園長ブログ

恐竜博物館 3

2013/11/14

恐竜博物館の展示はとても充実していました。1階の展示室は「恐竜の世界」と「地球の科学」がありましたが、「地球の科学」の展示を見たいと思いながら、恐竜の世界に引き込まれて、見るのを忘れてしまいました。調査研究の成果を一般の人にもわかりやすいように展示にもとても工夫が凝らしてあります。恐竜の全体骨格や化石標本とともに生きていた頃の姿や生活がわかるように再現されたジオラマは大迫力です。ドーム状の建物の内壁に風景が投影された中に植物や枯れ葉まで環境が再現され、そこに大きな恐竜たちがいて、少し動いています。フロアのまん中にいたティラノサウルスもそうですが、動きがとてもリアルです。

「ダイノシアター」は3メートル四方くらいの大きな2つのスクリーンが対面して設置されていて見学者は2つのスクリーンの間で映像を見ます。スクリーンには恐竜が生きている様子が精緻なCGで映し出されます。対面しているスクリーンが連動しているので、左側のスクリーンからこちらに向かって突進してきた恐竜が頭の上を跳び越して右側のスクリーンに移動してゆくようで、とても迫力があります。

ダイノシアターからジオラマに見とれながら、通路をゆっくりと進んでゆくと、いつの間にかに2階にたどりつきます。長いエスカレーターで下りてから、2階に上がってくるまで約1時間、ちょっと急いで見てしまったのでじっくり見たという感覚はなく、1階の「地球の科学」コーナーは見るのは忘れてしまっていたくらいです。それでも1時間かかりました。

詳細な調査研究でわかったことを最新の技術や機器類も駆使して、いろいろな人にわかりやすく示す様々な工夫が凝らされていることが感じられました。まるで、恐竜の生きていた頃にタイムスリップしたかのように感じられるジオラマなどは柱のないドーム型の建物だからできたことなのでしょうし、球状の建物の内壁に映し出された風景に奥行きが感じられたこともより臨場感を高めてくれると思いました。細部にまでこだわることが、人の心を惹きつけるのでしょう。

恐竜博物館 2

2013/11/13

   カマラサウルスの全身標本

遠くからでもそれとわかる、銀色に光り輝くドームのような外観の建物。大きな恐竜のタマゴなのかと思ってしまいます。エントランスを一歩入ると、地中深く潜ってゆくように続く長いエスカレーター。トップライトからふりそそぐ光に包まれてエスカレーターに乗っていると、時計を逆さに回して、恐竜の生きていた時代に向かってタイムスリップしているかのような感じがしました。エスカレーターを下りたところで、大人用と子ども用の音声ガイドを借りて先に進むと、そこはダイノストリートと呼ばれる通路で、両側の壁には化石標本が芸術作品のように並べられています。ところが標本と標本の間に何かの機械が突き出ているのです。機械ものが気になる私としては、

 動くティラノサウルスがお出迎え

化石標本よりそちらが気になってしかたなかったのですが、それは天井に古代の海中の様子を映し出すためのプロジェクターのようでした。天井を見上げると古代の海底を歩いているように感じられる演出のようです。

ダイノストリートを抜けると、ほぼ全身の骨が保存されてるカマラサウルスの全身標本が発掘途中のような姿で出迎えてくれます。これを俯瞰するように階段を上がると、そこは「恐竜の世界」ゾーンです。40体以上もの恐竜全身骨格が展示されていて、まさに恐竜だらけです。その上リアルに再現されたジオラマや、動く恐竜もたくさんいます。あまりにもたくさんあるので、何が何だかわからなくなってしまいそうです。しかし、研究の成果がとてもわかりやすく解説、展示してあるので、じっくりと見ることができれば、とてもおもしろいと思います。「どんな声を出したの」という展示では、恐竜の聴覚器官や発声器官をその化石から研究して実際に出したであろう声を推測して示してありました。これらの膨大な数の充実した展示は、長径84m、短径55m、高さ37.5mという巨大な空間の中にあるのです。しかもその空間には柱がありません。音声ガイドを聞きながら、進んでいたら建物についての説明がありました。設計は黒川紀章さんでした。恐竜のタマゴのように見えるが、そのイメージではなく、柱のない大きな空間を作るために、このような形になったそうです。

