園長ブログ

味覚

2011/12/15

おいしいいちごについて書いていたら、味覚のことが気になりました。乳幼児期は味覚が発達するときなので、この時期に経験した味が大人になったときの味の好みになると言われています。特に離乳期は大切で、離乳期に塩辛いものを多く食べていると大人になっても塩辛いものを好むようになるそうです。では、赤ちゃんはいつ頃から味を感じているのでしょうか。味を感じる味蕾という器官は妊娠12〜14週くらいから機能しはじめ、15週には味覚ができあがると言われています。味蕾の数は大人で約9,000ですが、赤ちゃんにはその1.3倍の12,000もあるそうです。味蕾の数だけで言えば赤ちゃんは大人よりも敏感に味を感じているのです。大人には感じられない味も感じていていて、発達するに従って必要の無いものは減らしてゆくのですね。発達するというと、獲得するとか、身につけるとか、どことなく付け足すイメージが強いのですが、逆にそぎ落とすこと、減らすことで発達していることがこの味蕾の数からもわかります。赤ちゃんは羊水を飲んでいますが、羊水に甘い味をつけると良く飲み、苦い味をつけるとあまり飲まなかったり、顔をしかめたりすることがわかっています。赤ちゃんはお母さんのおなかの中にいるときから味を感じているのですね。

味覚は、甘味、酸味、塩味、苦味の4種類(これにうま味を加えて5種類とすることもあります)があるとされています。子どもは野菜が苦手なことが多いのですが、これは野菜に含まれる苦味に拒否反応を示しているからです。苦味は毒だと思って本能的に拒否するのです。また酸味は腐敗していることと関係しているので、酸味も好まなかったりします。毒のあるものや、腐ったものは生命を脅かす可能性があるので、本能的に食べないようになっているのです。それに対して甘味はエネルギーの補給、塩味はミネラルの補給など生命の維持に必要なものなので、基本的に好みます。

では、なぜ成長するにつれて苦いものや酸っぱいものが食べられるようになるのでしょうか。それはひと言で言えば、慣れです。小さいときは苦味や酸味を本能的に拒否しますが、味を敏感に感じたとしても、それがおいしいとか、おいしくないという価値判断はしていません。その判断の基準は幼少期の食生活にあるといえます。つまり、だれと、なにを、どんな状況下で食べるかが重要になってくるのです。離乳食を口にしたとき「おいしいね」と笑顔で声をかけてあげると、赤ちゃんは「この感覚がおいしいということなんだ」とわかります。また、一緒に食事している誰かが、おいしそうに食べているものは「おいしいのかな」と思って食べたくなります。ですから誰かと一緒に食事をするというのは大切なことなのです。それも、お母さんと子どもの二人っきりではなく、赤ちゃんからおじいちゃんおばあちゃんまでいろいろな人がいる中で食事をすることが大切になってきます。いろいろな人が一緒に食事をすることで、赤ちゃんや子どもは、だれがどのようにして食べているかを見ることができるからです。

いちご

2011/12/14

先日園に行くと、いちごの箱が5つも届いていました。差出人は福岡県のある保育園の園長先生です。ここ何年か12月になると、とても立派ないちご「あまおう」をたくさん送ってくださるのです。もう5年くらい前になると思いますが、その園の園長先生ご夫妻がご旅行でたまたま鞍馬にいらっしゃいました。そのときに散歩にでかけていた当園の園児たちと、お寺の本殿前でしばらく時間を過ごしていただいたのがきっかけとなって、それ以来ずっとご縁をいただいています。こんなにして、毎年お心遣いをいただけることがほんとうにありがたく、感謝せずにはいられません。

    園児さんからの手紙

今年は、しっかりと描かれた女の子とかわいいいちごの絵に「えんのちかくでできたおいしいいちごです。みなさんでたべてください。」のメッセージが入った園児さんからの心のこもった手紙も添えていただきました。

箱を開けると、ゴルフボールくらいの真っ赤につやつやとかがやくいちごがたくさん並んでいます。早速、昼食のデザートにいただくことにしました。お皿にのった大きないちごに子どもたちはびっくり。食べてみるとまたまたびっくりといった表情です。それもそのはず、本当においしいのです。さわやかな、でもしっかりした甘さと酸味のバランスが絶妙で、豊かな香りと相まって、口にすると思わず笑顔になってしまいます。いちごに吸い付いたまま離れない0歳児がいたり、普段はフルーツはほとんど食べない子がこのいちごはしっかりと食べて、それをお母さんに伝えると大変驚いていらっしゃいました。一度食べると忘れられない味にどの子どもも感激していました。

