園長ブログ

やさしさ

2015/09/30

放生会に参加して、子どもたちはいろいろなことを考えながら、いつものお参りよりずいぶんと長い時間の法会に、静かに参列していました。屋外で立ったままの参列なのですが、子どもたちは一所懸命に手をあわせていました。そんな子どもたちの姿に、参拝客の皆さんも立ち止まって手をあわせたり、しばらくいっしょにお参りしてくださる方もあります。

美しく晴れていたこの日、木漏れ日のシャワーを浴びながら、池の畔に立っていると、山の上から爽やかな風が下りてきます。低くなった太陽が、秋を感じさせてくれます。そんな自然に包まれながら、法会に参列していたら、幸せな気持ちになりました。

法会の途中、子どもたちが池の魚に餌をあげに行きました。本来なら魚を池に放つのですが、放生池には、鯉や金魚がたくさんいて、これ以上放せないので、今いる魚に餌をあげることにしています。餌と言っても焼麩です。最初子どもたちは直径2センチくらいの焼麩をそのまま、池に投げ込んでいました。すると大きな鯉がやってきて、パクッと一口で食べてしまいます。その姿もおもしろかったのでしょう、子どもたちは楽しそうに餌をあげていました。ところが、よく見ていると小さな金魚は大きな麩を食べる事ができず、一つの麩にたくさんの金魚が群がってつついています。でもそうしているうちに、大きな鯉がやってきて、金魚たちがつついていた麩を一口でさらっていってしまいます。
そんな様子に気づいた子どもたちは、麩を小さく割って金魚が一口で食べる事ができるようにしてあげていました。小さな金魚にも食べてもらいたいと思ったのでしょうね。子どもたちの、小さな生き物に対するやさしさに、心が温かくなりました。

いただきます

2015/09/29

放生会に参加する機会に、「私たちは他のいのちをいただいて、自分のいのちをつないでいる。」ということを、子どもたちといっしょに考えてみました。
調理されてお皿に盛りつけられる食べ物は、もともとみんな生きていたということが、想像できたと思います。「なんか、かわいそうやな−」とつぶやく子どもたち・・・
「ほんまやなー!でも、食べなかったら、私たちはどうなる?」と問いかけると「死んじゃう」と口々に言います。「じゃあ、どうしよう?」と聞くと、「・・・」「そうや!ありがとう!って言って食べたらええんや!」話をしているうちに子どもたちはいろいろと考えていたようです。
「だから、いただきます。って言うんやなー?!」とことばを添えると、さらに「なんで?」と聞く子どもたち。「だって、いただきますは、食べ物のいのちをいただきます。ありがとうございます。っていう意味なんやで。」と答えると「そっかー!」と改めて納得していました。

抽象的なことなので、子どもによって理解の度合いは様々だと思いますが、何度も話しているうちに、わかるようになったり、あるとき突然、「そうか!」とつながったりします。「食べるということはいのちをいただくということ、だから感謝していただきましょう!」ということは何度となく話していますので、子どもたちは知っているはずです。それが、腑に落ちるときがいつか来るのだと思います。

ただ、話すことばは、その場で消えてしまうので、何度も話すか、書いておく必要があります。そういう環境を用意しておくと、子どもたちはそこから学びます。そのタイミングは、子どもたちひとりひとりで異なるのです。だからこそ、様々な環境に子どもが接することが出来るような準備をしておくことが必要なのです。乳幼児の教育では、大人が一方的に、どの子に対しても同じように一斉に同じ事をさせることは、ひとりひとりの子どもの学びにとって必ずしも良いというわけではありません。どちらかというと、ひとりひとりの「やってみたい!」と思う気持ち、「やるぞ!」という意欲、そしてそこから生まれる行動が、学びにつながるのだと思います。

放生会にて

2015/09/28

旧暦の8月15日、お寺では放生池という池のほとりで放生会(ほうじょうえ)という法会が行われました。今年は9月27日がその日にあたりますが、27日は日曜日なので、子どもたちが参加しやすいように、前日の26日(土)に行ってくださいました。保育園からは、年長の子どもたちが、学童からは小学生達が参加しました。

放生会は、万物の生命を尊重する精神と平素の殺生に対する供養の現れです。
金光明経の流水長者子品には、お釈迦さまが前世で流水長者であったとき、池の水がなくなって死にそうな魚のために池に水を注いで命を救い、利天に生まれさせた。とあるそうです。中国の天台宗の開祖、天台大師智は、この流水長者の本生譚によって、漁民が雑魚を捨てている様子を見て憐れみ、自身の持ち物を売って魚を買い取って放生池をつくり、殺生を止めたことから放生会が始まったと言われています。

