園長ブログ

義経祭

2011/09/16

源義経、幼名牛若丸は、6歳の時に鞍馬山の東光坊阿闍梨に預けられ、16歳で奥州に向かうまでの10年間を鞍馬山で過ごし、学問や剣術修行に励んだと言われています。鞍馬山を後にした牛若丸は自らの手で元服を行い、九郎義経と名乗りました。後の一ノ谷・八島・壇ノ浦の武勇は有名です。しかし、兄頼朝に疎まれ、衣川で最後を遂げます。悲劇のヒーローとして人々の同情をよんで、判官贔屓と言うことばも生まれました。

鞍馬では、義経公の御魂が幼少期を過ごした懐かしい鞍馬山にお帰りになっているとといわれており、破邪顕正を司る護法魔王尊の脇侍、遮那王尊として祀られています。

義経公の御魂をお慰めすること、破邪顕正のお力を表していただくことを願って、鞍馬寺では毎年、9月15日に義経祭が行われています。祭儀自体は昭和になってから始まったものですが、そのころは、自ら元服するしかなかった義経のために元服式を再現して行っていたようです。現在は元服式は行っていませんが、様々な奉納があります。今年も、法要の間に行われた舞の奉納、法要後に本殿前で行われた合気道の奉納や一絃琴の奉納演奏、天狗舞鼓という芸能奉納などが行われていました。

皆、それぞれにすばらしいのですが、なかでも一絃琴の音色には心を打たれるものがありました。その名の通り1本の絃を弾くことで音を出すのですが、その音の厚みというか深さは1本の絃の音とは思えないほどです。

この義経祭に保育園から年長児12名が参加しました。装束を着けて行列に加わり、お供え物を献じるという役です。子どもたちは慣れているのか緊張しすぎることもなく、凛々しくお供えをし、法要とそれに続く奉納の舞、約1時間のあいだ、一緒にお参りしてくれました。奉納の舞「賤の苧環」を興味深げに、ときおり所作を小さく真似ながら楽しんでみている子もいましたが、暑いなか、慣れない着物を着ての一時間は少し辛かった子もいたかもしれません。お寺の法要に参加することは、良い経験になるとは思いますが、どんな形で参加すると子どもが輝けるのか、少し考える必要があるかもしれないと思いました。

自分で考え自分でやってみる

2011/09/15

当園は鞍馬小学校の学区内にあります。前にも書いたように鞍馬小学校は少子化の危機に直面しています。子どもたち一人ひとりを大切にする個に応じた教育を実践されているのに、その教育を受ける子どもが少ないのが残念です。

鞍馬小学校にも部活動がいくつかあり、その一つに柔道部があります。近隣の小学校から練習に来ている子も何人かいるのですが、それでも人数が少ないので、練習には工夫が必要です。同じくらいの体格や力量の相手がいないので、実践的な練習をするのが難しいのです。

その柔道部を友人が指導をしていることもあって、私もたまに畳の上げ下ろしを手伝いに行くことがあります。昨日、久しぶりに練習を見に行ったら、子どもたちがとても上達していたのです。特に高学年の子が、さまになっているというのか、フォームが良いというのか、前と比べるとずっと柔道らしく、かっこよくなっています。

練習が終わって、指導をしている知人に「みんな上手くなったね」というと、最近練習方法を少し変えたというのです。詳しく聞いてみると、以前は指導者が一方的に教えるだけだったのが、どうすれば技がよくかかるか、子どもが自分で考えるようにしたそうです。子どもと指導者が実際に組んで、動きながら「この体制ならどの技がいいかな?」「こうなったときにはどう体をさばくといいかな?」「それがいいね。」「もう少し手を上げた方が良いかも。」と考えるのだそうです。

普通なら、指導者がこの技はこんな時にこうかけてと教え、子どもが何度も打込みや乱取りをして身につけてゆくのでしょうが、乱取りや打込みをする相手がいないのですからそれもかないません。そこで、無いものねだりをしてもしょうがないので、今の状況で何ができるかを考えた結果、子どもと指導者が一緒に技について相談しながら練習する方法を選んだようです。