いろいろな意味で充実している博物館だと思いました。

恐竜博物館

2013/11/12

  新しくても懐かしい感じの勝山駅

ゴトゴトと走るえちぜん鉄道の車両にゆられること約1時間、「左側に流れるのが、九頭竜川です。」というアテンダントの案内に窓の外を見ると九頭竜川の流れが目に飛び込んできました。目線を上に移すと、山の麓に銀色に光る大きな丸いドームのような建物が見えます。福井県立恐竜博物館です。以前スキージャム勝山というスキー場に行ったときに、山の上から見て知ってはいましたが、どこから見ても目立つ建物です。

しばらくして勝山駅に到着、駅前で客待ちしているタクシーはなかったので、駅員さんに教えていただいてタクシーを呼びました。

   3階回廊から眺める展示室

運転手さんによると恐竜博物館へ向かう道路は休日には渋滞するのだそうです。やはりたくさんの人が訪れるのです。博物館に着いたのは11時近かったので、入館までに少し並びました。次から次へと人が集まってきます。しばらく待って入館すると、そこは3階になっています。ミュージアムショップ、レストラン、ライブラリーなどで構成されていますが、入口とは反対側に行くと下の階に広がる恐竜たちの展示が目に飛び込んできて、わくわくします。

博物館の入口は3階になっていて、展示室へは長いエスかエーターで一気に地下1階まで下りますが、3階の回廊のようなフロアから、下を眺めるとエスカレーターや階段で各階へのアクセスできるようになっているのですが、その空間を構成する微妙なアールと直線がマッチしたデザインがとても美しいのです。広角レンズで写真を撮るとおもしろそうだと思いました。

いよいよ長いエスカレーターに乗って、地下1階に向かいます。ふとエスカレーターから見上げると、天井からそびえる楕円錘形のトップライトが目を引きます。エスカレーターに乗って動きながら見ると、見え方が微妙に変わっておもしろいのです。ついつい上ばかり眺めていたら、いつのまにかエスカレーターの終点に近づいていました。

とてもステキに演出された空間だったので、誰の設計なのか気になりました。

                                                           

えちぜん鉄道

2013/11/11

福井県立恐竜博物館を訪れました。夏頃から子どもに連れて行けとせがまれていたのですが、なかなか時間がとれなくて実現することができませんでした。しかし、どこかで思い切らなくてはずっと行くことができないだろうと思い、なんとか予定をやりくりしました。車で行くと予算的にも安価ですし、時間的にも列車で行くのと変わらないのですが、どうも渋滞しそうだったので列車を使ってみました。京都駅からサンダーバードで福井まで行き、えちぜん鉄道に乗り換えて勝山まで、その先はバスかタクシーです。

えちぜん鉄道には初めて乗りましたが、なんともいえずローカルな雰囲気がステキでした。ゴトゴトとゆっくり走ってゆく様子や木々の間を抜けてゆく感じが、どこか鞍馬と出町柳の間を結ぶ叡山電鉄に似ているように思います。一両編成で運行する車両には、アテンダントと呼ばれる、女性乗務員さんが乗っていて、車内放送をはじめ、乗客の質問に答える、案内をする、乗降のアシストをするなど様々な乗客サービスをしていらっしゃるのが新鮮でした。今年10周年を迎えたということだったのですが、駅の設備の一部に歴史が感じられたり、レトロな雰囲気があったりしたので、ちょっと気になりました。

調べてみると、えちぜん鉄道は福井市・勝山市などが出資する第三セクター方式の鉄道なのですが、以前、京福電気鉄道が福井県下で運営していた越前本線・三国芦原線を京福電気鉄道の撤退に伴い、引き継いで運営するために設立されたそうです。
道理で途中の駅にレトロな感じが残っていたりするのですね。

京福電鉄といえば、以前、鞍馬、出町柳間の鞍馬線と八瀬、出町柳間の叡山本線を運営していた会社です。1980年代に子会社叡山電鉄を設立し、分社化しました。現在、京都では、四条大宮、北野白梅町と嵐山を結ぶ、通称嵐電と叡山ケーブル、ロープウエイを運営しています。以前運営会社が同じだったことは関係ないとは思いますが、えちぜん鉄道と叡山電鉄は雰囲気がどこか似ていると感じました。

