園長ブログ

春のおとずれ

2014/04/03

鞍馬でもようやくさくらの花が一輪二輪とほころび始めました。まだ少し堅いつぼみ、今まさに咲こうとしているつぼみ、今開いたばかりの花、いろいろな花がそれぞれの美しさでいます。桜も時期により美しさは様々です。今まさに咲こうとしているこの時期の美しさは慎ましくも力強く、元気です。山の朝もいろいろな鳥のさえずりで、にぎやかになってきました。ついこの間まで練習中だったウグイスも美しい声でさえずることができるようになり、そんなウグイスに園庭で遊ぶ子どもたちが、「ホーホケキョ」と話しかけていました。暖かい風がほのぼのとした気持ちにしてくれます。目、耳、頬、身体全体にそして、心にも春が感じられる頃になりました。園児たちは子どもたちは、新年度が始まってみんなちょっと新しい気持ちで、いきいきと登園してきています。

小学生は春休み。めぐみ精舎の学童保育にはたくさんの小学生が遊びに来ています。先日は、まだ冬眠していたヒナコウモリの観察にいきました。卒園したばかりの年長児も含めて25名ほどの大人数で観察に行ったのですが、よほど興味を持ったのかみんな真剣に観察していましたし、どこに何頭いるかとか、どんな格好で冬眠しているかなど、観察し日付、時間、気温などとともに記録していました。

このコウモリの観察やクッキングなどの行事もたまにはありますが、基本的に、めぐみ精舎にやってきた小学生は自由に過ごしています。朝のミーティング、勉強、お弁当、おやつ、掃除といった基本的なことは決まっていますが、その他は自由にしています。

朝に家の近くでつくしを摘んできた子がいました。これをどうしようかということになり、調理して食べる。量が少ないから、近くに探しに行こう。などと相談していました。もちろん、全員がそれをするのではなく、室内に残っていろいろな遊びをしたい子はそれを選びます。結局、雨が降ってきて、つくしを探しに行くことはできなくなってしまいましたが、何人かの子は数本のつくしをきれいに掃除し、調理して食べていたようです。

「大人」になる

2014/04/02

子どもにとって「安全基地」でいることのできる保護者、保育者でいたいものです。そんな大人の元で育った子は、他の人にとっての「安全基地」になることができるのです。なぜなら、その子が丸ごと信じてもらって育てられることで、「自分は自分で良いのだ」という自信を持つことができるからです。自分の寄って立つところが、育つのです。このことが「確実性」、生きてゆくための基本となる自分自身をしっかりと確立するための方法なのです。

これは、私たちのめざしていることと同じなのですが、茂木氏が

「組織」や「肩書き」によって自らを支えるということは、すなわち、一生「過干渉」な保護者の下で過ごすようなものである。

とおっしゃるところまでは、考えが及びませんでした。乱暴かもしれませんが、言い換えれば、過干渉は子どもの主体性、自発性、自信、自己肯定感を育てることがない。そこが育たないまま大きくなると、「組織」や「肩書き」という自分の外側にある物に依存して自分を支えることしかできなくなってしまうのだ。というところには気づきませんでした。

茂木氏はこう言います。

「組織」の一員として、自らの行動の自由、ダイナミック・レンジをあらかじめ縛ってしまう。「肩書き」に「ふさわしい」行動を取ろうとするあまり、自らの自由を縛ってしまう。「過干渉」な保護者の下で、子どもの自由がいわば「窒息」するのと同じように、文脈過多な日本の社会は、その構成員の能動性、自主性を奪う。
 子どもの頃から受験に追い立てられ、「履歴書に穴が開いてはいけない」とばかり「組織」という「過干渉」な鎖に縛り付けられる日本人は、一人で不確実性に向き合うために必要な「確実性」を自らの中に涵養する機会を奪われている。日本人は、自分の中に「安全基地」を培うことができていない。結論として、「大人」になることができていないのである。

私たちはどうあれば良いのでしょうか。考えさせられます。

*太字は茂木健一郎氏のブログ、クオリア日記「過干渉な日本社会」からの引用部分です。

自分でいる力

2014/04/01

組織や肩書きに縛られて本来の自分を発揮できない。小さな頃から箸の上げ下ろしにいたるまでとやかく言われ続けてきたら、自分の中に「確実性」を築くことはできない。言い換えれば、子どもの時に、自ら考えて決めること、そしてその考えに基づいて自ら行動することを思う存分やる。そして、そのことが楽しいという感覚を身につけ、自らどんどん挑戦してゆく経験が、自分の自信や信念を形作ってゆくのだと思います。茂木健一郎氏はそのことを「確実性」とおっしゃっているのではないでしょうか。人生の、世の中の「不確実性」を何とかしてゆく「確実性」を持てるように育てることこそが、その子が一人の人として自立して生きてゆくための基本になるのです。