そうすると、その子はどうすれば技がかかりやすいか、相手がどんな体制の時にどのタイミングで技をかけると有効なのかを随分考えたそうです。その考えたことを、指導者相手に試してみると、思った以上にその技が有効だったり、それほどでもなかったりというのを経験し、それを繰り返す中で技を自分のものにしていったそうです。

「一緒に乱取りをしているとき、少し気を抜いた瞬間にその子に本気で投げられた。投げられてやったのではなく、投げられた。何年も教えているけどこんなことははじめてだ。」とその指導者は言っていました。

なるほどと思いました。子どもが自ら考え試してみる。それがうまくいくとおもしろい。そうすると、今度はこれをやってみよう、次にあれはどうだろうと、いろいろ試す。そのうちに技に対する理解も進み、自分の身体も動くようになるのです。

一方的に教えられ、やらされているだけでは、この子どもの主体性は発揮しにくいと思います。

子どもが自ら考え、相談し試すことができる環境を整えることによって、その子が自ら伸びる力を発揮していったのだと思います。

組み体操

2011/09/14

当園では毎年の運動会に組み体操をしています。組み体操というと、一糸乱れぬ動きで、様々な形を作ってゆくことが美しく、価値とされていることも多いと思います。でも、当園の組み体操はそういったところにあまり価値をおいていません。大切にしたいのは、完成するまでに子どもたちが話し合って自分たちで作り上げるということです。

先生に言われて行ういわゆる集団行動の訓練をするのではなく、一人ひとりが活かされる集団でありたいと思うのです。

今年の組み体操をどんなふうにするのかは、ほとんど子どもたちが決定したようです。もちろん保育士も大まかなテーマを提示したり、少しアドバイスはしましたが、基本的には子どもたちが、ああでもない、こうでもないと言いながら相談し合って決めました。とてつもなく時間がかかりなかなか形にならなかったそうですが、保育士は「きっとステキにできる!」と子どもたちを信じて、じっと待ったそうです。

2人組の表現では一人が地面に手をつき、もう一人がその子の足を持ち上げる「手押し車」をしていた子もいましたし、かたぐるまをしていた子もいました。最後には7人〜8人のグループで、自分たちの干支である酉(鳥)戌(犬)亥(猪)を、表現しました。それぞれの動物の特徴をどうやって表すかずいぶん工夫したようです。鳥は、くちばしや羽を、犬はピンと立った耳やしっぽを、猪は牙やしっぽ、なんとお腹のしたには内蔵もあるのです。近所の猟師さんが猪を解体しているところを見ていた子がいて、そういう意見を出したのかもしれませんね。

みんなで話し合い、意見を出し合い、納得し、合意して一つのことを行う。そうして成し遂げることがうれしい。子どもたちには、そんな経験をたくさんしてほしいと思います。時には主張がぶつかることもあるでしょう、そのなかでお互いに譲り合ったり、矛の個が出した別の観点からの意見でまとまったりすることを経験してほしいと思います。

  1. 自分の思いを伝えること。
  2. 相手の思いを受け止めること。
  3. お互いに認め合い、みんなで一緒に力を合わせること。
  4. 決して暴力で解決しようとしないこと。

これをたくさん経験し、みんなが心と力を合わせて何かを成し遂げることのうれしさ、楽しさを感じてほしいと思っています。

この子たちが大人になったときに、そうなってほしい。そういう社会を築いてほしいと願うからです。

信じる

2011/09/13

最初から上手にできたり、練習してできるようになった子がスランプに陥ることがよくあります。今年もそんなことがありました。

運動会で跳び箱に挑戦したい人を募った中に運動が得意な子がいて、その子は少し練習しただけですぐに跳び越せるようになりました。しかし、軽いけがをしてしまいしばらく練習していなかったのです。けがもほぼ治りいざやってみると、前はあれほど簡単に跳べていた跳び箱が全く跳び越せなくなっているのです。勢いもあるしフォームもきれいなのですが、最後に手に重心をおいて体重移動するところができなくて、跳び越せないのです。