お心遣いをいただいた園長先生、本当にありがとうございました。

カボチャ

2011/12/13

先日、園に行くと男性保育士がテラスに包丁とまな板を持ち出して、一生懸命何かを切っています。食べることに目がない私は、気になって「何切ってるの」と見に行ってみました。切っていたのはカボチャでした。そういえば、2階の祭壇に長いあいだお供えしてあったし、園庭の靴箱の横にもごろごろ並んでいたのを思い出しました。収穫したのは9月の終わりか10月初め頃で、前回カボチャ餃子を作ったのが11月11日だったので、カボチャを収穫してから2ヶ月以上置いてあったことになります。少し心配になった私が「収穫してからずいぶん長い間お供えしていたみたいだけど、大丈夫?」と聞くと、保育士は、とても堅くて切るのが大変なくらいで全く問題ないと言います。確かに堅そうですし、中もとてもきれいな色をしています。カットされてスーパーの店頭に並んでいるカボチャがすぐに傷むイメージが強かったので、カボチャは傷みやすいとばかり思い込んでいたのですが、傷がついたりしなければ、長持ちするのです。それよりも、収穫して時間が経つ方がカボチャのデンプンが分解され糖に変わる糖化が進むので、甘くなるらしいのです。「冬至にカボチャを食べると風邪を引かない」というので、カボチャは冬の食べ物のイメージが強いのですが、実が成るのは夏の終わりから秋です。それをうまく保存しておけば、冬至の頃においしくなっているということなのですね。

どうして食べるのか気になったので聞いてみると、「薄く切ってホットプレートで焼くだけです。」と保育士。至ってシンプルです。どうなるのかと思いながらも、自分の仕事に戻りました。しばらくするととても甘く香ばしい香りが漂ってきます。書類どころではなくなって、思わずカボチャを見に行ってしまいました。とても良い香りだったので、バターで焼いているのかと思ったのですが全くの素焼きだそうです。ちょうど焼けたのがあったので一口食べてみました。香りがとても良く、それだけでおいしく感じます。薄く切ってあったにもかかわらず、ホクホク感もあります。なんといってもとても甘くて味が濃くおいしいのです。思わず「おいしい!」と叫んでしまいました。ただ切って焼いただけでこんなにおいしいなんて感激です。子どもたちもとても喜んで食べていました。

畑に植えたカボチャが、大きくなって実をつける。それを収穫していただく。畑や作物の知識はほとんど無いに等しい私たちが、あまり世話もせずにおいて、畑をジャングルにしたカボチャ。収穫してからも長い間放っておいたのに、こんなにおいしくいただけるなんて、なんて幸せなんでしょう。偶然いろいろな条件が重なったからだとは思いますが、もしかしたら案外自然に生えたかぼちゃが、なりたいように大きくなって実をつけたのが良いのかもしれません。「自然に育つカを信じてあまり手を出しすぎない方が良い。」カボチャがそう教えてくれたように感じました。

月と地球

2011/12/12

朝日が昇る少し前、西の空が明るいと思ったら、山の端に月が隠れてゆくところでした。月の残光で杉の梢がシルエットで浮かび上がり、後光がさしているようにみえます。

このところ月を意識することが多かったので、以前読んだ雑誌に月の特集が組まれていたことを思い出し、もう一度読んでみました。

いつも見ている月は地球に最も近い天体ですし、身近で研究も進んでいるのかと思ったら、結構謎が多く、どうやって月ができたのかも確たる説がないようです。現在は地球の創成期に他の大きな星が地球に衝突し、そのときに散らばった破片が集まって月ができたとする「ジャイアント・インパクト説」が有力なようですが、それだけでは説明がつかないこともあるそうです。

地球と月と太陽の関係も大変深いもので、最もわかりやすいのが重力による関係です。海の潮汐が月や太陽の重力と関係があることはよく知られていることです。その地球上に暮らす私たち人間にもとても深く関わっているはずなのに、普段はそれを意識することが少なくなっているのではないでしょうか。

生命は原始の海で誕生しました。そして長い間海の中で過ごした後陸に上がることを選択した生命から人間は進化してきました。ですから、私たちの遺伝子には海の記憶が刻まれています。当然その中には潮汐に関するものもあり、遺伝子レベルで月や太陽と繋がっているのです。

月と地球が互いになくてはならない存在だったことを知り、普段は当たり前になってしまっている月や太陽、宇宙全てが一人ひとりと繋がっているのことを改めて思い直しました。

