園長ブログ

何のために?

2012/02/13

作品展について紹介し、お寺の職員さんなど、いろいろな方が関わってくださっていることを紹介しました。「他の人の手を煩わせるのは申し訳ない」という意見や「保育園の職員だけでもできる」という意見もありますが、私はいろいろな人が保育園に関わることを大切にしたいと思っています。
今は保育園の職員や保護者以外の人に園児と関わって頂くことは少ないのですが、いずれは、地域のいろいろな方々に園に来て子どもたちと関わって頂くことができることを願っています。様々な人とふれあい、関係を築くことがことが子どもたちにとって大切だと考えるからです。

行事を形にするためにはいろいろな要素があります。いつもそこで考えないといけないのは、「何のためにそれをするか。」ということです。それを明確にし、関わる人みんながその点を一番大切にすることを忘れなければ、形や方法は自ずとそこから導き出されてくるのではないでしょうか。などと、ことばで言うのは簡単ですが、実際はこれが難しいのです。
運動会でも発表会でも作品展でも「昨年までこうしていたから今年も同じことを行う。」という考え方があります。それが、例えば「毎年同じ子が同じことをすることによって、その子の発達の様子が見られ、それを保護者に感じてもらいたいから。」という理由があれば、同じで良いと思います。しかし、ただ「今までこうしていたから」という理由だけでは、一番大切なものを見失ってしまう可能性があります。

人はどうしても固定概念に縛られてしまい、「何のために」を考えるのを怠りがちになります。私はいつも行事の前には必ず職員に「この行事って何のために行うの?」と聞いています。残念ながら、今のところはそれを元に活発な議論が交わされているとは言えません。ここで議論が盛り上がれば、より多くの職員が納得したうえで方向性が絞り込まれてゆくと思います。そうすればお互いの心の距離が縮まり、もっと楽しく一体感を持って、担任という便宜上の枠を超えて、保育者みんなで全園児を保育することができると思います。
そのためにも、職員全員が「みんなのいのちが輝く」という理念を形にしたいと心の底から思い、どうすれば良いかを話し合って形にしてゆくことが大切です。

今はまだ発展途上ですが、きっと大丈夫!みんなを信じて、そうなる日がすぐに来るように、私も力を尽くします。

作品展 2

2012/02/12

いろいろな人のお力を借りて、作品展を開催することができました。

5歳児が描いた観音様のお姿は、モデルになって頂いた観音様の近くに全員の作品を並べて展示しました。そのまん中にいると、たくさんの観音様に囲まれ、見守られている気がするのが不思議です。子どもたちが描いたそのままで、作品というより観音様のお姿になっていらっしゃるように思えます。並べてみると、子どもたちが描いた観音様のお顔が、描いた子ども本人によく似ていることに気付きます。子どもたちの中にある菩薩様の心がお姿として顕現されたのかもしれないという気になります。

観音様のお姿を写しているときの子どもはとても集中しています。これほど集中できるものかと感心するくらいです。保護者に聞いた話ですが、観音様の絵を描いた日は疲れるのか、家では早く寝るそうです。そんな過程を知っているから、子どもたちの中の観音様が現れたように感じてしまうのでしょう。

ずらっと並んだ子どもたちの観音様をご覧になった保護者の皆様もしきりに感心されていました。「これを楽しみに作品展に来たんです。」とおっしゃってくださるおばあさまもいらっしゃいました。

3・4・5歳児の作った龍はといえば、園で完成させた龍を作品展前に会場まで運ばなくてはなりません。どうやって運ぶのかと思っていたら、頭を作っていた子どもたちが頭を持ち、その他の子どもたちは一列に並んで胴体を持ち上げ、おみこしのようにして運んでいました。私が園に向かって歩いているときにちょうど園から出発した龍の行列に出会いました。頭が少し離れて先行してはいましたが、龍が空を飛んでいるようでした。運んでいる子どもたちのとても楽しそうな、しかも壊しては大変という真剣な顔つきが印象的でした。