保育士は、離れたところから子どもたちを見ています。その子が跳び越せなくて、ちょこんと跳び箱の上に座ってしまうたびに、私は「こうした方がいいよ」と出そうになることばをぐっと飲み込みます。ちゃんとできているのに、最後のところでブレーキをかけてしまっているのがありありとわかるのです。それを見ているうちに、焦りが出てしまったのが私の間違いでした。よせば良いのに、その子に「この方が良いんじゃない?」と言ってしまったのです。

「このあいだまでできていたのにできなくなってる。なんで???どうしよう!?」と一番不安になっていたのはその子のはずなのに、それに追い打ちをかけるようなことをしてしまったので、その不安が堰を切って涙となってあふれ、それ以上できなくなってしまいました。

「見守ることが大切!」とあれほど言っているにもかかわらず自分自身それができていなかったことに気がつき、すぐにその子に謝りましたが、もう手遅れです。

あとは、その子が立ち直るのを信じて待つしかありません。

教えることより、その子の気持ちに寄り添い共感することが必要だったのに、「ああだよ」「こうだよ」「この方が良いんじゃない」と教えたくなってしまったのです。ことばにした方が良いのか、黙って見ている方が良いのかをよく考え、そのときその子に一番適当な方法を選ぶ必要があるのです。その前提は、子どもが自ら育つことを信じ、子ども主体で考えて、必要最小限のお手伝いをさせていただくというスタンスなのです。そんなことはわかっているはずなのに、できていなかったのです。頭でわかっているだけではなく、それを実践してゆくためには、焦りや、我欲に引きずられないよう、自分の心を律することが必要だということを改めて気付かされました。

翌日、その子は見事に立ち直り、運動会当日も軽々と跳び箱を跳び越していました。

運動会 2

2011/09/12

自分の目標に向かって進む。そんな子どもたちの姿はとてもステキです。

当園の園庭には鉄棒、登り棒、滑り台があります。普段から登り棒や鉄棒を使っていろいろな遊びを展開していますが、ある時期ひとつの遊びが流行ることがあります。誰かが逆上がりに挑戦してできるようになったりすると、他の子もやってみたくなって、何人かが逆上がりをし始めたりします。そうしているうちに子どもどうしで教え合ったりしてできるようになる子がいます。

運動会で、逆上がりをする。という目標を立てたけれど、なかなかできない。友達はどんどんできるようになっていくなか、できない自分を見られるのは恥ずかしいし、どうしよう。それなら友達が帰った後に練習しよう。そう決めて頑張っていた子がいました。来る日も来る日も練習していたある日、わたしのところに「逆上がりできるようになったよ。」と教えに来て、やってみせてくれました。まだ少し危なげでしたが、回り終わって鉄棒の上からこちらを見るその子の満足げな顔は、なんともいえないステキな笑顔でした。一度できてからも、その子は自分の身体に覚え込ませるかのように何度も繰り返していました。友達にも「できるようになった」といってやってみせていましたし、他の子もまるで自分のことのように喜んでいました。

登り棒や鉄棒は園庭でいつも練習ができるのですが、跳び箱は用意したときにしかできないので、練習の機会が限られてしまします。そこを保育士が配慮して、子どもたちが自分の好きなものに自由に取り組めるよう、跳び箱も自由に練習できる時間をとっていたようです。跳び箱に挑戦している子もいれば、鉄棒に取り組んでいる子もいる。リレーのときにどうすれば早くバトンが渡せるか相談していたり、リレーごっこを楽しんでいる子もいる。そうかと思えば、ありの巣を見つけて中がどうなっているのかと調べている子がいるし、大きな石を並べて遊んでいる子もいる。そんな子どもが自ら選んで取り組める環境を設定していたのです。