えちぜん鉄道のアテンダント、運転手さん、駅員さんなどスタッフの皆さんがきちっとした制服を着用していらっしゃることが、とてもさわやかで上品な感じがして、駅などの設備のレトロ感と相まって好印象でした。アテンダントの方に、皆さん服装に気をつかっていらっしゃるのですかと尋ねたら、10周年を迎えたのを機に制服が新しくなったのだと教えてくださいました。みだしなみといいますが、大切なことですね。

ヒーロー

2013/11/10

アンパンマンは正義のヒーローです。正義のヒーローというと、強くて悪者をやっつけるかっこいい存在というイメージがありますが、アンパンマンは全く違います。顔を食べさせれば弱くなるし、顔が濡れると力が出ません。そんなときはジャムおじさんに顔を取り替えてもらわないとだめなので、「ジャムおじさんを呼んで」と泣いちゃったりすることもあります。作者のやなせたかしさんはそんなアンパンマンを世界最弱のヒーローと呼んでいます。

テレビの番組には子ども向けのヒーローものがたくさんあります。たいてい戦うのが強くて悪者をやっつけるというストーリーが展開します。ところが、アンパンマンはいざというときは強いのですが、弱いときもあります。いつも強くてよりも、なんかその方が親しみが持てるように思います。いつも強い人なんていませんものね。普段は普通の人だけれども、いざとなったら誰かのために強くなって誰かを助けるのです。

いつもアンパンマンにやられてしまうばいきんまんも、どことなく憎めない、というよりもかわいらしいキャラクターだと思います。「アンパーンチ!」とアンパンマンにやられて「はひふへほー!」と飛んでいってしまいますが、次にはまた登場していたずらをする。結構どぎついいたずらもしますが、なぜかあまりいやみが無く、アンパンマンと良いコンビという感じがするのです。

一つは「正義ってなんだろう?」ということです。勧善懲悪を否定するわけではありませんが、正義は立場が変われば変わりますし、時代が変われば変わることもあります。もちろん変わらないこともあります。やなせたかしさんは、飢餓は誰にとっても最大の危機で、おなかがすいて死んでしまいそうな人を助けることは、誰にとっても正義なのではないかとおっしゃっています。だからアンパンマンの正義はおなかのすいた人を救うことなのだそうです。

やなせたかしさんのことですから、もっと深い意味が込められていると思いますが、アンパンマンのことを書いていたら、こんなところに思いが広がりました。

歌詞

2013/11/09

アンパンマンの主題歌にアンパンマンのマーチというのがあります。この歌詞もよく聞くと心に響く内容です。少し抜粋してみましょう。

そうだ うれしいんだ  生きるよろこび  たとえ 胸の傷がいたんでも

今生きていること、そのことだけでうれしい。ありがたい。というメッセージに聞こえます。生きているといやなことや辛いこともたくさんあるけれど、それを「ありがとう」と言って良いことにしたいですね。そんな心の力をいつも持つことができたら、幸せなのではないでしょうか。

なんのために生まれて なにをして生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ!

なんのために生まれて、何をして生きるのか?そんな中学生の悩みのような青いこと・・・なんて思いそうになりますが、自分はなんのために生まれてきたのか、何が自分の使命なのか、自信をもってはっきりと答えられるでしょうか。今、自分がここに生きているということは、両親その両親、ご先祖様がいらしたからです。大げさな言い方かもしれませんが、長い人類の歴史を背負って生きているのです。そんな時間軸でつながる縦のご縁と、今を共に生きる様々な人々のおかげ、人間だけに限らずあらゆるものとのつながりの中で生きている。そんな横のご縁があってはじめて、今ここに生きています。そんな様々なご縁のおかげで頂いた自分のいのちをどう生きるのか、どう使うのかよくよく考え、本当にそう生きているのか、いつもふりかえる必要がありそうです。

なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ わからないままおわる そんなのはいやだ!

