園長ブログ

最高のクラスのつくり方

2011/12/05

○×小学校の6年1組に転校生がやってきました。名前はあかね・・・そんな書き出しだしで始まる1冊の本があります。題名は『最高のクラスのつくり方』、あかねが転校してきたクラスを紹介してくれます。そのクラスは世界で一番ステキなクラスを目指しているのでした。

クラス目標:学級会で運動会のクラス目標を決めるために、先生も子どももみんなが輪になって話し合っています。「クラス目標って先生が決めるもの」と思っていたあかねに、みおが「みんなで作らなきゃみんなの目標にならないし、先生が作った目標だと先生が作った目標だからと言い訳して実行しないと思う。」と言います。子どもたちが自分たちの目標を自分たちで決めてそれに向かって力を合わせ、終わったとは振り返ることを実践しているのです。

教室:いいクラスを作るには、まずはいい教室からということで、4月に子どもたちがみんなで協力し、工夫して作った教室です。机の配置は、子どもどうしで勉強や話し合いがしやすいように4〜5人ずつ向かいあわせに座れるようにしてあったり、タタミを敷いた図書コーナーでは読書はもちろんおしゃべりしたりのんびりしたりすることができます。

友達関係:「一人ぼっちをつくらない」をクラスのモットーにしていて、クラスのみんながいい関係でいられることを大切にしています。みんなが親友になれるわけはないので、クラス内でグループができるのはしようがないけれど、それはそれで大切にしながらグループ以外の子にも積極的に声をかけるように自分たちで決めているのです。考え方が違う人ともいい関係を作れることを大切にしています。これって大人になっても大切なことですよね。

授業:算数の授業中「ねえねえ、ここわかった?」と言いながら、ノートを持って友達に聞きに行く子がいます。子どもたちが授業中に席を立ったり話し合ったりする姿に驚くあかねに、つとむがこのクラスの授業は子どもどうしで教え合うというのが基本だと話します。教えてもらう子はよくわかるし、教える方も教えることで自分の考えが整理できたり理解が深まるのです。先生はというと大事なポイントとヒントだけ示して子どもたちが自分で答えを見つけるのを待っているのです。お互いに教え合うことで子どもたちの学びが深まることもステキです。もう一つ重要なのは、勉強でもなんでもクラスメイトのだれ一人として「おいてきぼりにしない」ことを大切にしていることです。

こんなステキなクラスについて書かれた本に出会ったので、紹介します。ここに出てくるクラスは実在したクラスで、この本を作ったのも子どもたちなんだそうです。

 

『最高のクラスのつくりかた』
2010年2月20日初版第1刷発行
小学館
著者
埼玉県狭山市立堀兼小学校6年1組(2008年度卒業生)
岩瀨 直樹(担任の先生)

生活発表会

2011/12/04

当園では毎年12月の第1土曜日に生活発表会を行っています。今年もお寺の施設を借りて行い、会場には入りきれないほどの園児の家族がいらしてくださいました。

子どもたちは、各年齢ごとに発達に応じた生活の様子を発表しました。0・1歳児は普段保育室で遊んでいる様子を発表し、2歳児はお気に入りの絵本のお話を2歳児なりに表現していました。子どもたちができるだけ普段の様子が出せるようにと思いますが、たくさんの観客が見守る舞台の上といういつもとは全く違う環境で、普段の園での姿をというのも、子どもたちにとっては難しいことかもしれません。少し緊張気味でしたが、乳児クラスの子どもたちは楽しそうに取り組んでいました。

3歳児も、みんなが大好きでいつもいつも読んでもらっている絵本ごっこをしていました。普段から絵本を読んではごっこ遊びをしていたようで、とっても楽しそうに元気に自分なりに表現している姿はほほえましいものです。子どもたちは本当にお話の世界に入り、現実の世界とつなぐことができるのですね。

4・5歳児くらいになってくると台詞もすこし難しくなってきて、覚えないといけない部分が増えてくるので、よく練習していました。練習というと、覚え込まなければならないと思いがちですが、子どもたちは、練習をとても楽しみにしたいたようです。私はずっと子どもたちが練習する様子を見ていたのですが、子どもたちの能力の高さを改めて感じました。回を重ねるごとにどんどん上手になってゆき、5歳児はどう表現すれば良いかなども自分で考えていました。