お参りの前に子どもたちに、なぜ今からお参りをするかを説明しようとしましたが、「万物の生命を尊重する精神と平素の殺生に対する供養の現れ」と説明しても、理解するのは難しいと思いました。ですから、「食べる」ことを通して話をするとわかりやすいのかと考え、食べ物には全ていのちがあるということを思い起こせるように、子どもたちに問いかけてみました。例えば、お米、お肉や、お魚・・・私たちが普段口にしている食べ物は、食べ物になる前にはどんな姿だったのか、みんなで想像してみました。目の前の池で泳いでいる鯉や金魚の姿と、調理されてお皿の上に乗っているししゃもを想像して比べてみようと話しかけてみました。

食べ物にはいのちがあり、そのいのちをいただくからこそ、私たちは自分のいのちをつないでゆくことができるのだということを、子どもたちはわかってくれたように思います。

心を込めて

2015/09/27

車の定期点検を待っている間に、いろいろなことを感じたり考えたりしました。

1時間ほど待って名前が呼ばれたので、行ってみるとサービス担当の方ともうひとりのスタッフの方が、どこか申し訳なさそうに立っていらっしゃいます。何かあったのかなー?と思いながら近づくと、名刺を差し出しながら、「店長代理の○○です。実は・・・」とおっしゃるので、いよいよ何かあったなーと思って聞いていると、どうやら点検の途中で、サービスの方が誤ってガラスに貼ってあった断熱フィルムを傷つけてしまったようです。2人で平謝りに謝ってくださるので、こちらが申し訳ないくらいです。

一度見てくださいとおっしゃるので、見てみると確かに一部がはがれてしまっていました。でも、誰かが怪我をしたわけでもないし、こちらも断熱フィルムが貼ってあることを伝えなかったのもいけなかったので、「そんなに気にしないでください。」と伝えるのですが、何度も何度も謝ってくださいました。

確かに、ちょっと残念ではありますが、あまり嫌な感じがしなかったのは、自分の心に余裕があったからでしょうか、それともとても丁寧に謝ってくださったからでしょうか。心の底から相手のことを思って、話したり行動したりするのと、そうではないのとでは、相手への伝わり方が違う気がします。きっとディーラースタッフの方々は心の底から謝ってくださったのでしょう。その真摯な気持ちが、私の心に届いてきたのだと思います。私の心には不愉快や不満ではなく、爽やかというのかあたたかいというかそんな感じの方が大きかったように思いました。

心を込めることで、一見良くないことも良いことに変えられるのだろうな。そんなことを思いながら、点検と洗車をしてもらって美しくなった車を運転しながら、温かい気持ちで帰ってきました。

理念

2015/09/26

いつも車のことでお世話になっているディーラーさん。以前から、スタッフの方々はみなさんとても親切だな!と感じていました。どのスタッフも理念を見据えて、「お客様のため!」を考えて行動していらっしゃるのだろうと思います。

スタッフひとりひとりが理念を自分の基準として行動する事ができている組織は、外部の人にどこか心地よさを感じさせるのかもしれません。

先日、当園の保育士の先生が、こんな話しをしてくれたのを思い出しました。
夏に旅行に行ったときに宿泊したホテルスタッフの対応がとても心地よかった。マニュアル通りに丁寧なこどばづかいをして、決められたことを話している雰囲気は全くない。どちらかと言えば、フランクに自分のことばで話してくださっているのだけれど、それが心地よいし、さりげなく細やかなところまで気遣いができている事を感じた。それは、マニュアルで言わされているのではなく、スタッフひとりひとりが、理念を自分のこととしてとらえ、良く理解して、それを基準に行動しているからなのだろうと感じた。ルームサービスの担当スタッフが部屋に入るのに靴を脱いで入ってきたが、それがとてもさりげなくて、心に残った。きっと、理念が浸透しているのだろうなーと思った。
と話してくれました。

その話を聞いて、まず、先生が自分が宿泊したホテルの印象を、そんな風にとらえていてくれたことがうれしいと感じました。そして、ひとりひとりが、理念を自分のこととしてとらえ、自分の使命を見つめ、そこに向かって努力する。そのことに歓びを感じることができる。そんな状態でいると、ひとりの力が2倍にも3倍にも膨らんで、発揮されるのだと思います。そして、それがまた、理念の実践へと向かう原動力となる好循環を生み出すのでしょうね。

