園長ブログ

カボチャ餃子

2011/11/15

畑に植えていたカボチャがたくさん収穫できたので、お供えをしてからみんなでいただくことにしました。どうやって食べるか、3・4・5歳児みんなで相談をしてカボチャスイーツを作ることになりました。どんなスイーツにするかは、スイーツ好きの保育士が考えたようです。自分の好きなことを考えたり形にするのはわくわくするものです。メニューは「カボチャ餃子」に決まりました。ゆでたカボチャをつぶして、バターと砂糖を加え餃子の皮で包んで焼くというシンプルなものです。事前に試作品を食べてみたら、素朴ながら深みのある味でした。

    しっかり押さえててね

まず、ゆで上がったカボチャをボウルに入れマッシャーでつぶします。かなりボリュームがあって小さな子どもには手強いようですが、一人だとボウルが不安定なので、何人かで押さえるなど各グループで工夫をしていました。バターや砂糖を入れて混ぜるのも一苦労です。こうして餃子の中身カボチャペーストができあがったら、ちょっとお味見。おいしいくて、ついつい何度も味見してしまいます。

     まるで職人技

次は、餃子の皮に包みます。カボチャペーストをスプーンですくって餃子の皮にのせるのですが、どうしてもスプーンにくっついてしまいます。ここでも子どもたちはそれぞれに試行錯誤しています。餃子の皮に塗りつけようとする子、指を使ってスプーンからはがしている子、直接触らない方が良いと思ったのか、スプーンを2つ使っている子もいました。皮の周囲に水をつけ、半分に折って周囲を押さえてくっつけたらできあがり。あとはホットプレートで焼くだけです。餃子の皮の包み方がとても上手な子がいました。他の子は半円形にするだけなのですが、その子は水を塗ってくっつけた部分を少しずつ折り重ねて本物の餃子のように作っています。しかも、とても手際が良いのです。「上手だね。お家で餃子作ったことあるの」と聞くと、にっこりとうなずいていました。

       焼けたかな

完成品は、5歳児が午後の時間を使って焼きあげました。11月からお昼寝をしなくなった5歳児だけの特別な時間です。焼き上がったら試食タイム。美味しくできたようで、みんな満足顔。自分で作ったんですから味も格別です。美味しそうだなと思って見ていたら、心を読まれたのか「ひとつどうぞ」と私の所に持ってきてくれました。一口食べるとカボチャとバターの香りが口の中に広がり、餃子の皮の食感とカボチャそのものの甘さが絶妙で、とても美味しくできています。子どもたちも美味しそうに試食しています。

     おいしくできました

どんなこともそうですが、興味を持って気持ちを向け、手間暇かけると体験として身につきます。最近は料理にあまり手間暇をかけなくても美味しいものが食べられるようになりました。手間暇をかけない分、早くて便利ですが、食材そのものや作る過程に対する興味は薄れてしまいます。自分の命をつないでゆくために必ず必要な食べるという行為に気持ちを向け、いただくいのちに感謝することを忘れないためにも、それを子どもに伝えるためにも、大人自身が気をつけていたいことです。カボチャ餃子を食べている子どもたちの満足そうな顔を見ながら考えました。

オルゴールの会 ♪聞いてみる♪

2011/11/14

オルゴールを実際に体験する日がやってきました。園児の保護者も何人か参加してくださいましたし、くらmamaのメンバーも5〜6人いらしてくださいました。

演奏してくださったのは、西賀茂にあるキコーオルゴールというお店のオーナー宮尾紀代子さんと、幼稚園の教頭先生をしていらした辻井裕美さんのお二人です。オルゴールや手回しオルガン、音の出るおもちゃなどを車に満載していらっしてくださいました。大きなディスクオルゴールは20㎏もあるそうです。それらを台の上に並べて、ひとつひとつ子どもたちに紹介してくださいました。

オルゴールの音はそんなに大きくありません。60人近い子どもと20人くらいの大人がいるなかで、ちゃんと聞こえるのだろうかと、始まるまでは心配していましたが、オルゴールの紹介が辻井さんの小さめのやさしい声で始まったので、子どもたちもとても静かに聞くことができました。