幸せってなんでしょう?自分が心から素直に喜べることはなんでしょう?何に価値をおいて生きていますか?と問われているような歌詞です。幸せはそれぞれの心の中に生まれます。同じ状況でも、幸せと感じられる人と、不平不満ばかり言っている人とでは幸福感は全く違うでしょう。また、幸せは他との関係のなかで生まれます。自分自身が何かの役に立つこと、なにをもって誰かの役に立つことができるのか、そんなことが幸せに関わっているのではないでしょうか。

この歌詞は、迷ったときや辛いときに勇気を与えてくれます。作詞されたのは、アンパンマンの産みの親である、やなせたかしさんです。アンパンマンがおなかをすかせた人に自分の顔を食べさせることも、この歌の歌詞もとても心に響きます。やなせたかしさんの深く熱い思いがつまっているのだと思います。

やなせたかしさんはやなせたかしさんは、10月13日ご逝去されました。心よりご冥福をお祈りします。

菩薩行

2013/11/08

初めてアンパンマンを知った時、自分の身を捧げて相手を助ける。子ども向けアニメのヒーローがそんなキャラクターだというのは、驚きました。

仏教の経典の中には、さまざまな前世の因縁、特にお釈迦様の前世の物語を説いた本生譚(ほんしょうたん)と呼ばれるものがあります。施身聞偈や捨身飼虎という話は、法隆寺の玉虫厨子に描かれていることで有名です。

施身聞偈はこんなお話です。雪山童子が山中で修行をしていると、「諸行無常、是生滅法」と称える声が聞こえました。声の方を見ると羅刹(鬼)がいたので、この句の後半を教えてほしいと羅刹に頼むと、羅刹は「お前を食わせてくれるなら教えてやろう」と言います。童子は羅刹に食べられる覚悟で後半の「生滅滅已、寂滅為楽」を聞きます。そして、その句の意味を深く味わい岩にその句を刻み、約束どおり我が身を与えようと崖の上から飛びおります。そのとき、羅刹は帝釈天の姿となり、空中で雪山童子を抱きとめてくれたというお話です。

また、捨身飼虎は、薩埵王子が、飢えた虎とその子のためにみずからの身を投げて虎の命を救ったというお話しで、雪山童子も薩埵王子もお釈迦様の前世の姿だといいます。自らの命を賭けてまでも法を求め、困っている者を助けるのです。

アンパンマンが自らの顔を食べさせる姿が、これらの話と重なって思えたのです。

このほかにも、経典には、身命を惜しまず悟りを求めて勇猛に修行する菩薩の姿がたくさん描かれています。菩薩とは自らは悟を得る事ができるのだけれども、一切衆生が悟りを得るまでは自分も悟りを得ないという誓いを立てて一切衆生と共に悟りを目指し、みんなが悟りを得るまで修行しつづけるのです。この菩薩の修行で大切なものとして他者に施す「布施」ということがあります。

アンパンマンは自分の身を削って、おなかをすかせた人に施す菩薩行を行なっているじゃないかと思いました。

アンパンマン

2013/11/07

アンパンマンは子どもたちに大人気のキャラクターです。アンパンマンがいつ頃生まれたのかと思って調べてみたら、その原型作品は1969年の『PHP』に掲載されたそうです。そのときは人間の顔をしていて、顔があんパンになったのは、1973年にフレーベル館の『キンダーおはなしえほん』に掲載された「あんぱんまん」からです。1988年から日本テレビ系列で「それいけ!アンパンマン」がテレビアニメとして放映されはじめ現在まで続いています。

私が初めてアンパンマンを知ったのは、まだ学生の頃だったと思います。その頃、お茶のお稽古に毎週先生のお宅に通っていたのですが、お稽古をしていると、先生のお孫さんが見ていた「それいけ!アンパンマン」の音声が聞こえてきて、ついついそれが気になって、お点前がおろそかになってしまっていたことを思い出します。