大人はついつい欲が出て、少し良くなれば、もっと良くなって欲しいと思い、ああした方が良い、こうした方が良いと言いがちです。私もついついそうなるのですが、まずは子どものそのままをしっかり認めてあげることを忘れないようにしたいと思います。

本番の5歳児の劇では、少し嬉しい、そして悲しい場面で、役になりきって感情移入していたのか、やり遂げた達成感が嬉しかったのか、何人かの子が涙ぐんでいるように見えました。「ステキだね」と思っていると私も涙が出そうになりました。

また、保護者の出し物があって、たくさんの方が参加してダンスを披露してくださいました。何度も練習し、とてもステキに踊っていただいたのにもかかわらず、本番は音響機器のトラブルでご迷惑をおかけしてしまいました。すみませんでした。職員の出し物もあるのですが、笑いをとろうと悪のりしすぎてしまいました。反省です。

昨年度1年間一緒に仕事をしていた2人の保育士が発表会を見に来てくれました。1人は和歌山から始発に乗って来てくれたのです。場所は違っても同じ志をもって保育している仲間でいてくれるように思いとても嬉しく感じました。

楽しい

2011/12/03

「楽しい」は当園の大切にしていることのひとつでもあり、基本コンセプトでもあります。ただ、「楽しい」と一言で言いますが、それほど簡単なことでもないようにも思います。楽しいって、どういうことでしょう。ただ単に、おもしろおかしい楽しいもあれば、努力の積み重ねによってしか得られない達成感のような楽しさもありますし、だれかと気持ちが通じ合ったときの楽しさうれしさもあります。いろいろな「楽しい」があります。どんな楽しさでも、それぞれに大切ですし、どんな状況からでも楽しさを見つけ出すことができればうれしいと思います。しかし、どうしても「楽しい」というと、おもしろおかしいだけの楽しさがイメージされることが多いようです。

ある会社に勤める30代前半の知り合いの男性と久しぶりに会い話す機会がありました。初めて会ったのは、その方が小学生か中学生くらいの時だと記憶しているので、もう20年近くも前になります。

彼はとても頑張って仕事をしていて、夜遅くまで会社で仕事をしたあと、家にも持ち帰って仕事をし、寝るのは日が変わってから。にもかかわらず、翌朝5時には起きて始発で出社することもあるというほど頑張っているそうです。若いからこそできることだとうらやましく思いました。断っておきますが、決して長時間労働を賞賛しているわけではありませんので、誤解しないでください。

そんな彼に、私は「仕事は楽しいですか。」と尋ねてしまいました。すると彼はしばらく考えて、「今は、ともかくがむしゃらにでもやるだけで、楽しいかどうかはまだわかりません。」と答えてくれました。

私は簡単に「楽しい?」と尋ねたことを後悔しました。私の口にした「楽しい」が薄っぺらだったなと思ったのです。それと同時に、本当の楽しさは重ねた努力の上にこそ感じられるのかもしれないと考えました。楽しさと努力することは、楽しいからこそ努力もできるし、努力が報われて楽しくなることもある。お互いに補い合うものでしょうか。また、一方で、ただ楽しいことがあっても良いとも思います。

「楽しい」といって、そればかり考えていると、どうしても狭い視野や短いスパンで考えて、楽しいか楽しくないかという判断をしがちですが、いつも、いろいろな方向から考え続けていることが必要だと思い直しました。

冬の初め

2011/12/02

昨日の未明にはとても強い風が吹いていて風音で目が覚めました。外は真っ暗で何も見えません。日の出時刻の6時46分までは3時間もあるのですから当然です。布団の中でヒュー・ピューという音を聞きながら、この強い風に色づいた木の葉は舞い飛んでいるのだろうと想像しました。孟浩然の「春暁」は花だけど、今はもみじだなどと思っているあいだに、また少し眠ってしまいました。明るくなって外に出てみると、地面に落ち葉が積もっています。昨日まで紅葉していた木も、ずいぶん葉を落としてすっかり冬支度です。それもそのはず、冬至まで21日なのですから。今年も最後の月になってしまいました。どんよりと曇った空から雨が落ちてくると、もう冬の景色です。