子どもたちに何かを伝えるときに、ついついこちらが大きな声になってしまうことがありますが、大きな声で話しかけると、子どもたちも大きな声になりますし、それに負けないようにと更に大きな声を出すと、子どもはもっと騒ぎます。小さめの声で話すと、子どもたちは聞くことに意識を集中させます。話しを聞かせるのではなく、話を聞こうと思える話し方をするのです。やらせるのではなく、自らやろうと思うように働きかけるのです。また、大きな声で心が落ち着くような優しい話し方をするのはとても難しいと思いますが、小さめの声ならやさしいトーンで話すこともできます。そうすれば、その場の雰囲気が落ち着いたものになります。

ですから、小さなオルゴールの音に子どもたちは真剣に聞き入っていました。特に0歳1歳2歳のクラスの子どもたちが真剣なまなざしで、聞いていたのが印象的でした。手回しオルガンのやさしい音に合わせて歌うときでも、子どもたちはやさしい声で歌っていました。条件さえ整えれば、子どもたちはちゃんと判断してできるのです。

ひととおり説明を聞いた後は、手回しオルガンを演奏させていただいたり、音の出るおもちゃで遊んだり、体験をさせていただきました。壊れやすかったり、中には貴重なものもあるオルゴールにも触るので、正直言って「壊したりしないだろうか」と心配になってしまいました。私はついつい「乱暴にしないで」とか「無理にしないで」と必要以上にことばで規制しそうになりますが、そのことばをぐっと飲み込んで「この子たちはちゃんとわきまえているから大丈夫!」と自分に言い聞かせました。「子どもを信じる」ことをしっかりと土台においておくことが大切ですね。手回しオルガンを回してみたい子どもたちもちゃんと並んで順番を待ち、とても丁寧に回していて、辻井さんから「やさしく回せるね」と誉めてもらっていました。

しっとりと落ち着いた、それでいてとても楽しい時間を過ごすことができました。演奏していただいた宮尾さん辻井さん、この企画をもちかけてくださった「くらmama」の皆さんありがとうございました。

オルゴールの音色に聞き入る子どもたち

演奏が終わるとシャボン玉をつくる人形のオルゴール

 

オルゴールの会 ♪しくみ♪

2011/11/13

オルゴールの音色の美しさの他に私が興味を持ったのは、その構造です。72弁のオルゴールだったと思うのですが、ピンが打たれたシリンダーを取り替えることなく3つの異なる曲が演奏できるそうです。どんな構造になっているのか、とても興味をそそられました。

オルゴールには大きく分けてシリンダーオルゴールとディスクオルゴールの2種類があるそうです。シリンダーオルゴールは円筒の表面にピンが打ってあって、そのピンが櫛形になった金属を弾いて音が出る、よく目にするもです。ディスクオルゴールはアナログレコードのような金属の円盤に穴があいていて、ディスクが回転するとその穴が、歯車のようなものを回し、その歯車が櫛形の金属を弾くという構造です。ディスクにピンが出ているのもあるそうですが、演奏していただいたオルゴールは穴があいたタイプでした。

私が一番興味を持ったのは、幅20㎝、奥行き10㎝、高さ5㎝ほどの小さな四角い青い箱です。その箱の上部に金色にメッキした金属のふたが取り付けてあって、演奏を始めるとその金属のふたが開き、3㎝ほどの美しい色をした小鳥が出てきて左右に向きを変えながらやさしい声で囀るのです。鳥の体は本物の鳥の羽でできているそうです。鳴き声はオルゴールというよりも、笛を鳴らしているような柔らかい音です。くちばしが鳴き声に合わせて開いたり閉じたり、尾羽が動いたりしていたと思います。そして、小鳥の足下は精緻な透かし彫りの入った金属で飾られています。演奏が終わると、小鳥が箱の中に戻っていってふたが閉じるのですが、透かし彫りの一部が鳥の大きさにくりぬかれていて、その部分が開いて小鳥が中に入るようになっているのです。どこがくりぬかれているのか、ほとんどわからないくらいの細工がなされていました。