その中でずっと跳び箱を跳んでいる子がいました。その子は「跳び箱5段跳べるようになる。」と決めて練習をしていたのです。何度も何度も挑戦をするのですが、最後のところが超えられません。でも、あきらめることなく何十回も挑戦し、ようやく少しおしりが引っかかりながらも跳び越すことができるようになり、その後3回くらいできれいに跳び越せるようになりました。その瞬間を見ていた何人かの子どもが「やったー!」と大喜び、その場にいた大人も全員同時に喜びの声を上げていました。本人の努力に任せようと、教えることはできるだけ控えていましたが、片時も目を離せなかったのです。跳び箱越しに振り向いた本人の笑顔も最高に輝いていました。

その子は、よほどうれしかったのでしょう。「忘れないようにもう少しやっとく?」との保育士の声がけに、そのあとも何十回、いや百回くらい跳び越していました。私は「少し休憩すれば」と言ったほどです。

それにしても、子どもの力はすごいものです。この姿からたくさんの勇気と元気をもらいました。この子どもの力を信じて見守ってゆきたいものです。

運動会 1

2011/09/11

9月10日土曜日、運動会を行いました。週間天気予報に雲と傘のマークが出ていたので心配しましたが、晴れたり曇ったりのまずまずのお天気でした。ただ、週の前半とはちちがって、とても蒸し暑くなりました。それでも、たくさんの保護者や来賓を迎え、卒園生なども来てくれて、手狭な運動場がさらに狭くなるくらいの盛況でした。暑い中ありがとうございました。

最近はいろいろなことを「これって何のためにやるのだろう?」と考えることがよくあります。そのことで、誰かのいのちが、何かのいのちが輝くかな?と振り返りたいと思っているからです。ところで、運動会って何のためにやるのでしょう?

  • 子どもたちの運動面を中心とした成長を保護者に見ていただくため。
  • 子どもたちの生活の節目とするため。

いろいろな目的があるでしょう。でも子どもから考えたときには、やはり生活の節目ということが大きいかもしれません。子どもたちは運動会が大好きで、心待ちにしています。非日常を味わうお祭りみたいな感じなのかもしれません。みんなで何かをするのが楽しくてしょうがなかったり「運動会までには鉄棒で逆上がりができるようになるんだ」と目標を持って取り組む。そんなきっかけになっていると思います。

毎年運動会では年長児が跳び箱、鉄棒、登り棒を使って自分ができること、やりたいことを発表する機会を設けています。何をするかは子どもたちが自分で選んで取り組んでいますが、今年は子どもたちが自分で目標を設定し、自ら取り組めるようにと考えたとのことでした。どんなふうにしてに取り組んでいるのか保育士に聞いていたときに、こんなことを言っていました。

自分が子どもの時には運動が苦手だったにもかかわらず、みんなと同じように同じことをしなくてはならなかった。そのことが、あまり良い思い出として残っていない。だから、子どもたちが何を使って何をするかを自分で決めて、それに向かって自分から取り組んでほしいと思っている。

「逆上がりができるようになりたい」と目標を立てた子、「跳び箱を跳べるようになりたい」と決めた子、様々でした。運動会という機会があって、そこに向けて自ら立てた目標を達成できるよう自ら取り組む。そこには一人ひとりのドラマがありました。少しずつ紹介できればと思います。

philosophy

2011/09/10

いきなりphilosophy?と思われるかもしれませんが、哲学の勉強をしようというのではありません。

先日、久しぶりに知り合いの会社社長のオフィスを訪ねました。近くに用事があって出向いたので少し立ち寄ったのです。その会社は、翻訳や通訳など外国語に関するサービスを幅広く提供していらっしゃる会社です。ビルのエレベーターを降りてオフィスのドアを開けた瞬間、とても清潔感あふれるスキッとした印象を受け、気持ちのいいオフィスだななと感じました。白色を基調とした内装だからという理由もあるとは思いますが、それだけの理由ではないのです。雰囲気というのでしょうか、受ける感じが清々しいのです。白は汚れが目立ちやすいので、美しく保つのには手間暇かけていらっしゃるのだろうな。などと考えていると、応接室に案内されました。途中オフィスのスタッフ全員が仕事の手を止め、立ち上がってむかえてくださったのには、ちょっと恐縮してしまいました。