最初はなにかかわいらしいアニメを見ているんだなと思っていたのですが、耳に入ってくる音はどうも聞き入ってしまうので、聞いていると。アンパンマンが「おなかがすいているんだね。ぼくの顔をお食べ」といった意味のことを言っていたのです。その台詞に軽いショックを覚えました。自分の顔を食べさせるとはどういうことなのだ。しかも子ども向けのアニメで、主人公のキャラクターがそんなことを言っているってどういうアニメなのだろうと言うことが気になって、お点前がついついおろそかになってしまったのです。そのあと、絵本だったかアニメだったかでアンパンマンを見たときに、本当に顔がかじられたように欠けていました。どうやら顔を食べさせてあげて顔が欠けると、顔が濡れたときと同じようにアンパンマンの力も減るようですが、それでも自分の顔を食べさせて、力なく飛んで帰るのです。なにかものすごいキャラクターだと思いました。

メロン 5

2013/11/06

メロンを育ててみて、メロンのことを気にかける、今の様子をよく見て何をすることが必要なのか、しない方が良いのかをしっかりと判断して行う事が大切だと教えられたように思います。もちろん、目的はメロンを実らせることなので、人為的といえば人為的かもしれません。しかし、種を蒔きっぱなしで放置放任しておいては、育つことも実らせることもできなくなります。

自然農もそうですが、「自然に」というのは、何もしないで放っておくことではありません。そうすると、育つものも育たなくなります。他の草や虫などまわりの環境が最大限に活かせるように、また作物自身の力がもっとも発揮できるように考えなくてはならないのです。そのためには、その植物のことをよく知る。目の前の植物の今の状態を把握することが最も大切になってくるのです。

子どもだって、適切な時期に適切な環境を用意し、支えが必要なときにはしっかり支えることで育つのです。子どもは自発的に環境に働きかけることで、主体的に育ってゆきます。しかし、大人は何もしない方が良いなどと「子ども主体」を誤解して、子どもが興味を持てるような環境を整えておかないことは、子どもの発達の機会を奪うことになり、全く無責任な話です。逆に大人の思うようにさせようとしていろいろなことを教え込んでも、子ども自身がしたい発達、その子にとって今必要なことと違っていれば、それもその時に必要な子どもの発達の機会を奪うことになります。

今その子に何が必要なのか知るためには、その子をしっかりと見て、その子は今どう思っているのだろうとその子の気持ちに心を運ぶ必要がありますし、それ以前に発達ということを理解している必要があります。その上でその子が自ら関わりたいと思うような環境を用意します。それをするためには、幅広い知識と柔軟な発想、何よりも子どもにとって最も良い育ちとは何か、ひとり一人異なる子どもが平等に発達の機会を得るためにはどうすれば良いのかを常に基本として考え続けなければなりません。

もちろんメロンと子どもを比べるわけではありませんが、メロンの育ちをふりかえっていたらそんなことを連想してしまいました。ごめんなさい。

メロン 4

2013/11/05

メロンで作る特大リースはうまくできませんでしたが、メロンの生命力を感じると同時に、自然はなかなか思うようにはならないものだということ、思いのかけ方と手のかけ方の難しさを感じさせてくれました。自然農の畑も、「自然に」といってほとんど面倒を見ないと、収量は極端に減りますし、作物が絶滅の危機に瀕します。必要なときに必要な手をかけることが大切になってくるのだと思います。そのタイミングや方法を間違えるとうまく育たないようです。その植物にとって今必要なことを知り、どうすればその植物の自分で育つ力をもっとも発揮できるのか、他の植物などとの関わりも含めて考える必要がありそうです。そのためには、まず、その植物のことをよく知ること、そしてしっかりと気持ちを運び、その植物の今を見る必要があります。

スイカやメロンはトマトやキュウリと違って、自分の身体を作る時期と、子育ての時期の切り替わりがはっきりしていて、いったん赤ちゃん(実)を宿すと、自分のみを削ってでも我が子に栄養を送り込もうとします。ですから、まだ体づくりができていない時期に実をならせると、子どもに十分な栄養を送ることができないまま、身体を弱らせてしまうのだそうです。(『のらのら』2013夏号より)

ですから、しっかりとした実をならせるためには、親蔓を何節目で摘心する、元気のよい子蔓を伸ばす、子蔓の何節目についた雌花に受粉する、たくさん実ができないように摘果するなど、作物の様子をしっかりと観察して、今は成長のどの段階にいるから、どんなことが必要なのだろう。と考え、花が咲いた、実がなったと今の姿だけを見て喜んでいるだけではなく、その意味を将来と結びつけて考える必要があるのだと思います。

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