 

参考にさせていただいたのは…
月刊『MOKU』2009年9月号 MOKU出版株式会社 P40〜47
「余すことなく欠けることなく 〜月と地球の密接な関係〜」井田茂

月食

2011/12/11

月が照らし出す世界の美しさついて昨日は書きましたが、12月10日の夜には皆既月食があルのを知って、ところどころ観察してみました。早い時間は雲が多くほとんど月は見られなかったので、少し心配していたのですが、夜が更けるにつれ空が澄んできて、月食が始まる前は前日と同じように月光が降り注いでいました。月食は半影食→部分食→皆既食とすすみ、皆既食の最大を過ぎると逆の順序で元にもどってゆきます。20時30分頃から半影食が始まったらしいのですが、見た目にはほとんどわかりません。21:45ごろに部分食が始まると、それまで明るく輝いていた月が欠けてゆくのが目に見えてわかります。80分ほどかけて皆既食になり、23:32には皆既食の最大になります。皆既食の間はよく写真で見るような赤銅色の満月になります。約1時間のあいだ、赤い満月が空にかかっているは神秘的でした。

月が地球の影に入るから月食が起こるという原理がわかっていても、とても不思議な感じがするのですから、昔の人がこれを見たときはさぞかし驚き、不思議に思ったことでしょう。今まで煌々と輝いていた満月がだんだんかけてゆき、赤黒くなってしまうのです。それにとともにまわりもどんどん暗くなるのですから、天変地異が起こったと思いたくなるのもわかるような気がします。そんなことを思いながら月を見ていたら、身体が冷え切ってしまいました。

月は、とても身近な天体ですし、今日は満月だとか三日月だとか思うくらいで、最近はあまり気にとめることも少なかったのですが、この2日間で月の美しさや神秘さを改めて感じました。

        皆既食

    月・オリオン・すばる

2011/12/10

職員会議で、皆が思いを伝え合うとても有意義な話し合いをしていたら、ずいぶん遅くなってしまいました。園を出て空を見上げると、まん丸なお月様が輝いていています。とても美しかったのでしばらく眺めてしまいました。

家に帰ったのですが、どうもお月様が気になって外に出てみると、空一面雲に被われ、かろうじて月はこのあたりだろうとわかるくらいです。残念に思いながら家に戻りました。用事をしていてふと気付くと12時を過ぎていました。また月が気になって外に出てみると、さっきとはうって変わって雲は全くなく、眩しいくらいの月が冴え冴えと天空に輝いています。できるだけ月の明かりだけを感じたいと思って電灯の明かりが少ないところに移動してみました。都会では街灯があるので、暗いところを探すのが難しいと思いますが、このあたりでは比較的近くにみつかります。人工的な明かりの少ないところに行ってみると。全てが月の光に包まれ、濡れたようにしっとりと輝いていて、いつもの風景が全く違って見えます。ふと足下を見ると、自分の影がくっきりと地面に映っています。近くの石のうえでは、霜が月の光を受けてキラキラ輝いています。小さなダイヤモンドをちりばめたようです。ゆっくりと月を感じると、思っていたよりも月の光が明るいのに気付きました。空全体も黒ではなく、深い藍色になっています。月の光が空全体から降り注ぎ、世界を包んでいる感じです。気温の低さとも相まって、世界が凛とした空気に包まれているように感じました。とても寒かったのですが、静けさや安らぎ、清らかさを感じ、心がスッと澄んでいくような時間を味わうことができました。

小春日和

2011/12/09

朝早くには冷え込んだものの、お昼前には小春日和となったある日、0・1歳児が園の近くでゆったり遊んでいました。日向でゆっくりしているとお日様のあたたかさが柔らかく背中を包んでくれます。

1歳になった男の子が、参道のなだらかな階段を後ろ向きにハイハイしながら下りています。2〜3段下りては、階段に腰掛けて自分の行きたい方向を確かめるかのように下を眺め、また後ろ向きにハイハイします。ひたむきに階段を下りる姿と、休んでいるときのほっとしたような姿がかわいらしかったので、私は階段の上の方の少し離れたところからしゃがんで彼を見ていました。ふと目が合い、彼はじっと私を見つめます。どうしたいのだろう?と思いながら見ていると、またハイハイし出しました。今度は階段横のスロープを下ってみますが、あまりしっくりこないのか、階段に戻ってきます。ずっと見ているとまた目が合いました。しばらく私を見ていた彼はくるっと後ろを向いて階段の下を指さします。まるで「あっちに行くんだ!」「あっちに行きたいんだ!」と言っているようです。「あっちに行きたいの?」と声をかけると階段の下の方を指さしたまま、振り向いてじっと私を見つめます。私もじっと彼を見つめます。そして彼はまたハイハイを始めました。しばらく行っては座って、自分の向かっている方向を指さして私の顔を見ます。「見ててくれてる。あっちに行くんだよ!」と言っているのでしょうか。