そうして運ばれた龍が飾られました。その近くには2歳児たちが泥で染めた布を使って作った洞穴があったり、0・1歳児が細く裂いたビーニールテープ(ビニール紐)を使って作った雲が置いてあり、まるで、龍が洞穴から飛び出し、雲を縫って天に昇ってゆくようです。0歳児から5歳児の子どもたちが作った昇龍を見ていて、職員も心と力を合わせてくれたのだと思うと、嬉しくなりました。

2・3歳児の作ったバスも、まわりに自分の顔や動物園の動物を描いて貼りつけ、動物園に行くときのわくわく感が再現されているようで、秋の遠足で動物園に行くのを楽しみにしていた子どもたちの顔を思い出しました。

ひとつの作品に子どもたち一人ひとりの気持ちが詰まっており、日々の生活が現れているのです。

作品展

2012/02/11

普段の保育の中で子どもたちが作ってきた様々な作品を展示して、保護者の皆様にご覧いただく作品展を行いました。お寺の施設を借りて、たくさんの作品を展示するので、かなり手間と時間がかかります。

ですから、施設のお掃除も含めてお寺の職員の方にお手伝いいただくことが多くなります。絵を貼っていただいたり、立体を並べて頂いたり、様々なことをお願いして手伝っていただきます。展示の仕方を細かく指定することもありますが、展示してくださる方にある程度お任せすることもあり、楽しんで展示してくださっています。おひなさま製作の展示をお願いしたら、いろいろなところから台や毛氈を持って来て、立派なひな壇にしてくださった方もありました。展示をしながら、子どもたちの作品を見て、おもしろいなとか、上手に作ってあると興味を持ってくださる方もあります。

様々な子どもたちの活動の様子を写真と文書で説明し、普段から保育室に貼って保護者や来園者に伝えていますが、それが年間を通してかなりの数になるので、他の作品と一緒に展示しています。その活動の様子を見て、感心したり、子どもの姿を楽しんで、展示してくださる方もありました。そうして、興味を持って頂いた方には、子どもたちの様子やエピソードを保育士が一緒に展示をしながら伝えています。もちろん保育士たちも子どもたちの作品をよくいて頂けるようにいろいろと工夫をして展示をしています。

作品展当日は、普段の保育は行わず、親子で自由な時間にご来場いただき、一緒に作品を見て頂くようお願いしています。今年度は会場や日程の関係で、2月10日の金曜日にしかできなかったので、保護者の皆様にはご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳なく思っています。

小さな子には難しいのですが、ある程度年齢が上がると親子で作品を見ながら、子どもが保護者にその作品をどうして作ったのか、どんな思いでその絵を描いたのかなど説明できるので、できるだけ子どものことばで保護者に伝えてもらうようにしています。

子どもたちが伝えきれない部分は保育士が説明するようにして展示してある作品を見て頂くだけではなく、作品ができるまでの子どもたちの関わりや、背景にある子どもの想いや、製作段階での出来事などを知って頂けるよう、できる限り説明しています。もちろん様々な説明文を作ったりしますが、一人ひとりに対面で説明するのが一番よく伝わります。ただ、全ての来場者に詳しく説明できる訳ではないのが、残念です。作品の背景にあるドラマや子どもや保育士の思いをどうすればうまく保護者に伝えられるか、今後の課題です。

2012/02/10

「心をみがく集い」という活動があります。お寺が行っている活動で、地域の方、ご縁のある方、職員さんが華道、茶道、書道、水墨画などの文化的な活動を通して、いろいろな面で自分自身を高めてゆく機会を提供するものです。

保育園の職員も参加できますが、みんな忙しいのか現在参加しているのは、私と主任保育士だけです。そのなかに華道があります。お稽古は毎月2回あり、1回が約30分から1時間弱、その日の花材にあわせて華器を選んで華を活けます。

活け方の基本的な形や、配置はありますが、自然の花や木はそれぞれに違う形をしています。同じ花材でもひとつひとつ異なるので、種類や形の材料があるのかを見て、活ける姿を決めなくてはなりません。1本の枝でも途中で切って2本にして使うこともできます。どの花材をどう使うとその花材が一番活きるのか、全体の中でその良さを発揮できるのかを自分の感性をフルに使ってイメージしなくてはなりません。