応接室で社長さんと雑談や近況を報告をしているなかで、鞍馬山保育園が今、「みんなのいのち輝く」ことを目指し、職員全員が「すべてのいのちが輝くこと」に価値をおいて目標とし、みんなで一緒に同じ方向を見つめて進んでゆけるように力を合わせているところだ、と当園の理念とそれに向かって進もうとしている職員の姿を話しました。

すると、「うちのphilosophyは浄く正しくなんです」と社長さん。その言葉を聞いて、最初にこのオフィスに一歩足を踏み入れた時に感じた清々しい印象が甦り、その印象と、社長さんの言葉が頭の中で繋がりました。「この会社はphilosophy、つまり経営哲学(理念)がしっかりと行き渡っていて、オフィスの雰囲気にもそれが現れていつのだ」と。

果たして当園は、いきいき感や楽しい感、いのちが輝いている感じが園内にあふれていて、一歩足を踏み入れた瞬間、そんな気を感じてもらえるのでしょうか?

ナラ枯れ 3

2011/09/09

ナラ枯れには決め手となる有効な対策がないというのが現状ですが、カシナガがあけた穴を爪楊枝で塞いだカシの木の何本かは幹のあちこちから新芽を出していました。どうやら木全体がすぐに枯れてしまったわけではなかったようです。

爪楊枝の効果のほどはよくわかりませんが、カシナガが入ったからといって全ての木がすぐに枯れてしまうわけではないということです。人間でも何かの感染症に感染しても、症状が出る人と出ない人がいるのと似ているのかもしれません。

同じようにカシナガガ入っても、樹齢や生えている場所、入ったカシナガの数、人間がとった対策などなど、何がどう影響するのかは良くわかりませんが、すぐに枯れてしまう木もあれば、また、新芽を出す木もあるのですね。原因(因)がひとつであったとしても、様々な要素、条件(縁)が加わることによって、結果(果)は様々なのです。

ナラ枯れ対策にはいろいろな考え方があります。一つは直接的な原因を取り除くという考え方。ナラ枯れ対策でいえば、カシナガが入った木は伐採して薬剤でくん蒸し、ビニールで密封するという方法。これは、カシナガが他の木に移らないようにするという点では最もわかりやすく効果的でしょう。もう一方で自然に任せるという考え方もあります。その最たるものは、全くなにもしないことでしょう。

前者からは自然と人間が対峙し合っているイメージ、後者からは人間が自然から離れてしまっているイメージを受け、両方とも違和感を感じます。

大きな自然の働きからすれば、人間も他の生き物も生き物以外のものも、同様に自然の構成要素であって、優劣などはなく、同列に様々に繋がり合っているという視点、いわば「自然の一部としての人間」という視点から考えたいと思います。「自然保護」とか「地球に優しく」はどこか、人間が別の所にいる上から目線の感じがしてしまうのです。

カシの木に爪楊枝を差し込む作業をしていた担当者と話をしていたら、「木の力を信じたい。」といっていました。木は一本一本違うのです。カシナガが入ったからといって一律に何かをするというのは、どこかちがうのです。木と話しをすることができるなら「どうすれば良い?」と一本一本に聞いてみたいと思いました。

こんな風に木のことを考えていて思ったことがあります。

子どもだって一人ひとり違うのだから、一斉に一律に何かをさせるのはやっぱり不自然だし、一人ひとりにとって何が必要なのか、何が大切なのかをしっかりととらえ、その子に一番必要な環境を用意する。いわば一人ひとりを大切にすることが一番だと思い直しました。もちろん、子ども一人ひとりを、丸ごと信じ切ることが前提です。