昼間も風が強く、飛ばされた枯れ葉が舞っています。園の前を歩いていると、数枚の葉をつけた小さな枝が、ヘリコプターのようにくるくると回りながら落ちてきます。拾ってみるとケヤキの小枝でした。葉の付け根にいくつか実がついています。前にも書きましたが、ケヤキは種を遠くまで飛ばすために、数枚の葉をつけた小枝ごと大きな枝から離れるようです。前からどんなふうに飛んでゆくのだろうと疑問に思っていましたが、くるくる回りながら滞空時間を長くして遠くにまで飛ぼうとしている様子を実際に見ることができ、1人で感激していました。

もみじなどが落葉するときは枝と葉の間に離層という水分や養分を通しにくい層ができます。離層の働きで葉に糖分などが残って赤や黄に色づき、やがてその部分から葉が離れてゆくと言われています。しかし、ケヤキには離層ができるという説とできないという説があってよくわかりません。断面はどうなっているのだろうと調べてみたくなり、実体顕微鏡を持ち出してきて次の3つを見ました。

  • 手で折った小枝の断面(ケヤキ)
  • 小枝が自然に枝から離れた部分(ケヤキ)
  • もみじの葉の付け根

の3種類を見比べてみました。

手で折った小枝の断面と自然に枝から離れた部分では、明らかに形状が異なっています。手で折った方は、ただ折れていますが、自然に枝から離れた部分は、皮が外側にめくれ返ったように太くなり、中心部分とのあいだに少し隙間ができています。また、皮のあたりは断面が滑らかに見えます。ちなみに、もみじの葉の付け根は外側に反るように太くなり、断面は穴があいたようにへこんでいます。

詳しい説明はできませんが、自然に離れたケヤキの小枝の断面は、手で折ったものと形状が異なっていることがわかりました。(写真があるとわかりやすいのですが…ゴメンナサイ)

顕微鏡をのぞいていて、断面の形状だけではなく、少しだけ毛のようなものが生えている部分があったり、枝の芯部分の質感がフワフワやわらかそうにみえたり、そこに広がる世界の楽しさを再認識しました。園にも同じ実体顕微鏡が何台かあるので、子どもが体験する機会を増やしたいと思います。

ケーブルカー

2011/12/01

当園の園舎は鞍馬山ケーブル山門駅の近くにあり、園舎の2階の窓からケーブルカーが発着する様子が見えます。お散歩で鞍馬山に登りたいときは子どもたちが乗せてもらうこともあります。子どもたちは、ケーブルカーに乗るのが大好きで、特に1・2歳児はとても喜んで乗っています。鞍馬山ケーブルには、日本で唯一のことが2つあります。一つは、宗教法人が運営している鉄道だということ、もう一つは日本で一番短い鉄道だということです。山門駅と多宝塔駅の間の約200メートル、高低差90メートルの間を一台の車両が往復しています。二つとも鉄道事業法による鋼索鉄道としてはという条件付きですが…11月は紅葉を求めて来山される方が多かったので、ケーブルカーは休むことなく動いていました。そんな、子どもたちも慣れ親しんでいるケーブルカーに最近、私は少し興味を持っています。

京都の近くにもいくつかのケーブルカーがあります。京都側から比叡山に登るための叡山ケーブル、滋賀県側から登るための坂本ケーブル、そして男山ケーブルです。先日石清水八幡宮にお参りした際に男山ケーブルに乗りました。

八幡市駅から男山山上駅までの全長400メートル高低差82メートルの間を2台の車両が往復しています。車両が大きく、長さが13.5メートル幅が2.6メートル定員が145名でした。400メートルの路線にはトンネルあり鉄橋あり、景色も楽しめます。路線のまん中あたりだけ複線となっていて、2台の車両がうまく行き違うことができる構造になっています。線路が単線から複線へ分岐するのですからそこには、普通の鉄道にある可動式の分岐器(ポイント)があるかと思っていましたが、そうではなく、車輪の形状が車両の左右で異なることによって、線路を動かすことなく、うまく行き違いできるようになっているようです。普通の鉄道は車輪の内側にフランジと呼ばれる出っ張りがあり、脱線を防止していますが、ケーブルカーには行き違い時に外側になる車輪には両側にフランジがあって、その両側フランジの車輪が線路をしっかりつかむことによって、車両が線路に添って動き、逆に内側の車輪にはフランジがなく、分岐器の上を自由に移動できるという仕組みです。よく考えてあるものだと感心しました。