これを見て、どんな構造になっているのか、どういう仕組みで動いたり音が出たりしているのか知りたくてしょうがなくなってしまいました。そんなわくわくしている自分に気付いたとき、子どもの頃におもちゃの中がどうなっているのか、ラジオがなぜ鳴るのか、知りたくて、分解していたことを思い出しました。直すと言っては分解して結局は壊してしまうのですが、ここがこういう部品で繋がっているから、こんな動きをするのだとわかると楽しくてしょうがなかったのを覚えています。

子どもは、いろいろなことに興味を持ち、知りたくなります。不思議なものがあれば、どうなっているのか見たくなります。それは世界を理解しようとする試みなのです。子どもたちがその探求心をしっかりと満たすことができ、さらなる探求心につながるような環境を整えておきたいと思います。

オルゴールの会 ♪ 音色 ♪

2011/11/12

鞍馬に「くらmama」という子育てサークルがあって、子育て中のお母さん方が集まって、手芸をしたり、おしゃべりしたり、たこ焼きパーティーをしたり楽しく活動していらっしゃいます。その「くらmama」さんにお誘いいただいて、一緒にオルゴールを聞く会を開催しました。

オルゴールはみんなよく知っていますし、聞いたことがあると思います。私も最初はオルゴールそのものよりも、いろいろな人が園に集まってきていただいて一緒に何かができる。つながりが広がるということに主な意義を感じていました。ところが、事前の打ち合わせで様々なオルゴールを体験させていただいたときに、その音色の優しさと音の深さに驚きました。それもそのはず、聞かせていただいたオルゴールは72弁といって、音を出す櫛形になった部分に櫛の歯が72あるのだそうです。72音階の音が出せるということです。私が知っていたのはせいぜい18弁くらいなので、出せる音の数が圧倒的に違います。もちろん単純に出せる音が多いからだけではなく、様々な部分の作りがちがうのでしょうが、そこだけとってみても違います。そのステキな音色を奏でるオルゴールを共鳴箱の上に置いていただいたら、そのすばらしさが一層増しました。音のボリュームが増すだけでなく、聞き取りにくかった周波数が聞こえるのか、様々な音が響き合うのか、音が更に深まり、まさに楽器です。打ち合わせもしばし中断で、音色に聞き入ってしまいました。正直言ってオルゴールがこれほどのものだとは思っていませんでした。最近の電子的に処理した音になれてしまった耳には、とても新鮮に響いてきます。ともすれば、便利さにつられてバーチャルが多くなってきているこの頃ですが、そんな時だからこそ、本当(実際)の物(=ホンモノ)のもつ存在感に触れる機会があった方が良いと感じました。それにしても、心が落ちつくやさしくて柔らかな音色です。気持ちよく聞き入っていたら、「オルゴール療法」というのがあって、心と身体の調子をを整えるのにオルゴールの音が効果があるということを、演奏してくださる方が教えてくださいました。納得できます。

オルゴールは共鳴箱を使ったとしてもそれほど大きな音が出るものではないので、必然的に耳を澄ませて、演奏に意識を集中して「聴く」ことになります。五感の内の聴覚を意識して使うことになります。子どもたちが、どれくらいオルゴールの音に聴き入るのか、楽しみになってきました。

鞍馬小学校学芸会

2011/11/11

5歳児たちが、鞍馬小学校の学芸会に行ってきました。事前に小学生から手作りの招待状が届き、学芸会鑑賞のお誘いと出演の依頼を受けました。ただ見せていただくだけではなく発表となると、どんな内容の発表をするのか選ばなくてはなりません。子どもたちと相談すると運動会で踊った『まつりがきたぞ』を発表したいという意見が多かったようで『まつりがきたぞ』の踊りと歌2曲を歌うことにしました。

子どもたちは運動会がよほど楽しかったらしく、今でも運動会で行ったことを遊びの中で再現しています。運動会などの行事は、もちろん日常ではありません。しかし、生活から離れたどこかからもってきて行ったものではなく、日常の生活の姿を、いつもの遊びで行っていることを、その中でで育ったところを見えるように形にするだけなので、もともと子どもにとってはあそびなのです。他の要素もたくさんありますが、基本はそこです。だから、こどもはそのまま遊べるのです。これが先生に怒られながら辛い思いをして、訓練したものなら遊びにはなりにくいのです。自らやりたいという意欲が湧かないからです。やらされてやったことは、やらされないとやらなくなります。自らやろうと思っていないからです。だから、自らやってみようという子どもの内側から湧き出てくる気持ちを、意欲が育つようにしたいと思っています。