千利休が説いた茶の湯の心得に利休七則というのがあります。その中に「花は野にあるように」というのがあり、それは、花をとってきてそのまま活ければ良いというのではなく、一輪の花に自然のなかで精一杯咲く花のいのちの尊さを感じて表す事だといわれています。私は、花を活けるときに一輪の花のいのちが、他の花や木との関係の中でいかに輝くか、その花がその花にしかできない役割を最大に果たせるにはどうするか、活ける人が心を使って想う事が大切なのだと解釈しています。

いろいろな種類の木や花がひとつの華器のなかで、それぞれに輝くからこそ、全体が美しく輝くことができるのです。人も同じではないのでしょうか。集団の中の個が輝くからこそ、その集団が輝くのです。人の場合には集団を構成する個がそれぞれにお互いを活かし合うことができます。そうするよう一人ひとりが意識し努力すれば良いのです。

お稽古をする中で、何をどこにどう活ければ良いのかわからなくなることがあります。そんなときは、花に「どう活けて欲しい」と聞くのですが、花の声が聞こえるはずもありません。苦心して活け上げても、どこか落ち着かない感じがします。そんなとき先生に見ていただいて、ほんの少し直していただくと見違えるようになるのが不思議です。花の向き、位置、角度をほんの少し変えただけで、全体のまとまり感や落ち着き感が全く異なるのです。先生には花の気持ちがわかるのではないかと思ってしまいます。

一輪一輪をよく見て、どうすればその一輪のいのちが最も輝くのか、よく考えたいと思います。

雪と水

2012/02/09

立春を過ぎて少しだけ暖かくなったかと思ったのもつかの間、また厳しい寒さが戻ってきました。京都府の北部には大雪警報が発令されています。節分前の大雪、その後の暖かさと雨、そしてまた厳しい寒さと大雪です。積雪が多いところの皆さんは大雪はもちろん雪崩や着雪など心配がつきないと思います。近頃自然の厳しさとその大きな力を思い知らされるような災害やできごとが多いように感じます。自然は優しさや癒し多くの恵みをもたらしますが、反面大きな脅威でもあります。その大きな力の前に、人間は為す術もありません。あたりまえのことえすが、つい忘れそうになります。

これだけ、大雪の情報が入ってくるにもかかわらず、鞍馬は全く雪がありません。昨年は雪が多かっただけに、全く雪がないのは、どこか変な感じがします。もちろん雪かきに悩まされることがないのでその点はとても助かるのですが、山に積もる雪が少ないと夏の渇水が気になります。

平成16年5月に鞍馬、貴船にも簡易水道が整備されてからは、用水を確保するための手間や苦労は大幅に軽減されましたが、それまでは個人で山水を引く、井戸を掘るなどして、自分の使う水を確保しなくてはなりませんでした。ですから、雨や雪が少ないと渇水を気にしなくてはならなかったのです。そういう意味では自然現象と生活の結びつきが密接だったといえます。

簡易水道といえども水が無限にあるわけではなく、水源の水量が減れば給水制限などが起こらないとは限りません。山が蓄えている水が少ないと、渇水になる可能性は高いのです。山が水を蓄えるためには、雪はとても重要な役割を果たします。降り積もった雪が4月頃までかかってじわじわと融けると、水がゆっくりと土にしみこんでゆき、山が水を蓄えやすくなるのです。最近はしとしと降る雨が少なく、降り方が激しいので、雨は地表を流れてしまい、地中に染みこみにくくなっています。ですから余計に雪が大切なのです。

たくさん降るととてもやっかいで危険も伴う雪ですが、ほとんど降らないと渇水が気になります。人間の勝手な言い分かもしれませんが、夏は暑く、冬は寒く雪が降り、梅雨には雨と、季節の巡りが順調なのが一番良いのだと思います。

