園長ブログ

聞くということ 4

2014/07/04

聞くことをはじめ、様々な感覚器官から入ってきた刺激に心が反応して連想が始まり、いつの間にか妄想になってしまう。その妄想も、良い妄想ならまだしも、不平不満や、誰かに対する批判、悲しい、苦しい、腹立たしい妄想の方が広がりやすいように思います。

こう書くと、とんでもないことのようですが、意外と気がつかないうちに自分自身にも起こっていることだと思います。気づかないうちにといいましたが、まさに気づかないうちにそうなっていることの方が多いようです。特に自分の主張ややり方が正しいと思っているとき、そう思い込んで、心が硬直しているときにはなおさら気づきにくくなります。だって、自分が正しいという想いにとらわれている人にとって、正しい自分とちがうことをする人は、間違っているとしか思えないですし、「あの人は間違っている」というイメージにとらわれてしまうと、その人の良いところまで、「間違っている」と思い込んでしまいます。

でも、こんな負のスパイラルには陥りたくないものですし、深く陥る前に抜け出したいものです。だってそこで最も苦しむのは自分自身ですから。

聞くということ 3

2014/07/03

感覚器官は、耳だけではなく、他の感覚器官からも様々な刺激を受けていますから、心の池にはいつも様々な波が立っていることになります。
おいしそうなご馳走を見て、食べたいという波が心に起こる。食べてみたらおいしいので、もっと欲しくなる。でも少ししかなくて、他の人も欲しがっている。どうしても自分が食べたくなる。食べられないのは嫌だと思う。何とかして自分が食べようとする。食べたいけれども食べられない。

このどうしても食べたい!という気持ちが強ければ強いほど、食べられないことに対する苦しみは大きくなります。

また、心の中だけで想いが勝手に広がることもあります。誰かに自分の至らないところを指摘される。自分の至らなさは棚に上げて、指摘されたことに腹を立てる。指摘した人のことを嫌だと思う。いったん嫌だと思うと、そこからそういえばあのときもこんな意地悪をされた。きっとあの人は自分のことを嫌っているんだ。性格が悪い人だ。どうしようもない人だ。という思い、というか妄想がひろがり、その妄想にとらわれる。妄想にとらわれると、その人のことが、本当に意地悪に見えてくる。一旦そういう目で見ると、その人のステキなところがあってもそこを見ようとせず、悪いところばかりが目につくようになる。それどころか、親切にしてもらっても、何か裏があるのではないかと疑ってしまってしまうこともある。もうそうなるとどうしようもありません。ネガティブな妄想ばかりがどんどん広がり、その妄想に飲み込まれ、巻き込まれていってしまって、ますます抜け出せなくなる。どこかでこの負のスパイラルを打ち切らないと、結局自分自身の心が苦しくなってゆくばかりなのですが、なかなかそれに気付く事はできません。

聞くということ 2

2014/07/02

耳から音が入ってきて、それを感じる。その刺激が心にいろいろな想いを描かせる。その想いを発端として、いろいろなことが連想される。一旦、連想が始まると、次から次へといろいろなことが心に浮かんできます。意識をしないでいると、その連想や想いの中に入り込んでしまいます。そして、そこに自分の良いとか悪いといった価値判断やそれに対する感情も伴ってきて、いろいろなことをぐるぐると巻き込みながら、とんでもない方向に発展していったりするものです。

まるで、静かな池の水面に小石を投げると、そこから波紋が広がって、岸にぶつかった波紋は反射してまた広がる。波どうしがぶつかって、水面は様々に入り組んだ波で覆われる。波と波がぶつかって新しい波が生まれたり、打ち消し合ってきえたり、最初に小石が作った波は、全く別のものになってしまいますし、そのべつのものが増幅されて、また違うものになっていったりもします。

私たちの心の中で起こることも、この池の波に似ているかもしれません。耳という感覚器官を通して感じた音という刺激が、心に様々な波を起こして広がり、またその波が別の波をおこす。聞いたこと、聞こえたことに心が様々に反応し、感情が生まれ、その感情がまた別の心の動きや感情を産みだし、それがまた次の感情につながり、連鎖反応を起こします。ひとつのきっかけから次々といろいろなことが心に浮かんできて、たのしくなったり、うれしくなったり、悲しくなったり、嫌な気持ちになったり、腹が立つことがあります。そしてそれらの感情がまた次の連想を生んで際限なく広がり続いてゆくのです。