小学校の学芸会当日、叡山電車の時間の都合でどうしても9時からの開会には間に合わなかったので、小学校のみなさんは2番目の1年生の劇を始めるのを園児たちが到着するまで待っていてくださいました。1年生には、去年まで一緒に過ごしていた先輩たちがいるので、園児たちも親しみを持って見ています。その1年生の劇を園児さんに見てもらいたいという小学校の先生のご配慮に感謝です。卒園児たちもしっかりと台詞をいい、意欲的にいきいきと表現しています。小学校でしっかりと育っていることがよくわかってとても嬉しくなりました。

鞍馬小学校は児童数が少ないので、学年の枠を超えた取り組みや、全校生徒が力を合わせられる取り組みが多く、学芸会のプログラムのなかにもそれを形にしたものがありました。地域の高齢者の方々の歌や、PTAのコーラスの発表もあって、こぢんまりとしたなかに一体感のあるとてもあたたかな学芸会でした。

いよいよ、園児たちの発表の番です。緞帳が上がってステージに立っている子どもたちの姿からは、緊張感と意欲が伝わってきます。初めての場所、多くの観客の前でライトに照らされながら、いきいきと発表する園児たちの姿が大きく見えました。

おかたづけ

2011/11/10

どうすれば、子どもたちが自ら片付けをするようになるのかな。ご家庭でも悩むところだと思います。先日、おかたづけに関してうれしいことがありました。

夕方、子どもたちがお迎えを待ちながら遊んでいる時間。私が出かけようと、ままごとコーナーの脇を通ると1歳児Hちゃんと4歳児Mちゃんの女の子2人がいるのが見えました。4歳児のMちゃんが小さなHちゃんと遊んであげているのだと思ったのですが、どうもMちゃんは浮かない顔をしています。「どうしたの」と聞くと「だれも、かたづけてくれへんねん。」確かにままごとコーナーがずいぶん散らかっています。Mちゃんはこの散らかり方を見て片付けようとしたけれど、1人ではとても手に負えないので、どうしようかと思案していたのです。

Mちゃんが散らかったままごとコーナーを自ら片付けようと思ってくれたことが何よりも嬉しく、「片付けようとしてくれてたんや、ありがとう」とお礼を言った後、ここは大人が手を出すよりも子ども同士の関わりにつなげる方が良いと思い、「1人で片付けるのが大変だったら、お友達に手伝ってって頼んでみたら。1人でできないときは手伝ってて頼んだらええんやで。」と提案してみました。「片付けるの大変やし手伝って。」「ええよ、一緒に片付けよ。」という会話があって何人かで片付け始める。そんな姿を想像しながら、その場を立ち去ろうとしたら、「先生手伝って」とMちゃんの声。まさかの展開に、出かけようとしていた私は一瞬戸惑いましたが、手伝ってと頼んで良いと言った舌の根も乾かないうちに断るわけにはいきません。一緒に片付けることにしました。

片付け始めてみるとかなり散らかっていて、子ども1人では手に負えないのがわかりました。私は何をどこに片付けると良いのかわからなかったので「フライパンはどこに片付けるの?」と尋ねると「そこに写真が貼ってあるからそれを見て片付けて!」とMちゃん。「お人形はどこ?」「それはこっち!」「この洋服は?」「それはこの箱やけど、先生たたみ方が違うで!」この調子でしばらく片付けるとだんだん美しくなってきました。「見てみ、だいぶきれいになったで」「ほんまやな」と少し嬉しくなりながら、片付けていると2歳児さんが2人やってきて、遊び始めました。Mちゃんは「今、片付けたとこのおもちゃ出さんといて!」とぷんぷんしていましたが、「まあええやん。小さなお友達におかたづけの見本見せて教えてあげたら。」というと、少し納得してまた片付け始めました。15分ほどかかったと思いますが、とてもきれいになりました。「Mちゃん見てみ。めっちゃきれいになったで。きれいに片付けると気持ちええなー!」「ほんまやなー!」Mちゃんも満足げです。