ところが、箸の上げ下ろしまでとやかく言われる過干渉の保護者のもとで育ってしまうと、その保護者の価値観という限定された文脈の中でしか、自分を発揮できない。そして大人になっても、「組織」や「肩書」によってしか自分を支えることができなくなってしまう。つまり本当の自分自身、素直なあるがままの自分が見えなくなり、わからなくなるのではないでしょうか。

茂木氏のいう「能動性を前提にした「安全基地」の思想」というのは、子どもの主体性、自発性を大切にし、自ら外界の環境に関わる、探求心や挑戦する力を信じて、見守るということだと思います。どうしても、そっちに行ったら危ない。このやり方の方が良い。そんなことしちゃダメ!と手出し口出し干渉をしたくなってしまうものですが、そこは、子どもを信じ、ぐっと我慢して見守る。子どもが、助けを求めてきたときに帰ってくることができる安全基地、安心基地でいることが私たち大人がしなくてはならないことなのです。そういう環境で育つことが、子どもが自分の人生を主人公として生きてゆく力につながるのです。

限定

2014/03/31

子どもが発達する上で欠かすことのできない「安全基地」は、あくまでも子どもの自主性、能動性を前提に、親がその「挑戦」を見守るというかたちで成立する

茂木 健一郎 氏のことばにあるように、子どもの自主性、能動性が大切なのです。子どもが自分の意志で、主体的、自発的に活動するからこそ、学びが深まるのです。そのためにも、大人は子どもの安全基地でいることが最も大切なのです。であるにもかかわらず、過干渉という形で自分の思うとおりに子どもを動かしたがる大人は多いのではないでしょうか。気をつけないとこの罠に陥りやすいのだと思います。

「過干渉」な保護者は、安全基地を提供しているとは言えない。子どもが何をやるべきか、「箸の上げ下ろし」まで指示し、干渉する。子どもを評価する文脈を、過剰に設定する。子どもが自主的に何かをしようとすると、「勝手にそんなことをしてはダメ」と怒る。そのような保護者は、子どもの自主性を伸ばしてあげることができない。

全くその通りです。そしてこうした保護者のもとで育つと、保護者が設定した文脈の中でしか能力を発揮できなくなるのでしょう。

子どもの頃から「受験」に追い立てられ、「一流大学」から「一流企業」へと進む。そのような日本のシステムに乗った「良い子」は、結局、文脈限定の能力を身につけているに過ぎない。「組織」や「肩書き」を自らの存在意義とするということは、能動性を前提にした「安全基地」の思想からは最も遠いことである。「組織」や「肩書き」によって自らを支えるということは、すなわち、一生「過干渉」な保護者の下で過ごすようなものである。

過干渉な保護者に育てられると、能動的、自発的に環境に関わる経験をしないので、子どもに主体性は育ちません。すから、大人になれば、保護者の代わりに、自分をある文脈限定にしてくれる組織や肩書きに縛られるというか、逆に依存してしまうのかもしれません。

*太字は茂木健一郎氏のブログ、クオリア日記「過干渉な日本社会」からの引用部分です。

安全基地

2014/03/30

茂木 健一郎 氏のクオリア日記「過干渉な日本社会」に

大人は、人生の不確実性に立ち向かうことができるだけの「確実性」を自らの中に蓄積している存在

ということばをみつけ、自分は「確実性」を自らの中に蓄積している存在なのだろうかと自らをふり返ってしまいました。では、子どもについて、茂木氏はどうおっしゃっているのでしょうか。

一方、子どもの時には、知識も経験も不足しているし、自らのプリンシプルも足りないから、単独では不確実性に立ち向かうのが難しい。そこで、保護者が「安全基地」を提供して、子どもの「確実性」を補う。保護者が「安全基地」を提供してくれるからこそ、子どもは安心して不確実性に立ち向かい、学ぶことができる

確実性が十分でない子どものために大人がすべきことは「安全基地」を提供することなのです。安全基地は安心基地でもあるでしょう。子どもが、いろいろなことに挑戦して、傷ついたとき、心が折れそうになった時。そんなときに無条件で守り、支える存在でいることが大人のすべきことなのです。決して自分の思うとおりにさせるのではありません。茂木 健一郎 氏は続いてこうもいいます。

ここで大切なのは、子どもが発達する上で欠かすことのできない「安全基地」は、あくまでも子どもの自主性、能動性を前提に、親がその「挑戦」を見守るというかたちで成立するということである。重要なのは、あくまでも子どもの「能動性」が基本となるということであって、それが奪われたかたちでの「安全基地」は、子どもの学習の質を損なう。

やはり、大切なのは子どもが自らの意志で行うことなのです。子どもが主体的に自発的に活動するからこそ学ぶことができるのです。それなのに、子どもの主体性、自発的に環境に関わることを大切にせず、いちいち指示して言うとおりにさせようとする大人がいます。過干渉にならないようにしなくてはなりません。