ちょこんと座って、何か言いたげに指をさす彼に参拝者が「かわいいね」といいながら通り過ぎてゆきます。そんなことを繰り返しているうちになだらかな階段を下りきり、最後少し急な4段ほどはおしりで下りていました。平らなところに下りるとトコトコと歩いて友達が遊んでいるところに行きました。

「後ろ向きにハイハイして下りてきたよ。」と私が保育士に言うと「普段は歩いて下りるんですけどね。しばらく風邪でお休みしていて、久しぶりに来たから不安だったのかな。」と保育士。「早くお友達の所へ行きたいけれど、久しぶりの階段を歩くの不安だな。」と思っていたのかもしれませんし、ハイハイを楽しんでいたのかもしれません。

暖かい日差しにつつまれてひたむきに階段を下りる彼の姿はとてもステキでした。

ホントの仲間

2011/12/08

世界で一番ステキなクラスをめざす子どもたちの様子を紹介してきました。子どもたちが自分の力を発揮して自ら考え、相談して決め活動できる環境を用意し、子どもたちを信じてまかせ、それを支えていてあげれば、子どもたちはここまでできるのです。あかねもいよいよ6年1組の仲間になれたと実感します。

行事:合唱コンクールが迫ったある日、ソプラノを担当したあかねはどうしても歌えません。あかねは自分がオンチだから大きな声を出さない方がいいという思いもあって「わたし一人ぐらい声が小さくたって、みんなががんばれば平気でしょ!?」と言ってしまいます。それに対して「それは違うと思う。」「それじゃあかねのいる意味がなくなる。」「わたしたちにはあかねの声が必要。そうでないとこのクラスの歌声にならない。」「みんなのこと信じて思いっきり歌おう。結果より一人ひとりが全力を出すことの方が大事。」と友達が口々に言い出します。あかねはうれしさのあまり涙がこぼれそうになります。コンクール当日、午後の発表の前にあかねには最後にみんなでもう一回練習したいという思いが募りますが、授業中にそんなことを言い出す勇気もなく、迷っていたのですが、みんなで練習してきたことを思い出したら、思わず「先生、最後に練習の時間をください!」と叫んでいました。「そう言ってくれるの待ってたぞー」の先生の声にみんなから歓声が上がります。みんなもそう思っていたけど言い出せなかったのです。みおの「ありがとう」にあかねは「みんなのおかげ、これでホントに仲間になれた気がする」

みんながいろいろなことを自分のこととして全力で取り組むからこそ仲間になれる。と子どもたちが心から思っていることがわかります。クラス全員が「最高のクラスをつくる」という目標に向かって、それぞれにできることを全力で行う。そのことを大切にしている子どもたちの姿があるのです。

どうですか?私はとてもすばらしいと思います。こんな、仲間と力を合わせることの楽しさ、すばらしさを経験して育つ子が増えれば、もっとステキなクラスが増え、社会がもっとステキになると思います。子どもたちには幼児期からこのような経験をたくさんして欲しいと思います。固定概念に縛られ、何でも人のせいにして、人の悪いところばかり指摘し、文句ばかり言っている大人こそが見習わなくてはと思って自分をふりかえると、少し恥ずかしくなりました。

担任の先生が「ある日の…帰りの会 担任より」として後書きを書いていらっしゃいます。その中でこの本の成り立ちも紹介されていて、それにも心を動かされました。

とっても心に響く、そして勇気をもらえる1冊でした。

子どもの力

2011/12/07

『最高のクラスのつくりかた』から「こんな先生がイイ !!」をとりあげたのは、ここで子どもたちが「イイ」という先生像は、私たち鞍馬山保育園の職員がめざしている職員像にとても近いからです。そして子どもたちの姿や活動についても、こんなだと良いと思うのです。小学校6年生と乳幼児では違うでしょう。という声が聞こえてきそうですが、具体的な活動内容は発達に応じて異なっていても、子どもの心の持ち方(気持ち)や意欲、姿勢は共通だと思うのです。