Mちゃんが自ら片付けようと思ってくれたこと、一人で手に負えないときは誰かに頼んで良いと理解して、私に応援を頼んだこと、最後までやり遂げたことが、とても嬉しくて翌日のお参りのときにみんなに「昨日とっても嬉しことがありました」と伝えました。最初はMちゃんとは言わず、4歳児の女の子とだけいって紹介していたら、5歳児のKくんが「4歳児の女の子ってだれ?」と何度も聞いてきました。誰だったかは最後に言おうと思ってたので、すぐには答えなかったのですが、当のMちゃんが「先生、Kくんが誰って聞いたはんで!」というので、名前を明かしました。

「それはMちゃんです」といったときのMちゃんの笑顔は忘れられません。

認める

2011/11/09

子どもたちが、この「お互いを認め合う」ことに喜びを感じてほしいと思います。そのためには、子ども自身が親や周りの大人から認められる必要があります。大人が、子どもの気になるところ(直した方が良いと思うところ)ばかりを見て、その子を認めず、それはダメ!これをしなさい!と自分の思うとおりに子どもをコントロールし、動かそうとしてばかりいると、子どもも他の人を認められなくなります。子どもが育ってゆく力の元が萎えてしまいます。それは避けたいものです。子どもに足りない部分ばかりを見る減点法的な見方ではなく、ちょっと足りない部分もあるけど、こんなステキなところもある、あんなすばらしいところもあるという見方をしたいものです。

みんながそうだとは言いませんが、親となるとどうしても自分の思うように子どもを動かしたくなってしまい、必要以上に干渉したくなるときがあります。「この子はより良く育ってほしい」という気持ちからなのはよくわかりますし、何度言ってもわかってもらえないとついイラッとしてしまうことだってあるのもわかります。そんなときに自分の心に余裕がないと、ついその気持ちをことばや態度にして子どもにぶつけてしまいます。そうなると子どもは辛いし、大人も悲しくなってしまいます。一歩下がって、イライラを子どもにぶつけようとしている自分を冷静に観察して、イライラに翻弄され暴走しそうになっている心にストップがかけられると、子どもも大人もいやな思いをしなくてすみます。

この一歩下がるという距離感はとても大切です。自分の心を冷静に見つめるという意味でも大切ですし、子どもとの距離という意味でも大切です。つい子どもにべったりくっついて、ああしなさい!こうしなさい!と指示をだしてしまいます。子どもに甘え依存してしまわず、子どもを丸ごと信じて認め少し離れたところから見ることができると、お互いハッピーでいられると思います。

子どもがやっていることには全て意味があります。たとえ、大人にはつまらないことに見えてもその子にとっては大切なことがあります。もし大人にとって困ったことをしていても、それはつぎの育ちのための準備をしているのかもしれません。

子どもの今を丸ごと信じ、認めるということを大人自身が実行することで、子どもも誰かを認めることができるようになるのです。もし、子どもに「お互いを認め合えるようになってほしい」と願うなら、まず大人がそうすることが必要です。子どもは周りの大人を真似て育つのですから・・・

ひとの役割

2011/11/08

ものの役割ということについて考えていたら、人もそうだと思いました。みんな役割を持っているのです。子どもでも、高齢者でも、男の人でも、女の人でも、誰でもその人ひとりひとりの役割があるはずです。そしてその役割が果たせるときが、いのちが輝くときなのです。

違う言い方をすれば、一人ひとりがそれぞれにステキなところを持っていて、それが発揮できる、自分の得意技を活かして誰かの役に立てる。自分が楽しい、うれしいと思って行うことで、誰かが喜んだり幸せになったりできる。こんなにうれしいことはなく、これほどいのちが輝くときはないと思います。

みんなが同じではないので、それぞれにもっている得意技が違います。それぞれの得意技を持ちより力を合わせれば、その力は何倍にもなります。そんな関係ができている集団には力があります。一人ひとりが、喜んでやるっている、やりたくてしょうがないことやっているのですから、力にならないはずはありません。一人ひとりが輝くことで全体としての輝きが増すのです。そんな集団がたくさんあればいいのにと思います。