聞くということ 1

2014/07/01

モリアオガエルのたまごを観察に行った帰りに、「聞く」ことに意識を集中してみたことから聞くこと、聞こえることについて少し考えてみました。私たちはいろいろな音が耳に入ってきていても、その中から自分に関係のある音だけを聞いている。そして何を聞くかを選ぶ程度も、ひとり1人違うというのだろうということを思いました。

音を聞いたら、その音についていろいろなことを考えてしまいます。耳を通して音という刺激を感じ、その刺激がいろいろなことを思い起こさせる。目を閉じているのに、まるで見ているかのような映像が心に広がる。鳥が枝でさえずっている様子、小さく光って飛んでゆく飛行機、風にゆれる木の枝、こすれ合う葉っぱたち・・・

こうして、耳を通して入ってきた音という刺激が心に届くと、様々なイメージが浮かんでくる。そうするとそのイメージからまた、別のイメージが浮かんできたりします。鳥の声を聞いて、「どんな鳥かな?」「仲間同士で情報交換しているのかな?」とか、飛行機の音から旅を連想し、旅の思い出がよみがえってきたり、どこかに行ってみたいという想いがわき上がってくることもあるでしょう。

聞く 5

2014/06/30

ラジオや音楽を聴きながら勉強できる人とそうでない人がいるように、人はひとり1人みんな違います。
ときどき、我慢できないほど大きな音がしているわけでもないのに、両手で耳を塞いでしまう子がいます。きっとその子には、大多数の他の人よりも、音がとても大きく聞こえたり、他の人よりも選択的聴取がとても苦手で、同時にたくさんの音が聞こえてきてしまい、混乱するのかもしれません。

それが、大多数の人とは異なっているから良いとか悪いとかいうのではなく、その人の一つの特徴なのです。だから音が大きく聞こえすぎるのなら、大きな音を立てないように配慮するとか、いろいろな音が同時に聞こえてしまうなら、伝えたいことはできるだけ静かな環境で伝えるとか、その人が生きにくくならないような配慮や工夫をするしくみがあれば、その人は困らずにすみます。

ついつい私たちは大多数の人と大きく異なる特徴を持った人を特別視しがちですが、なにか特徴を持っているということは、当然のことです。みんなひとり1人違うのですから。ちがうことを同じにしようとするのではなく、ちがうことを活かしてみんなの役に立つことを考えた方が、みんながハッピーになれそうじゃありませんか。

音が大きく聞こえる人は、小さい音でも聞こえるのかもしれませんし、いろいろな音が同時に聞こえてしまう人は、同時に何人もの話を聞く力を持っているのかもしれません。(あくまでも私の単純な想像ですので、気にしないでください。失礼があればお詫びします)

ひとり1人のいいところを認め合い、そのいいところをみんなのために役立てる。みんながそんな関係になれるといいですね。

聞く 4

2014/06/29

いろいろな音が耳に入ってきても、その中から取捨選択して自分に必要な音だけを聞くことができるのです。ところが、選択的注意、選択的聴取も人によって差があります。

皆さんはラジオや音楽を聴きながら勉強できますか。私はできません。

家では良くFMラジオを聞いているのですが、なにか他のことをしながら聞いていても、私にはパーソナリティの言っていることが良く聞こえてきます。あるときパーソナリティがおもしろいことを言ったので、同じ場所で同じことをしている妻に、「今の話おもしろかったよね。」と同意を求めると、「えっ!何の話?」と聞き返されました。「ラジオでおもしろいことを言ってたじゃない。」というと「聞いていなかった。」と返ってくるのです。「なんで、ラジオを聞いているのに、聞いていないの?」と変な質問をしてしまうことがありました。

家内は自分のやっていることに集中しているのでしょうけれども、私はどうも何かをやっていても、聴覚から入ってくることには敏感に反応してしまいそっちが気になって集中力が途切れてしまうことが多いのです。家内は選択聴取がうまくできていて、私はそれが苦手なのかもしれません。

聞く 3

2014/06/28

私たちはあまり意識こそしていませんが、聞きたい音を他の音と区別して聞き分けて生活しています。

私たちはもちろん音だけではなく他の様々な情報も自分に必要なものを選択して取り入れています。視覚情報も注意を向けていなければ、有効な情報として取り扱うことはできません。

つい先日まで、そこにあった木が植え替えられたとします。ところが、その木に注意を払っていなければ、今までそこにあった木が無くなっていることにさえ気づかないでしょう。目に入っていても見えていないのです。そんな経験はありませんか。