八幡市駅の男山ケーブル

トンネルの中の行き違い部分

 

山上駅に説明がありました

石清水八幡宮

2011/11/30

先日、京都府八幡市の男山にある石清水八幡宮にお参りしてきました。京阪電車の八幡市駅から、同じく京阪電車が運営する男山ケーブルに乗ること約3分で男山山上駅に到着します。ケーブルを降りてなだらかな参道をしばらく登ると本殿に続く石畳の参道へ出ます。手水舎で手水を使ったあと南総門をくぐって本殿に参拝します。

石清水八幡宮の歴史は古く、貞観元年(859年)大安寺の僧行教が宇佐神宮で神託を受け、八幡神を男山に勧請したことが起源です。男山は京都の南西に位置し、都の裏鬼門にあたることから、石清水八幡宮は都の裏鬼門を守る王城守護、鎮護国家の神社とされてきました。対する都の北東、表鬼門を守護するのは比叡山延暦寺です。江戸時代までは神仏習合の宮寺で、男山48坊といわれるほど多くの宿坊があったようです。

日本人はもともと神社とお寺、神と仏を今ほど厳然と区別することなくお参りしていました。八百万の神々といわれるように万物に神を見るとともに、外来思想である仏教を受け入れ、神仏習合という信仰形態を形作ってきました。

お宮参りや七五三は神社にお参りし、結婚式は教会で行い、お葬式はお寺だったりすることをとらえて、日本人には宗教がないと欧米の方から言われたり、不思議がられたりすることがあるようです。一神教型の宗教ではないだけで、もともと日本人には様々なものを受け入れる性質があるのです。AかBかの二項対立だけで物事をとらえずに、AもBもうまく受容してそれぞれの良いところを活かすことをしてきました。そういったことが得意なのでしょう。現代は科学の名の下に様々な事象を切り分け、分析してきました。もちろんそれも大切なことですが、切り分けて一方を取りもう一方を排除するのではなく、AもBも受けとめて活かすことができる。そんな考え方が混迷の時代を切り開く鍵にならないものかと思います。もともとそういうことが得意な日本がそれをリードできないものでしょうか。お参りをしながらそんなことを考えてしまいました。

石清水八幡宮は、七五三のお参りで着物を着せてもらったかわいらしい女の子や凛々しい男の子で賑わっていました。なかにはお宮参りの小さな赤ちゃんもいらっしゃいました。この子たちが大きくなる頃には、憎しみや争いのない、みんなが認め合い活かし合える、そんな世界になっていていますように、この子たちがそういう社会を生きていますように、とお祈りしました。

祈るだけではなく、子どもたちがそういう社会を築くために、私たち大人が今すぐにでもしなくてはいけないことがたくさんあるはずです。

 

石清水八幡宮 南総門

石清水八幡宮 本殿

平和

2011/11/29

毎年11月23日には鞍馬寺で平和の祈りが行われており、今年が26回目にります。もともとは、世界の平和を願って活動されていたニュージーランドの方と、一緒に平和を祈りましょうということから始まった行事だと聞いています。

以前、ブログで紹介したスリランカ日本教育文化センターのチャンダシリ師も、毎年祈りの輪に加わっていらっしゃいますが、今年はいらしていませんでした。他には信徒の皆さんをはじめ、コーラスグループの歌やお琴や胡弓の演奏、フォルクローレの奉納演奏、様々な国からの留学生の皆さん、いろいろなご縁で集まった方々が本殿での法要に参加し、みなで共に平和を祈ります。参加者が丸く輪になって平和を祈ることばを唱えるところがあり、参加者の心がひとつになるように感じられて感動的です。