そうなる前提として、お互いが認め合うことが必ず必要です。自分の考えだけが正しくて、人の考えは間違っている。だから人も自分の考えるとおりにやらなくてはならないし、それをやらない人はダメだ。となってしまうと、ダメだと言われる人はうれしいはずがありませんし、思い通りにならないといって苦しむのは、誰あろう自分自身なのです。意見が違えば、心を開いて徹底的に話し合えば良いのです。

そうなのに、「自分の思うとおりにしたい」という欲に振り回されて、苦しんでしまうのです。よほど気をつけて自分の心をコントロールしていないと、すぐにこの欲が出てきて暴れるので、心を持って行かれそうになります。気をつけたいものです。

認め合うことは、まず自分が相手を認めることから始まります。相手のステキをみつけることです。誰かのステキを見つけて尊敬できる。この誰かのステキがその人の役割なのでしょう。みんながお互いに認め合えれば、みんな幸せになれる。そんなふうでいられるといいなと思います。

みんなが幸せになんてなれないのでしょうか?

そろそろ人間もその方向を目指して進化しても良い頃だと思うのですが・・・

もののいのち

2011/11/07

ごみのことをもう少し考えてみました。当園は「みんなのいのち輝く」ことを目指しています。「いのち」ということばに「役割」という意味を見いだせば、生物だけでなく、たとえ石や水といった無生物であっても「いのち」があるといえます。ですから、全てのものにはいのち(役割)があって、そこにいるのです。ですから、一仕事終えてひとつの役割を果たしたら、次の役割をはたすことでそのいのちを輝かせてほしいと思います。その役割が見えないことや気付かないことが多くて、すぐに何の役にも立たないと決めつけるから、ごみになってしまうのです。

ごみ問題ではよく3Rということが言われます。Reduce(リデュース)ごみの発生抑制・Reuse(リユース)再使用・Recycle(リサイクル)ごみの再生利用です。役割という視点で考えると、リデュースはごみにしないで別の役割を考えてみる、リユースはもう一度同じ役割を果たしてもらう、リサイクルは姿を変えて次の役割が果たせるようにすることだといえます。

こういうと、何でもかんでも残して、ため込むと片付かないと言われそうです。その通りです。ため込んでしまうと、そのものが役割を果たせなくなるので、ため込まない方が良さそうです。これがなかなかできないのですが・・・

ひとつひとつのものに役割を見出す努力をする。役割を見いだせなくて、捨てる場合でも、「ご苦労様、ありがとう」という感謝の気持ちは持ちたいと思います。

ごみ

2011/11/06

最近、ごみについて考える機会がありました。できるだけ排出するごみを少なくしたいという視点で、何人かの職員と話し合ってみたのです。その中で、そもそも「ごみってなんだろう」という話になりました。

広辞苑には「物の役に立たず、ない方がよいもの。ちり。あくた。ほこり。また、つまらないもの。」とあります。ことばの意味としてはそうなのでしょうけれど、私たちが毎日排出している「ごみ」と呼ばれる物は、「本当に何の役にも立たたず、ない方がよいもの」なのでしょうか。

11月の京都は紅葉の美しさに惹かれていらっしゃる方々であふれます。鞍馬も例外ではありません。保育園があるお寺の境内は、お寺のみなさんがが美しく掃除していらっしゃることもあって、ゴミが少ないと思いますが、ときどき空のペットボトルやお弁当の容器などが、トイレの脇などに置いてあることがあります。ごみといわれるものです。しかし少し考えると、このペットボトルやお弁当の容器は中身が入っているときはとっても重要な役割を果たしていたはずです。持ってきた人ののどの渇きを癒やしたり、空腹を満たすためのお茶やごはんを運んできたのです。物の役に立たないどころか、立派な役割を果たしていたはずです。それなのに、役割が終われば、ポイ!なのでしょうか。

お寺の境内に「ごみ(役目を終えた物)の持ち帰りにご協力ください。」という掲示があります。人であれば誰かが何かの役を果たせば、ありがとうとかご苦労様といって労をねぎらい、またよろしくお願いしますというはずです。ペットボトルだってお弁当容器だって、立派に役割を果たしたはずです。せめて、「お茶やお弁当を運んでくれてありがとう」という心は持ちたいものです。考え方の起点をそこに置けば、ただ、ポイ!と捨てるのではなく、何か次に活きてくれることを考えられるように思います。

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