赤ちゃんについていろいろなことを調べる実験では、この選択的注意、特に選好注視ということが用いられます。赤ちゃんはまだことばによる会話ができないので、赤ちゃんが何を見ているのか(視線)を調べることで、何に興味を持っているのか、見えなくても予測ができるのかなどを調べる研究が行われていますし、何を見ているのかを簡単に計測できる機材なども開発されています。

聞く 2

2014/06/27

普段、私たちはあまり意識をすることなくいろいろな音を聞いています。耳には様々な音が同時に入ってきているはずですが、私たちは、同時に聞こえてくる音の中から、興味のあることや注意を向けたこと、自分に関係のありそうな情報を選び取って聞いています。このことを「カクテルパーティー効果」と呼ぶそうです。

カクテルパーティーでは多くの人が様々な会話をしていますが、その様々な会話の中から自分が会話している相手の声だけを主に選択して聞いたり、自分に関係のありそうな話しをしている人の声だけを聞き取ることができます。

たとえ、目の前で面と向かって話している人がいたとしても、他の人が自分の興味のある話をしているのが聞こえてくると、目の前の人のことは見ていても、その人の話は聞こえないで、隣の会話が聞こえてくることさえあるかもしれません。

私たちはそうやって何を聞くかを選んで聞いているのです。これを選択的聴取といって、1953年に心理学者のチェリーによって提唱されたそうです。

聞く 1

2014/06/26

目を閉じて視覚を使わずに、他の感覚を使ってみよう、とくに音を聞くこと、聴覚を意識して使ってみようという思いから、山の中で子どもたちと目を閉じて、どんな音が聞こえてくるかに意識を集中してみました。

簡単に聞くことに意識を集中するといいましたが、聞くこと自体が取捨選択しているのだということを改めて思い直しました。

静かな山の中で、鳥のさえずり、遠くから聞こえる飛行機の音、木々が風にそよぐ音などが順番に聞こえました。それらの音は、音波としては同時に私の鼓膜を振動させているのでしょうけれども、音の聞こえ方としては、最初に鳥のさえずりが良く聞こえました。次に飛行機の飛んでいる音、そして風にそよぐ木々の音です。最初に鳥のさえずりが聞こえたのは甲高く注意を向けやすい音だったからかもしれませんし、山に登ってくる途中でオオルリらしきさえずりを聞いていたので、オオルリが鳴いているのかな?と興味を持っていたからかもしれません。ある程度鳥の声を聞いて、それに慣れてくる(飽きてくる?)と今度は飛行機の音が聞こえてきました。せっかく自然の中にいるのだから、人工的な音はあまり聞こえて欲しくないという意味で注意を払ったので、それが聞こえてきたのでしょう。その飛行機の音も、まあしょうがないかと思っているうちに、木々の風にそよぐ音が心地よく聞こえ出しました。さやさやというさわやかな音に安らぎを覚えたからでしょう。

音の波は、同じように鼓膜に届いているはずなのに、聞こえ方が異なっているのはどうしてなのでしょうか。また、どうして鳥の声、飛行機の音、木々が風にそよぐ音の順に聞こえたのでしょうか。

おべんとう day 6

2014/06/25

静かな山の中、みんなで目を閉じて耳を澄ませると、どんな音が聞こえてくるのか。子どもたちが五感のうちの聴覚を意識して使ってみると良いと思い

私も同じようにやってみました。まず聞こえてきたのが、鳥たちのさえずりです。鳥の声に意識を集中すると、2〜3種類のさえずりが聞こえてきます。何という名前の鳥なのか私にはよくわかりませんが、鳥たちは何を話しているのかな?などと思いながらしばらく聞いていました。しばらくすると今度は違う音が気になりました。遠くの空を飛行機が飛んでいる音です。ゴーという音ですが、遠いので大きな音ではありません。山の中だから人工的な音が少ないだろうと思っていましたが、空から飛行機の音が聞こえてきました。そうしているうちに、木々の枝が風にゆれる音がしていることに気づきました。さやさやと葉っぱたちがゆれて、強く弱くリズミカルにまるで音楽を奏でているようです。目を閉じて風を見ているような感覚になりました。

2〜3分の短い時間ですが、聞くことに集中すると、いろいろな音に気付く事ができました。そして、目を閉じていることにより、音から様々なイメージが浮かんでくることにも改めて気づくことができて、おもしろいものです。

いろいろな音を聞いて、子どもたちのこころには、何が浮かんできたのでしょう。

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