法要の後は、会場を移して平和の集いが行われ、毎年貫主様、チャンダシリ師の法話をはじめ、コーラスグループの歌声やお琴の演奏なども行われます。今年はタイと韓国からそれぞれ日本に留学されていたり、日本の大学で教鞭を執っていらっしゃる僧侶も参加されていて、それぞれにお経を唱えてお祈りあれました。韓国の方が唱えてくださった韓国語の般若心経は初めて聞きました。昨年は中国からの留学生がスピーチをされ、とても感動的だったのを覚えています。ご自身が留学を通じて経験された、人と人との温かなつながりや心の交流は、話すことばや、住んでいる国、人種が違っても同じだといった内容で、流ちょうな日本語でスピーチしてくださいました。

今年は、新たな試みで参加者一人ひとりが平和についてのメッセージを紙に書き、世界地図に貼り付け、世界を平和のメッセージで埋め尽くそうということがありました。「あなたにとって平和とは」「平和って何ですか」という問いにそれぞれが自分の思いを書きます。改めて「平和って何ですか」と聞かれると考えてしまいました。

近年、平和や平安、やすらぎといったこととは反対のことがたくさん起こっています。世界各地で紛争は絶えないどころか広がっていますし、世界的な経済不安もあります。日本も震災と原発だけでなく、不安だらけです。私は「子どもが育つことが難しい」状況が危機的だと感じます。

多くの人が「なにかおかしい!」「このままではだめだ!」「何とか方向転換しなくては!」と考えています。今こそ、これまでの価値観を問い直し、何を大切にするか考え直す時なのだと思います。とはいえ日常は今までのように流れています。特別な何かでも大きな運動でもなく、一人ひとりが「毎日をどう生きるのか?」真剣に考え、自分ができることを実践してゆくことが必要なのだと思います。

おみせやさんごっこ

2011/11/28

メニューにはカレー・からあげなどがあります。なににしますか?

先日、子どもたちが大々的にお店屋さんごっこをしていました。普段はお店屋さんを常設しておくスペースがないので、お店屋さんごっこをしたい子は仮店舗を開設して楽しんでいるくらいです。そんな子どもたちが半日だけでも、思いっきりお店屋さんごっこができる日が設けられました。おたのしみかいで保護者と一緒にお店を開店していたので、どんなお店を出すかと、誰がどのお店を担当するかはおたのしみかいとほぼ同じになりました。しかし、内容は全て子どもたちの手作りです。ストライクアウト・射的・メロンころがし・マッサージ・食べ物屋さんでした。4・5歳児が中心となってお店を作ったり、お店でサービスを受けるためのチケットを作って店員さんになり、3歳児以下の子がお客さんになってお店を訪れるという設定です。事前準備から4・5歳児はとても楽しんでいました。それぞれのお店をどう作るか、チケットはどんなデザインにするか、子どもどうしでいろいろと話し合って作り上げました。

「メロンころがし」メロンの形をした容器を転がしどこに入ったかで景品が決まります

当日、9時前から準備を始め、10時前には開店してお客さんをもてなしていました。3歳児は簡単な説明を受けて好きなように遊んでいました。0・1・2歳児の子どもたちには、4・5歳児たちが年齢に応じて懇切丁寧に説明してあげたり一緒にやって見せてあげたり、それぞれに合わせた対応をしていたので感心しました。普段はどんどん自分を前に出したい様子の男の子たちが、0歳や1歳の子どもたちに手取り足取りといった感じでとてもやさしく丁寧に接している姿が印象的でした。

子どもたちが一通りお店屋さんを訪れ、店員をしていた4・5歳児が交代で他のお店を回っている頃、私もお客さんになっておみせを巡りました。食べ物屋さんでは、丁寧にカレーを作ってくれましたし、各ゲームもやってみるといろいろと子どもの工夫が凝らされているのがわかります。個人的な好みで言えばマッサージ屋さんが気に入りました。子どもたちが肩や背中や足の先まで自作の様々な道具や自分の手を使いながらマッサージしてくれます。これがとっても気持ちよく、しばらく続けて欲しいと思うほどでした。

3人がかりでマッサージ 本当に気持ちいいんですよ!