*太字は茂木健一郎氏のブログ、クオリア日記「過干渉な日本社会」からの引用部分です。

確実性

2014/03/29

まず、子どもを信じる事。子どもは大人と同じ一人の人格であるということ、子どもは大人が思っている以上に有能で、自ら育ってゆく力を持っています。その力が発揮できるように適切な環境を整えることが必要なのです。もちろんいろいろなことを教えることも必要ですが、子どもが自ら知りたい、経験したいと思うときでないと子どもの学びは深まりません。だからこそ、探求心を目一杯働かせいろいろなことに興味を持って取り組む経験をたくさんしてほしいと思うのです。

子どもが主体的に、自発的に環境に関わる事が大切なのに、子どもが力を持っていることが信じることができない大人がいることも事実です。子どもに指示して自分が思うように動かそうとする、細かなことまでいちいち指図して、その通りにさせようとする。いわゆる過干渉です。子どものためと思って、いろいろなことをやってあげすぎたり、いちいち指図したりするのでしょうけれど、子どものためといいつつ、実は大人自身の不安解消や精神的な安定のために、子どもを利用していることもあるそうです。つまり、子どもに依存しているのです。親でも保育者でも、気づかないうちにそうなっていないように気をつけなければなりません。

「過干渉」を調べていたら、茂木 健一郎 氏のブログ「クオリア日記」2010年7月20日の記事に「過干渉な日本社会」というのがありました。「人間の脳の情動の回路には、「確実性」と「不確実性」のバランスをとる働きがある。」と始まりますが、確実性とはその人の経験や知識その他によって培われる自信、信念といった確固たる何かと解釈できると思います。自分自身の拠り所といってもよいかもしれません。自分の拠り所としての「確実性」があるあらこそ、何が起こるかわからない外界の「不確実性」に対処することができるという意味だと思います。自分にしっかりとした信念があるからこそ、いろいろなことがやってきても、ブレることなく対応してゆく事ができるのでしょう。

「大人」とは、人生の不確実性に立ち向かうことができるだけの「確実性」を自らの中に蓄積している存在だということができる。

とあります。「確実性」を蓄積できているでしょうか?

子どもを丸ごと信じていますか

2014/03/28

子どもが自分でそうしようと決めたことは自分でやり遂げる。自分で食べたい時間に食べ始めると同時に食べ終わる時間も決め、見通しを持って食べることができる。
「やきそばやさん」の取り組みを通じて子どもたちのそんな姿に改めて気づきました。

子どもたちが、考えたり行ったりすることは、確かに未熟な部分があります。見ていてはらはらすることや、それじゃ絶対にできっこないよ!と思うようなこともします。ですから、そんなところを見ると、つい「そんなことしてはダメ!ああしなさい!こうしなさい!」と手出し口出しをしてしまいます。そんなときは、この子は大丈夫、きっとできる。今できなくても、今やっていることから多くのことを学んでいる。と思い、手出し口出ししたくなるのをぐっと我慢してその子のことを見守ることが必要なのだと思います。もちろん命に関わることや大けがをしそうな場合は、すぐに止めるなど守らなくてはなりません。しかし、基本にはその子を「信じる」ということがあります。しかも良いも悪いもなくその子を丸ごと信じるということです。まずはそこがスタートなのです。これはいつも心に留めていないと、すぐに子どもを評価することをしてしまいます。大人が評価ばかりしていると、子どもは大人の評価ばかりを気にして、評価されるかどうかを基準に行動してしまうようになります。丸ごと信じる。簡単なようで難しいことかもしれません。

子どもを丸ごと信じる事が大切だとわかっていても、ああだこうだ言いたくなるものです。特に親であれば、なんとか我が子により良く育って欲しいという思いのあまり、手出し口出ししすぎてしまうことがあります。そしてそれが過ぎると過干渉になってしまうのかもしれません。

もちろん、子どもが不適切なことをしたときは厳しく叱ることも必要でしょう。しかし、厳しいことばの裏側に大人のどんな気持ちがあるかが重要なのではないでしょうか。

やきそばやさん 5

2014/03/27

自分で食べはじめる時間と食べ終わる時間を決めて食事をしたやきそばやさんの時と、食べ終わる時間を忘れてしまったかのようなその後の昼食時の違い、それは食べ終わる時間を決めたのは誰かということではないか。ある日ふとそんなことを思いついたのでした。

ついついおしゃべりに夢中になってお箸が止まってしまっていたときは、大人の都合で、何時何分までに食べ終わらなくてはならないから、とかみんな一斉に食べ終わる必要があるからという理由で食べ終わる時間が決められていました。それに対して、やきそばやさんでは、子どもが自分で食べ始める時間を決めると、30分後の食べ終わる目安の時間も、自分で決めたという気分になれたのではないでしょうか。誰かに言われたことではなく、自分で決めたことだからこそ、積極的に意識しようという気持ちになったのではないかと思ったのです。