新しい芽がたくさん出ました

爪楊枝の脇から新芽が・・・

ナラ枯れ 2

2011/09/08

カシノナガキクイムシ(以下カシナガと略します)が、幼虫のために木の中でナラ菌を栽培しているなんて、どこか不思議な気がします。しかし、関心ばかりはしていられません。木がどんどん枯れてしまうのです。防除策はいろいろ考えられているようですが、決め手になるものはないようです。

1. カシナガが穴をあける前の木には、幹にビニールを巻いたり、薬剤を塗ってカシナガが入らないようにする。

2. 幹の中に殺菌剤を注入し、ナラ菌の増殖を抑える

3. カシナガが孵化する前に木を伐採し、中にいるカシナガが出てこないように殺虫剤ででくん蒸して、ビニールフィルムで密封する。

4. 早い時期にカシナガのあけた穴を爪楊枝などで塞いで、出てこられないようにする。

私の聞いた限りではこのくらいです。

1. のビニールを巻いたり、薬剤を塗布する作戦はすべての木に施すことは不可能ですし、現実的ではない。

2. 3. の殺菌殺虫剤作戦は、薬剤の成分が土壌や他の生物に与える影響がわからない。

ということで行いませんでした。

唯一試してみたのが、4. の爪楊枝作戦でした。それも爪楊枝をあらかじめ木酢に浸しておいてから使いました。この方法もすべての穴を塞ぐことができるわけではありませんし、ビニール同様すべてのナラやカシに行うことはできません。でも実験的に試すのなら爪楊枝作戦ということで、爪楊枝で穴を塞ぐことのできる範囲には実際にやってみました。いざやってみるととてもたくさんの穴があるので大変ですし、高いところなどは届きません。できる限り爪楊枝を差し込んでいったら、幹から爪楊枝がたくさん突き出たハリネズミのような異様な姿になってしまい、参拝者から「何かのおまじないですか?」としばしば訪ねられました。

そんな苦労をして爪楊枝作戦を実行したのですが、大きな変化もなく、冬を迎えました。

カシノナガキクイムシ

カシノナガキクイムシがあけた穴

ナラ枯れ 1

2011/09/07

鞍馬周辺の山林では昨年に引き続き今年もナラ枯れが広がっています。

葉が茶色に枯れてしまったカシ

ナラ枯れは、ナラやカシの木の葉が急に茶色になって枯れてしまうのです。紅葉が始まったのかと間違えるくらいです。昨年あたりから鞍馬でもこのナラ枯れが増え始め、たくさんの被害が出ました。樹齢何百年もありそうなカシの木が枯れてしまった例もあり、今年もたくさんの木が枯れかかっています。

ナラ枯れの被害に遭っている木は、葉が枯れる前でも近くに行くとすぐにわかります。木の根元に、のこぎりで木を切ったときに出るような木くずがたくさん落ちているからです。

ナラ枯れは、体長5ミリメートルほどのカシノナガキクイムシという甲虫が引き起こすことがわかっています。カシノナガキクイムシが木の幹に穴を開けて侵入し、幹の中に縦横無尽に穴を掘ります。以前はそれが直接原因だと考えられていたのですが、直接の原因はカシノナガキクイムシが運ぶナラ菌が幹の中で増殖して、木が根から水を吸い上げることができなくなることだそうです。

根元に積もった木くず

まず、カシノナガキクイムシの雄が幹に穴を掘り、集合フェロモンという物質を出して雌を呼びます。雌が穴の中に卵を産み付けると同時に、背中に乗せて運んできたナラ菌を穴の中に植え付けます。これは卵から孵化した幼虫の餌にするためです。そうすると、ナラ菌が幹の中で繁殖して水の通り道を塞いでしまい、木が枯れてしまうというものです。

木が枯れてしまうのは大変困ったことですが、この虫の生態を知ったときには「なんとうまい仕組みを考えるのだろう」と感心してしまいました。

 

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