こんな対応どこで覚えたの?本当の店員さんみたい。と思せる子どもたちの言葉づかいや立ち居振る舞いに感心します。それだけつぶさに観察しているということです。

準備時間も含めると9時から12時ごろまでの長い時間、子どもたちはとても楽しそうに、かつ真剣にお店屋さんごっこを楽しんでいました。

 

 

びわの花

2011/11/27

園庭の門を入った所にびわの木があります。20年近く前になるでしょうか、私が保育の仕事に関わりはじめた頃、当時一緒に仕事をした保育士がびわの種を植えたものが芽を出して、育っていったのです。当時は園児が20名ほどしか在籍せず、保育士も3〜4名しかいない、とてものんびりした小さな保育園でした。保育園というより、大きな家族のようだったかもしれません。少ない人数でいろいろな仕事をしなくてはならならず、休みも取りにくくて職員はずいぶん大変だったと思います。当時の園児たちはもう成人してそれぞれの道で活躍しています。時の経つのは早いものです。びわの木を見るとそんなことを思い出します。

そのびわの木も今では高さ3メートルくらいになりました。毎年夏にはたくさんの実をつけ、素朴な甘さで子どもたちの味覚を満足させてくれています。先頃、びわに木のまわりにたくさんハチがいるというので見に行くと、スズメバチがたくさん飛び回っています。よく見てみるとびわの木がたくさん花をつけていて、そこにスズメバチや小さな虫がたくさん集まっています。近づいて刺激をしなければ危険もなさそうなので、保育士たちにはハチが集まっているので気をつけるように伝えました。

毎年実が実っているので、この時期に花が咲いているのだと思いますが、実際に花が咲いているのを見たのは初めてでした。今まで気をつけていなくて、見過ごしていたのです。人間の感覚って不思議です。見ようと思うものだけが見えて意識を向けていないと目に入っていても見えていないのです。ハチがたくさん集まってきてくれたおかげで花に気がつきました。この花すべてが実になったら大変な数です。来年の夏はどうなるのでしょう。

輪になって

2011/11/26

お昼ごはんを食べ終わって、お当番の子どもたちがきれいに掃除を終えたランチルーム。少し静かな時間です。3・4歳児はお昼寝しにいったのかな、お昼寝をしなくなった5歳児は散歩に行ったのかな・・・

そう思っていたら、4・5歳児がみんなで丸く輪になって座っていました。保育士は少し離れたところに座っていて、時々何か言っていますが、どこかいつもと雰囲気が違います。何をしているのだろう?なにかやらかして叱られているのかな?気になったので、しばらく話しを聞いていました。どうやら、生活発表会で歌ったり、合奏する曲を何にするか相談しているようです。子どもたちに自分で曲を決めて欲しいと保育士は思ったようです。それも全員が、自分のこととして「この曲を歌い演奏する」と決めて欲しいと。

子どもたちを前に、「どんな曲にする?」と聞いてみると、よく話しをする子、自分の思いをどんどん前に出す子が大きな声で自分の好きな曲名を言い、発言をするのが苦手な子は何も言えず、そのままその曲に決まってしまう。ゆっくり考えたい子が自分の考えをまとめて発言する前に決まってしまう。ということがよくあります。

そうではなくて、みんなが自分の思いを伝えて欲しい。そして、一人ひとりの思いをお互いに知り合い、受けとめ合って欲しい。保育士はそう考えたのだと思います。

声の大きい人の意見ばかりが通る。人の意見も聞かず自分の思いばかりを人に押し付けようとする。大人の世界でもありがちなことですが、そうならずにみんなで意見を出し合い、それぞれの意見を尊重しあいながら、みんなが納得できるように考えることを大切にしたいのです。

そのためには、話し合う人みんなが自分の意見を出しやすい雰囲気が大切です。みんなが丸くなって座るというのはそんな雰囲気作りに有効です。みんながお互いの顔を見やすいということもありますし、なにより対等に話ができます。当園ではときどき職員が丸くなって座り、話しあう機会を持つようにしています。これを始めてから、お互いが少しずつ心を開いて話し合うことができるようになってきました。互いに心を開いて認め合う。子どもたちにこそそんな体験をして欲しいと思います。

子どもたちはといえば、ずいぶん長い時間をかけ、かなり真剣になって話し合っていました。これからもこんな体験を積み重ねて行ってくれると良いと思います。

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