2012/02/08

3・4・5歳児の部屋に行ってみると、ダンボール箱を筒のようにまるくして、いくつもつなぎ合わせたものが置いてありました。子どもたちが作品展に向けてみんなで力を合わせてひとつの物を作っているのです。
何を作っているのか子どもに聞いてみると「今年は辰年だから龍」と答えてくれました。新春のお参りにお寺に行ったときに貫主様から竜のお話を聞いたこと、境内にある龍を探したことが印象深かったようです。
そういえば、先日5歳児たちがダンボール箱をつなぎ合わせていたのを思い出しました。箱の底と蓋を開いて筒状にし、角をとって丸くしてガムテープを使ってつなぎあわせます。長くなったダンボールの筒の中から子どもが出てきました。中に入って遊んでいるのかと思ったら、ダンボールの継ぎ目を内側からもガムテープで固定しているのだそうです。そうしてできた筒はしっぽの方がちゃんと細くなっていました。
作る前に5歳児がそれぞれに龍のイメージ図を描いて、一番作りたいのを選んで完成予想図兼設計図にしたよそうです。

     完成予想図兼設計図

全員で役割を分担をし、工夫をしながら土台となる筒を龍らしくします。頭の部分を作る担当、胴体を装飾する担当、腕と足を作る担当にわかれ、ああでもない、こうでもないといいながら作っています。頭に角があったり、口から火を吐いていたりします。赤いポリ袋で作った火炎を見て、「ソーセージ食べてるみたい」と言って笑い合っている子がいました。顔はどことなく園の周りでよく見かける鹿のようでかわいらしい顔でした。

胴体は鱗に見立てた紙をたくさんかねて貼り、背中にはとげとげをくっつけていました。腕と足は関節から曲がっている部分を作るのに苦労していたようですが、筒状にしたダンボールをうまくつなぎあわせて、関節を表現していましたし、先の方には爪もつけていました。爪をつけるのは少し難しかったようで、保育士に「先生手伝って」と頼んでくっつけてもらっていました。作っているときの子どもたちの表情は真剣そのものです。時には意見がぶつかることもありますが、何とか自分たちで解決しているようです。

他の人と協働する力はとても大切です。なぜなら、人は社会をつくり力を合わせ助け合って生きてゆくようにできているからです。一人ひとりがそれぞれに自分の意見だけが正しいと言い張って他の人の意見を認めなければ、いつまでもバラバラです。それでは社会は成り立ちません。

気持ちと力を合わせれば、2人の力が3人分にも5人分にもなるのに、お互いが自分を主張しあうだけでは、2人力が1.5人分にしかならなかったり、お互いに足を引っ張り合って、0.5人分にしかならないことだってあります。それではつまらないことになってしまいます。

そうではなく、お互いを認め合い、話し合い、力を合わせてゆくことを子どもたちにたくさん経験して欲しいと思います。そのためには、まずは大人が我欲の衣を脱ぎ捨てて、お手本にならなくてはなりません。

それぞれ

2012/02/07

人は一人ひとり違います。姿形はもちろん、考え方や、好み、価値観、得意なこともあれば、苦手なこともあり、ステキな部分もあれば、そうでない部分もあります。あたりまえと言えばあたりまえのことです。そんなことはわかりきっているはずです。

でも、「人は自分とは違うのだ」ということを忘れてしまいがちです。私はよく忘れます。ついつい、他の人も自分が考えているように考えているという前提で話をしてしまうのです。ですから、話しがちぐはぐになったり、誤解を招いてしまうことがよくあります。

先日、職員の一人と、私の車の話をしていました。うちには17年間使いたおしてもうすぐ引退するワンボックスと、5年落ちくらいの小さな車があります。私は古いワンボックスのことを話していたつもりだったのですが、私の説明不足のせいで職員は小さな車の方をイメージしながら聞いていたようで、お互いなんとなくおかしいな、と思いながら話していました。しばらくしてからお互いの誤解に気付いて笑ってしまいました。私が話し始めるときに丁寧に説明しなかったのが原因です。

こんなことはあまりないとは思いますが、単語ひとつとっても人によってイメージの範囲は微妙に異なるはずですし、ニュアンスのとらえ方もちがいます。それなのに、「相手も自分と同じように考えているだろう」という思い込みをもったまま話を進めてしまうので、すれ違いばかりになったり、「こんなに説明しているのにどうしてわかってくれないんだ」という思いに繋がったりします。