トイレ掃除:子どもたちは「どうせやらなくてはいけないなら楽しい方がいいでしょ。」という考え方で、掃除をはじめとした様々なプロジェクトに取り組んでいます。掃除でいえば「掃除プロ制」掃除のプロを目指し、どうすればきれいになるか、楽しんでできるかを考え、自分たちでアイデアを出し合い工夫して楽しんでいるのです。例えば、テレビで見たミカンの皮からつくる洗剤を、先生に頼んで費用を出してもらって自分たちで作って使うとか、掃除道具を工夫して自作するとかしているのです。そのうえ、掃除が終わったら毎日良かったところ、改善した方が良いところを探して、みんなで振り返るというのです。子どもたちが、いきいきとトイレ掃除をする姿が目に浮かびます。

トラブル発生:転校してきたばかりのあかねは、このクラスのみんなは最初から仲が良かったのかな、と思ってももこに聞いてみました。ももこは自分のことを例にあげて話します。ももこは自分の髪型をしつこくからうのぼるに怒ります。のぼるは謝ったけど、ももこは無視し続けました。3日ほどして、みおの「誰かこのケンカの解決役になってくれない」の声がけに、けんたとひとみが解決役を買って出て当事者の話をじっくり聞いたあと「許せないなら許せなくても仕方ないと思う。でも許せるなら許してあげたらどうかな。」と提案してくれたおかげで、ももこは謝る人を無視し続ける自分も大人げないと思って許した。というエピソードです。いろいろな人がいればトラブルが起こるのは当たり前、それを少しでも減らせるように、みんないっしょに成長してゆけると良い。トラブルは人とどうやっていい関係をつくるかを学ぶ機会だと子どもたちがとらえているのです。ここで解決役を買って出たけんたが「許せないなら許せなくても仕方ない」とももこの気持ちを受けて止めた上で「許せるなら許したあげたらどうかな」と提案しています。当園で目指している相手の思いを受けとめ、自分の思いを伝えると同じです。大人だって、なかなかこうはいかないと思います。ついつい自分の考えだけが正しくてそれを相手に押し付けようとしてしまい、あの人はダメだと決めつけてしまいがちです。

環境さえ整えてあげれば、子どもたちは自分の力でここまでできるのです。それも、自らそうしようと思って主体的に取り組んでいます。決してやらされるのではない、自分のこととして取り組むからこそ楽しめるのですね。

こんな先生がイイ!!

2011/12/06

世界で一番ステキなクラスをめざす小学6年生の取り組みを、子どもたちが自ら振り返り紹介している『最高のクラスのつくりかた』に「こんな先生がイイ!!」というページがありました。このページで、子どもが「こんな先生がイイ!!」という意見を発表しています。子どもだって立派な一人の人間です。大人と同じ一人の人格です。自分に関係することについて意見を述べることができるのです。ですから、子どもの意見も聞かずに全て大人が勝手に決めてしまうことは避けたいですね。

どんな先生がイイといっているのでしょうか。

  • 子どもを信じている
  • 子どもに考えさせる
  • 子どもにまかせる
  • 自分一人で決めない
  • クラスをかげで見守る
  • どんな場面でも、子どものことを待ってくれる
  • 自分が悪いと思ったらすぐに謝る
  • 子ども扱いしない
  • 小さなことにはこだわらないが、大事な場面ではしっかりおこる
  • 自分のなやみを子どもに話してくれる
  • 子どもの限界を決めない

などがあります。これは子どもの意見です。子どもは「私は主体的に生きている一人の人間なんだ!だからそのように接して欲しい!」と言いたいのだと思います。これって人間関係の基本で「子ども」を、例えば「相手」などほかのことばに置き換えてもおかしくないと思います。私たち保育者が接するのは小学生ではなく乳幼児ですが、基本は同じです。どんなに小さくても一人の人格として接するべきなのです。たとえことばで意見を表明できなくても、伝えようとしていることはあると思います。

これをチェックリストにして自分を省みたら、いくつチェックがつけられるだろうと考えてしまいます。子どもを一人の人格として丸ごと信じ、真心を持って接し、見守ることができているのか、省みることをいつも忘れないようにしたいと思います。

ちなみに「こんな先生はイヤだ!!」というのも小さく書かれていました。自分はこうなっていないかな?

  • スパルタ
  • 自分勝手
  • すぐおこる
  • えこひいきをする
  • クラスをほうっておく
  • 自分が主役だと思っている
  • 何でも自分でやってしまう
  • 子どもの話し合いに口出しする
  • 自分のなやみを子どもにかくす
  • 子どもを待たない
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