基準

2015/09/25

車の点検をお願いしたディーラーに行ったら、いろいろなことが変わっていました。毎日していることを変えようというのは、エネルギーのいることです。特にいろいろな人が、慣れ親しんでいることを変えることは、抵抗もあるでしょうし、エネルギーが必要なことです。しかし、いつもやっていることだから、という理由だけで同じようにしていると、停滞はしても、改善されることは少ないと思います。

もちろん、なんでもかんでも変えれば良いというものではありません。何を変えて、何を変えないのか。どう変えるのか。全ての基準になるのが、「なんのためにそれをするのか?」「誰のためにそれをするのか?」と言うことではないでしょうか。その根本にあるのは、理念だと思います。そのディーラーの企業理念には「自動車を通じてお客様に奉仕し・・・」とあります。「お客様に奉仕する。」という理念が、様々な顧客サービスとして表されているのではないかと感じました。

考える基準となる理念があると、改善する場合でも、「お客様に歓んでいただくために!」「お客様のために!」という基準に添って考える事ができます。飲み物のサービスも、部屋の模様替えも、そんな視点から考えてあるのかな?そう感じました。

私たち、保育園で言えば、「みんなのいのち輝く!」ために
○子どもが主体的に生活できる環境を整えているか
○子どもの自発的な活動としての遊びを保障できているか
○ひとりひとりの個性や発達に合わせた保育ができるよう、子どもひとりひとりをとらえているか
○様々な人との関わりが持てる配慮をしているか
を基準として考えています。

このことをいつも心に留めて、常に自分に問い掛けながら考え、行わないと、知らず知らずのうちにそこから離れていったり、見失いそうになったりしてしまいます。気をつけたいものです。

車のディーラーと保育園、業種は全く違いますが、理念を忘れず、そこから遠ざからず、理念を基準に考え、行動するのを大切にしなくてはならないのは同じだと思いました。

改善

2015/09/24

先日、点検の時期を迎えた車をディーラーに持って行って点検していただきました。1時間くらいで点検が終わると聞いたので、待合室に入って一人掛けのソファに腰掛けると、案内してださったサービスの方がメニューを持って来て、飲み物は何が良いかとたずねてくださいます。アイスコーヒーをお願いして、本を読んでいると早速アイスコーヒーを持って来てくださいました。コーヒーの表面が細かな泡で覆われていたので、ボトルから注いだのではなく、コーヒーメーカーで作ってくださったのでしょう。小さなお菓子までついていて、まるでカフェのようです。

そのディーラーでは、以前は紙カップに注ぐタイプの自動販売機が設置してあって、お客さんが自由に飲み物を飲めるようになっていたのですが、今回はスタッフの方がカフェのようにサービスしてくださいました。その他にも自分で自由に飲み物が楽しめるように缶やペットボトルの自販機も置いてあります。もちろん無料です。

取り扱っている車のカタログはもちろんですが、雑誌やテレビ、小さな子どもが遊ぶスペースなど、お客さんが待ち時間を快適に過ごすことができるような工夫が凝らされています。

そういえば、少し前までは一人掛けのソファはありませんでした。無料の自動販売機で飲み物を自由にいただけるだけでも、お客さんが過ごしやすいように配慮してくださっているのだと思っていましたが、さらに改善されたようです。

トイレに行こうと部屋を出ると、以前はオフィスとして使われていた広い部屋が、お客さんの待合室として開放されていました、こちらもソファや雑誌があり、観葉植物などの緑も置いてあって、くつろげそうなスペースになっていました。

ついつい、毎日のことだから、そのままで良いのではないかと思いがちですが、そのままにしないで、常にお客さんの事を考えて、改善を続けてゆこうとされているのだろうな。と感じました。

2015/09/23

空が高くなってきました

空が高くなってきました

シュウメイギク(キブネギク)

シュウメイギク(キブネギク)

お寺の参道を歩いていたら、ふっといい香りが漂ってきました。ふと見ると、ギンモクセイがかわいらしい花をつけていました。そういえば9月も下旬です。季節は進み秋は深まっているのですね。

忙しくバタバタしていて、季節が進んでいることにも気づ

ギンモクセイ

ギンモクセイ

キンモクセイ

キンモクセイ

かないなんて、こころに余裕がない証拠ですね。余裕がなくなると、
シュウメイギク(キブネギク)

シュウメイギク(キブネギク)