そうならないためにも、ひとつひとつ丁寧に、相手にわかってもらえるようにとことばに心を込めて伝える必要があります。

また、話を聞く方も話をしている人の想いをしっかり受けとめようと、真心を持って「聴く」事が大切です。「傾聴する」ということばがありますが、まさに耳を傾けて聴くこと、たとえ、相手の意見が自分の想いとは違うものであっても、それを受けとめようと、心を傾けることが大切です。

伝えるために発信する努力、受けとめる努力が話をする方、聞く方、それぞれに必要です。そこから少しずつ認め合い、心を繋げてゆくことができるのです。

写真

2012/02/07

保育の中で写真を撮ることがよくあります。子どもどうしのステキな関わりが見られたり、とっても良い表情をしているとき、行事のとき、子どもたちのいきいきとした様子、輝く笑顔を保護者に伝えたい!そんな思いから写真を撮ります。

今でこそ、ほとんどがデジタルカメラになってしまいましたが、ついこのあいだ?まではフィルムを入れて撮影するのが当たり前でした。今、フィルムを買おうと思っても探すのが大変です。フィルムのころは、現像してからでないとどんな風に撮れているのかわからなかったので、狙って撮った写真ができあがってくるのを少しドキドキしながら待ったものです。私の場合できあがった写真を見てもたいてい場合、今ひとつということが多かったのですが、それでも楽しみに待っていたのを覚えています。

中学か高校の時に写真の授業というのがあって、夏休みの宿題に夏らしい風景を撮影してくるというのがありました。撮影したものを学校の写真室で現像、紙焼きするのです。もちろんモノクロです。何を撮って良いのかわからない私は、撮影技術もないのに、無謀にも五山の送り火を撮影することにしたのです。家にあったキャノンの古い一眼レフを持ち出し三脚に乗せ、フィルム1本分撮影したと思います。いろいろと考えて撮ったので、自分ではそこそこ撮れているだろうと思っていました。夏休みが終わって現像してみたら、なんとほとんどがブレているのです。とてもショックでした。仕方がないので、そのまま先生に見せたら、その中の1枚のブレ方に味があると言ってくださり、八つ切りくらいの大きさに焼かせてもらったのを思い出しました。

デジタルカメラは、撮った写真がその場で見られるので、何度でも取り直すことができますし、気に入らなければ、消去すれば良いので、つい気軽にたくさん撮ってしまいます。実はこれが曲者で、すぐに整理しないと膨大な数に膨れあがった写真をあとで整理しようと思うと大変なことになります。
フィルムの頃は、そう何枚も撮れないので、今よりは丁寧に撮っていたように思います。もちろんデジタルカメラでも丁寧に撮れば良いわけで、それは撮る人の心がけの問題なのですが・・・

フィルムからデジタルに変わっても、私は相変わらず写真を撮るのは下手です。
その点保育士たちはとてもステキな写真を撮ってくれます。保育士は、普段一緒に生活している子どもたちのことをよくわかっているからなのでしょう。特に子どもの表情や、子どもどうしの関わりをとても良いタイミングや画角で撮影していて、とてもいい写真をたくさん撮っています。被写体である子どもを、いかによく見ているかということにつきるのかと思います。

*本稿は2月6日(月)の分です。アップに手間取っている間に日付が変わってしまいました。

節分追儺式 2

2012/02/05

2月3日にお寺で行われた節分追儺式に、園児たちが出仕したことを紹介しました。鬼を追いはらう方相氏に従う侲子という重要な役割を果たしました。

園でのまめまきが終わったと早めの昼食を食べてお寺に上がって装束を着けます。装束を着けるのにしばらく待ち時間があるので、一緒に来てくださった保護者の方とかるたなどして遊んでいました。

みんな着替え終わると一緒に出仕される方々と対面です。金色の4つの目がついたお面をつけ、矛と盾をもったおおきな方相氏さんを見た子どもたちは一瞬顔がこわばりましたが、泣いたりすることはありません。

