。それは本能的なものなのです。

また、こんな実験をテレビで見たように思います。目の機能は問題ないにもかかわらず脳の視覚野を損傷したことで、見る事ができなくなった人に、いろいろな画像を見せると、人の表情だけは見分けることができるのだそうです。他のものは見えないのに人の顔だけは見えるのです。人の顔や表情は視覚や意外の所でも認識しているということなのでしょう。

人の顔や表情は私たちにとってそれほど大切な情報なのです。それは、人と人の関わりが大切だということを意味しているのだと思います。人と人の関わりが大切なのは社会を構成する必要があるからです。

子どもは未来

2013/10/06

先日、園児の祖父母をお招きして祖父母会を行いました。祖父母の皆さんにご来園いただいて、子どもたちと楽しい時間を過ごしていただくという企画です。祖父母の皆様にはご自身のお孫さんだけではなく、他の園児ともふれあってほしいのですが、園児数が多くなって、それも難しくなってきました。

最初は、いつものように子どもたちと一緒にお参りするところから始めます。子どもたちはうれしさで、そわそわすることもなく、一所懸命にお参りしていました。普段はあまりお参りをしていない0・1・2歳児も一緒です。

お参りの前、子どもたちの準備ができるまで少し時間があったので、ご参加いただいた祖父母や保護者の皆様に少し話をしました。「お孫さん達にどんな大人になってほしいですか。」から切り出して、私たちはなんのために、何をめざして保育をしているのかということを伝えさせていただきました。一人でも多くの方にと価値観を共有できたらと思ったからです。

子どもは未来です。あたりまえのことですが、今保育園で過ごしている子どもたちが、未来を作ってゆくのです。では、私たちは子どもたちがどんな未来を創造することを願うのでしょうか。私たちが願うのは「すべてのいのちが輝く世界」です。人間に限っていえば、どんな人でもいきいきと生きることのできる社会と言っても良いでしょう。みんなが様々な違いを認め合い、力を合わせて、生きることができる社会を作る、より良い社会人(社会を構成する人)として育ってほしいと願います。
もっと広くいえば、この地球上に生きているのは人間ではなく、あらゆる生物が生きていて、それぞれに繋がり合い、関係し合うことで成り立っているのです。全ての関係性がわかるわけではありませんが、みんなが繋がり合う、みんなが助け合うことで生きているということ、いろいろな生き物がいるから自分も生きてゆく事ができるのだということは、いつも忘れずにいたいと思うのです。

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