ヒオウギ

ヒオウギ

目の前のことしか見えなくなって、遠くにある本当に大切なことが見えなくなってしまうことがあるので、気をつけなくてはなりません。

忙しすぎて、余裕がなくなると楽しいからやっているはずのことが、やらなくてはならないことに変わってしまいます。余裕はあそびと言ってもいいかもしれません。車のハンドルだってブレーキだってあそびがないと、ちゃんと機能しません。

余裕とあそびごころを忘れな

ススキ

ススキ

ヒガンバナ

ヒガンバナ

いようにしたいものです。

そう思って、秋を探してみると、ちょっと気をつけて見ただけでいろんな秋が見つかりました。

描く 2

2015/09/22

お地蔵さまの姿を描いていた年長児たち。一所懸命に取り組む姿がとてもステキでした。何度も言いますが、集中しているときの顔、特に目がステキです。

もちろんどの子も一様に描くわけではありません。さっと筆が進む子もいれば、なかなか描き始められない子もいますし、「どう描いたらいいのかわからへん・・・」と困っている子もいます。そんな子には、保育士の先生が、その子にはお地蔵さまがどう見えているのか、などその子が自分のイメージを具体的にしやすいように声をかけたり、自信を持てるような声がけをしていました。

割り箸ペンで輪郭を描き終わったら色をつけます。石でできたお地蔵さまは石の模様や、苔が生えている所はあるにしても、基本的にはグレーです。何を使って塗るかを考えないと、画面がグレー一色になってしまいます。保育士の先生は、すごく薄くしたグレーの絵の具を使って、お地蔵さまのお身体だけを塗ることを子ども立ちに提案したようです。子どもたちはとても良い感じに仕上げていました。お花がお供えしてあるのですが、子どもたちはそのお花もしっかり描いて、そこだけに違う色を入れており、それがアクセントになって画面が引き締まりました。

毎日登降園の時には手をあわせ、地蔵盆の前には一所懸命にお身拭いをして、美しくなっていただき、地蔵盆ではお参りをしたお地蔵さま。お地蔵さまが、一瞬光って笑うところを見た子もいます。そんな経験を経て子どもたちのお地蔵さまへの思いはいつもより深くなっていたでしょう。だからこそ、先生はこの時期に子どもたちにお地蔵さまを描く機会を提供したのだと思います。今までの経験によって子どもたちの心の中にお地蔵さまが深く入っていらっしゃるからこそ、絵を描くことができるのです。

もちろん、いろいろな経験を経なくても、「お地蔵さまを描きなさい」といって描かせることはできます。でもそれでは、ただ描いただけになってしまって、心からの表現ではなくなってしまいます。

先日開催した祖父母会で、展示されたお地蔵さまの絵をご覧になった方が、芸術作品ですね。と仰ってくださいました。描画技術というよりも、子どもたちの心の中のお地蔵さまが紙の上に現れていらっしゃったからこそ、ご覧いただいた方がそう感じてくださったのだともいます。

20150922_描く2

20150922_描く2_2

描く 1

2015/09/21

9月に入ってすぐのある日、童形六体地蔵尊の前に年長の子どもたちが、並んでいました。お地蔵さまのお姿を描いていたのです。割り箸を削って作ったペンに墨汁をつけ、B4くらいの大きさの和紙風の上に描いてゆきます。

お地蔵さまを見つめる子どもたちの目は真剣そのもの。紙の上にお地蔵さまのお姿だけではなく、お地蔵さまの御心までを写し取ろうとしているかのようです。一心に描く子どもたちの傍らを通る参拝客の皆さんが口々に「上手だね」と声をかけてくださいますが、子どもたちはニコッとほほえみ返したら、またすぐに描きます。

一心に何かに取り組んでいるときの子どもたちの顔ほどステキなものはありません。そんな子どもたちのステキな顔が少しでも増えることを心から願ってやみません。
では、子どもたちのステキな顔を見ることができるのは、どんなときか?それは、その子が「やりたい!」と思ったことをやっているときです。「やりたい!」と思ったことに一心不乱に取り組んでいるとき、子どもたちはとても集中しています。集中しているときは、たとえ周囲が騒がしくても、全く意に介さず自分のやりたいことに取り組みます。そんな姿を見ていると、「片付けなさい!」なんて一方的に中断させるような言い方はとてもできません。

一心不乱とも言えるほど集中してものごとに取り組む経験を、子どもたちにたくさんさせてあげたいと思います。幼児期に集中する経験をたくさんしていると、その、充実感、楽しさ、満足感がよくわかるので、大きくなっても集中しやすくなります。勉強でも、スポーツでもどんなことでも、集中して取り組むことができるようになるのだと思います。

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