そこで、怖いお面をつけた人は方相氏といって悪い鬼を追いはらう人で、君たちはこの方相氏さんを手伝って鬼を追いはらう役割がある。その方法は方相氏さんといっしょに本殿のまわりを回って「オー!オー!オー!」と大きな声を出すことだと説明してもらっていました。

かけ声の練習をしますが、どうも方相氏さんが気になるようで、今ひとつ元気がありません。みんながしっかりとかけ声をかけると鬼が逃げてゆくんだよ。だからしっかりと大きな声をだして「オー!オー!オー!」って言ってね。と説明してもらうと、納得して元気な声を出していました。子どもたちは、ひとつひとつ丁寧に説明してあげるとよく理解してくれます。

午後2時、出仕の式衆、導師につづいて、陰陽師、斎郎、方相氏に続いて侲子役の園児たち、公卿、殿上人が行列を作って本殿に向かいます。本殿での読経のあと、陰陽師が「鬼は外、鬼は外、福は内、福は内」と言いながら豆をまき、続いて斎郎が桃の弓と葦の矢を頂いて公卿、殿上人に授けます。陰陽師が祭文を奉読すると、方相氏が立ち上がり、矛と盾を打ち合わせて「オー!」と一声上げた後、本殿外陣から向拝を3度回り、四隅で「オー!オー!オー!」と叫びます。最後に斎郎、公卿、殿上人が向拝に並んで桃の弓につがえた葦の矢を放ち見えない鬼を追います。

園児たちは、「オー!オー!オー!」と、とても元気な声をだしていました。「大きな声で鬼を追いはらうんだ!」という子どもたちの気持ちが伝わってくるようでした。

法要が終わったあとは、方相氏さんや他の出仕の方と一緒に写真を撮りましたが、そのときになっても、方相氏さんからは少し距離をおいている子どもたちの姿がおかしくもかわいらしかったのが印象的でした。

     出仕者のみなさん

   「オー!オー!オー!」

節分追儺式 1

2012/02/04

節分が過ぎ、立春を迎えて、昨日までよりは少しだけ、ほんの少しだけ暖かくなったように思います。日差しがたくさん降り注いだ分だけそう感じたのでしょうか。

節分は読んで字のごとく季節の分かれ目ですから、立春、立夏、立秋、立冬の前日なのですが、立春前の節分が、旧暦の大晦日前後だったことから、立春前日の節分が年の変わり目と結びついて、ことに重要視されるようになったのかもしれません。

節分といえば、鬼です。昨日のブログにも書いたように、保育園にも鬼が来ました。
鬼とは何でしょう。古来より季節の変わり目には邪気が生じると考えられ、この邪気が鬼です。その邪気を払う行事が「追儺」(ついな)といい、平安時代から宮中で大晦日に行われていた行事で「鬼やらい」「儺(な)やらい」ともよばれていました。

それは、方相氏(ほうそうし)〈大儺君ともいう〉と呼ばれる鬼を払う役が、金色の目が四つある面をつけ、黒い衣に朱色の裳を着用し、右手に矛左手に盾をもつ姿で、後ろに侲子(しんし)〈小儺君ともいう〉を従え、かけ声をかけて大内裏をまわり鬼を逐います。そして公卿等は方相氏に付き従い桃の弓で葦の矢を射て悪鬼を追ったというものです。

お寺では、この様子にできるだけ忠実に節分追儺式が奉修されており、保育園の5歳児たちがこの法会に出仕させていただいています。ここでは、子どもたちは侲子の役で方相氏に従って、目に見えない鬼を逐うという重要な役割を果たします。

鞍馬寺の節分追儺式には鬼は姿を現しません。方相氏は目に見えない鬼を追いはらう役割なのです。ところが、方相氏の恐ろしい姿を見て鬼だと勘違いされる方が多いのです。平安時代から時代が下るにつれて、この方相氏の異様な面や姿が鬼と間違えられ、次第に方相氏が公卿に射られるということが起こったようですから、それも仕方のないことかもしれません。

目に見えない鬼はどこにいるのでしょうか。

何よりも怖いのは、山から出てくる鬼ではなく、私たち一人ひとりの心の中に潜む鬼ではないでしょうか。

方相氏の後に続く侲子役の園児たち

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