データを取って調べたわけではないので、はっきりと断言できるわけではありませんが、子どもが自分で決めたときにはちゃんとそれをやりきることができる。反対に、他の人に決められたことは、誰かが言っていたことで、自分のこととしてとらえにくいのだろうということです。

子どもが自分で決めて行うことを尊重すること、子どもが主体的に行うことが子どもの自立を育むためには必要なことなのです。そしてそれは子どもをひとりの人格として認めるということを常にベースにしていなくてはできません。子どもが主体的な興味に基づき自発的に活動できる環境を整える事によってこそ保証できることです。

なんでもかんでも、自分の思うようにしようと子どもに指示ばかりしたり、子どもが望んでもいないことを子どものためだと思ってやってしまういわゆる過干渉の親に育てられると、子どもは落ち着かなかったり、自分に自信が持てなくなってしまったりします。親は子どものためと思って一生懸命なのですが、実はそれは自分の満足のために子どもを利用しているだけにすぎません。子どもに依存しているともいえます。

こうしなくてはならない!と教えること、親の指示通りに子どもを動かすことが子どもの成長を促すと勘違いしている人もいるかもしれませんが、過干渉や子どもへの依存に陥らないように気をつけなくてはなりません。

やきそばやさん 4

2014/03/26

いつもと違う「やきそばやさん」という形で、昼食をいただき、いろいろな発見がありました。何時までに食べ終わることができるように食べてみようという意識をもって、実際に時計を見て、時間を意識して食べてみようという姿が見られました。もちろん私が、そうしなさいといったわけではありませんし、どうしてもやらせようとしたわけでもありません。「こんなことできる?」と提示してみたら、子どもが意外と乗ってくれたというだけのことです。しかし、子どもには私が思う以上の力があって、ちゃんと自分で時計を見て、食べることを調節していたのでした。普段あまりそういう姿を見ない私にとっては、嬉しい驚きでした。

後日、普段通り子どもたちと一緒に昼食をいただいているときのことです。どうやら、次の予定があったかなにかで食べ終わる予定の時間が決まっていたようで、先生に「もうあまり時間が無いよ」と言われている子が何人かいました。どうやらおしゃべりが楽しくて、ついつい食べる方がおろそかになっているようでした。先生に促されるとその時は、食べるのですが、ついついおしゃべりの方が楽しくなって、箸が止まってしまうのです。その姿を見て、やきそばやさんの時にはあれだけ積極的に時間を気にして食べていたのに、どうして今日は何度も先生に促されているのだろうという疑問が湧いてきました。やきそばやさんの時とは何が違うんだろう。昼食のメニュー?子どもの人数?その場の雰囲気?いろいろと思いを巡らせてみましたが、なかなか納得できる答えが見つかりません。そのことを考えては答えが見つからず忘れたり、また思い出したりと、もやもやすることがしばらく続きましたが、そのうちそれも忘れてしまった頃にふと思いついたことがありました。

やきそばやさん 3

2014/03/25

とてもたのしみにしながら、やきそばやさんにやってきた子どもたち、私の説明を聞いて、食べ終わる目安の時間を理解してくれました。お皿を持って、盛りつけてもらいながら、いろいろ注文していました。いつもと違う雰囲気にちょっと緊張したのか、後でお代わりをしようと思ったのか、「焼きそば少しだけ」と注文している子もいましたし、元気に「大盛り!」と注文している子もいました。「お肉多くして」「にんじんは少なく」など細かな注文にも対応してもらって、こどもたちはとてもうれしそうにしています。

そうして、食べ始めた子どもたちは楽しそうに、おいしそうに食べていました。食も進むようで何度もお代わりしている子もいましたし、最初は少しだけにしてもらった子も、お代わりをしていました。食べ終わる目安時間のことは、大人から積極的には口にしないようにしていましたが、子どもたちは結構意識していたようです。「まだ時間があるから、もう一回お代わりをしよう」だとか、「もうお代わりしている時間はないなー」「もうすぐ時間だからちょっと急ごう」などのことばが子どもたちの口からよく聞かれました。
もちろん、「時間内に食べ終わること」自体が目的ではありません。いつまでもだらだらと食べ続けるよりも、食べようと思って食べた方がおいしく楽しく食べられるということを経験してほしい。そのためのひとつの方法として、どこかで時間を意識していてくれるとよいと考えていたのです。

子どもたちは、思っていた以上に時計や時間を意識したり理解しているのが意外なくらいでした。そういうことが得意な子も得意ではない子も、3歳児でも5歳児でもそれぞれによく理解し、積極的に応用しようとしているのでした。

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